そろそろ、ぼくはあきらめかけていた。また近いうち、阪急電車に乗って西宮を通りかかることもあるであろう。そのときまでに、地図で場所を確かめておくことだ。そんなふうに考えはじめていた。
それにしても、ぼくが11年前に訪ねた知人のマンションは、いったいどこだったのだろう。あのときは周辺の一軒家のほとんどが壊れていて、先に引いた神戸新聞の記事によればこの地区だけで約7割の建物が全半壊したという。しかし高層マンションは、部屋の内部はどうあれ、外観だけはしゃんと聳えていたものである。
その後、ぼくの生活環境の変化もあって、彼とはだんだん疎遠になった(知人とはいってもぼくより40歳も年上で、そのときはすでに会社を退職していたはずだが、今ではどうしているだろう)。彼の家を見舞ったのはその一度きりで、マンションの名前も、何階の部屋だったかも、すっかり忘れてしまった。覚えているのは、まだ水道も電気も復旧していなかったということである。たまたま給水車が来合わせたので、ぼくもポリタンクを持って列を作った。満々とみたされたポリタンクを両手に提げて階段をのぼるのは、想像以上に厳しい作業であった。
*
こんなことを思い出しながらしばらく歩いていると、あるマンションの横に出た。はたしてこれがあのときのマンションなのか、そうではないのかわからないままに、ぼくは何となく上を見上げた。中天にかかる太陽と目が合いそうになり、思わず視線を下げると、遠くに子供の遊具みたいなものがあるのに気がついた。
急いでそっちへ歩いていくと、大きな広場の片隅にカラフルなすべり台のようなものが置かれていて、何組かの親子連れが遊んでいるのだった。幼い子供たちの歓声が、鳥のさえずりのように響き渡っていた。
高木公園というのは、ここのことかもしれない。しかしそこにはわずかの遊具があるだけで、あとはだだっ広い空間が広がっているばかりに見える。広場の中央付近には日陰すらなく、白茶けた地面が日の光をぎらぎらと照り返していて、通る人もほとんどいない。その向こうは芝生になっていて、よく目を凝らすと、そこに何やら白っぽいものがぽつんと置かれていた。ぼくは楽しそうに遊ぶ子供たちを尻目に、急いでその物体のそばへ駆け寄った。
津高和一の、震災のモニュメントは、ひっそりとそこにあった。四角い箱のようなものの中から、6つの生命体が隆起しているかのようなかたち・・・。
それは確かに、命の鼓動を感じさせる。しかしぼくは、もうひとつのイメージをそこに重ね合わせずにはいられなかった。運命のあの日、まるで生き物のように動いた地面のことを。津高和一の命を飲み込んだ、巨大な地球のうごめきのことを。
*
彫刻のそばの銘板には、こんな言葉が刻まれていた。
《此処に深遠な精神の宇宙を具現化した津高和一先生の多大な芸術活動を讃える。
二〇〇四年四月 教え子一同》
この“教え子一同”たちは、津高家の瓦礫の前に貼り紙を貼った人たちでもあろう。あのときぼくは、貼り紙を前にして呆然と立ち尽くすことしかできなかったのである。改めてあの日のことを思い出し、ぼくは静かに瞑目した。胸の奥のしこりが、少しずつ音を立てて溶解するようだった。
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それにしても、ぼくが11年前に訪ねた知人のマンションは、いったいどこだったのだろう。あのときは周辺の一軒家のほとんどが壊れていて、先に引いた神戸新聞の記事によればこの地区だけで約7割の建物が全半壊したという。しかし高層マンションは、部屋の内部はどうあれ、外観だけはしゃんと聳えていたものである。
その後、ぼくの生活環境の変化もあって、彼とはだんだん疎遠になった(知人とはいってもぼくより40歳も年上で、そのときはすでに会社を退職していたはずだが、今ではどうしているだろう)。彼の家を見舞ったのはその一度きりで、マンションの名前も、何階の部屋だったかも、すっかり忘れてしまった。覚えているのは、まだ水道も電気も復旧していなかったということである。たまたま給水車が来合わせたので、ぼくもポリタンクを持って列を作った。満々とみたされたポリタンクを両手に提げて階段をのぼるのは、想像以上に厳しい作業であった。
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こんなことを思い出しながらしばらく歩いていると、あるマンションの横に出た。はたしてこれがあのときのマンションなのか、そうではないのかわからないままに、ぼくは何となく上を見上げた。中天にかかる太陽と目が合いそうになり、思わず視線を下げると、遠くに子供の遊具みたいなものがあるのに気がついた。
急いでそっちへ歩いていくと、大きな広場の片隅にカラフルなすべり台のようなものが置かれていて、何組かの親子連れが遊んでいるのだった。幼い子供たちの歓声が、鳥のさえずりのように響き渡っていた。
高木公園というのは、ここのことかもしれない。しかしそこにはわずかの遊具があるだけで、あとはだだっ広い空間が広がっているばかりに見える。広場の中央付近には日陰すらなく、白茶けた地面が日の光をぎらぎらと照り返していて、通る人もほとんどいない。その向こうは芝生になっていて、よく目を凝らすと、そこに何やら白っぽいものがぽつんと置かれていた。ぼくは楽しそうに遊ぶ子供たちを尻目に、急いでその物体のそばへ駆け寄った。
津高和一の、震災のモニュメントは、ひっそりとそこにあった。四角い箱のようなものの中から、6つの生命体が隆起しているかのようなかたち・・・。
それは確かに、命の鼓動を感じさせる。しかしぼくは、もうひとつのイメージをそこに重ね合わせずにはいられなかった。運命のあの日、まるで生き物のように動いた地面のことを。津高和一の命を飲み込んだ、巨大な地球のうごめきのことを。
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彫刻のそばの銘板には、こんな言葉が刻まれていた。
《此処に深遠な精神の宇宙を具現化した津高和一先生の多大な芸術活動を讃える。
二〇〇四年四月 教え子一同》
この“教え子一同”たちは、津高家の瓦礫の前に貼り紙を貼った人たちでもあろう。あのときぼくは、貼り紙を前にして呆然と立ち尽くすことしかできなかったのである。改めてあの日のことを思い出し、ぼくは静かに瞑目した。胸の奥のしこりが、少しずつ音を立てて溶解するようだった。
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