てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

廣瀬量平、逝く

2008年11月29日 | 雑想


 去る24日、作曲家の廣瀬量平氏が死去した。78歳であった。

 などといっても、ピンとくる人は少ないかもしれない。現代日本の作曲家としては著名な存在だったが、ジャンルの壁を超えて広く認知されるようなタイプではなかったような気がする。

 しかし作曲家というのは、名前よりもその音楽のほうが広く知られていることがあるものだ。初期の「日曜美術館」で使われた、オーボエで歌われる哀調にみちたテーマ曲は、廣瀬量平の作品であった。今の「新日曜美術館」で流れているのは服部隆之(『東京ブギウギ』など往年の流行歌を作曲した服部良一の孫)のもので、非常にしゃれた小気味よい曲になっているが、廣瀬の音楽のイメージが強いせいか、あまり好きになれない。

 このように、ぼくにとって廣瀬量平は、放送音楽の分野での巨匠のひとりであった。決して純音楽作品が少ないわけではなく、『尺八とオーケストラのための協奏曲』のような意欲的な作品もあるようだが、同じ邦楽器と西洋楽器の融合である武満徹の『ノヴェンバー・ステップス』に比べると演奏される機会ははるかに少なく、ぼくもいまだに聴いたことがないのである。

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 今から20年ほども前に、NHKで「テレビ文学館」という番組が放送されていた。何のことはない、俳優による小説の朗読のうえに映像と音楽をのせて流すだけのシンプルな内容である。しかしその映像の美しさたるや、NHKが総力を結集したのではないかと思えるほど素晴らしいものであった。ぼくはちょうど10代のなかばから後半を迎えていて、文学への憧れがきざしはじめていたころと重なり、地味ではあるが忘れがたい番組となっている。

 取り上げられた作品のいくつかは、今でもはっきり覚えている。今は亡き劇団民藝の滝沢修は、当時すでに80歳ぐらいではなかったかと思うが、芥川龍之介の『芋粥』『蜜柑』『羅生門』『トロッコ』などを朗読した。特に『蜜柑』はぼくのもっとも好きな短編小説のひとつで、客車の窓からオレンジ色に輝く蜜柑が投げ落とされる映像は、鮮やかに眼に残っている。

 『芋粥』も、印象的な一編だ。平安朝に仕えるひとりの冴えない侍が、腹いっぱいの芋粥にありつくために東山から山科、三井寺を経て琵琶湖の西岸を進み敦賀へと旅をする話であるが、その番組を見てから数年後、ぼくが実際にそれとは逆のコースをたどって大阪へ働きに出ることになろうとは、まったく予想もし得ないことであった。

 ほかにも翻訳ものでは、O・ヘンリー短編集がよかった。読んでいたのは劇団四季の日下武史だったが、この人の朗読は声から哀愁が匂いたつようで、なおかつ人肌に触れるようなあたたかさもり、本当に素晴らしい。『最後の一葉』『賢者の贈りもの』『警官と賛美歌』・・・。すっかり心酔してしまったぼくは、放送に使われたのと同じテキスト(大久保康雄訳)を本屋で買い求めた。思い返せば、これが自分のお金で買った最初の文芸書であったのである。

 長いものでは久米明が朗読した『風の又三郎』や、石坂浩二の『潮騒』などがあった。これらのラインナップのうち、いくつかの音楽を廣瀬量平が担当していたのだ。ごく小さな編成の曲で、際立って雄弁なメロディーを歌い上げるというわけではないが、朗読者の物静かな語りを邪魔することはなく、美しい映像より前に出すぎることもなく、まさに中庸を得た、絶妙な距離感を保った音楽作りをしていた。これはとても大事なことで、クラシックなどの既存の曲をBGMに使ったりすると得てして他の諸要素を押しのけてしまい、番組全体のバランスを崩す危険も大きい。テレビ用の音楽としては、やはりオリジナルにこだわるのが本来のありかただろう。

 (ちなみにO・ヘンリーの回は、「ゴダイゴ」のリーダーであるミッキー吉野が曲を書いていた。ピアノ独奏によるものだったと思うが、これもペーソスのただよう素晴らしい音楽であった。オリジナルかどうかはわからないが、『ア・ソング・フォー・O・ヘンリー』というタイトルで、彼のアルバムに収録されているということである。)

 「テレビ文学館」の冒頭で映し出される題字は、井上靖の筆跡だった。しかし井上は、番組の放送が終了する前の1991年に世を去ってしまう(没後も題字は使用された)。また、映像の途中で挿入される風間完の見事な鉛筆画もこの番組の大きな魅力であったが、風間も5年前に死んだ。そして廣瀬量平も亡くなり、ぼくの青春時代のささやかな1ページは、急速に過去へと飛びすさっていくような気がした。

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 しばらく前のことだが、京都コンサートホールに演奏会を聴きに出かけたことがある。休憩時間にロビーで飲み物を飲んでいると、胸に名札をつけた人が誰かと談笑しているのが眼に入った。なにげなく名前を読んでみると、「廣瀬量平」と書かれているので、思わず声をあげそうになってしまった。彼は、このホールの館長だったのである。すでに晩年を迎えていたはずだが、そのときは血色もよく、元気そうに見えた。

 廣瀬の経歴を見てみると、創作活動のかたわら長らく京都市立芸大の教授を務めたり(このころから京都とは縁が深かったようだ)、さまざまな公職についている。その点、あくまでひとりの作曲家として生き抜いた武満徹とは対照的だった。

 廣瀬量平と武満徹。一見正反対な感じもするこのふたりだが、実は同い年である。しかも、やはり同じ京都コンサートホールで、ぼくは晩年の武満本人を目撃したことがあるのだ。このことは、また機会を改めて書くことにしよう。

(画像は記事と関係ありません)

京を歩けば(8)

2008年11月24日 | 写真記


 ここで、話は一気に9月下旬へと飛ぶ。秋分の日にあちこちを徒歩で散策したことは、この連載の最初の記事に書いたが、その週の土曜日にはまたしても京の無銭旅行を敢行した。といっても、実は歩いていけるほどの近場をうろうろしたということにすぎないけれど・・・。

 その日もまた、東山を徘徊したのである。複雑に入り組んだ路地を進み、八坂の塔(テレビ番組で京都を取り上げるとき、高台から見下ろした五重塔の映像がお決まりのように流されるが、あれはこの塔だろう)のかたわらを通り過ぎて向かったのは、清水寺だった。普通なら最近改名された京阪の「清水五条駅」で降りるなり、バスを利用するなりすればいいのだが、節約のために阪急河原町駅から歩けるだけ歩いて、名所旧跡をピンポイントで手際よくまわる観光客や修学旅行生とはちがった目線で、京都を足で感じてみたかったのだ。そのためにできるだけ地図は見ないことにして、道に迷うのも一興というぐらいのつもりで出かけたのである。

 ちなみにこのとき、清水寺では秘仏である本尊を特別に開帳していて(今でもされているが)、うまく到着できれば拝んで帰ろうかと思っていた。「西国三十三所巡り」ではないが、苦労して目的地に到達し得たとき、そこから何かが開けてくることを祈るような気持ちもあった。そうやって“他力”にすがらないと生きていけないぐらい、そのときのぼくは深い混迷の底にいたのである。

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 案の定というか、予定どおりというか、途中で道に迷った。三年坂の石段をのぼりきり、清水の参道と合流する地点で反対方向に折れてしまい、だんだん下り坂になっていくのでおかしいなと思ったときには、観光バスがしきりに行き交う五条坂にいたのだ。清水寺とはまったく逆の方角である。

 だが、転んでもただでは起きない。ここで引き返すことをせず、あえて間違った道をとことん進んでみれば、そこには思いがけないものが待っているかもしれないではないか。そう信じて歩道をぐんぐん下っていくと、土産物屋に混じって「清水九兵衛」と書かれた表札の出ている玄関口が眼に飛び込んできた。戸の反対側には、「清水六兵衛」の表札も出ている。ぼくは驚いて声をあげそうになってしまった。



 ご存じない方のために説明しておくと、清水九兵衛(きよみず・きゅうべえ)は2年前に亡くなった抽象彫刻家である。京都の街中や全国の美術館には、彼の野外彫刻が数多く設置されている。しかしそれと同時に、清水焼の名家である六兵衛(ろくべえ)の七代目でもあった。彼はふたつの名前を使いわけ、現代アートと伝統工芸という相反するフィールドを股にかけて創作活動をおこなった、型破りな巨匠であったのだ。今では息子さんが八代目六兵衛を襲名しているが、九兵衛の跡継ぎは、誰もいない。

 しかし何と、清水九兵衛の表札が今でもかかっているのである。ぼくは以前、「朱色のある風景 ― 清水九兵衛をめぐって(3)」のなかで、いつかテレビで見かけた彼の工房を探して五条坂をうろついたことを書いた。そのときは発見することができなかったのだが、この日は道を間違えたおかげで、かつての九兵衛の住まいにたどり着くことができたのである。

 だが、もちろん、本人はもうそこにはいない。九兵衛の直筆らしい表札の文字を見ながら、ぼくはほんのちょっと彼に思いを馳せただけで、すぐにそこを立ち退かざるを得なくなった。何といってもそこは狭い歩道で、人の家に向かってカメラを構えているぼくが胡散臭くも見えただろうし、どうやら通行の邪魔にもなっていたからである。

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清水九兵衛作品集

『朱鳥舞』(京都市勧業館)


『朱態』(京都市美術館)


『朱装』(京都文化博物館)


『朱甲面』(京阪三条駅)

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京を歩けば(7)

2008年11月22日 | 写真記


 久しぶりに、「写真記」を書いてみようかという気になった。

 世間は3連休だし、いよいよ紅葉シーズンも本番ということで、とりわけ京都には大勢の人が繰り出す。ぼくはといえばちょっと風邪気味で声が出にくいのだが、土曜日の午前中だけは安静にしていて(というよりも寝だめをしていて)、午後から家を飛び出した。あまりにも天気がよさそうだったからだ。

 多めに着込んで出かけたが、日なたを歩いていると少し汗ばむほどである。ぼくの家の最寄り駅は紅葉の名所への乗り換え駅になっていて、停車した特急が辛抱たまらんといった感じで乗客をどっと吐き出す。今日はそんな観光のメッカは避けて、特に目当てもなく、京都をぶらぶらすることにした。どこに向かうかは、気分がそのとき決めてくれるだろう。とりあえず、あんまりお金と労力が消費されないところならどこでもいい。

 電車に揺られているうち、東山あたりへ行ってみようと思い立った。だが清水寺なんかは大変な人出だろうし、それに駅から近くなく、かなりの坂道をのぼらねばならない。もうちょっと足をのばして京阪の七条駅で降り、智積院(ちしゃくいん)を訪ねることにした。何となく、ここは穴場のような気がしたからである。

 智積院のことは、これまでにも何度か触れたことがあるが、長谷川等伯らの障壁画があることで知られている。たまにしか公開されないが、堂本印象の襖絵もある。そして新たに田渕俊夫が60面からなる水墨の襖絵を描き上げ、先ごろ奉納されたそうだが、一般公開は来年になるとのことだ。

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 三十三間堂と京博の間を通り抜けて、七条通りを東に突き当たると智積院の総門があるが、普段は開いていない。石垣を眺めながら右へ折れて、まるでお勝手口から上がらせてもらうような感じで、境内に入る。かたわらの繁みを見上げると、中華街の店頭にでもありそうな狛犬(?)が鎮座していて驚かされる。



 途中にある受付から左へ進むと、国宝の障壁画や庭園などがある有料エリアだが、そこには何度か入ったことがあるので、今日は真っ直ぐに歩いて金堂へと向かった。この寺は何度か火事に遭っていて、金堂は昭和50年に再建されたものだという。

 周辺には何本かのカエデがあったが、燃えるように紅葉しているというわけでもない。まだ少し早すぎたのか、それとも紅葉する木が少ないのか、ちょっと拍子抜けといったところである。もし鮮やかな紅葉が期待できるなら、有料エリアに入って書院の庭を眺めてみようとも思ったのだが、やめておくことにした。あとで調べたら、庭園がもっとも華やぐのはツツジのころのようだ。







 金堂の周囲は小高い丘になっていて、京都タワーの姿ものぞむことができる。金堂の背後は墓地になっているようだ。それを見て、ぼくはちょっと身震いをしてしまった。もうだいぶ前の話になるが、だだっ広い墓地のなかをうろうろと歩き回ったことがあり、そのときのことを思い出してしまったからである。





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鉄骨の塔のもとに ― 近代都市パリと芸術家たち ― (2)

2008年11月19日 | 美術随想

ルノワール『ニニ・ロペスの肖像』(マルロー美術館蔵)

 この日が最後とあって、展示室の内部は人でごった返していた。まさに、あの梅田駅前の雑踏がここに再現されていたのである。これこそニニ嬢の広告のたまものというべきか、それとも文化の日ぐらいは展覧会としゃれこもうというつもりなのか、本当のところはわからない。

 とにかく、『ニニ・ロペスの肖像』の前に立ってみた。眉の太い、頬の少しふっくらした、どこかあどけなさを残す顔は、いかにもルノワール好みだという感じがする。首もとに大きな緑色のリボンをつけて、椅子の背もたれに肘をもたせかけているようだ。しかし彼女はいったいどういう場所にいるのかが、今ひとつはっきりしないのである。

 椅子に座っているのだから室内のようにも思えるが、背景はまるで屋外のように明るい。テラスに出ているのかもしれないが、だからといって外の風景がはっきり描かれているというわけでもない。極端なことをいえば、そこに満ちあふれているのは日の光をたっぷりと吸い込んだ暖かい“空気感”そのものであって、ニニは日だまりのなかでじっとポーズをとりながら、光に飲み込まれようとしているかにも見えてくる。

 この絵は1876年に描かれたというから、まさに印象派の全盛期である。曖昧模糊としたタッチは、いかにも印象派風だといわれれば、たしかにそうにちがいない。だがぼくは、ニニがモデルを務めたもう1枚の絵を、どうしても思い出してしまう。ルノワールにとっての印象派というものがどういうものだったか、という複雑な問題を、これらの絵はぼくに突きつける。

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ルノワール『桟敷席』(コートールド・コレクション蔵)
※この作品は出品作ではありません

 『桟敷席』は『ニニ・ロペスの肖像』よりも2年早い1874年に描かれ、記念すべき第1回印象派展に出品されたものだ。左にいるのがニニ嬢で、後方でオペラグラスを構えているのがルノワールの弟だという。しかしこれは彼らの普段の姿ではなく、上流階級の紳士淑女に“扮している”ところであろう。ぼくは今から10年も前に、この名作を眼にする機会があった。ちなみにこの絵はパリではなく、今はロンドンにあるはずである。

 写真でつくづく眺めてみると、ニニ・ロペスの風貌が、先ほどの絵とはあまりにもちがっていることに驚いた。細く整えられた眉、涼しい眼つき、高い鼻梁にひきしまった口もと。およそ同一人物とは思えないではないか!

 ぼくが思うに、おそらくこういうことだろう。『桟敷席』での彼女は、大胆に胸もとのあいたドレスに白手袋などして、何重にも首飾りをつけ、今でいう「セレブ」に扮していた。しかしおそらく、ルノワールは彼女のポーズを参考にしただけで、顔の造作は必ずしも見たとおりには描かなかったのではなかろうか、と思うのだ。他の貴婦人の面影をダブらせるか、あるいは想像力を働かせるかして、この女性像が作り上げられたのにちがいない。

 それというのも、ルノワールは印象派の画家である以前に、“肖像画家”として認められたいと思っていたからだ。肖像画家というのは、名もない男や女の顔を描くのではなく、地位も名声もそれなりにある貴族や名士を描く画家のことをいう。さらに、注文を受けて描かれる肖像画は、モデルとなった人に気に入られることが前提条件である。多少の瑕瑾(かきん)があったとしても、そこはごまかして描くのが画家の礼儀であり、世渡りの術というものだ。すべてを正直に描き尽くしてしまうことは、ご法度だったのである。

 こうやって考えていくと、第1回印象派展を飾った『桟敷席』は、モネが標榜したように“印象”を描いたものからは程遠く、実は入念に作り込まれた絵画であったということがわかってくる。批評家からはこき下ろされた印象派展であったが、ルノワールの絵だけは評判がよかったのというのは、理由のないことではない。

 そして2年後の『ニニ・ロペスの肖像』は、ルノワールが肖像画家としての野心(?)から離れ、純粋な印象派の画家として描いた、ありのままの純朴なパリっ娘の姿なのだろう。この絵のなかの彼女は、他の誰にも扮していない、彼女自身なのである。

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ルノワール『ボニエール夫人の肖像』(プティ・パレ美術館蔵)

 今度の展覧会にはもう1枚、ルノワールの肖像画が展示されていた。『ボニエール夫人の肖像』で、このときすでに印象派展は終結している。

 あのぼやけたような空気感はもうなく、ここではすべてがきっちりとした輪郭で仕切られている。どこに何があるのか、絵のなかの空間把握もきわめて明快である。

 ボニエール夫人は昂然と頭を上げ、胸を張り、まるでキャンディーの包み紙のようにウエストを細く絞ったかっこうでポーズをとっている。いかにもプライドが高そうだという感じがするが、それはつまりルノワールが注文主の意向に見事にこたえた証しでもあろう。

 しかしこうやって同じ展覧会に並べられてみると、決して美人というわけではなく、むしろ朴訥な感じのするニニ・ロペス嬢のほうが、ぼくにははるかに美しいと思われるのだった。

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鉄骨の塔のもとに ― 近代都市パリと芸術家たち ― (1)

2008年11月17日 | 美術随想

ロッペ『エッフェル塔の落雷』(オルセー美術館蔵)

 通勤するサラリーマンや、最新のモードで飾り立てた若者や、制服を着た学生たちなどが絶え間なく行き交い、まさに人々のるつぼと化している阪急梅田駅の改札前に、先ごろまでルノワールの絵の複製が掲げられ、パリの街を紹介しているらしい映像がモニターに映し出されていた。

 毎日梅田を経由して職場にかよっているぼくは、それが展覧会の広告だということを知っていたが、足を止めてしっかり眺めたことは一度もなかった。あんなにたくさんの人が行き来しているというのに、注意を向ける人もほとんどいない。ルノワールの描いた若く美しいパリジェンヌは、誰からもかえりみられることなく虚空を見つめつづけている。都会のど真ん中に放り出された芸術とは、かくも無力なのかと思う。

 その展覧会というのは、先日まで京都で開かれていた「芸術都市パリの100年展」。梅田駅の看板になっていたのは、ニニ・ロペスというモデルである。今回の目玉として、この『ニニ・ロペスの肖像』がはじめてフランスを出たというような触れ込みが書かれていた。

 ところがどういうわけか、ぼくはこの絵の存在をまったく知らなかったのである。ルノワールの名画は数多く、これまで展覧会や画集でたくさん眼にしてきたが、この絵には覚えがなかった。所蔵先のマルロー美術館というのも聞いたことのない名前だったが、あのアンドレ・マルローが設立した美術館だという話である。いずれにせよ、はじめてフランスを離れて日本にやってくるというのがニュースになるほど有名な絵だとは、どうしても思えなかった。

 気になったので調べてみると、これまで東京・広島を経て京都へ巡回してきた同展のなかで、この絵を呼びものにしているのは京都展だけらしい。わが国の人種が「日本初」とか「期間限定」といった宣伝文句に弱いのは周知の事実だが、ニニ・ロペスはまさに「日本に来るのははじめてで、この機会を逃すと次はいつ出会えるかわからない」という、巧妙に仕組まれた“客寄せパンダ”の役を演じるはめになったようなのである。あわれなニニ嬢よ。

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 その展覧会の会期は文化の日までだったが、ぼくは最終日の午後にようやく空き時間を見つけて会場にすべり込んだ。京都市美術館の中央、2階まで吹き抜けになったフロアにエッフェル塔の土台の部分が再現され、地図の上にはパリ市内のおびただしい美術館のありかが示されている。ルーヴルやオルセーをはじめ、芸術家個人の名を冠した建物もあちこちに点在していて、疑いもなく世界随一の美術のメッカであろう。

 タイトルになっている「100年」というのは、1830年から1930年までのことらしい。展示の特徴として、フランス国内の15の美術館や記念館から集められたさまざまな作品を、作家ごとではなくテーマ別に並べていたことが挙げられる。誰もが知っている有名画家もいれば、はじめて名前を聞くような画家の作品も多い。ジャンルも絵画だけでなく、写真や彫刻にまで及んでいて、かなりバラエティーに富んでいる。ただ、当時のパリで活躍していたはずのモネやモディリアーニ、ゴッホやピカソやマティスは含まれていない。たくさんの作品が一堂に会しているわりには(あるいはそれだからこそ)、展覧会の焦点がいまひとつはっきりしないうらみが残る。

 1889年のエッフェル塔建設をひとつのターニングポイントとして、前後100年にわたるパリ画壇を概観しようとしたのかもしれないが、何しろロマン派から印象派、象徴主義から野獣派までを含む壮大なる1世紀である。日本の美術史では、260年以上にも及ぶ江戸時代を前期・中期・後期の3つにわけてすましているが、近代都市パリの100年間は、それらを全部合わせたものより激しい動きに満ちていたといえるだろう。もちろん革命や戦争があり、君主制から共和制国家へと激しく揺れ動いたわけだが、それを別にしても、西洋近代の“美の規範”が一大転換点を迎えたのがこの時代のパリであったのはたしかである。

 そしてその象徴こそが、今でもパリの空に君臨するエッフェル塔であろう。建設当初は悪評の嵐に見舞われたが、今では誰もが知っている指折りの名建築となっているのはいうまでもない。美術の歴史はごくおおざっぱに眺めると、“醜い”と思われていたものが“美しい”という評価を獲得していく過程だといってもいいが、それを身をもって実証してみせたのが、ほかならぬエッフェル塔だったのである。

 自然主義の作家モーパッサンは、エッフェル塔を蛇蝎(だかつ)のごとく忌み嫌ったことで知られている。ぼくは作家を目指していたころ、短編小説の手本としてモーパッサンを読みあさったものだったが、古くさい権威を批判し揶揄することの好きな彼が新時代の到来を告げるエッフェル塔を認めなかったのは、やや意外な気がしないでもない。モーパッサンは心の奥底では、きたるべき機械文明の勝利を、そして奴隷と化した人間のみじめな敗北を予感していたのかもしれない。

 そんなモーパッサンの盟友のひとりであるエミール・ゾラが撮影した写真も、このたびの展覧会に出品されていたのだから、彼も天国で苦笑していることだろう。

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