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SNSけいはんな「非核・平和の集い」

2010年08月15日 | 日々是雑感
今日(8/15)は終戦記念日(戦歿者を追悼し平和を祈念する日)なので、これにちなみ、先週(8/7)開催された「非核・平和の集い」(「地域SNSけいはんな」オフ会)の模様を紹介する。

なお、地域SNSけいはんなとは《古代より日本のみやこであった京都・大阪・奈良の三府県八市町からなる「けいはんな学研都市」を舞台に、市民をつなぎ、交流と連携を図るための信頼のネットワークサービスです》(同会のHP)というもので、要は学研都市周辺地域の住民を中心とした、mixiのような会員制のWebサービスである。普段はネット上でのコミュニケーションだが、月に1回の割で、オフ会という会合を開いている。
※地域SNS「けいはんな」のご案内(PDF形式)
http://sns.keihanna-city.com/files/2008_03_09_01_annai.pdf


FUTANさんの司会で開会

オフ会は、イオン高の原ショッピングセンター4階の「こすもすホール」で開かれた(14時~16時)。映画館(ワーナー・マイカル・シネマズ高の原)と廊下を隔てた隣にある細長い部屋だ。参加者は54名で、これまでで最も多い。SNS登録ユーザー21名のほか、新聞報道(読売新聞と京都新聞)やパンフレット、口コミなどで知ったという方が来られた(被爆者の方も1名おられた)。講演は2本立てだった。
※「非核・平和の集い」オフ会のパンフレット
http://sns.keihanna-city.com/?m=pc&a=do_c_file_download&target_c_commu_topic_id=1204&sessid=a62c4e6d319132a7617bde62884a71c4&1281744607

第1部は、関千枝子さんの「広島第二県女二年西組 原爆で死んだ級友たち」。関さんのプロフィールは《1932年大阪市生まれ。早稲田大学文学部卒業後、毎日新聞記者を経て全国婦人新聞(女性ニューズ)編集長。現在、執筆、講演を続けている。85年に出版した「広島第二県女二年西組」で日本エッセイスト倶楽部賞を受賞。同書の12人の記録が、昨年ドイツで刊行された「原爆地獄 ヒロシマ」(河勝重美・編)に再録されている。「この国は恐ろしい国」(農文協)「若葉出づる頃」(西田書店)など著書多数》(毎日新聞夕刊 09.2.23付)。



広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち (ちくま文庫)
関 千枝子
筑摩書房

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関さんが広島県立第二高等女学校2年生の時、原爆が落ちた。クラスメートは、爆心地から一キロ余りの雑魚場町(市役所裏)の作業に行っていて被爆し、唯一の生存者(後にガンで死亡)を除き、全員2週間以内に死亡した。たまたまこの朝下痢をして作業を欠席した関さんは、生き残った…。この日のお話と同趣旨の記事が、日刊ベリタ(07.8.26付)に掲載されているので紹介する。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200708262157180

《夏になり、夜明けが早くなるころになると、夢を見る。少女の声が私を呼んでいる。「富永さーん(私の旧姓)」。為数美智子の声だ。まだ夢の中にいながら、私はこれが夢であることを知っている。そして多分、死ぬまでこの声が耳から離れないことも。原爆の生き残りは、自分たちが命を永らえたことを「すまない」という。自分が原爆を落としたわけでもないのにと思いながら、やはり「すまない」という》。

《私は当時広島県立第二高等女学校二年生。クラスは、爆心地から一キロ強の雑魚場町(市役所裏)の疎開地後片付け作業に行き、被爆、全滅した。たまたまこの朝下痢をした私は欠席して助かり、迎えに来てくれた仲良しの美智子は死んだ。皆は私に「運のいい子だ」と言った。だが、それを、素直に喜べなかった。「私はたしかに運がよかったのかもしれない。でも、美智子は、クラスメートたちは、そして、二十万という原爆の死者たちは皆、運が悪かったのか」》。


関さんは若い人にも伝わるよう、ソフトに語りかける

《八月十五日。この日、重大放送があることは既に知らされていた。ラジオは聞き取りにくかったが、戦争に負けたことはわかった。呆然とした。八月六日からの九日間、恐怖と驚愕の中にいた。何人かの友は学校に帰ってきたが、火傷で顔は腫れあがり、どろどろに焼けた腕から皮膚が垂れ下がり、幽鬼のような姿だった。親が見ても誰か分からないようなひどい火傷。十二、三歳の子どもがこんなむごい死に方をしていいのか。絶望的な思いだったが、それでも私は、日本が負けるとは思わなかった。日本は必ず神風が吹いて勝つと教えられていたからだ》。

Shohei Imamura (今村 昌平) / Black Rain (黒い雨) / TRAILER


《私は学校に向かった。ほかに行くところを思いつかなかった。けが人の収容室になっていた物理室には、山県幸子だけが生き残っていた。幸子も、火傷で顔はたらいのように腫れ、大きな眼が特徴だったのに、わずかに開いた目は糸のようだった。腕の火傷にハエが卵をうみつけ、いくらウジをとっても追いつかず、幸子が手を振り回す度にウジが部屋中に散乱した。ハエは大群となり、白い壁が真っ黒に見えた。幸子の家族は遠くに疎開していて、まだ母が到着せず、「母ちゃんが来るまで死ねん」と彼女はがんばっていた》。

《幸子は私の顔を見るとうれしそうに言った。「もう大丈夫じゃ。日本もあんとな(あんな)爆弾をつくったんと。今度はアメリカをやっつけるんじゃ」。私は言葉も出なかった。日本は神国だから必ず勝つといいつづけてきた国の「嘘」を直感した。その夜も忘れられないことが起きた。静まり返った暗い町に遠くの方から異様な大きな音が聞こえた。それが朝鮮人たちの笑い声と知った時の驚き。なぜ朝鮮人が日本の敗戦を喜ぶのか。朝鮮人も天皇の赤子となって喜んでいると教わっていたのに。ここにも「嘘」がある。この時の衝撃が私の戦後の原点だと思う》。



《私たちは原爆のことをあまり語らなかった。追悼会もあり慰霊祭もしたが、原爆のことを詳しく話しあったことは少ない。誰もが原爆で辛い思いをしていた。身内をなくし、家を焼かれ、或いは病気やケロイドの後遺症。わかっているではないか。そっとしておいて何も聞かないのが思いやりと皆が思っていた》。

《私が全滅したクラスメートのことを本格的に調べて書こうと思ったのは被爆後三十年たってだった。私は被爆を隠そうと思ったことは一度もない。大学に入った時から東京暮らしだが、大学でも職場でも原爆にあったことを言い、体験を雑文に書いている。私は三キロの屋内被爆者であり、爆心に入ったのは十月になってから。まず原爆症にならないと思っていたので堂々と語ったのかもしれない。しかし、原爆で死んだ友のことを本格的に書くまでには時間を要した》。

《三十年たって、ようやく、事実を詳しく聞き、記録に残そうと思った。それがかえって、死者への供養になると思うようになったのだ。そして、それが、生き残った者のつとめではないかと。「すまない」という思いを前向きに変えるには、事実を語り、書き、歴史の証言にしなければいけないのだと》。



《調べ始め、多くの遺族がすでに亡くなっているのに、遅かったと思うことも度々だった。が、それ以上に、今まで身内にも話したことがない、今だから言えると、重い口を開いてくださる方の多さに驚いた。戦争で、無防備で惨禍にあった人々が、喜んで話さず、沈黙を守っていることを改めて痛感した。そして、悲しみは深く、けして癒されていないことも》。

毎日新聞(大阪夕刊 09.2.23付)では、インタビューに答えて、こんな話もされている。《同窓会主催の集まりで、ある下級生が言った言葉を忘れられません。「原爆って、どうしてこんなにつらいのでしょう。30年たっても、40年たっても悲しい。普通の法事だと三十三回忌は親戚(しんせき)の社交場で、笑い声がするのに、原爆では涙しかない」。その通りで、50年の慰霊祭も60年の慰霊祭も遺族たちは泣きました。美智子さんの話に戻ると、無残な死に方をした大切な友に何一つ役立つことができなかった悔いは、月日がたつほど深くなるのです》。
http://mainichi.jp/select/wadai/heiwa/talk/news/20090223ddf012070011000c.html

広島原爆投下


第2部では「地域SNSけいはんな」メンバーの河勝重美さん(元独パナソニック社長、元独ザクセン州経済振興社社長、詩人)が、ご自身の編集されたDVDブックによる英語版絵画集「Atomic Bomb Inferno in Hiroshima」(原爆地獄 広島)をスクリーンに映しながら紹介された。要所要所で関さんが、追加の説明をされる。

河勝さんのことは、8/4付の京都新聞に紹介されている。見出しは《被爆体験を英語版DVDに 奈良の男性が制作》だ。《原爆の悲惨さを世界に伝えようと、奈良市西登美ケ丘の河勝重美さん(81)が、被爆した友人らの体験談や被爆者の絵を収めた英語版DVDブック「原爆地獄」(被爆者自身による絵と記録)を制作した。木津川市で7日開かれる「非核・平和の集い」で紹介するほか、広島市の広島平和記念資料館でも販売される》。
http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20100804000082



《河勝さんは東京都出身。ドイツ・パナソニック社長などを務め、09年に帰国するまで約50年間ドイツで暮らした。2005年、旧制中学の同級生で、広島で被爆した岡田悌次さん=東京都目黒区=から原爆投下60年を機に執筆した感想文のドイツ語訳を依頼された。猛烈な炎と多くの遺体、世話をした負傷者が次々亡くなる様子、被爆による症状に募る不安…これまで断片的にしか聞かなかった友人の体験を知り、以後、岡田さんから提供された原爆関連の資料を読むようになった。岡田さんの体験などを現地の友人に話すと、「ドイツでは被爆者の実情はほとんど知られていない」と出版を勧められた》。

《ドイツ語版「原爆地獄」は、2年掛かりで制作し、08年に出版した。平和記念資料館のデータベースから被爆者の絵画と説明文を引用。ノンフィクションライター関千枝子さんが亡くなった級友らについて書いた「広島第二県女二年西組」から抜粋したエピソードや、岡田さんの感想文、同じ旧制中学の同級生で、家族を原爆で亡くした榮久庵憲司さん=東京都豊島区=の寄稿も収めた》。

《続いて英語版の制作に取り掛かり、帰国後の今年7月、DVDブックとして完成した。全171ページ、価格は1995円。河勝さんは「被爆者一人一人に、それぞれの苦しみや死があった。それを伝え、感情に訴えることが非核社会へつながる」と語る。核保有国に思いを伝えるため、今後も各国の言語に翻訳を続けていくという。「非核・平和の集い」は、午後2時からイオン高の原ショッピングセンター4階で開催し、関さんの講演もある。無料(資料代100円)。問い合わせは河勝さんTEL0742(93)8065》。


英語版「原爆地獄」のトップページ。ベトナム戦争で爆撃から逃げまどう少女の写真を彷彿させる

DVDブック(1995円)は書店では販売されていないので、直接メールで河勝さんにお申し込みいただきたい。河勝さんのメールアドレスは、
kawakatsushigemi@googlemail.com

オフ会主催者のFUTANさんは、SNSの「日記」に《絵は見開き1頁で、同じテーマで色調などをそろえてある。決してプロの上手い絵ではない。しかし「一生に一度描くか描かないかという素人だが、すさまじい迫力で迫ってくる」とプロを驚嘆させる。「絵は言葉を超えて世界の人に訴える力を持っている」とドクターさん(河勝さん)はいう》。

《ところどころ関さんの補足説明が入る。具体的な地名、どんな人たちがいたか、爆心地からの距離とそれによる被爆の程度。被爆直後、少したった後の悲惨な状況…言葉にできません。黒焦げの死体、折り重なる死体、子供の方に手を差し伸べたままの死体、生き埋めになりその後火に焼かれるしかない悲しい目、何よりも、関さんご自身が「心の傷をひきずっている。後悔することばかり」という言葉が重かった。「どうしてあの時ああしてやれなかったのだろう…」》《今日の参加者は真剣なまなざしでお話に聞き入っておられました》。


川では、死体が折り重なって流れる

原爆の悲劇は、絵画集や証言記録のようなもので残していかないと、どんどん記憶が薄れてしまう。私は原爆ドーム(広島平和記念碑)も広島平和記念資料館も訪ねたし、数々の記録映画も見た(小中学校で上映された)が、今の子供たちはどうなのだろう。

前出の毎日新聞で、関さんはこう話されている。《被爆者の「心の傷」が癒えることがあるとすれば、それは核兵器が廃絶され、絶対平和が確立されたときだと私は言っております》《核兵器は人類の生んだ最悪の凶器であり人類と絶対に共存できないものですから。オバマ大統領は就任演説で「核の脅威を減らすために絶えず努力する」と言いました。アメリカも変わってきています》《戦争は美しい言葉とともにやってきます。「正義」とか「国益」とか、時には「平和」という言葉まで。だまされないことです》。

幸い今年に入って、核兵器廃絶が実現性を帯びてきた。国連本部で開かれていた核不拡散条約(NPT)の再検討会議は5/28、核廃絶への具体的措置を含む行動計画を盛り込んだ最終文書を全会一致で採択した。期限は示せなかったものの「核なき世界」の実現を目的に掲げ、「核兵器禁止条約」構想にも言及した。

核拡散防止条約会議閉幕 最終文書10年ぶりに採択(10/05/29)


原水爆禁止2010年世界大会(8/2~9)は、5月のNPT再検討会議を受けた次のステップを議論し、核兵器廃絶条約のすみやかな交渉開始を各国政府に求める国際世論をいっそう広げる行動をよびかけるなど、大きな成果を上げた。

国連事務総長として初めて平和記念式典へ参列された潘基文氏は、このように述べた。「私たちは、核拡散の危険のある世界、あるいはテロリストが核兵器を所有するという危険の中で生きています。核兵器を廃絶することによってのみ、こういった危機を取り除くことができるのです」。
※潘基文国連事務総長の講演要旨(8/6 広島市で行われた平和記念式典で)
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1281441175230/files/kouenyoushi.pdf

「平和市長会議においては、2020年までに核兵器を廃絶するという目標を設定されています。これは完璧なビジョンです。私たちは一体となって、被爆75周年に被爆者の皆さんと一緒に核兵器の終わりを祝うことができるように、共に活動することを約束しましょう」。
被爆者の平均年齢は76歳を超えている。この流れを加速しなければならない。

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2 コメント

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SNSけいはんなオフ会、非核の会 (河勝重美(ドクターさん))
2010-08-15 14:42:11
大変な力作のtetsudaブログ、厚く御礼申し上げます。今回の催しに語られたすべて、それ以上のものを網羅されています。これに私の原爆地獄のdvdE-Bookの一部にナレーションを入れて、エノラ・ゲイのEtubeの後にいれ、独立したホームページとして、英語版、日本語版をつくって、日本人やアメリカ人に呼びかけてはという考えはどうでしょうか?



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「原爆地獄」PR版 (tetsuda)
2010-08-16 04:45:58
河勝さん、コメント有り難うございました。

> 大変な力作のtetsudaブログ、厚く御礼申し上げます。

いえ、原爆投下(8/6)の翌日に、このような素晴らしい企画をしていただき、深謝です。写真も、勝手に使わせていただきました。

> 独立したホームページとして、英語版、日本語版をつくって、
> 日本人やアメリカ人に呼びかけてはという考えはどうでしょうか?

この程度の記事で、それはおこがましいです。それより、河勝さんのDVDブックから何枚かの絵を抜き出してPR版(ダイジェスト版)を作り、YouTubeに載せられた方が、インパクトがあると思います。著作権のことや技術的なことは分かりませんので、SNSのどなたかとご相談いただきたいと思いますが…。
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