旧六郷橋ゆかりの墓を訪れた。そこは観乗寺の墓地にあり、境内
を掃除されていた女性に教えて頂き「鈴木左内」の墓前へ。
左内といえば、六郷橋。貞享5年(1688)の洪水により崩壊し
た六郷大橋は、それ以後再建されず、“六郷の渡し”が設置された。
明治7年(1874)地元(八幡塚村)に住む名主・鈴木左内が、
明治初期の激動する近代化の背景を受けて、渡し船から架設橋の申
請を新政府に申し出て受け入れられる。37歳になった左内は私財
を投じて架設事業を行い「左内橋」が完成する。
橋は長さ109m、幅5.5m、総工費は当時の金で3,562円(当時
大工の日当手間賃40銭)だったという。左内は政府から4年強の
間、渡橋料を取ることを許されている。その左内橋は、1878年の
大洪水で流失。しかし、左内の情熱で橋の重要性が認識された。
観乗寺境内の梅が花をつけていた。
(大田区東六郷3丁目25)
左内墓碑 観乗寺と早梅
を掃除されていた女性に教えて頂き「鈴木左内」の墓前へ。
左内といえば、六郷橋。貞享5年(1688)の洪水により崩壊し
た六郷大橋は、それ以後再建されず、“六郷の渡し”が設置された。
明治7年(1874)地元(八幡塚村)に住む名主・鈴木左内が、
明治初期の激動する近代化の背景を受けて、渡し船から架設橋の申
請を新政府に申し出て受け入れられる。37歳になった左内は私財
を投じて架設事業を行い「左内橋」が完成する。
橋は長さ109m、幅5.5m、総工費は当時の金で3,562円(当時
大工の日当手間賃40銭)だったという。左内は政府から4年強の
間、渡橋料を取ることを許されている。その左内橋は、1878年の
大洪水で流失。しかし、左内の情熱で橋の重要性が認識された。
観乗寺境内の梅が花をつけていた。
(大田区東六郷3丁目25)
左内墓碑 観乗寺と早梅