てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

スイスから来たコレクション(3)

2011年01月31日 | 美術随想

ピエール=オーギュスト・ルノワール『水浴の後』

 モネやシスレーは風景画に生涯を賭け、ルノワールやドガは人物画に生き甲斐を見いだした。とりわけルノワールが晩年に手がけた豊満な裸婦像は、印象派のなかでというより、同時代の絵画全体からしてもかなり異色の、彼にしか描き得ないものだった。

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 われわれは各種の本によって、「印象派展」がはじまる10年ほど前にマネの『草上の昼食』や『オランピア』が大きなスキャンダルを巻き起こしたことを知っている。というか、もうたくさんだといいたいほど読まされてきている。

 それらの絵がもし、女神だとか何かの擬人像のようなたてまえをもたない純粋な女の裸の姿が描かれた最初のものだとしたら ― ぼくはそうは思わないけれど ― 彼女たちはもう少し美しく表現されてしかるべきだったのではないか、という気がしないでもない。いや正確にいえば、もっと女っぽく描くこともできたはずである。女性にしかもち得ない肉体からにじみ出るような母性、それと表裏一体となった普遍的なエロティシズムは、マネの絵からは感じられない。

 いったいなぜなのか。もちろんマネの好みの問題かもしれないが、それとは別に、マネ自身がパリの世相にとらわれていて、市民たちの社会的な属性のようなものからついに自由になれなかったからではないか。マネは印象派の先駆者などといわれながらも、最後まで「印象派展」に参加せず、あくまでサロンに入選することを自分に課したのは有名な話だが、パリという市民社会の構図のなかで人間を把握し、そこから逸脱することを欲しなかった保守的なパリジャンの姿が浮かび上がってくるようである。彼は何も世の中を騒がせようとして、あんな絵を描いたわけではなかった。

 ではマネの描いたあの裸婦たちは何ものかというと、それはあくまで男性社会から見た“女”にほかならない。華やかに着飾っていても、ときにあられもない姿態を晒していても、社会的には男性よりも一段低い“女”という存在でしかなかったのだ。だからこそ、マネの裸婦像は観る人たちの秘めたる羞恥をくすぐった。アンデルセンの童話になぞらえていえば、マネは「ヴィーナスだって所詮は裸の女だよ!」と、誰はばかることなく公言してしまったようなものである。高貴とされる女神の姿をあがめたり、普段は洗練されたマナーをもってマダムたちに接しているようでも、紳士たちが心のなかでどんな淫靡な想像をめぐらしていたか、容易に推察できるものではない。

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 裸婦というモチーフを、われわれはルノワールによって知ったようなところがある。浮世絵などを観ていると全裸の女性像というのは非常に少なく、女の色香はうなじの白さとか、着物の裾からのぞく腰巻きとか、いわゆるチラリズムの手法で表現されることが多い(春画でさえも基本的にそうだと思う)。けれどもルノワールの浴女は、小さな手拭い一枚で体を拭っているぐらいがせいぜいで、肉体を惜しげもなく眼の前に晒し、恥じる素振りもない。

 ドガも浴女を描いているが、体つきはそれほど豊かでないかわりに、妙にアクロバティックな姿勢をとっていたりする。後ろを向いていたりして顔のはっきりわからない絵が多いようにも思う。場所も屋内の浴場というか、部屋にたらいを置いただけのようなところで湯浴みをしている。

 その点ルノワールの浴女は、あふれる外光のなかにはちきれんばかりの裸体をくつろげ、まるで大自然と戯れているかに見える。晩年は体が不自由だったルノワールが、実際にモデルを野外にはべらせて描いたとは考えにくい。印象派の理念とは相容れないことだが、この絵はおそらく頭で構成されたフィクションであろう。

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参考画像:ピエール=オーギュスト・ルノワール『裸婦』(サンパウロ美術館蔵)

 このたびの展覧会で『水浴の後』(1912~1914年頃)を観たとき、日本初公開の絵だとは知りながら、何となく初めてのような気がしなかった。家へ帰って、1978年に開催された「サンパウロ美術館展」の図録を手にとってみる。福井の美術館に巡回してきたときに父に連れられて出かけたもので、人生で最初に観た西洋絵画展であった。そのときには別に美術が好きではなかったが、なぜか父に図録をねだったものである。

 図版をめくってみると、ルノワールの『裸婦』(1912年)という絵が載っていたが、やはり『水浴の後』にそっくりだ。少年のぼくはこの絵を観たとき、女性がほとんど背中を向けているにもかかわらず、腋の下から真ん丸な乳房がのぞいているのに衝撃を受けたものだった。スイスからやってきた裸婦像も、同じモデルを使って描かれたものにちがいない。リューマチに蝕まれ、痛々しく痩せさらばえていた老画家は、この大らかでのびやかな肉体をどんな思いで描いたのだろうか。

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スイスから来たコレクション(2)

2011年01月10日 | 美術随想

アルフレッド・シスレー『朝日を浴びるモレ教会』

 いちばん好きな印象派の画家は誰か。これは、意外と難問である。

 日本人が印象派好き、なかでもモネやルノワールの人気が極めて高いのは周知のこと。しかしモネとルノワールの間には、○○派とひとくくりにするのに躊躇を覚えるほどの作風の隔たりを感じるのもまた、たしかなことだ。若いときこそふたりは戸外でイーゼルを並べて制作し、まるでどっちがどっちが見分けがつかないほどそっくりな作品を描いたことがあるものの、画家として大成するにしたがって彼らの進む道は大きく離れていった。いわば、最終的には“脱印象派”化し、他の誰とも似ていないオリジナルな世界に足を踏み入れたのである。

 いわゆる「印象派展」は、1874年から86年までの12年の間に、たったの8回だけ開かれたにすぎない。しかもそこに参加した画家のなかには、後世から見ればあまり印象派らしくない絵を描いた者も含まれている。だとすると、今の日本における西洋美術の展覧会で圧倒的な頻度を誇り、老若男女に至る多くのファンを動員する印象派絵画とは、本当はいったい何なのだろう。長い美術の歴史からすればほんの一瞬の間に生み出されただけの絵画に人々がこれだけ魅了されることは、ちょっとありそうにない話である。

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 ぼくも印象派は好きだし、展覧会にもよく出かける。モネやルノワールの展覧会を観るためだけに、わざわざ名古屋まで出かけたことすらあった(横浜にドガ展を観にいく計画は、残念ながら叶わなかったが)。

 もうずいぶん前になるが、シスレーの展覧会を観るために和歌山まで行ったこともある。シスレーは綺羅星のごとく輝く印象派の巨匠たちのなかでは、比較的早く没したせいか ― 彼の人生は20世紀まで届かなかった ― スポットライトが当てられることはあまり多くないかもしれないが、まさに同じ理由から、最後まで作風が“印象派風”のままにとどまった画家でもあるのである。つまり「印象派の何たるか」を知るには、あれこれ理屈をこね回すよりも、シスレーの絵をたくさん観ることがいちばんの近道だという気がする。やや極端なたとえをするなら、クラシック音楽の「古典派」の精神を理解しようとする際、モーツァルトよりもベートーヴェンよりも、ハイドンを聴くのがもっともふさわしいのと同じだ。

 しかし『朝日を浴びるモレ教会』(1893年)を観て、ぼくは驚いた。シスレーはロワン川に面したモレという街に暮らして、そこの風景画をたくさん残しているし、そのなかにはこの教会の姿がちらほら見え隠れしているのもよく知っているが、これほどまでに教会の全体を堂々と画面いっぱいに描き切ったものは、あまりシスレーらしくないように思えた。彼は自分の眼に見える“風景”の全体に眼配りを怠らず、建物と自然とが織りなす調和を丁寧に描いた、非常に中立的な、いい意味で素人画家的な絵を描く人物だと思っていたのだ。


参考画像:クロード・モネ『ルーアン大聖堂』(オルセー美術館蔵)

 画面いっぱいに教会を配したこの構図は、どうしても同時期にモネが描いた『ルーアン大聖堂』の連作を想起させる(1892~93年、画像は1893年の作品)。けれども両者を比べてみると、モネの絵が教会の建物の質感や細部を犠牲にし、そこに反映する日の光と影の戯れに重点を置いているのとはちがって、シスレーの教会は気持ちのいい青空を背景にして崇高に聳え立っており、あくまで教会それ自体の神々しさを損なうことはない。

 シスレーの絵の左下をよく観ると、遠くの街並みが小さく描かれている。いわば、ここがモネとの決定的なちがいなのだ。あくまで“モレの街のなかの教会”であり、やはり風景の他の要素との調和のなかに教会を描き出すことで、かえって教会のもつ尊厳が ― まるで3Dの画面のように ― せり出して感じられる。ディテールを明暗のなかに塗り込めようとしたモネが、ついに手放してしまった奥行きが、シスレーにはある。

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参考画像:フィンセント・ファン・ゴッホ『オーヴェールの教会』(オルセー美術館蔵)

 また、シスレーのこの絵からもう一枚、どうしても連想せずにいられない絵がある。ゴッホが最晩年に描いた『オーヴェールの教会』(1890年)である。もちろんシスレーとはタッチがまったく異なるものの、教会の建つ角度と ― ゴッホの絵ではかなり歪んでいるが ― 左手前に影が落ちているところ、何よりも左下に人物が描かれていて、道の向こうに遠くの街並みが顔を出しているところが、意外なほどよく似ているではないか。

 そしてもっとも意外なのが、シスレーよりもモネよりも、ゴッホのこの絵がいちばん先に描かれているという事実である。なるほどゴッホは「後期印象派」「ポスト印象派」などといわれてはいるが、実はシスレーより9年も早く死んでいるのだった。ゴッホ亡きあとも、シスレーによって典型的な印象派絵画はまだ描きつづけられていたのである。美術史の流れだけにとらわれていると、これは見落としがちな事実ではなかろうか。

 シスレーの教会とゴッホの教会。この2枚を比べてみると、何々主義だとか流派がどうとかいうまえに、健全な精神と病める精神の鮮明な対比を、痛いほど見せつけられたような気がする。

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スイスから来たコレクション(1)

2011年01月08日 | 美術随想

〔兵庫県立美術館の外観〕

 2011年最初の展覧会の記事を書く前に、恐縮だが2010年の最後に観た展覧会について触れたい。何せ去年は興味深い展覧会をいくつも観ているくせに、あまり記事にすることなく終わってしまった。このままではあまりにも心残りだからである。

 去年の締めくくりは、「ザ・コレクション・ヴィンタートゥール」というもの。これまで栃木、東京と巡回してきたこの展覧会は、年の暮れまで神戸で開かれ、ぼくはその最終日ぎりぎりにすべり込んだのだった。けれどもこの1月からは長崎でも開催されるというので、ここに感想を書いておくのもまんざら無駄ではないだろう。

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 ヴィンタートゥールというのは、スイスの都市の名前である。ぼくははじめて聞く名前だったが、産業面でも文化面でも重要なところらしい。

 スイスはその特殊な国柄のせいもあってか、美術の表舞台にはあまり登場してこない気がするが、周囲がドイツやフランスやイタリアに隣接した恵まれた立地である一方で、追い詰められた芸術家たちにとっての新天地でもあったのではなかろうか。クレーやジャコメッティなど、スイス生まれの芸術家はそれほど数え上げられないが、クールベは政治的な軋轢を避けてスイスに亡命したし、セガンティーニも自分の画風を求めてスイスに移り住み、そこで没した。あの謎めいた少女の姿を描いたバルテュスも、静かな晩年をスイスに送った。スイスは画家を生み出すよりも、画家が死に場所に選ぶ国だったのかもしれない。

 今回展示される90点のコレクションは、そのすべてが日本初公開ということだった。ということは、どうせたいした作品はあるまいと高をくくっていたら、意外に充実した展覧会だったので驚いた。こういった名作を所蔵していることを大声で喧伝せず、いわば出し惜しみをしているところが、スイスらしさなのでもあろう。

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クロード・モネ『乗り上げた船、フェカンの干潮』

 展覧会はドラクロワにはじまって20世紀の抽象まで、近代のヨーロッパ美術史を概観するなかに、地元スイスの画家たちを挟み込む構成になっていたが、こういう見せ方にはもう飽きてしまった。どうも西洋の芸術を学問的に受け取りたがるせいか、作者や作風の前後関係にこだわるきらいが抜けないようだ。

 そして、やはり印象派の絵画ははずせない。なかでもモネの作品は定番だが、『乗り上げた船、フェカンの干潮』(1868年)を観たとき、ぼくはただちに東京富士美術館が所蔵している『海辺の船』(1881年)という別の絵を思い出した。モネが連作というやり方で同じモチーフを繰り返し取り上げたことはよく知られているが、この2枚が描かれた間隔は13年も離れていて、連作とはいいがたい。しかしどちらも陸地に乗り上げた黒い帆船の絵で、場所は同じフェカンというノルマンディー地方の港町である。


参考画像:クロード・モネ『海辺の船』(東京富士美術館蔵)

 これまでも『海辺の船』の実物は何度か観る機会があったのだが、そのたびに「印象派の画家たちはパレットから黒の絵の具を追放したなどといわれているけれど、とんでもないウソっぱちだ」と思ってきた。傾斜した船体とそこから伸びる影は、周囲のいかにも印象派風な軽快さで表現された明るい風景とは対照的に、黒々としかも重々しく塗り込められていたからである。『乗り上げた船、フェカンの干潮』は、まだ印象派以前の作品だから全体に黒っぽいのは納得できるが、『海辺の船』が印象派運動の真っ只中に描かれた作品であることを考えると、この色づかいは美術史の通説からずいぶん逸脱している。

 もちろん、こう考えることもできる。モネの絵は色彩の微妙な移ろいをとらえる繊細さと同時に、黒を黒で描き切る大胆さももちあわせていたにちがいない、と。印象派の開幕を告げる、かの有名な『印象・日の出』にも、墨のように濃厚な黒で船のシルエットが描かれていることを忘れてはなるまい。彼らは決して“黒を捨てた”わけではなかったのだ。

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 それにしても当時のフェカンという港では、そんなにしばしば船が干潟に乗り上げてしまったのだろうか? だとしたらモネは、無意味な物体と化した船のぶざまな姿を黒く塗りつぶしながら、心のなかでは「またやってくれてるよ」とほくそ笑んでいたかもしれない。

 そう思って『乗り上げた船、フェカンの干潮』の絵を眺め直すと、同色の屋根で統一された港町の美観を損ねて無遠慮にかしいでいる巨大な船が、空腹のあまり座り込んで動こうとしない大きな獣みたいに、何となく滑稽に見えてくるから不思議なものである。

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無益な正月の過ごし方 ― 生中継について考える ― (2)

2011年01月03日 | その他の随想


 元日の夜は例年どおり、ウィーン・フィルの「ニューイヤーコンサート」を教育テレビで見た。指揮はウェルザー=メスト。シュターツオーパーの音楽監督ということで、小澤征爾の後任にあたるが、その指揮ぶりは堅実そのもので、良くも悪くも派手なパフォーマンス性が注目される小澤とは正反対の人物であるように思えた。

 だがここは演奏のことはさておき、とりあえず“生中継”についてだ。日本では夜の7時15分から放送されるコンサートは、現地では午前11時15分の開始ということになる。出演者も聴衆も、1部の2部の間の休憩時間に軽いランチを食べたりするのだろうか? そんなどうでもいいことが気にかかる。

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 そして何といってもぼくの頭を悩ますのが、演奏中に挿入されるバレエである。生演奏に合わせて、ウィーン各所の名建築のなかで踊られるバレエの映像が流されるのだが、本当にリアルタイムで踊っているのか、それとも録画なのかがわからない。もう何年も前から考えているが、いまだに解答を得られないのだ。

 一見するところ、生演奏に合わせて踊っているようにしか思われない。リズムのタイミングがぴったり合っている。よく知られていることだと思うが、ウィンナ・ワルツの3拍子には独特の間合いのようなものがあって、メトロノームで刻んだような機械的なリズムではない。いくらテンポの変化が少ない舞曲であっても、前もって収録しておいた映像を生演奏に寸分たがわずシンクロさせて流すなど、とうてい不可能なことに思われるのである。

 しかしバレエ団の人たちが踊っているのを見ていると、必ずといっていいほどその場所は晴天で、窓から明るい日の光がさしこみ、しかも冒頭には屋外から入場してくるシーンなどもあって、生(なま)で演じているとはとても考えられない。ぼくはクラシックを聴きはじめのころからこの「ニューイヤーコンサート」を楽しみにしていて、衛星放送を通じて何十か国もの人たちが同時刻に音楽に酔いしれるなんて素晴らしいことだと思っていたが、あるときついに「これが生放送だというのは壮大なるウソで、実際には演奏もバレエも事前に収録され、綿密に編集されたものを放送しているのではないか」という疑念にとらわれてしまった。

 実は「ゆく年くる年」にしても同様で ― これはもちろん生放送にちがいないけれども ― カメラに写らないところにディレクターがしゃがんでいて、キューを出すと坊さんが鐘をゴーンと鳴らすという、そういう“演出”がおこなわれているのではないか、などとも想像した。ひょっとしたらちゃんとした台本があって、「○分○秒、僧侶A:鐘突き」などと書いてあるかもしれない・・・。

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 何年か前の「ニューイヤーコンサート」のときに一度だけ、会場である楽友協会の大ホールからバレエの踊られる場所へと画面が移ったとき、生演奏のはずの音楽が急に録音に切り替わったような、不自然な音のつながり方をしたことがあった。やれやれついにしっぽを出したな、バレエの部分だけはあらかじめ収録しておいたのを流すのだろう、と思ったが、バレエが終わると場面は演奏会場に戻り、何ごともなかったように指揮者が喝采を受けている。いったいどういうからくりになっているのか、どうしてもわからないままだ。

 ただ、そういったあらぬ疑いを払拭するためか、しばらく前からダンサーたちが演奏の途中で大ホールに乱入して曲のフィナーレを迎える、といった演出がおこなわれるようになった。そうなると、これはバレエともども確実に生中継だということになる。今年も同様で、大ホールに隣接した「ブラームスの間」で踊っていた少年少女たちが『美しく青きドナウ』の終盤になって客席の通路になだれ込み、観客たちが「何だ何だ」とまごついている様子が写った。

 会場にいる人たちは、当然それまでのバレエは見ていないわけで、これはテレビの前の視聴者にだけ辻褄の合う、小気味よい構成だ。入手困難といわれるチケットを手に入れてわざわざウィーンまで出かけた富裕な人たちには申し訳ないが、テレビでしか味わえない楽しみも、ここにはちゃんと用意されているのである。

(画像は記事と関係ありません)

(了)

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無益な正月の過ごし方 ― 生中継について考える ― (1)

2011年01月02日 | その他の随想


 「一年の計は元旦にあり」という。しかし、その“計”とやらを一年間守り通せることは、まずない。ひとえにぼくの意志が弱いから、ともいえるが、まあそれが人間というものじゃないか、とも弁明したい気がする。

 元日の未明に何となくテレビをつけてみると、おなじみの芸能人たちが生放送で騒いでいる。こんな時間までご苦労なことだと思いつつ、こっちは物静かな新年を迎えたいのでそのまま寝てしまうが、昼近くなってまたテレビをつけてみると、同じ芸能人が今度は別のチャンネルの番組に出演して同じようなテンションで喋ったりしている。書き入れ時とはいえ、ちょっと人間が働く限界を超えているような危惧を感じないではない。こっちは休むときにはしっかり休まないと体がもたないことはわかりきっている。数年前に手術をして内臓を切ったことがある手前、無理をするのは怖いのだ。

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 年越しは自宅で、オーチャードホールから中継される「東急ジルベスターコンサート」を見て過ごした。時計が午前0時をうって年が変わるその瞬間に演奏を終わらせるという、カウントダウンのクラシック版である。ぼくの敬愛するマエストロ小林研一郎氏が ― 彼もいつの間にか70歳だそうだが ― マーラーの『復活』からラストの10分あまりを指揮して2010年を締めくくった。6月に訪れた渋谷のBunkamuraのどこかにこのホールがあるはずだ、などと想像しながら聞いていた。そのとき演奏していた東京フィルハーモニー交響楽団の面々は、年が明けるとキテレツな眼鏡をかけたりかぶりものをしたりして、お堅いクラシックの演奏家らしからぬ茶目っ気を見せるのも例年のことである。

 だが、東京フィルは1月3日の夜にNHKホールで開かれる「ニューイヤーオペラコンサート」にも出演することになっている。ちなみに前年の暮れには、5回の「第九演奏会」をこなしているはずだ(うち1回は、遠く離れた盛岡での公演)。練習の時間も含めると、彼らの年末年始はあまりにも多忙なのではなかろうか。一般のサラリーマンのように、この時期に田舎に帰省したりすることは思いもよらない話にちがいない。家族や親戚とのコミュニケーションがギクシャクしたりはしないのだろうか、ひとごとながら気にかかる。

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 もうひとつ気になることが、「地デジ」の影響である。2011年には、アナログ放送が終了するということになっている。わが家ではすでに対策済みだが、地デジでは圧縮されて送られてきたデータを各家庭のテレビで解凍して流しているため、数秒の時差が発生するという。NHKの正午の時報がなくなったのは、そのためだそうだ(かつて家の時計を合わせるのに時報を重宝していたものとしては、何ともさびしいかぎりである)。

 さて、そうなってくると、例の「カウントダウン」にも余波が及んでくる。このたびの年越しの瞬間も、『復活』の最後の和音が鳴り響き、区切りよく新年が迎えられたと思ったときには、すでに年が明けてから何秒か過ぎていたはずだ。そんなに大きな問題ではないといえばそうかもしれないが、生中継によって全国が同時にひとつに結ばれていたという一種の“幻想”は、この2011年、確実に崩壊するであろう。

 けれども考えてみれば、こういった年越し番組を録画しておいて、あとから見るという人もたくさんいるにちがいない。現にぼくはNHKの「ゆく年くる年」を録画で見たのだが、そのときは一瞬、時間が2010年に逆戻りしたように錯覚した。新年が明けるときの気分を2回も味わえるとは贅沢な話のようだが、タイミングよく知恩院の鐘が鳴らされて画面の時刻表示が“0:00”となったとき、寒波を押して本物の除夜の鐘を聞きに出かけなかった自分の不精を、ほんのちょっと恥じる気分にもなった。

(画像は記事と関係ありません)

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