マクロ経済そして自然環境

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景気政策史ー50 19世紀イギリス対外商業政策と不況その7  ハスキソンと商業改革

2012-04-14 12:47:00 | 景気政策史

 

上記でロンドン商人の請願を受けて直ちに庶民院と貴族院に委員会が設けられた事を述べたが、それらを受けて関税に関する諸改正が行われた。

 それは①1821年木材関税改正によりイギリス産綿糸の輸出市場たるバルト諸国との互恵体制の改善が図られ②1824年にはフランスとの通商関係改善の為に絹関税が引下げられ、また③ドイツとの関係において羊毛・麻関税が引下げられた。これらは1825年のハスキソン関税改革(ハスキソンは19世紀初頭の”自由主義改革派”の当時の有力政治家)により、集大成され、

イ)原料輸入関税の大幅な引下げと

ロ)製品輸入関税の最高従価30%以下への引下げを2大原則として、禁止制度と保護関税の緩和により[互恵体制]への一歩を踏み出した。

 また上記庶民院で委員会で不況の原因を探ろうとするとまずそこで問題になったのは航海法の規定であったため(L.Levi)それも1822年に原則は保持しつつも対欧州、対アジア、アフリカ、アメリカ等に関連して一定の緩和が行われ、又東インド会社の特権の一部剥奪、レヴァントカンパニーの特許状放棄が実現された。

これらを受け[互恵関税法]の下で多数の諸国、合衆国及び主要欧州諸国や幾つかの南米諸国と通商条約が結ばれ、(1820年代から40年代にかけて)それ自体は不完全なものであったが従前の国際間の敵対的な体制に対して初めて突破口を開くものであった。(ツーク)尚前掲L.Levi p166に条約締結諸国の一覧が有り、アメリカは1827年、フランスは1826年、プロシアが1824年、ロシアが1843年等となっています。

 また1820年代初頭は戦後に引き続き農業不況の次期であったが1819-1821年には外国の穀物であふれて困窮に曝されている地方から1200にも及ぶ請願が政府に出された。(但し前掲A.Brayは輸入穀物は多くはなかったとしている)それに対し商務省総裁のロビンソンは(戦時中に拡大された)貧しい土地の耕作が不況の原因であるとし、それ以上の保護を期待すべきではないとしたがハスキソンは同情していた。そういう中1821年になっても新しい多くの請願が出されていた。主張としては、イ)通貨の本位を変えるべきとしたものや、ロ)税の軽減、ハ)保護関税の強化等々が訴えられていた。それらに対し委員会が持たれるようになった。(この委員回は19世紀穀物法のランドマークであるとする)以後30年代に掛けて数次の同様の委員会が持たれた。

1821年委員会はその原因はまずは兌換の再開の効果(当時欧州の他の諸国も兌換に向かっていたとし)に求め、次には過剰生産に向けた。この討議の中特に農業利害を代表するWesternは其の原因は供給過剰ではなく旧平価による兌換再開に有るとし、それはCobbetやAttwoodの支持を受けたが、ハスキソンやリカード、ピールからの反対を受け委員会は”時間により需給が安定する”と考え1822年に改正案が出され輸入禁止価格が70シリングになった。

1822年法:外国穀物は穀価が70シリングになるまでは輸入禁止。

        70-80は12シリング

        80-85は5シリング

        85以上は1シリング の輸入税により輸入が許可される。

これは市場から余剰穀物を一掃し、1815年法を改正して輸入禁止と自由貿易との峻烈な限界を緩和するためとされた。

(1815年法は80シリング未満まで輸入禁止、それ以上は自由)

 

 


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