ピエール=オーギュスト・ルノワール『水浴の後』
モネやシスレーは風景画に生涯を賭け、ルノワールやドガは人物画に生き甲斐を見いだした。とりわけルノワールが晩年に手がけた豊満な裸婦像は、印象派のなかでというより、同時代の絵画全体からしてもかなり異色の、彼にしか描き得ないものだった。
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われわれは各種の本によって、「印象派展」がはじまる10年ほど前にマネの『草上の昼食』や『オランピア』が大きなスキャンダルを巻き起こしたことを知っている。というか、もうたくさんだといいたいほど読まされてきている。
それらの絵がもし、女神だとか何かの擬人像のようなたてまえをもたない純粋な女の裸の姿が描かれた最初のものだとしたら ― ぼくはそうは思わないけれど ― 彼女たちはもう少し美しく表現されてしかるべきだったのではないか、という気がしないでもない。いや正確にいえば、もっと女っぽく描くこともできたはずである。女性にしかもち得ない肉体からにじみ出るような母性、それと表裏一体となった普遍的なエロティシズムは、マネの絵からは感じられない。
いったいなぜなのか。もちろんマネの好みの問題かもしれないが、それとは別に、マネ自身がパリの世相にとらわれていて、市民たちの社会的な属性のようなものからついに自由になれなかったからではないか。マネは印象派の先駆者などといわれながらも、最後まで「印象派展」に参加せず、あくまでサロンに入選することを自分に課したのは有名な話だが、パリという市民社会の構図のなかで人間を把握し、そこから逸脱することを欲しなかった保守的なパリジャンの姿が浮かび上がってくるようである。彼は何も世の中を騒がせようとして、あんな絵を描いたわけではなかった。
ではマネの描いたあの裸婦たちは何ものかというと、それはあくまで男性社会から見た“女”にほかならない。華やかに着飾っていても、ときにあられもない姿態を晒していても、社会的には男性よりも一段低い“女”という存在でしかなかったのだ。だからこそ、マネの裸婦像は観る人たちの秘めたる羞恥をくすぐった。アンデルセンの童話になぞらえていえば、マネは「ヴィーナスだって所詮は裸の女だよ!」と、誰はばかることなく公言してしまったようなものである。高貴とされる女神の姿をあがめたり、普段は洗練されたマナーをもってマダムたちに接しているようでも、紳士たちが心のなかでどんな淫靡な想像をめぐらしていたか、容易に推察できるものではない。
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裸婦というモチーフを、われわれはルノワールによって知ったようなところがある。浮世絵などを観ていると全裸の女性像というのは非常に少なく、女の色香はうなじの白さとか、着物の裾からのぞく腰巻きとか、いわゆるチラリズムの手法で表現されることが多い(春画でさえも基本的にそうだと思う)。けれどもルノワールの浴女は、小さな手拭い一枚で体を拭っているぐらいがせいぜいで、肉体を惜しげもなく眼の前に晒し、恥じる素振りもない。
ドガも浴女を描いているが、体つきはそれほど豊かでないかわりに、妙にアクロバティックな姿勢をとっていたりする。後ろを向いていたりして顔のはっきりわからない絵が多いようにも思う。場所も屋内の浴場というか、部屋にたらいを置いただけのようなところで湯浴みをしている。
その点ルノワールの浴女は、あふれる外光のなかにはちきれんばかりの裸体をくつろげ、まるで大自然と戯れているかに見える。晩年は体が不自由だったルノワールが、実際にモデルを野外にはべらせて描いたとは考えにくい。印象派の理念とは相容れないことだが、この絵はおそらく頭で構成されたフィクションであろう。
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参考画像:ピエール=オーギュスト・ルノワール『裸婦』(サンパウロ美術館蔵)
このたびの展覧会で『水浴の後』(1912~1914年頃)を観たとき、日本初公開の絵だとは知りながら、何となく初めてのような気がしなかった。家へ帰って、1978年に開催された「サンパウロ美術館展」の図録を手にとってみる。福井の美術館に巡回してきたときに父に連れられて出かけたもので、人生で最初に観た西洋絵画展であった。そのときには別に美術が好きではなかったが、なぜか父に図録をねだったものである。
図版をめくってみると、ルノワールの『裸婦』(1912年)という絵が載っていたが、やはり『水浴の後』にそっくりだ。少年のぼくはこの絵を観たとき、女性がほとんど背中を向けているにもかかわらず、腋の下から真ん丸な乳房がのぞいているのに衝撃を受けたものだった。スイスからやってきた裸婦像も、同じモデルを使って描かれたものにちがいない。リューマチに蝕まれ、痛々しく痩せさらばえていた老画家は、この大らかでのびやかな肉体をどんな思いで描いたのだろうか。
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