tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

不空院、新薬師寺、鏡神社

2010年08月14日 | 奈良検定
不空院から新薬師寺・鏡神社のあたり(奈良市高畑町)をぶらりと散歩した。まず訪ねたのは不空院だ。Wikipediaによると《不空院(ふくういん)は奈良県奈良市高畑にある真言律宗の仏教寺院。山号は春日山(しゅんにちさん)。 別称は福井之大師。本尊は不空羂索観音。鑑真の住坊跡に建立された寺院》。お寺にちなみ、この辺りは福井町(不空=福)と呼ばれていた。今も自治会は「福井町自治会」だ。



813年、鑑真の住坊跡に弘法大師が興福寺南円堂を建立する「試みのお堂」として八角円堂を建てたのが始まりといわれるが、詳細は分からない(八角円堂は1854年の安政の大地震で倒壊、現在は礎石だけが残る)。ご本尊の重文・不空羂索観音坐像(ふくうけんさくかんのんざぞう)は、予約しないと拝観できないが、今年の10/16~11/14は、平城遷都1300年祭の「奈良大和路 秘宝・秘仏特別開帳」のおかげで、予約なしで拝観できる(300円)。
http://www.1300.jp/event/roam/yamatoji/shaji/19.html


不空院本堂。トップ写真とも


「福井の大師」らしく、弘法大師の石像が建つ

《鎌倉時代には叡尊、円晴、覚盛、有厳が当院で戒律を講じたという由緒ある古刹。室町時代は大乗院の祈願所に定められていた。近世は本堂に弁才天が安置されていること、また院号が転じて福院とも呼ばれたことで、「かけこみ寺」として奈良町の芸妓達の信仰を集めていた》。境内には「えんきりさん」(弁財天)と「えんむすびさん」(黒龍大神と市杵島姫=いちきしまひめ)の2つの祠がある。





周辺は良い雰囲気の落ち着いた町並みだが、こんな話が『角川日本地名大辞典』に載っていた。《不空院辻は大乗院門跡祈願所不空院(福院)にちなむ街区で,近世の東福井町・西福井町,現在の奈良市高畑町の通称福井町にあたる。室町期には奈良中の盆踊りを昼間は新薬師寺,夜間は「不空院辻」で催す習慣であったというが,あまりの踊りの激しさに新薬師寺の堂宇に破損が出たため,明応6年からは高畠の神人と地下人が出資して同辻に専用の踊堂を建てたという》《当郷は奈良の出入口に当たる関係上,しばしば合戦・騒擾の舞台ともなった》。



ここから1~2分歩くと、新薬師寺だ。お寺の公式HPによると《東大寺の記録に「天平19年(747)3月、光明(こうみょう)皇后が聖武(しょうむ)天皇の病気平癒を祈って新薬師寺と七仏薬師像を造立した」と記されています。また「新薬師寺はまたの名を香薬寺(こうやくじ)といい、九間の仏殿には七仏浄土七躯が祀られていた」とあります。創建当時は壮大な本格寺院だったことが伺えます。今の新薬師寺東方の春日山に、香山堂(こうぜんどう)というお堂(香山薬師寺ともいう)があり、合併されて新薬師寺が創建されたのではないかともいわれています》。
http://www.k5.dion.ne.jp/~shinyaku/

《完成当時の新薬師寺金堂には、七組の薬師三尊像(薬師如来像と日光・月光両菩薩)とそれを囲む十二神将(じゅうにしんしょう)像が安置されていました。この間口九間(柱と柱の間が9つある)の大きな金堂の左右には、東塔と西塔が並び、境内には100人余の僧侶が修行する僧坊や壇院があり、七堂伽藍が整う大寺院でした。ところが創建から33年後の宝亀11年(780)、落雷により建物のほとんどが焼失しました》。



《金堂は平安時代に倒壊。いつの頃からか、他の目的で使用されていたお堂が金堂(現本堂)に転用されました。堂内の薬師如来坐像は平安初期の制作です。周りの十二神将立像は奈良時代の作ですが、もとは新薬師寺のものではなく、近くの岩淵寺(いわぶちでら)から移したものと伝えられています》。今の本堂は、密教的修法(壇法)が行われた「壇所」「壇院」であったという説がある。

《鎌倉時代に解脱上人(げだつしょうにん)、明恵上人(みょうえしょうにん)により再興され、東門、地蔵堂、鐘楼(しょうろう)が建立されました。天平の建造物である現本堂を中心に、今の新薬師寺が整いました。徳川時代には家康より寺領百万石を与えられました。また祈祷所として参詣者でおおいに賑っていたということです》。一昨年(08年)には、奈良時代の東大寺大仏殿に次ぐ規模(東西幅約52m)の大型建物跡が、奈良教育大構内から出土した。金堂の可能性が指摘されている。さらに今年の1月には、同大学構内で創建当初の仏像(当時最高級品だった乾漆像)の破片が見つかり、本尊の薬師如来のものかではないかと言われている。


秋に咲く萩が、何輪か咲いていた

このお寺には、香薬師如来立像という仏さまがいらっしゃった。(旧国宝)。《高さ75㎝の小さな金銅仏。白鳳彫刻の代表作として名高い仏像でしたが、昭和18年に3度目の盗難にあい、現在も行方はわかりません。幸い実物をかたどっていたため、レプリカを安置していますが、笑みを含んだ少年のような表情や衣の表現などに白鳳時代(飛鳥時代後期)の造形的特徴をご覧いただけます》。



このお身代わりさん(レプリカ)は、1300年祭の「奈良大和路 秘宝・秘仏特別開帳」のおかげで拝観することができる。今年の12/31までの毎日、本堂のご本尊のお隣で特別開帳されている。私も拝ませていただいたが、とても穏やかなお顔の仏さまだった。衣紋線もソフトで、エッジの立った翻波式衣紋(ほんぱしきえもん=奈良末期~平安初期)などとは全く違う。
http://www.1300.jp/event/roam/yamatoji/shaji/12.html

新薬師寺の西隣には南都鏡神社(なんとかがみじんじゃ)がある。大同元年(806年)、新薬師寺の鎮守として境内南側にて創建された神社で、藤原広嗣が処刑された唐津の鏡神社から勧請を受けたものと伝わる。神社ライターの宮家美樹さんが「怨霊の元祖!? 藤原広嗣公」という記事をニュースサイト「リアルライブ」に載せているので紹介する。
http://npn.co.jp/article/detail/17537598/



《菅原道真に崇徳上皇。権力者たちを震え上がらせたこれら大怨霊の元祖ともいえるのが、鏡神社に鎮座する藤原広嗣だ。時は天平時代、藤原不比等の三男・宇合(うまかい)の子として藤原式家に生を受けた広嗣。ところが順調だった出世街道は、唐より帰朝した吉備真備、僧・玄らの台頭で揺らぐことに。とくに玄は評判が悪く、それらを朝廷から除くためとして、広嗣は遷任されていた九州の太宰府で兵を挙げた》。玄(げんぼう)の悪僧ぶりは、NHKドラマ「大仏開眼」で、広く知られるところとなった。ホントかどうかは知らないが。

「大仏開眼」予告編


《この反乱は官軍の攻撃を受けて約二か月で鎮圧され、広嗣は非業の最後を遂げる。しかし、やがて玄は失脚。流された筑紫で広嗣の猛霊に八つ裂きにされる。その遺体は奈良の地へ飛散し、首は頭塔山、腕は肘塚(かいな)町、眉と目は大豆山(まめやま)町に落ちたという(町名は現存する)。日本のピラミッド・頭塔は長らく玄の首塚だと伝えられてきた。そこで陰陽道にたけた真備が広嗣憤死の地・肥前の鏡山(松浦山)に広嗣を祀り、鎮めたとされる。奈良の鏡神社は、佐賀の鏡神社を広嗣の邸宅址と伝えられる当地に勧請したものだ》。

怨霊信仰(御霊信仰)とは何か。Wikipedia「御霊信仰」によると《御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のことである》。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0

《怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である》。 古くからの「六所御霊」は崇道天皇、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、藤原広嗣の6人。のちの「八所御霊」では6人に菅原道真、吉備真備、井上皇后のうちから2人が加えられている。

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《御霊信仰が明確化するのは平安時代以降であるが、その上限がどこまでさかのぼれるかどうかは、ひとによって理解が一定していない。史料的に確実な例としてあげられるのは、『続日本紀』の玄の卒伝にみえる藤原広継の怨霊である》。

御霊信仰が明確化するのは平安時代以降ということなので、前出の宮家さんは《つまり死んだ人が祟るという認識は当時はなかったのだ。人の霊が祟った早い例は、長岡京遷都に絡んで失脚させられた桓武天皇の弟・早良親王だろう。そして道真の登場で怨霊と祟りは強く結びつき、市民権を得る。現代においては何でも祟りといわれる始末だが。こうした流れの中で広嗣怨霊説は後に作られていったようだ。とはいえ、年代順でいえば広嗣は怨霊の元祖。その広嗣と道真がともに“太宰府”というキーワードで結ばれているのもまた面白い》と記事を締めくくっている。


比売神社

新薬師寺の東隣に、比売神社(ひめがみしゃ)がある。Wikipedia「比売神社」によると《奈良県奈良市にある神社である。比売塚と呼ばれる小さな古墳の上に建てられている。鏡神社の摂社である》。比売神社の祭神は十市皇女だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%A3%B2%E7%A5%9E%E7%A4%BE_%28%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B8%82%29

Wikipedia「十市皇女」によると《十市皇女(とおちのひめみこ、653年(白雉4年)? (大化4年(648年)説も) - 天武天皇7年4月7日(678年5月3日))天武天皇の第一皇女(母は額田王)、大友皇子(弘文天皇)の正妃》《天智天皇の皇子の大友皇子(弘文天皇)の正妃となり、天智天皇8年(669年)頃?葛野王を産む。しかし、天武天皇元年(672年)に起こった壬申の乱では、父と夫が戦うという事態になってしまう》。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%B8%82%E7%9A%87%E5%A5%B3


比売神社の石像。十市皇女と大友皇子だろう

壬申の乱以後は《父(天武天皇)の元に身を寄せたと思われる(『万葉集』から高市の正妃となったとする説もある)が、敗北した近江側の実質的な皇后として、また天皇の皇女として依然として大変複雑な辛い立場にあったことは疑いない》。《その後未亡人であったにも関わらず泊瀬倉梯宮の斎宮となることが決定するが、天武天皇7年(678年)、まさに出立の当日4月7日朝に急死。日本書紀には「十市皇女、卒然に病発して、宮中に薨せぬ」と記されており、14日に大和の赤穂の地に葬られた。この際父の天武天皇が声を出して泣いたという》。

《そもそも何故未亡人であり出産も経験した彼女が、未婚の女性(=処女)でなくてはならない斎宮に選ばれたのか。これについて乱後7年経ち大友の喪が明けることと関係があると見なす見方もある。死亡時、十市皇女はまだ30歳前後でありこの不審な急死に対しては、自殺説・暗殺説もある。彼女の死を悼んで高市皇子が熱烈な挽歌を捧げている(『万葉集』卷2)。このことから、夫、大友皇子との不仲説や、高市皇子との恋人説・夫婦説がある(一方で高市皇子の片思いという説もあり)》。

風呂で読む万葉挽歌
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高市皇子の詠んだ挽歌(3首のうちの1首)。
山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
(山吹が飾りを添えるようにほとりに咲いている山の泉。その水を汲みに行きたいと思うけれども、道を知らないことよ 万葉集巻2-158)
皇女の生命を復活させる泉に水を汲みに行きたいのだが、その道がわからない、と嘆いているのだ。

《新薬師寺の隣にある鏡神社の比売塚は「高貴の姫君の墓」として語り伝えられており、ここに十市皇女が埋葬されているという説が有力である》《十市皇女が埋葬されていると伝えられている比売塚に、1981年に「比売神社」が建てられ、現在もそこに祀られている。縁結びの神として遠方からの参拝客も多い。また比売塚の近所に赤穂神社があり、これを比売塚の拝殿であると考える人もいる》。


赤穂神社。知らなければ通り過ぎてしまう

Wikipedia「赤穂神社(あこうじんじゃ)」によると《奈良県奈良市にある神社である。式内社。「延喜式」所載の神社で、二月堂のお水取りの際に読み上げられる神名帳にも「赤穂明神」とある。天武天皇6年(678年)4月14日に十市皇女を、天武天皇10年(682年)に氷上娘を「赤穂」の地に葬ったと日本書紀に書かれており、その赤穂としてこの地が有力とされている》《天児屋根命を主祭神とし、天満宮・弁才天を合祀した社を併置している。「高貴の姫君を祀る」との口碑伝承もあり、女性守護の霊験があるとされている》。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE



《もとは「桜田」とよばれる一帯で、桜の名所としても知られ数百坪程の社地があったという。明治維新を機に荒廃し、200戸近い家々・禰宜の大半が離散し築地塀のみが虚しく残ったといい、堀辰雄らが哀惜の詩文を残したとされる。これを嘆いた地元の有志によって復興が進められ、天満宮と弁才天社を合祀して赤穂神社の左に配し、二社並存という形とした。1930年、この近所にある新薬師寺のそばの鏡神社の別社として現在に至る》。

話が長くなってしまったが、新薬師寺から半径200mほどのところに、こんなにたくさんの史跡があるのだ。今は暑くて大変だが、不空院の特別拝観の時期(10/16~11/14)には、ぜひお訪ねいただきたい。

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2 コメント

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新薬師寺周辺 (あをによし南都)
2010-08-15 00:10:11
詳しい御解説有難うございます。近くのことながらここまで深いテーマがあるとは!
それにしても不思議なのは、広嗣にちなむ鏡神社が位置しているところから目と鼻の先に吉備塚があったりこれまた、その近くに頭塔(地元では玄坊と信じられてた)があったり。密接に関連していたこの奈良時代の人物にちなみスポットこれだけ至近距離(トライアングル)にあるのは偶然なのか、意図的だったのか。。。
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ミステリースポット (tetsuda)
2010-08-15 06:58:30
あをによし南都さん、コメント有り難うございました。ご実家の周辺は、史跡の宝庫ですね。

> 鏡神社が位置しているところから目と鼻の先に吉備塚があったりこれ
> また、その近くに頭塔(地元では玄と信じられてた)があったり。

南都鏡神社は、広嗣の邸宅跡といわれてます。神社に貼ってあった「鏡神社小誌」によりますと、《かの頭塔伝説に於いて、玄筑紫に急死するやその遺躰奈良の地に飛散して興福寺境内に落ち、首は頭塔山に、腕は肘塚(かひな)町に、眉と目は大豆山(まめやま)町に飛来したとの口碑が伝へられてゐる。之は、広嗣信仰が背後にあったが故である》としています。

つまり社伝によりますと、広嗣信仰が先にあったので、憎っくき玄の遺体が(玄ゆかりの海龍王寺ではなく)広嗣の邸宅周辺に落ちてきたということになります。

吉備塚(奈良教育大学構内)は、吉備氏の領地内だといわれています。藤原氏と吉備氏の領地は、近接していたのですね。
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