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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

街を巡る 番外編 石畳の参道

2008-12-31 03:53:21 | 街を巡る
 “そうだ、京都に行こう”と、ミーハー気分で京都に行った12
月23日、仕事の合間を利用して幕末時に“壬生狼”と呼ばれてい
た新撰組の軌跡を辿ってみた。そのレポは後日行うとして、辿った
最後の地で心和らぐ光景に出会った。
 そこは京都洛民から“くろ谷さん”の愛称で呼ばれている黒谷・
金戒光明寺だ。この寺は、浄土宗の大本山で、承安5年(1175)
比叡山を下りた法然上人(源空)が黒谷で草庵を結び、浄土宗最初
の寺院が始まる。そして、ここは幕末の頃重要なところでもあった。
 京の治安を守るため江戸幕府が京都守護職を設置し、会津藩にそ
の職務を命じた。会津藩主・松平容保以下1,000名の藩士が洛上
し、このくろ谷さんの境内に本陣を設けた。寺域約4万坪に、大方
丈や宿坊25ヶ所が寄宿のため明け渡されたという。
 寺の墓所は黒谷山の斜面を利用して頂上まであり、最も奥に会津
藩士の墓所の一角がある。山門から会津藩墓所へ向かう石標識が設
置されていた。
 その道すがら、西雲院に続く石畳の参道が侘び・寂の風情があり、
思わずシャッターを押した。ここにたどり着くまでに、少し息が上
がった。
(京都市左京区黒谷町121)
くろ谷石標

街を巡る 杉並・宗源寺のラカンマキ

2008-12-30 04:46:52 | 街を巡る
 11月中旬、杉並区内の麺処巡りの途中、甲州街道沿いにある宗
源寺に立ち寄った。こちらの本堂南側に立派な古木があった。
「ラカンマキ」という名の樹で、樹高12m、幹周囲2.31m、樹齢
約400年とされている。羅漢と呼ばれる所以は、5月頃に実をつけ
ると、果実と花床を羅漢の首と胴と見立てたことによりつけられて
いる。
 寺は慶長年代(1596~1614)の初期の頃に創建されており、
その頃にラカンマキが植樹されたようである。樹皮は灰白色で薄く
剥がれやすい。これほどの巨木のラカンマキは初めて見る。区の天
然記念物に指定されていることで頷けた。
(杉並区下高井戸4丁目2番地)


「街を巡る」番外編「泉鏡花の墓」

2008-12-29 05:29:58 | 街を巡る
 豊島区の広大な広さの雑司が谷墓地、続いて同じような区域にあ
る「泉鏡花」(1873~1939)の墓。鏡花は石川県金沢市に生ま
れ、友人でもある尾崎紅葉の影響を受け文学を志す。鏡花が無名時
代、紅葉に書生として養ってもらっており、恩人であり文学上の師
でもある。
 鏡花の文体はロマンティシズムにあふれ、幻想文学の先駆者だ。
「高野聖」(1900)はあまりにも有名。「歌行燈」(1910)など
は渋い作品だなあ。
(豊島区南池袋4-25-1)


「街を巡る」番外編「永井荷風の墓」

2008-12-28 03:35:51 | 街を巡る
 続いて雑司ヶ谷墓地での著名人は、小説家の「永井荷風」(1879
~1959)。荷風の経歴の中で注目したいのは、20歳の頃に落語家
の六代目・朝寝坊むらくの弟子となり「三遊亭夢之助」の名で、短
い間であったが修行を積んだことだ。
 その後、アメリカやパリに渡り研鑽を積み、1910年に慶應義塾
大学の教授に就任し「三田文学」を創刊主宰。6年後には慶応を去
り、「断腸亭日乗」という荷風日記を再開している。
 この日記は、荷風が37歳の時から亡くなる前日まで42年間続け
られ、その間の社会世相の変遷が記録された貴重な書である。私も
以前、岩波文庫化された時、図書館でパラパラ眺めた時がある。
(豊島区南池袋4-25-1)


「街を巡る」番外編「小泉八雲の墓」

2008-12-27 03:30:17 | 街を巡る
 今年の夏の終わりであろうか、ある日曜日の午前中、豊島区の
雑司ヶ谷墓地を訪れた。こちらの広大な墓地には数多くの歴史に
名を馳せた方が眠っている。
 墓地の管理事務所に伺えば、少額のお金を寄付するだけで「埋
葬著名人一覧」というペラのパンフが頂けた。一覧を眺めると、
どうしても手を併せたい方の墓が3つあった。
 まずは、「小泉八雲」(1850~1904)の墓の前に来た。父は
アイルランド人、母はギリシア人で、ギリシア・レフガダ島で生
まれ、その名を「パトリック・ラフカディオ・ハーン」と名付け
られた。
 ハーンはアメリカの新聞記者時代の1890年に来日し、文部省
の斡旋により島根県松江尋常小学校(現・県立松江北高校)と県
尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられる。91年に
松江の士族・小泉湊の娘、節子と結婚し、96年に帰化し「小泉八
雲」と名乗る。
 松江時代の八雲の足跡を確かめに、いつの日か島根に行こう。
(豊島区南池袋4-25-1)


「街を巡る」中野界隈「禅定院の大銀杏」

2008-12-26 06:50:43 | 街を巡る
 百観音明治寺から東側に行ったすぐのところに「禅定院」がある。
こちらに見事な大銀杏の古木があった。
 この大銀杏、推定樹齢は600年、幹の廻りは4mはあるだろう。
当日はまだ紅葉前で緑が残っているものの、一本筋がピンと延びた
ようで見栄えが良い。紅葉時に再訪したい。
 こちらは、瑠璃光薬王寺と号し、貞治元年(1362)、鎌倉幕府・
北條氏の家臣、伊藤氏がこの地に訪れて創建、運慶作と伝わる薬師
如来像が現在まで祀ってある。
(中野区沼袋2丁目28番地2号)
禅定院表札

「街を巡る」中野界隈「明治寺」

2008-12-25 06:37:22 | 街を巡る
 公園から沼袋駅横の踏切を渡り、緩い坂道を進み右側に曲がる。
その先に「百観音明治寺」がある。
 この寺の境内には名前のとおり百観音像が安置されている。この
百体の観音様は、関東周辺の「坂東三十三観音」、秩父の「三十四
観音」、近畿一円の「西国三十三観音」の三大巡礼霊場札所が全て
集められた観音様の再現姿である。これを“うつし霊場”と呼ぶ。
 時間とお金を掛けて廻るのか、それとも明治寺の境内で済ますの
か、その霊験は自身で試さなくては。
 百観音がある一角に、昔懐かしい手押しポンプがあった。まだ現
役だ。この辺りは高台になっているので、地下水はかなり深く掘ら
れたようだ。
(中野区沼袋2丁目28番地20号)
手押しポンプ

「街を巡る」中野界隈「平和の森公園」

2008-12-24 06:32:38 | 街を巡る
 続いて西武新宿線の沼袋駅を目指す。駅に行く手前西側に大きな
公園がある。「平和の森公園」だ。
 ここは旧中野刑務所の跡地であり、1964年その構内で発掘され
た弥生時代の住居址や土器が発掘された。刑務所が廃庁されると、
再調査が行われ、縄文時代や古墳時代の住居址や土器が多数出土。
 そこで、広大な公園に造園され、園内に弥生時代の住居が復元さ
れ設置された。住居内は炉や貯蔵穴、土器や農耕具が展示されてい
るという。しかし、入り口はしっかりと施錠されており、住居の中
を伺うことは出来なかった。
(中野区新井3丁目37番地6号)

「街を巡る」中野界隈「新井薬師寺」

2008-12-23 03:19:46 | 街を巡る
 武蔵野の面影を残したたきびの歌発祥地を後に、少し歩き続け
「新井山梅照院薬王寺」を目指した。そう、「新井薬師」である。
この寺は、子育て、治眼、厄よけに霊験があり、周辺の住民はも
とより遠方からもお参りに訪れるところ。
 昔、新井の地の草庵の庭から煌々と光るすじが見えたという。
その光る元を掘り返すと、新田家ゆかりの尊像が出てきた。時は
天正14年(1586)。その尊像を安置するためにお堂が建立され、
現在の新井薬師となった。尊像は新田義貞の守護仏として崇拝さ
れてきた。
 参拝を済ませると、境内にある井戸の蛇口をひねり持参したペ
ットボトルに詰めるご老人を発見。伺うと、ここの地下水は旨い
のだそうだ。そこで、私も蛇口の水を口に含んでみた、なるほど
まろやかで甘露、甘露。
(中野区新井5丁目3番地5号)


「街を巡る」中野界隈「たきびの歌発祥地」

2008-12-22 06:36:35 | 街を巡る
 続いて功運寺から西北方面に位置する上高田3丁目へ進んでみた。
民家が密集する路地の奥に「『たきび』の歌発祥地」があった。

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜ ぴいぷう ふいている
(小学校唱歌)

 この童謡の作詞者は、巽聖歌(たつみせいか、1905~73、本名
・ 野村七蔵)。生まれは岩手県、北原白秋に師事し、数多くの童謡
歌を作詞している。
 聖歌は、この「たきび」が作られた1930年頃からこの辺りに住
んでいて、当時はまだ林野が多く、散歩に出ると民家の庭先でたき
火をする光景が見られたのだろう。
 現在でも、たきびの歌発祥地の辺りは、猿の腰掛けが付いた欅の
老木が何本か残っており、垣根の風情も当時の面影を残している一
角で、こんな風景を継承して行かなくてはいけないと、つくづく思
った。
(中野区上高田3丁目26番地辺り)