寿の街並みから浅草通り、国際通りを横断し西浅草1丁目に入
った。願竜寺に山田宗偏の墓があるので伺ったが、いくら探すも
見つからなかった。今回の著名な人物の墓巡りは半分方、墓が見
つけだされず失敗だった。
山田宗偏は、江戸初期の茶人で、宗偏流の創始者である。境内
に碑があったので、そちらを撮影。(西浅草1-2-16)
続いて、宗恩寺へ向かう。こちらには織田得能の墓が安置され
ているが、またしても墓はわからなかった。織田は明治期の真宗
大谷派の僧侶で、我が国初の仏教辞典「仏教大辞典」を著した執
筆者。明治32年から取りかかり亡くなるまで、この寺の土蔵で
ただ一人で続けられ、生存中は刊行されなかった。
大正6年、その原稿を元に、上田万年、芳賀矢一、南条文雄、
高槻順次郎によって刊行されている。
門前を入った右側に織田の筆による「念仏成仏」の碑が設置さ
れていた。(西浅草1-6-7)
さて、以前訪ねて安置場所がわからなかった「鍋かぶり地蔵」
に伺った。それは萬年山祝言寺の境内にひっそりとあった。お寺
の関係者が掃除をしておられたので聞いてみると、やはりこの地
蔵がお目当ての鍋かぶり地蔵だ。
地蔵自体、姿形が判明しないものの、唯一、鍋を被っているの
で、それとわかる。なんでも、直参旗本・酒井家に祀られていた
地蔵で、眼病治癒に霊験があるそうだ。
(台東区松が谷1丁目6番地)
山田宗偏の碑 織田得能の碑
った。願竜寺に山田宗偏の墓があるので伺ったが、いくら探すも
見つからなかった。今回の著名な人物の墓巡りは半分方、墓が見
つけだされず失敗だった。
山田宗偏は、江戸初期の茶人で、宗偏流の創始者である。境内
に碑があったので、そちらを撮影。(西浅草1-2-16)
続いて、宗恩寺へ向かう。こちらには織田得能の墓が安置され
ているが、またしても墓はわからなかった。織田は明治期の真宗
大谷派の僧侶で、我が国初の仏教辞典「仏教大辞典」を著した執
筆者。明治32年から取りかかり亡くなるまで、この寺の土蔵で
ただ一人で続けられ、生存中は刊行されなかった。
大正6年、その原稿を元に、上田万年、芳賀矢一、南条文雄、
高槻順次郎によって刊行されている。
門前を入った右側に織田の筆による「念仏成仏」の碑が設置さ
れていた。(西浅草1-6-7)
さて、以前訪ねて安置場所がわからなかった「鍋かぶり地蔵」
に伺った。それは萬年山祝言寺の境内にひっそりとあった。お寺
の関係者が掃除をしておられたので聞いてみると、やはりこの地
蔵がお目当ての鍋かぶり地蔵だ。
地蔵自体、姿形が判明しないものの、唯一、鍋を被っているの
で、それとわかる。なんでも、直参旗本・酒井家に祀られていた
地蔵で、眼病治癒に霊験があるそうだ。
(台東区松が谷1丁目6番地)
山田宗偏の碑 織田得能の碑