10年ぐらい前のこと、行きつけの定食屋が大阪駅前にあった。カウンターしかない小さな店だったが、三日にあげずかよったといってもよかった。なぜなら、そこが他の店よりも安かったからだ。ぼくは物心ついてから現在に至るまで、金持ちだったことは一度もないのである。
カウンターのなかにはゴム長を履いたおばさんがひとりいて、客が注文をすると厨房に向かって大声で伝達するのだった。ランチを注文すると、「はい、ランチ!」などと叫ぶのである。ところがビーフカツカレーを注文したときには、「カレー!」などとはいわず、なぜか「さぶろく!」というのだった。はじめての客は、それで注文がちゃんと通っているのかと疑問に思うかもしれない。しかしそこは間違わずに、揚げたてのカツを包丁で刻む料理人の手が厨房の窓から見え、やがて湯気を立てるカレーが「おまちどおさま!」というおばさんの声とともにカウンターに置かれるのである。
今ではその店に行くこともなくなったが、当時からずっと気になっていたのは、なぜそのメニューを「さぶろく」と呼んでいるのか、ということだった。何かの語呂合わせかとも思ったが、意外とダジャレには覚えのあるぼくがいくら考えても、ビーフカツカレーが「さぶろく」には、なかなか結びついてくれない。値段が360円というわけでもなかった。
まさか、店のおばさんをつかまえて「何でさぶろくというんですか」と聞きただすわけにもいかず、ひょっとしたらその店の開店当初には(いつ開店したかは知らないが)180円で売っていたから、3×6の18で「さぶろく」になったのかもしれないな、などと考えたりした。でも立派なカツののったカレーが180円というのはいくら何でも安すぎ、あまり信憑性のある話とはいえない。
***
ぼくが上のようなことを思い出したのは、『瀬木慎一の浮世絵談義』(毎日新聞社)という本を読んでいて、興味深い記述にぶつかったからだった。江戸時代の物価のことに触れた文章で、当時は“そば”が安かったから江戸庶民によく食べられ、お代は十六文だったことが書かれてあり、「二八そば」というのは2×8の16で、そばの値段をあらわすいい方だったというのである。しかし江戸末期には物価が高騰し、二十文さらに二十四文と値上がりしたため、事実上「二八そば」は消滅せざるを得なくなったらしい。
もちろん周知のとおり、現代でも「二八そば」は売られている。しかしそれは、そば粉8に対して小麦粉が2の割合で作られたそばのことである。つまりは「二八そば」という名称だけが残っていて、製法があとから追いついたということになる。ちょっとできすぎた話のようだが、本当のところはどうなのだろう。調べてみても諸説あるということがわかるだけで、たしかなことは何ともいえない。
いずれにせよ先ほどの「さぶろく」という名称は、カレーが3でご飯が6で、あと1割は福神漬けというわけにもいかず、レシピと何の関係もないことだけは確実である。
***
江戸時代に浮世絵が爆発的に広まったのは、そばと同様、安かったからだった。なかでも役者絵は大量に刷られたためにもっとも廉価で、手ごろなものは二十四文だったと、同書にある。反対に高価だったのは美人画で、高いものでは「二八そば」の10倍もしたということだ。しかしそれでも、庶民には全然手が出ないというようなしろものではないだろう。
今では版画作品であっても、人気作家のものはローンを組んで買うのが当たり前ではなかろうか。ぼくもかつて一度だけ、何を血迷ったか、その手の展示会に迷い込んだことがある。入場は無料だというので絵を眺めながらぶらぶらしていると、ホステスじみたおねえちゃんが何かと美術の話をもちかけてくるので、テーブルに座って相手になった。これが雑談ではなく、商談の場だと気づいたころには、あとには引けなくなっていた。やがてその女性は、とっておきのものをお見せするといって黒幕に囲まれた奥の小部屋に連れていった。何かあやしげなことがはじまるのかと思うと、絵を写したフィルムをライトテーブルにのせ、限定品をあなただけにお売りしますがいかがですか、というようなことをいう。ぼくが命からがら逃げ出したのは、いうまでもない。
江戸時代には手に入りやすく、陶器の梱包材に使われていたという浮世絵も、現在では数十万から数千万で取引されているという。しかし日本にも世界にも浮世絵コレクターはたくさんいて、掘り出し物を血まなこで探しつづけている。ぼくも絵を観るのは好きだが、自分で所有したいと思ったことはない。もちろん現実的に不可能だからでもあるが、いつも手もとにあるわけではないからこそ、いざ絵の前に立ったときに、雑念を忘れて真剣に鑑賞できるのではないかと思っているからだ。コレクターが自分のコレクションを眺めるときには、これを手に入れるまでに味わった苦労などが頭をよぎったりするかもしれないが、ぼくはあくまで無力なひとりの人間として、作品そのものから感動と生きる力を受け取りたいのである。
たかだか1000円ぐらいの入場料を払って、ひとさまのコレクションをたっぷり見せていただく。ぼくのような下層の庶民にとっては、これがもっとも健全な美術との付き合い方であろう。
(画像は記事と関係ありません)