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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

広重「江戸百」今昔 赤坂桐畑雨中夕けい

2007-10-28 06:06:13 | 江戸百・今昔
 「名所江戸百景」最後の作品の登場だ。しかし、この絵は
一立斎広重の作ではなく、二代目広重の絵である。
初代広重は、安政5年(1858)9月6日、当時はやった
コレラにかかり亡くなったと伝えられている。
 安政6年(1859)4月の改印がある「江戸百」119景
「赤坂桐畑雨中夕けい」(あかさかきりはたうちゅうゆうけい)。
 絵の中央下、青く描かれたところが赤坂溜池で、当時は
ひょうたん型をしていたという。池の土手には桐を栽培し
それで、桐畑と呼んだ。
 中央の降るそぼる雨の中を、傘を差した往来の姿は、
赤坂御門へ通じる坂道(現在の三宅坂)である。
 二代目広重は、この作品以外に3作残していると言われる。
それが、「41景_市ヶ谷八幡」「12景_上野山した」
「114景_びくにはし雪中」である。
 二代目広重の本名は、森田鎮平で、号を宣重といった。
初代と比べると、構図や色彩のタッチが違い、評価も
高い。しかし、私は初代広重の作のほうが好きである。
(港区赤坂3丁目2番地辺り)

 この作品を最後に、「名所江戸百景」119景の今昔紹介は
終了した。約4ヶ月、長かったようで短い間での広重
ワールドを再現したと思っている。さて、次は何に挑もうか。
葛飾北斎の「富岳三十六景」、広重の「東海道五十三次」など
企画は豊富にある。


広重「江戸百」今昔 木母寺内川御前裁畑

2007-10-27 04:15:48 | 江戸百・今昔
 安政4年(1857)12月の改印がある「江戸百」92景
「木母寺内川御前裁畑」(もくぼじうちかわごぜんさいばたけ)。
 隅田川の東岸に木母寺がある。1000年ほど昔、ここは梅若寺と
呼ばれていた、7歳の梅若丸の伝承が残っている。
 京都・北白川で公卿の子息として生まれた梅若丸は、父親が
死別し人買いにダマされて東国へ連れて行かれた。隅田川の
この地で梅若丸は病にかかり、手足まといと思われて人買いに
川に投げ込まれてしまう。しかし、梅若丸はこの地の住人に
助けられるが、息絶えてしまう。そこで、住人は梅若丸の塚を
築き梅若塚とした。現在もこの塚が木母寺の境内に残っている。
 慶長12年(1607)に寺号を木母寺と改められた。“木母”の
文字は梅若の“梅”から取られたと言い伝えがある。
 絵の中央の橋は、幕府の御前栽畑のある出洲へと通じていた。
当時は、肥沃な川の栄養分を摂取した土地で、御前裁畑では
野菜が栽培されていた。右側の料亭は屋号を「植半」といい、
魚や蜆料理が有名で、当時は大いに繁盛したそうだ。
 写真は、木母寺の境内から隅田川に向かって撮った。
(墨田区是通2丁目16番地、木母寺境内より)


広重「江戸百」今昔 四ッ谷内藤新宿

2007-10-26 06:40:36 | 江戸百・今昔
 安政4年(1857)11月の改印がある「江戸百」86景
「四ッ谷内藤新宿」(よつやないとうしんじゅく)。
 甲州街道の最初の宿駅、内藤新宿。元禄11年(1698)、
信州高遠藩・内藤若狭守の下屋敷の一部を幕府に返還し、
そこに宿駅を造った。馬継ぎの中継基地となり、町屋もでき
馬喰たちで大いに賑わった。
 甲州街道は当時から多摩や秩父の奥から鉱物が、また
農産物の集積地として馬や牛の産業道路となり、「四ッ谷街道、
馬の糞」と呼ばれるほど馬糞が散乱していたといわれる。
 内藤新宿は、当時は四ッ谷大木戸の外にあったため、都会の
江戸とは隔たりがあり田舎臭いイメージであった。それを広重は、
馬のケツを大写しにして雰囲気を表している。
 左の旅籠や茶屋の奥の森が内藤家の下屋敷、その左奥に
 四ッ谷大木戸があった。
(新宿区新宿2丁目5番地辺り)

広重「江戸百」今昔 浅草田圃酉の町詣

2007-10-25 06:52:00 | 江戸百・今昔
 一立斎広重の「名所江戸百景」(全119景)を紹介するのが、
はやいもので、残り4つとなってしまった。
 安政4年(1857)11月の改印がある「江戸百」101景
「浅草田圃酉の町詣」(あさくさたんぼとりのまちもうで)。
 浅草の北側に位置した不夜城・新吉原、その北西側は
まだまだ田圃が続き牧歌的であった。しかし、毎年11月に
なると新吉原の近くにある鷲神社(おおとりじんじゃ)の
酉の市が始まると、江戸市中から数多くの参拝者が訪れ、
大いに賑わった。絵の中央に描かれた黒い帯は、酉の市
詣でを済ませた方の行列である。
 新吉原は酉の日は「紋日」という祝いの日で、全ての
門が開放され自由に出入りできた。
 そんな賑わいを、吉原遊郭の2階の一室から白い猫が
眺める光景。何をかいわんや。
 左下の屏風の端から覗くものは、酉の市の縁起熊手を
あしらったデザインの簪が見える。簪をよく見ると、
おかめと松茸の取り合わせの意匠で、この内容については
いろいろと話題を提供した背景がある。
 さて、松尾芭蕉が一句詠んでいる。
 「春を待つ 事のはじめや 酉の市」
 写真は、花園公園から鷲神社を望むような位置から
撮ってみた。今年のお酉さんは、一の酉が11月11日、
二の酉が23日で、どちらも前夜のお酉さんが盛り上がる。
私は今年も新宿の花園神社に伺う予定。
(台東区千束3丁目22番地辺り)

広重「江戸百」今昔 王子不動瀧

2007-10-24 06:37:23 | 江戸百・今昔
 安政4年(1857)9月の改印がある「江戸百」49景
「王子不動瀧」(おうじふどうのたき)。
 王子辺りを流れる石神井川は、滝野川や音無川とも呼ばれ、
川底が大きくえぐれ、渓谷がつくられていた。急な流れの川で
滝もいくつかあり、川の南側に正受院というお寺の裏手に、
大きな滝が流れ落ちていた。その滝壺の裏に不動明王を祀る
祠があり、その滝を「不動滝」と呼んだ。
 絵は、不動滝がデフォルメされて壮大に描かれているが、
このあたりは広重特有の誇張である。滝壺の淵では滝浴み
(たきあみ)をする姿が見られる。滝浴みは、江戸の頃、
夏の涼を求める水遊びとして、当時流行っていたようだ。
(北区滝野川2丁目5番地辺り)

広重「江戸百」今昔 真乳山山谷堀夜景

2007-10-23 06:35:29 | 江戸百・今昔
 安政4年(1857)8月の改印がある「江戸百」34景
「真乳山山谷堀夜景」(まつちやまさんやぼりやけい)。
 この絵は、隅田川の向島の川岸土手から対岸の山谷堀を
描いている。右側の灯りのついた建物は、安政の大地震で
料亭「金波楼」が崩壊し、その代替わりとして「有明楼」が
営業している。地震の復興から立ち直り、当時は大いに
繁盛した料亭だった。有明楼の左側に山谷堀がある。現在は
暗渠になり山谷堀公園が北に延びている。
 料亭といえば、芸者。ここに描かれている提灯に先導
された芸者は、向島ではなく、堀の芸者であることが伺える。
真乳山(現在の待乳山)は、荒川の氾濫で日本堤の工事が
始まると、山を削り埋め土として利用されたという。よって、
当時の山はもっと高かったそうだ。山の上には聖天宮があり、
男女と女天の双身像・勧喜神(インド・ヒンズー教)が
祀られている。
(墨田区向島2丁目5番地辺り)

広重「江戸百」今昔 月の岬

2007-10-22 07:05:26 | 江戸百・今昔
 安政4年(1857)8月の改印がある「江戸百」82景
「月の岬」(つきのみさき)。
 この絵は、品川の八つ山辺りである。品川沖には大型船の
帆柱が立ち並び、その上に満月が描かれている。中秋の名月
であろうか。妓楼のお座敷には、空の器が置かれているとこ
ろを見ると、月見の宴も既に終了しているようである。
 注目は、左の障子に映る影は遊女の姿。何とも憎いほどの
技巧を凝らした、広重らしい真骨頂が伺える作品だ。
(港区高輪4丁目24番地辺り)

広重「江戸百」今昔 請地秋葉の境内

2007-10-21 05:09:06 | 江戸百・今昔
 安政4年(1857)8月の改印がある「江戸百」91景
「請地秋葉の境内」(うけちあきばのけいだい)。
 この絵は、非常に興味のある一枚である。左下茶店の
座敷に描かれている坊主頭の人物に注目。紅葉の風景を写生
しているのは、一立斎広重本人ではないだろうか。
 さて、請地とは領主から管理を委託された地頭が支配する
土地のことをいう。向島の請地に満願寺があり、その住職が
秋葉権現を勧請して神社を祀った。
 ここには築山や池を造り、観光名所とした。神社の廻りには
料理屋や酒屋も出来て、賑わったという。
 向島4丁目の秋葉神社に伺ったが、その途中にあった
飛木稲荷が風情があったので、こちらを撮った。
(墨田区押上2丁目39番地辺り)

広重「江戸百」今昔 吾妻橋金龍山遠望

2007-10-20 05:07:58 | 江戸百・今昔
 安政4年(1857)8月の改印がある「江戸百」39景
「吾妻橋金龍山遠望」(あずまばしきんりゅうざんえんぼう)。
 絵は、隅田川に浮かんだ屋根船、空からは桜の花びらが
舞っている。遠くには左から吾妻橋、その奥に春の頃が最も
美しいといわれる富士山。そして、金龍山(浅草寺)の
本堂の大屋根と五重塔が見える。
 まずは注目の船である。普段、船遊びに使用する船は、
武家は障子で四隅を囲った屋形船を使用する。画かれた
船は、すだれを巻き上げているため、これは金持ちの
商人衆が使用したものであろう。船上の芸者姿の描き方も
何かをにおわせる。広重らしさが現れている。
 江戸の金持ちの遊びといえば、船上から桜を愛でて
富士山を独り占めにする。こんなオツな遊びが粋であった。
(墨田区吾妻橋2丁目23番地辺り)

広重「江戸百」今昔 浅草川大川端宮戸川

2007-10-19 05:21:19 | 江戸百・今昔
 安政4年(1857)7月の改印がある「江戸百」60景
「浅草川大川端宮戸川」(あさくさがわおおかわばたみやとがわ)。
 隅田川は、浅草あたりでは浅草川と呼ばれていた。さらに、
この川底から浅草寺本尊の観音様が引き上げられたいわれがあり
宮戸川とも呼ばれている。そして、浅草より下流は川幅も
さらに大きくなり、大川端(右岸)といった。
 この絵の左側には、神田上水が流れ込む河口で、料亭が
画かれている。その手前、梵天と木太刀を押し立てている
集団は、大山参りを終えた集団だろうか。右側の船に乗った
集団も大山講の集団だ。職人や商人が多かったといわれる。
 遠くに見える山は、筑波山である。
(千代田区東日本橋2丁目・両国橋上より)