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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

壬生浪士の墓 番外編 沖田総司忌_2009

2009-06-27 14:12:38 | 壬生浪士の墓
 年に一度、公開されるお墓がある。慶応4年(1868)5月30日、
25歳の若さで没した沖田総司。「総司忌」が本日、港区元麻布の専称
寺で行われた。
 神田神保町から六本木まですっ飛んでみた。11時から始まった一般
の方の墓参が許されて、私もその列に加わる。昨年はトップで墓参り
をさせていただいた。昨年も今年と同じ暑い日で雨は降らなかった。
 時を置いて、総司の辿った事跡を綴ってみたい。合掌。

「壬生浪士の墓」 近藤勇の供養塔

2008-10-18 13:15:27 | 壬生浪士の墓
 埼京線に乗って板橋駅で下車し東口に出る。ローターリー先の通
りの反対左側に「近藤勇の供養塔」があった。ここは寿徳寺の境外
墓地である。
 近藤は、慶応4年(1868)4月25日に中山道板橋宿手前の平尾
一里塚近くで、官軍により斬首処刑された。その首は京都に、また
胴体はこの場所に埋葬されている。まずは手を合わせ合掌。
 この供養塔は明治9年(1876)、一度は近藤と袂を分けた永倉
新八が発起人となり造立。この墓地の左側に永倉の墓もあった。
(北区滝野川7-8-1)
永倉新八の墓

壬生浪士の墓 沖田総司忌 其の六

2008-06-22 15:46:58 | 壬生浪士の墓
 さて、最後に元麻布を目指した。沖田家の墓は専称寺にあり、総
司の墓は小さな祠が被うっている。以前、この寺に訪れた時は門前
だけで、もちろん墓前までは行っていない。
 9時前に寺に到着するも、人影はない。寺の脇の路地を進むと墓
地に居たり、塀越しに総司の祠のある墓が見渡せる。
 歩き通しだったので、時間をつぶすためお茶をした。
 再び寺に到着すると、関係者らしき方が門前にいた。聞くと10
時半頃からお参りが出来るとのこと。しばし、門前で待っていると
続々、多くの参拝者が訪れてこられる。目的は皆同じだろう。故人
を偲び、墓前で手を併せて冥福を祈るためだ。
 沖田家の心配りなのか、10時20分頃、一般の参拝者の墓前での
参拝が許された。早速、トップで墓前に向かった。墓石は表面にい
くつかひびが入り、漆喰で繋ぎがされている。大変な人数なので、
流れ作業のような案配のお参りである。
 25or27歳の若さで散った剣豪の面影を、心に描きながらお寺を
後にした。また来年、来られるなら手をあわせに伺おう。

総司の墓_2専称寺_但し書き

壬生浪士の墓 沖田総司 其の五

2008-06-22 15:39:14 | 壬生浪士の墓
 そして、もう一つの終焉の地が千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅といわ
れている。その場所は、外苑西通りに面し新宿御苑の間にある一角
だ(現在の新宿区大京町29番地)。植甚の屋号の植木屋は、植木を
扱うだけに、宅地も広かったようで、信州高遠藩主の屋敷の外れに
あった。
 現在はマンションが建っており、当時を偲ぶものは何もない。か
ろうじて昔の川の跡らしきものがあるくらいだ。当時の一角は、建
築物の工事が進行中であった。

植甚跡_工事中

壬生浪士の墓 沖田総司忌 其の四

2008-06-22 15:33:37 | 壬生浪士の墓
 浪士組が結成され、同年(1863)6月、京都に向け旅立つ。そ
の京都・壬生の頃の話はここでは割愛。いつか壬生を訪ねてみよう。
 そこで、沖田総司の終焉の地を訪ねてみた。しかし、その地は2
箇所あるという。まず、その一つが浅草の今戸八幡(現在の今戸神
社)である。
 京都を追われるように江戸に戻った総司は、肺結核の病が進行し
御典医・松本良順の神田和泉橋医学所(台東区台東1-30)で治療
を受けていた。しかし、薩長軍が怒濤の如く江戸に入ってきて、医
学所の患者は全員、浅草の今戸八幡に収容された。
 今戸神社に伺うと門前に終焉の地の看板があり、社殿正面の左側
に終焉の地の石碑が設置されている。なかなか広い境内で、当時、
総司は何人の患者と一緒に治療を受けていたのだろう。

今戸神社_沖田の碑

壬生浪士の墓 沖田総司忌 其の三

2008-06-22 15:28:36 | 壬生浪士の墓
 近藤周助からバトンタッチした勇は、4代目宗家として弟子を育
てるとともに仕官を模索していた。そして、文久3年(1863)2
月4日、小石川・傳通院山内の塔頭・処静院(しょじょういん)で
浪士隊(新撰組の前身)が結成。
 結成時には山岡鉄舟や清河八郎、近藤勇、土方歳三、沖田総司等
約250名もの浪士が集結した。
 当時の総司は、どのような思いで傳通院に詰めたのだろうか。同
寺の墓地に清河八郎(1830~62)の墓があった。清河は、千葉周
作に剣を、また安積艮斎に儒学をそれぞれ学ぶ。その後、昌平坂学
問所に入学し文武を学ぶ。
 清河はそれから尊皇攘夷活動に参画するが、寺田屋事件に失望。
浪士隊の結成に参加する。しかし、近藤、土方等の佐幕派と対立し
江戸に戻り、その後暗殺されている。

処静院跡_石碑 清河八郎の墓

壬生浪士の墓 沖田総司忌 其の二

2008-06-22 15:21:15 | 壬生浪士の墓
 続いて幼少の頃から剣術に興味を抱き(武士であるからあたりま
え)、9歳で天然理心流剣術・三代目の近藤周助(のち周斎)の内
弟子となり、剣の腕前を上げ若い頃から塾頭となる。
 ちなみに近藤勇は嘉永元年(1848)に同道場に入門し、翌年周
助の養子(当時16歳)となる。1851年に土方歳三が入門(正式
入門は1859年の説あり)し、翌年(推定)に総司が入門。
 天然理心流剣術道場「試衛館」があった江戸・市谷甲良屋敷(現
在の新宿区市谷柳町25番地)を訪ねた。ここは以前、坂道巡りを
行った時来ており、再訪の場所。もちろん、道場が建っていた跡だ
けである。廻りには新撰組を意識してか、幟が目立った。

試衛館跡_幟

壬生浪士の墓 沖田総司忌 其の一

2008-06-22 15:15:39 | 壬生浪士の墓
 慶応4年(1868)5月30日、新撰組の副長助勤で一番隊組長
であった「沖田総司」(おきたそうじ、1842 or 44~68)の命日
である。
 いつの日か、6月の第3日曜日に「総司忌」が営まれるようにな
った。今年は第4週目の本日がその日である。総司が眠る墓は、港
区元麻布3丁目の専称寺。年に1度だけ墓参りが許される日である。
 墓前で手をあわせる前に、総司の縁の地(東京だけであるが)を
巡ってみた。
 まず、総司は、陸奥白河藩の江戸下屋敷内で藩士の沖田勝次郎の
長男として天保13年か15年に誕生したのである。下屋敷があった
ところは六本木通りを挟んだ西麻布1丁目と3丁目、六本木7丁目
と広大な敷地であったといわれる。
 そこで、生まれた場所として麻布霞町の交差点付近を撮ってみた。


「街を巡る」壬生浪士を訪ねる「沖田総司の墓」

2008-03-15 16:29:48 | 壬生浪士の墓
 新撰組を語るなら、この方、沖田総司も忘れてはならない。
 沖田の墓は、港区元麻布の専称寺にある。ただし、伺っても墓
前でお参りすることは出来ない。墓は非公開で、年に一度だけ墓
参出来る日が設定されている。今年は6月22日(日)午前11時
から「総司忌」が開催される。
 総司は生まれた年度が定かでなく天保13年~15年(1842~
1844)で、亡くなったのは慶応4年(1868)7月19日。没年
齢がわからない。近藤勇が斬首されてから63日後、労核で亡く
なっている。
 天然理心流の近藤周三の内弟子として腕を磨き、その腕前は天
才肌であった。沖田はまた、北辰一刀流の免許皆伝でもある。
(港区元麻布3-1-37)


「街を巡る」壬生浪士を訪ねる「近藤勇の墓」

2008-03-15 16:25:53 | 壬生浪士の墓
 続いて、近藤勇の墓がある「龍源寺」に向かってみた。同じ人見
街道沿いで、すぐのところにある。
 ここは宮川家の菩提寺で、曹洞宗大沢山龍源寺という。門前手前
の左手に天然理心流の碑が建っている。また、この寺には近藤が剣
の修行を積んだ試衛館道場(新宿・牛込)から多摩へ出稽古に来た
時に使用した木刀が保存されているという。また、門前には近藤勇
の立像があった。
 境内から寺の裏手に廻ると墓はある。板橋宿で新政府軍に捕捉さ
れ、平尾一里塚(板橋区滝野川)で斬首された。その首は京へ、遺
体は法蔵寺(愛知県岡崎市)にまつられているというが定かでない。
 戒名は「貫天院殿純義誠忠大居士」。
(三鷹市大沢6-3-11)

近藤勇の立像 龍源寺