塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

Weekendの麺処巡り 麺や 七彩 白湯麺、始まる

2007-09-30 13:09:52 | 拉麺
 あの猛暑の夏も過ぎ、景色は既に秋を迎えている。
猛暑の中で頂いた“冷やし麺”も、ほとんどの店は終了となった
ことであろう。まだ、9月だからどこかで残っているか・・・。
 ならば、今季一番頂いた“山葵塩味の冷やし”を食しておきたいと
思い西武新宿線・都立家政駅を目指した。本日も朝から雨。
気温も低くい。これで冷やしは、厳しいなー、と思っている矢先、
藤井店主が店頭に顔を見せ、“冷やしがあります”とコールが入る。
 さて、時間。入店して冷やし820円のボタンを押したところで、
“白湯麺も昨日から始まりました”の声がかかる。それなら、白湯麺に
変更してもらう。よって、白湯麺の料金がはっきり覚えていない。
780円だったかな。
 本日、開店から厨房を勤める阪田店主の顔も、何故か自信ありげな
顔でにこやか。本日の麺の量は大盛り200gでお願いした。
この大盛りコールが、後で喜びとなっていた。
 まず、つけ汁としゃれた小皿に特製塩とゆずが登場。少し遅れて、
器になみなみと盛られた白湯スープに自家製麺。熱々のスープに
ゆったりと沈んでいる。上には鶏の蒸した胸肉片が数個。代わって、
塩のつけ汁にはチャーシューの大きな塊が沈んでいる。つけ汁の
隠し味は、烏賊を発酵させた魚醤“いしる”が入っている。
 全て登場したところで、藤井店主から頂き方の講釈が始まる。
が、私は聞いちゃいない。既に写真を撮り終え、白湯から手を
つけていた。白湯に沈んだ麺を口に運ぶ。このスープには味は
ついていない。
 そこで、レンゲに麺を少し盛って特製塩を振りかけ頂いてみた。
白湯スープに甘味が出てくる、こんなシンプルな食べ方こそ、
味を確かめる基本なのかな。
 続いて、つけ汁に浸けて頂く。塩の旨味がはっきりと判る
白湯塩つけになる。このバージョンで麺を3分の2ほど平らげ、
次につけ汁を白湯スープの器にぶちまける。白のスープが
ほんのりと紅茶色に染まり、白湯塩拉麺として頂いた。
麺を全て平らげ、残ったスープに柚を絞って、酸味の白湯を
堪能できた。
 この料金で、味と食べ方と風味と食感が味わえる白湯麺、
恐れ入りました。至福の一時を過ごせましたよ。
 今後は、塩味だけでなく、他の味のバージョンも提供される。
楽しみである。

広重「江戸百」今昔 高田姿見のはし俤の橋砂利場

2007-09-30 06:34:14 | 江戸百・今昔
 安政4年(1857)1月の改印がある「江戸百」116景
「高田姿見のはし俤の橋砂利場」(たかだすがたみのはし
おもかげのはしすなば)。
 神田川に架かる有名な橋「面影橋」。私の世代では及川恒平が
作詞・作曲し、六文銭が唄ったフォーク歌詞の冒頭のフレーズが
思い浮かぶ。ただし、これも、諸説あって、神田川に架かる
面影橋ではなく、大阪に天満橋があるので、面影橋は大阪か、
と思われているが、これも正しくなく、実は及川氏の創作橋のようだ。
 さて、一立斎広重は、橋の順番を間違えたようである。つまり、
当時の橋は、高田馬場から北に進み、神田上水に突き当たると
最初の橋「俤」(おもかげ)橋があり、その橋を渡って雑司ヶ谷方面へ
進むと、小さな川に橋が架かっていた。これが「姿見橋」であった。
 ところが、この2つの橋が似ていたのか混同されて、先に姿見橋、
後者を面影橋としてしまったと言われる。正しくは、絵に描かれて
いる橋が面影橋である。また、橋の北側に描かれた辺りが砂利の
採取場で、すぐ近くの氷川神社に砂利場の碑がある。
(新宿区西早稲田3丁目7番地辺り)

Weekendの麺処巡り すずらんで限定麺、中華饂飩

2007-09-29 13:19:03 | 拉麺
 べんてんを後に、渋谷に向かう。
すずらんで、27日から限定20食の麺が提供されていると聞いた。
「中華饂飩~二宝地粉麺」と命名されたつけ麺1,000円で、つけ汁は
中華風味のしょうゆ味。名前の通り、饂飩のような太麺は中華麺、
それにその生地で作られた“ミミ”と呼ばれている、ワンタンの皮のような
風変わりな麺。これが、二宝地粉麺なんだね。
 つけ汁は、脂が浮かび中華鍋で火に通された豚肉と中華風出汁が
多く入っている。こんなつけ麺のつけ汁は今までなかった。麺を一気に
吸い上げると、辛みが鼻を刺激して少し気になるが、そこはゆるりと口に
運べば問題ない。
 ただし、私にはこの饂飩麺は合わなかった。このつけ汁には合っていない
と、思う。ところが、もう一方の“ミミ”は絶品。ワンタンの皮よりも少し
硬いくらいで、甘みを含んだ旨い品である。5つも丼の底に沈んでいた。
このミミ、なぜか得をした感じ。
 最後にスープ割りを頼むと、残り汁はほとんど捨てて、別のスープを
注いで頂いた。このスープ割り(割と言えるのか?)が、旨い。
節と煮干しの香りが強烈で、なぜか、ホッとする一杯だ。

Weekendの麺処巡り べんてんで塩に味噌のせ

2007-09-29 13:08:35 | 拉麺
 本日は、雨。
 高田馬場のべんてんへ向かう。雨の並びは、ちと辛い。
気温も下がり、塩拉麺が気分的にも旨くなる良い季節を迎えた。
 もちろん、塩拉麺800円、麺少なめで、かえしを濃くしてもらう
変則オーダーをコールしよう。私には、塩味を濃厚にした方が、
べんてんのスープは引き立つと思う。
 さて、開店時間で入店。味噌100円の札が出ている。これは迷わず、
塩拉麺に味噌をトッピングでオーダーした。この味噌、最近出される
タイプでなく、以前提供されているタイプ。餡かけで練られたもので、
塩気が強く厳味も感じられる味噌である。もちろんいろんな具も
混ざっている。
 この味噌を麺に絡めて頂くと、一度に塩と味噌が味わえ、何とも
まったりしてくる。いやー、旨い一杯だった。

広重「江戸百」今昔 猿わか町よるの景

2007-09-29 05:28:36 | 江戸百・今昔
 安政3年(1856)8月の改印がある「江戸百」90景
「猿わか町よるの景」(さるわかまちよるのけい)。
 安政2年(1855)10月2日、突如襲った安政の大地震で
江戸市中はどこも壊滅状態に遭遇した。ところがどっこい、
江戸は火事が日常茶飯事で、江戸っ子も慣れたもの、地震後の
復旧も順調に進んでいた。その矢先、翌年の8月に今度は
野分(現在の台風)が襲いかかり、大きな被害をもたらした。
 浅草の芝居小屋がかかる猿若町でも例外ではなく、市村座、
中村座、森田座の3座では大屋根が吹き飛ばされたという。
広重がここを訪れたのは、その時期で、絵のコンテ作業の時は
屋根がなかったのではないだろうか、と推測する。
 この絵を見てみよう。満月の夜の芝居小屋が立ち並ぶ
浅草・猿若町である。見た目、なんだか物寂しい風景である。
 普通、庶民の憩いを求める芝居小屋が立ち並ぶ通りは、
客の注目を集めるために、歌舞伎文字の看板や役者絵看板、
飾り物等を小屋の店頭に並べて、派手に宣伝するはず。
 広重は、台風で被害を受けた各座の屋根をわざと描き、
再開幕を願った風景ではないだろうか。それを意味するのが、
日中の風景を避け、夜にしている点だ。
 また、月に照らし出された通りを往来する人物の影である。
なんとも侘びしさを漂わせる絵だ。
 猿若町とは、歌舞伎の始祖「中村勘三郎」にちなみ、勘三郎が
創作した狂言「猿楽」からきており、当初勘三郎も猿若勘三郎と
名乗っていたという。
 写真は、旧猿若町の通りで、近くに市村座の跡碑があった。
(台東区浅草6丁目18番地辺り)

広重「江戸百」今昔 隅田川水神の森真崎

2007-09-28 06:55:08 | 江戸百・今昔
 安政3年(1856)8月の改印がある「江戸百」35景
「隅田川水神の森真崎」(すみだがわすいじんのもりまさき)。
 隅田川の向島辺りの川岸近くに水神社(現在の墨田川神社)が
ある。慶長年間(1596~1615)、江戸幕府は隅田川の洪水から
水神社がある低湿地帯を守るため、川岸に大堤を築いた。
そのため神社周辺の住人は、堤の内側に移転させられたが、
社だけはその場に残された。それ以降、社の森には桜が植えられて
名所となった。
 絵の中で、川の向こう側は真崎、右下の道は奥州街道、
上にはお決まりの筑波山が描かれている。
 写真は、川岸より向こう岸の南千住を眺め、水上バス(遊覧船)を
入れて撮ってみた。水面にできた波に特徴がある。
(墨田区堤通2丁目17番地辺り)

広重「江戸百」今昔 目黒千代が池

2007-09-27 07:03:49 | 江戸百・今昔
 安政3年(1856)7月の改印がある「江戸百」23景
「目黒千代が池」(めぐろちよがいけ)。
 江戸の頃、目黒の千代ヶ崎台地には、島原藩主・松平主殿侯の
下屋敷があった。あまりにも見晴らしがよかったので、
「絶景観」と呼ばれていた。千代が池には、何段にも折れる
滝まであった。現在のプリンセスガーデンホテル辺りである。
 この絵には、千代が池の水面には、斜面に植わっている木々が
陰として水面に映り込んでいる。この描写などは、浮世絵に取り
入れることは珍しく、広重が西洋画の影響を、かなり受けていた
ようにみえる。
 絵の現場を訪れ周辺を巡っていると、他にいいポジションが
見つかった。そこはJR山手線に架かる陸橋があり、線路の先の
せり上がる土手を、千代ヶ崎台地に見立てて撮った。
(品川区上大崎2丁目19番地辺り)

Weekdayの麺処巡り がんこで塩こってり

2007-09-26 21:36:15 | 拉麺
 本日は、がんこ西早稲田店で“塩こってり”が提供される日。
昼間は伺えないので、夜の部を覗いてみた。まだ、いつもの骨が
店頭にぶら下がっている。早速、入店。しかし、いつ来ても入店寺の
不気味さは消えない。
 そろりと足を踏み入れると、小川充也店主が迎えてくれる。
がんこの中では一番寡黙で、喜怒哀楽の表現が顔に出ない店主である。
ところが、月2回提供(第1&4曜日の水&木曜日で決まっていない)
の“塩こってり”の時は、いくぶん和やかな雰囲気で、この一杯が
最高と言わんばかりに、自信に満ちている顔なのか、少し笑顔も
かいま見える。
 がんこ系列店は、“こってり”をそれぞれメニューに上げているが、
ほとんどが“背脂”だそうだ。しかし、こちらの西早稲田店だけは
仕入れが大変な“コラーゲン”を使用されている。まあ、今さら肌が
スベスベにならなくてもいいが、身体にはいいと思う。
 塩こってり800円を注文。ドロッとした白い脂が盛られている。
これがコラーゲン、匂いはしない。その他は、西早稲田の塩拉麺だ。
この脂、マッタリとして食がどんどん進む。麺が少なくなったところで、
別に出された“焦がし葱”と“柚子胡椒”をそれぞれ投入。
 これがまた、脂でべとついた口の中をさっぱり爽やかにしてくれる。
特に、脂のくどさを柚子胡椒が洗ってくれるようで、なんども変化が
楽しめた。旨い一杯だった。

広重「江戸百」今昔 角筈熊野十二社 俗称十二そう

2007-09-26 06:52:14 | 江戸百・今昔
 安政3年(1856)7月の改印がある「江戸百」50景
「角筈熊野十二社 俗称十二そう」(つのはずくまのじゅうにしゃ・
ぞくしょうじゅうにそう)。
 現在の西新宿、この西側に十二社と呼ばれた熊野神社がある。
十二社と呼ばれるだけに、紀伊の熊野から三所権現、四所明神など
12社を勧請して祀られている。
 また、弁天池と呼ばれた十二社の池は、慶長11年(1606)、
伊丹播磨守が田畑の用水だめとして開発。ここは湧き水だったようで、
享保年間になると池の周りに茶屋が建ち並び、景勝地として大いに
賑わったといわれている。
 現在の熊野神社は、新宿中央公園の西北に位置し、十二社通りに
「十二社池ノ下」バス停があり、昔を忍ばせる名前がかいま見える。
(新宿西新宿2丁目北通りより)

広重「江戸百」今昔 角筈熊野十二社 俗称十二そう

2007-09-26 06:51:12 | 江戸百・今昔
 安政3年(1856)7月の改印がある「江戸百」50景
「角筈熊野十二社 俗称十二そう」(つのはずくまのじゅうにしゃ・
ぞくしょうじゅうにそう)。
 現在の西新宿、この西側に十二社と呼ばれた熊野神社がある。
十二社と呼ばれるだけに、紀伊の熊野から三所権現、四所明神など
12社を勧請して祀られている。
 また、弁天池と呼ばれた十二社の池は、慶長11年(1606)、
伊丹播磨守が田畑の用水だめとして開発。ここは湧き水だったようで、
享保年間になると池の周りに茶屋が建ち並び、景勝地として大いに
賑わったといわれている。
 現在の熊野神社は、新宿中央公園の西北に位置し、十二社通りに
「十二社池ノ下」バス停があり、昔を忍ばせる名前がかいま見える。
(新宿西新宿2丁目北通りより)