塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

Weekendの麺処巡り こくやで海老塩

2009-01-31 13:58:06 | 拉麺_09
 喜多楽から少し距離があるが歩いて2軒目の麺処を目指す。そこ
は今はなき「三吉」で修行された方が2002年2月22日に立ち上げ
られた「中華そば こくや」。創業当時の相棒であった方は、中区
栄にある「こくや 原田屋」を創業されている。
 早速、「海老塩」750円を注文。「なごみ」「中華」「鶏トン」
の3つの味が選択でき、なごみで通していただいた。
 スープも麺も全てパーフェクト。海老が砕かれカラリと揚げられ
た各片が口当たりが良く、とても印象に残った一杯だった。旨い。

中華そば こくや
名古屋市中区正木1-13-1
11:30~14:00、18:00~22:00 月・第3火曜定休日
こくや

Weekendの麺処巡り 喜多楽で今昔支那そば塩

2009-01-31 13:51:22 | 拉麺_09
 本日は午後3時から仕事のため、朝一の新幹線で名古屋まで来て
いる。午前中を利用して旧東海道の「七里の渡し跡」辺りを探索し、
その後、新規のクライアントさんになる会社に立ち寄りご挨拶。3
時までは時間があるので、麺処巡りとあいなった。
 まずは、昨年の夏に伺った「麺家 喜多楽」(きたら)に再訪であ
る。ここは名古屋でも人気のお店でメニューも多い中、あえてスー
プと麺だけで味わえる「塩かけそば」600円が隠れメニューである。
ところが、本日はなかった。
 そこで、「今昔支那そば塩」730円を注文。カウンターから作業
中の厨房内が見渡せ、寸分違わないご主人の作業を眺めていると、
余裕があり自身がみなぎっている。それでも肩の力が抜けで独自の
間が持たれている。これは期待できそうだ。
 さて、登場した器を見ると、かけそばと引けをとらずシンプル、
これこそ“スープを味わってください“と器の中から呼びかけられ
ているようだ。名古屋コーチンと焼きアゴ、鮪節、日高昆布など精
緻な淡い味が口の中でまどろんでいく。思わず心の中で旨いと叫ん
でしまった。Simple is Best!!

麺家 喜多楽
名古屋市中区橘1-28-6  052-332-5515
11:00~14:00、18:00~22:00 月曜定休日
喜多楽

街を巡る 壬生狼の軌跡 会津藩士の墓

2009-01-31 03:30:49 | 街巡り_09
 京都守護職を命じられた会津藩主・松平容保は、文久2年
(1862)12月24日からここを本拠地として藩士1,000人の
本陣となった。
 洛中は広く会津藩士のみでは手薄とあって、守護職御預かりと
して新撰組をその支配下に置き、治安の維持に当てられた。この
時、近藤勇や土方歳三は悲願であった“武士”として晴れて名の
れたのである。近藤以下、隊士の多くがこのくろ谷さんには足繁
く通ったことだろう。
 慶応3年(1868)、大政奉還後の政権復古の大号令により、薩
長連合軍が支配権を確立。京都守護職は設置後6年で廃止される
が、これまでの因果により鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士
の菩提を弔うため、このくろ谷の丘の最も奥の地に墓地はあった。
 藩士のみの墓として囲まれてはいないが、それと分かる一角で、
そこだけが会津の風が流れているように感じた。そう言えば、く
ろ谷さんの山門からこの墓があるところまでの要所要所に、会津
藩士墓地の石標が設置されていた。
 再度、くろ谷さんに伺う時は、激寒の森々と雪の降り積もる頃
にしたい。その時、再び会津藩士のことを思い出したいものだ。
 これで壬生狼の軌跡・第一弾は終わり。続きは再度、京都を訪
れた時まで待たれい。
(京都市左京区黒谷町121)
会津藩士墓碑 墓地標 京都守護職本陣表札

Weekdayの麺処巡り 八島でひんぎゃの塩

2009-01-30 13:21:02 | 拉麺_09
 午前中に日本橋で打ち合わせ、終わった時間が昼前とあって、
早速、麺処を訊ねてみた。そこは「支那そば 八島」。ずっと
以前は神田にあったが、わけあって日本橋兜町に移転され2004
年2月2日に再開。
 久しぶりの訪問で「海老塩雲呑麺」1,050円を注文。このお
店は開店と同時に、ほとんどの席が埋まるほどの繁盛振りで、
夜の部はお酒が飲めて料理のレパートリーも多く、拉麺大好き
さんのたまり場となるという。
 さて、登場した器の中は雲呑で花盛り。スープを一口、二口
含んでみると、まろやかな甘味と旨味が交互に押し寄せて幸せ
にしてくれる。旨いスープだ。
 こちらで使用されている塩は、東京から約360km南下した
青ヶ島特産の「ひんぎゃの塩」が使用されている。太平洋黒潮
の本流海水を火山の地熱でじっくりと温められた天然自然塩だ。
この「ひんぎゃ」とは“火山地熱の出口”という意味の島言葉。
なんでもカルシウムが多く、食塩の5倍、他の自然塩の3倍も
含まれているという。
 麺は少し柔茹でだけれど、そこはこのスープとプリプリの海
老雲呑がフォローしている。とても旨い一杯だった。

支那そば 八島
中央区日本橋兜町16-1  03-3666-9891 日・祝定休日
11:30~14:00、17:30~22:30 土曜11:00~15:00
支那そば 八島

街を巡る 壬生狼の軌跡 くろ谷さん

2009-01-30 06:42:23 | 街巡り_09
 壬生の街を後に、電車、地下鉄、市バスと乗り継いで左京区黒谷
町の「金戒光明寺」へ向かった。通称“くろ谷さん”と呼ばれるお
寺で、こちらの墓地に会津藩士の墓がある。
 承安5年(1175)、法然上人が比叡山を下りてこの地に草庵を結
ぶ。この開山が浄土宗最初の寺院となる。
 黒谷の丘は、東側の崖が険しく西の傾斜に本坊から山内寺院、そ
して一万基を数える墓が西向きに建てられている。墓域の石段を登
ると、三重の文殊塔(寛永3年・1633年創建)がそびえているの
が目に入る。こちらには運慶作と伝承されている文殊菩薩が安置さ
れている。
(京都市左京区黒谷町121)
くろ谷さん本殿 参道 石標

街を巡る 壬生狼の軌跡 沖田総司縁者の墓

2009-01-29 06:47:43 | 街巡り_09
 この光縁寺にはミステリアスな墓がある。墓地の最も奥のひとつ
高いところに「沖田氏縁者」の墓だ。
 正面の戒名を読むと「眞明院照誉貞相大姉」と彫られ、左側面に
は「沖田氏縁者」とある。但し、現在の墓石は1976年に建立された
新しいもの。そこで、住職に伺ったり、文献を漁ってみるといろん
な説がゾロゾロと出てきた。それを少し紐解いてみよう。
 幕末維新史研究同人の川西正隆氏によると、次のような解釈が報
告されている。
 寺の過去帳を見ると、この墓の当時の施主は大和櫛羅藩士・酒井
意章の養子である酒井意誠となっていた。この意章が禁裏守衛兵と
して上洛していたおり町娘を慕うが、恋敵の新撰組隊士と刀傷事件
を起こす。お互い武士の喧嘩両成敗で切腹を命じられるものの、沖
田総司の計らいで助命。以後、意章は沖田を命の恩人として思う。
 時が経ち、池田屋事件で負傷した隊士が医療所手当を受けている
中、看護をする娘に石田秩がいた。沖田と秩は恋仲となる。近藤勇
は若い沖田には将来があることを諭し、二人の仲を裂いてしまう。
ところが秩は病気で死亡し、沖田の代わりに先の酒井意章が弔いを
行った。意章は子孫代々に至まで「司」の字を伝えるよう遺言した
という。で、石田秩が沖田の幻の恋人であり、この墓が秩のものと
推定されている。
 また上記の川西氏の説に発展した内容のものが次にある。
 石井秩にはすでに沖田の子を身ごもっていて、女の子を生むもの
のやや子は死亡する。そこで沖田はこの寺にやや子を縁者として弔
ったというもの。
 さらに、次なる説もある。
 新撰組隊士の中にもう一人、沖田姓の者がいた。ただしこの説は、
墓石の戒名に“大姉”とあるので否定されるだろう。
 さて、深層はさらに深くなっていく。当時のことを思い浮かべる
だけでも浪漫だなあ。
(京都市下京区綾小路通大宮西入ル)
光録寺山門

街を巡る 壬生狼の軌跡 光縁寺

2009-01-28 06:50:18 | 街巡り_09
 続いて綾小路を大宮通り方面へ東側に進む。そこに「光縁寺」
がある。ここも新撰組に縁のある寺で、慶長18年(1613)創建
と伝承されている。
 この寺は観光目的では入山させてもらえない。墓をお参りする
気持ちがあるなら、墓参料100円を布施して許されるというもの。
まずは住職からパンフを渡され、ひととおりの講釈を拝聴して、
本堂脇の小道から墓地に入る。
 本堂裏には、掛け替えられた立派な旧鬼瓦が置かれていた。そ
の中央下には軒丸瓦の“丸に右離れ三つ葉立葵”の寺紋がさり気
なく置いてあった。この軒丸瓦が総長・山南敬助と深い関わりと
なる。そう、山南は仙台藩を脱藩して千葉周作の門下生となり、
その後浪士隊に加わっている。山南の家紋がこの三つ葉立葵と同
じであった関係で、当時の住職と昵懇の仲になったという。
 山南は文武両道で隊士からの人望を集めたが、剣の流派が違う
ため今ひとつなじめなかったようで、組を脱走し大津で捕らえら
れ、先の前川邸内で切腹させられている。
 墓地の奥に山南ら5名の合同墓があり、その左(写真中央)に
は隊士・大石鍬次郎の弟・造酒蔵(隊士でない)の墓がある。そ
の左端には、松原忠司や櫻井勇之進、田内知ら12名の合同墓があ
った。
 墓地に隣接して京福電車の路線が見えた。これに乗れば観光地
・嵐山へ行けるのだ。
(京都市下京区綾小路通大宮西入ル)
光録寺鬼瓦

Weekdayの麺処巡り べんてんでつけ麺

2009-01-27 18:34:15 | 拉麺_09
 クライアント先での打ち合わせを終え、ここしばらく伺えなかっ
た馬場の「べんてん」の暖簾をくぐってみた。
 夕方前の時間であるので、並びは無し。店内1席残してほぼ満杯、
早速、つけ麺800円の注文をすると、登場するまでノンビリとカウ
ンターで微睡んでみる。夕陽が入り口のガラス越しに背中を照らし
ているようで、その微熱が身体に伝わってほんのりと高ぶっている
ようだ。こんな時間帯こそパラダイス。
 そして、待望の麺の登場。水で引き締められた麺は、そのままで
すすると、小麦の豊潤な香りと練り込まれた玉子の甘みが交互に伝
わり、つけ汁のことを忘れてしまう。適度な麺の弾力が口の中や舌
の上でジルバでも踊っているが如く飛び跳ね、リズミカルにスムー
ズに箸が進む。
 自家製麺を頂くだけで、精緻な仕込み作業が行われたことがうか
がえる。おいしい麺、おいしいつけ麺だった。


街を巡る 壬生狼の軌跡 旧前川邸

2009-01-27 09:12:10 | 街巡り_09
 八木邸の斜め向かい、綾小路坊城角に「旧前川荘司邸」が風格の
あるたたずまいで建っていた。この邸宅にも浪士隊は八木邸と分か
れて住んでいた。
 広大な敷地の前川家でも、隊士が増えてくると屋敷を占拠されて、
油小路六角にある本家(両替屋)へ移らざるをえなかったという。
 こちらは現在、田野製袋所と個人宅となり邸内は非公開。ただし、
土・日・祝日は門をくぐり玄関前のみ開放されている。玄関の土間
では新撰組のグッズ類が販売されていた。
 この屋敷では、芹沢一派の野口健司や山南敬助が切腹し、古高俊
太郎が拷問を受けており、歴史的にも多くの話題を生んだところで
ある。
 そういえば、壬生は壬生菜が有名であるが藍の産地でもあり、藍
を染めた水色は壬生の色とされている。新撰組が使った羽織の段ダ
ラ模様の水色は、この壬生の色を拝借している。
(京都市中京区壬生賀陽御所町49)
道標 旧前川邸門内 邸内見取り図

街を巡る 壬生狼の軌跡 八木邸

2009-01-26 06:33:52 | 街巡り_09
 坊城通りを北に上がると左側に新撰組が屯所として使用した
「八木邸」がある。通りから長屋門までのエントランスが思った
以上に長く、さすが壬生村の郷士(壬生住人士)の邸宅である。
 文久3年(1863)2月、江戸から上洛した浪士組は、八木源
之丞邸を宿舎とし、慶応元年(1865)に西本願寺へ移転するま
で約2年間を過ごしている。
 長屋門の手前で入館料1,000円を払い玄関へ。そうそう、門か
らの館内は撮影禁止である。屋敷内では先に入館された若い男女
数名がガイドさんから説明を聞く姿があった。私はだいたいの内
容は知っているので、一人で屋敷内を見てまわる。
 宿舎生活に入った年の9月16日深夜、芹沢鴨と平山五郎、芹沢
の妾・お梅が何者かに、この屋敷で暗殺された。奥の間の縁側沿
いの鴨居に斬りつけられた刀傷が残っていた。V字型で深さは20
mm程。この刀傷を見られただけで満足。
 見終わって邸宅を出ると、八木家が営んでいる茶房で毛氈を敷
き詰めた腰掛けに座り、抹茶と屯所餅(壬生菜が混ざった大福)
を頂いた。これは入館料に含まれたサービスである。
(京都市中京区壬生柳ノ宮町24)
八木邸門 抹茶と屯所餅