「名所江戸百景」最後の作品の登場だ。しかし、この絵は
一立斎広重の作ではなく、二代目広重の絵である。
初代広重は、安政5年(1858)9月6日、当時はやった
コレラにかかり亡くなったと伝えられている。
安政6年(1859)4月の改印がある「江戸百」119景
「赤坂桐畑雨中夕けい」(あかさかきりはたうちゅうゆうけい)。
絵の中央下、青く描かれたところが赤坂溜池で、当時は
ひょうたん型をしていたという。池の土手には桐を栽培し
それで、桐畑と呼んだ。
中央の降るそぼる雨の中を、傘を差した往来の姿は、
赤坂御門へ通じる坂道(現在の三宅坂)である。
二代目広重は、この作品以外に3作残していると言われる。
それが、「41景_市ヶ谷八幡」「12景_上野山した」
「114景_びくにはし雪中」である。
二代目広重の本名は、森田鎮平で、号を宣重といった。
初代と比べると、構図や色彩のタッチが違い、評価も
高い。しかし、私は初代広重の作のほうが好きである。
(港区赤坂3丁目2番地辺り)
この作品を最後に、「名所江戸百景」119景の今昔紹介は
終了した。約4ヶ月、長かったようで短い間での広重
ワールドを再現したと思っている。さて、次は何に挑もうか。
葛飾北斎の「富岳三十六景」、広重の「東海道五十三次」など
企画は豊富にある。
一立斎広重の作ではなく、二代目広重の絵である。
初代広重は、安政5年(1858)9月6日、当時はやった
コレラにかかり亡くなったと伝えられている。
安政6年(1859)4月の改印がある「江戸百」119景
「赤坂桐畑雨中夕けい」(あかさかきりはたうちゅうゆうけい)。
絵の中央下、青く描かれたところが赤坂溜池で、当時は
ひょうたん型をしていたという。池の土手には桐を栽培し
それで、桐畑と呼んだ。
中央の降るそぼる雨の中を、傘を差した往来の姿は、
赤坂御門へ通じる坂道(現在の三宅坂)である。
二代目広重は、この作品以外に3作残していると言われる。
それが、「41景_市ヶ谷八幡」「12景_上野山した」
「114景_びくにはし雪中」である。
二代目広重の本名は、森田鎮平で、号を宣重といった。
初代と比べると、構図や色彩のタッチが違い、評価も
高い。しかし、私は初代広重の作のほうが好きである。
(港区赤坂3丁目2番地辺り)
この作品を最後に、「名所江戸百景」119景の今昔紹介は
終了した。約4ヶ月、長かったようで短い間での広重
ワールドを再現したと思っている。さて、次は何に挑もうか。
葛飾北斎の「富岳三十六景」、広重の「東海道五十三次」など
企画は豊富にある。