てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

津高和一ふたたび(4)

2006年08月28日 | 美術随想
 そろそろ、ぼくはあきらめかけていた。また近いうち、阪急電車に乗って西宮を通りかかることもあるであろう。そのときまでに、地図で場所を確かめておくことだ。そんなふうに考えはじめていた。

 それにしても、ぼくが11年前に訪ねた知人のマンションは、いったいどこだったのだろう。あのときは周辺の一軒家のほとんどが壊れていて、先に引いた神戸新聞の記事によればこの地区だけで約7割の建物が全半壊したという。しかし高層マンションは、部屋の内部はどうあれ、外観だけはしゃんと聳えていたものである。

 その後、ぼくの生活環境の変化もあって、彼とはだんだん疎遠になった(知人とはいってもぼくより40歳も年上で、そのときはすでに会社を退職していたはずだが、今ではどうしているだろう)。彼の家を見舞ったのはその一度きりで、マンションの名前も、何階の部屋だったかも、すっかり忘れてしまった。覚えているのは、まだ水道も電気も復旧していなかったということである。たまたま給水車が来合わせたので、ぼくもポリタンクを持って列を作った。満々とみたされたポリタンクを両手に提げて階段をのぼるのは、想像以上に厳しい作業であった。

   *

 こんなことを思い出しながらしばらく歩いていると、あるマンションの横に出た。はたしてこれがあのときのマンションなのか、そうではないのかわからないままに、ぼくは何となく上を見上げた。中天にかかる太陽と目が合いそうになり、思わず視線を下げると、遠くに子供の遊具みたいなものがあるのに気がついた。

 急いでそっちへ歩いていくと、大きな広場の片隅にカラフルなすべり台のようなものが置かれていて、何組かの親子連れが遊んでいるのだった。幼い子供たちの歓声が、鳥のさえずりのように響き渡っていた。

 高木公園というのは、ここのことかもしれない。しかしそこにはわずかの遊具があるだけで、あとはだだっ広い空間が広がっているばかりに見える。広場の中央付近には日陰すらなく、白茶けた地面が日の光をぎらぎらと照り返していて、通る人もほとんどいない。その向こうは芝生になっていて、よく目を凝らすと、そこに何やら白っぽいものがぽつんと置かれていた。ぼくは楽しそうに遊ぶ子供たちを尻目に、急いでその物体のそばへ駆け寄った。

 津高和一の、震災のモニュメントは、ひっそりとそこにあった。四角い箱のようなものの中から、6つの生命体が隆起しているかのようなかたち・・・。

 それは確かに、命の鼓動を感じさせる。しかしぼくは、もうひとつのイメージをそこに重ね合わせずにはいられなかった。運命のあの日、まるで生き物のように動いた地面のことを。津高和一の命を飲み込んだ、巨大な地球のうごめきのことを。

   *

 彫刻のそばの銘板には、こんな言葉が刻まれていた。

 《此処に深遠な精神の宇宙を具現化した津高和一先生の多大な芸術活動を讃える。

  二〇〇四年四月 教え子一同》


 この“教え子一同”たちは、津高家の瓦礫の前に貼り紙を貼った人たちでもあろう。あのときぼくは、貼り紙を前にして呆然と立ち尽くすことしかできなかったのである。改めてあの日のことを思い出し、ぼくは静かに瞑目した。胸の奥のしこりが、少しずつ音を立てて溶解するようだった。

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津高和一ふたたび(3)

2006年08月27日 | 美術随想
 あてはないけれども、とにかく歩き出すしか方法はない。ぼくは変に頭を使うことはしないで、足の向くままに歩いていくことにした。

 土曜日の昼近い住宅街は、まだ平日と週末の境目でまどろんでいるかのように、物憂い表情を見せている。あの日とはちがって、街は平穏な日常の底に沈んでいるのである。高くのぼった太陽だけが、あたりをじりじりと照らしつける。

 考えてみれば、地震が起こったのは冬のさなかであった。今でも1月17日になると、厳しい冷え込みの中、朝早くからろうそくの灯がともされ、あちこちで追悼の式典がおこなわれるのだ。ぼくが震災後の西宮をさまよっていたときも、かなり寒かったにちがいない。しかしぼくは、薄手のブレザーを一枚着込んだだけで歩き回っていたのである。寒さを感じた記憶は、なぜかまったくない。「心頭滅却すれば火もまた涼し」というのとはちょっとちがうが、あのときは寒さを感じる余裕などなかったのだろう。

   *

 どこをどう歩いたか、はっきりとは覚えていないが、やがて大きな通りに出た。道沿いにしばらく行くと、墓地があった。横目でちらりと墓碑を見ると、「津高家」などと書いてある。

 先ほど津高家の表札をたくさん見てきたので、近くに津高家代々の墓があっても驚くにはあたらない。しかしどうしても、ここに津高和一も眠っているのではないか、との思いを抑えることができなかった。見回しても、墓参りをしている人は誰もいない。ぼくは無人の墓地の中へ、ずかずか入っていった。

 やはり津高家の墓がいくつもある。古いのもあるし、比較的新しそうな墓石もある。ぼくは喉の奥で詫び言をつぶやきながら、石に刻まれた名前と没年を順々に見ていった。しかし、津高和一その人の名前はなかなか見つからなかった。

   *

 そうこうするうちに、ぼくは内心忸怩たる思いに駆られてきた。さっきからぼくのやっていることは、どうもあまりほめられたことではないようだ。こんなことをするために、西宮に来たのではなかったはずである。

 震災後のあの日には、ぼくは確かに知人の家の所在地も調べないまま、何のあてもなく西宮まで駆けつけてしまったけれども、そのときは一刻も無駄にはできないと思えるほど切羽詰まっていた(結局は相手の家を探し当てることはできず、後日改めて出直さなければならなかった)。しかし、今日は事情がちがうではないか? 火急の用事など、ありはしないのだ。

 ぼくは冷静さを欠いている自分自身に気がついて、恥ずかしくなった。「お騒がせしました」。・・・もう一度喉の奥で小さくつぶやいて、逃げるようにそこを立ち去った。

   *

 後でわかったことだが、津高和一の墓は駅からほど近い法心寺というところにあるそうである。もしまた西宮に立ち寄る機会があったら、そのときこそは必ず訪れてみたいと思う。

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津高和一ふたたび(2)

2006年08月24日 | 美術随想
 この駅で下車するのは、およそ11年半ぶりということになるか。ホームの階段に導かれて改札をくぐり、高木公園のある北東方面へと歩きはじめたものの、街並みのあまりの変わりようにめまいがする思いがした。

 前にも書いたが、震災当時は周辺一帯の家という家が倒壊し、まるで荒野の只中に降り立ったような気がしたものだ。しかし今では駅前に高層ビルが林立し、車が引っ切りなしに通り過ぎ、その隙間を縫うように人波が行ったり来たりする、典型的な都会へと変貌していたのである。もっともぼくは震災前のこの街を知らないのであるから、これが往時の賑わいを取り戻したということになるのかどうか、それはわからない。

 いずれにしても、ぼくが行き場に困ったことは確かであった。とりあえず津高和一の家のあったあたりに行ってみたいと思ったが、どこをどう進めばいいのか見当もつかない。大規模な区画整理が実施されたらしいこの地で、ましてやすでに崩れ落ちていた家の痕跡を探すなど、考えてみれば無理な話にちがいない。そこには当然、新しい家が建っているはずではないか。

 いや、ぼくは西宮が復興しているのをこの目で確かめにきたのだから、それでよかったのだ。だが、できればぼくはあの貼り紙のあった場所にもう一度立ってみたかったのである。

   *

 そして、高木公園というのはいったいどこにあるのか? いつか訪ねてみようとは思いながら、ぼくは地図で場所を調べておくことすらしていなかった。こうなるとお手上げとしかいいようがないが、人に道を尋ねようという気はおこらなかった。それどころか、道行く人と目を合わせるのも億劫な気がしたのである。

 ぼくはなぜか、あのときのように妙に切迫した感情にさいなまれはじめていたのだ。震災から間もなかったあのときは、目標も定かでないままに(もちろん知人を見舞うという目的はあったが、彼の家の所在地も知らないままに)あてずっぽうに歩き回ったものであった。その途中で、ぼくは偶然に津高和一の家の瓦礫の前を通りかかったのである。そして、おそらくはまだ貼られたばかりらしい白い貼り紙が、巨大な混沌の中のひとつの秩序のように、ぼくの目を射たのであった。

 このささやかな光景がいつまでもぼくの心に残っているのは、ひょっとしたらそれが津高和一の創作そのものを象徴しているように思われるからかもしれない。津高の抽象絵画は、まさに現代という底なしの混沌の中から、詩情をかきたてる単純な構造を拾い上げ、それをキャンバスに定着するという仕事だったのである。彼の絵はちっぽけな、それだけに純粋な、小さな秩序の発見の場所だったといっても決して間違いではないだろう。

   *

 ぼくは店舗が軒を並べる大通りを見捨て、小さな路地へと入っていった。そこには比較的新しい住宅が建ち並んでおり、不気味なほど静かだった。震災の後に建てられた家々にちがいなく、ぼくにはもちろん初めて見る景色である。

 しかしもうしばらく歩いていくと、店の中からラジオの音が漏れ聞こえてくる古ぼけた酒屋があった。その家屋の外観は、どう考えても築30年は経過しているらしく思われた。もはやこのへんに当時の痕跡をとどめるものはあるまいと思っていたが、この店はどうやら震災を生き延びたものにちがいない。そう思ってみると、あのときにもこんな店を見かけたような気がしてくる。となると、津高和一の家があった場所もそう遠くはないかもしれない。

 たまたま視界に飛び込んできた一軒の家に近づき、門に掲げられた表札を見て驚いた。そこにははっきりと「津高」と書かれていたのだ。ぼくはあまりのあっけなさに拍子抜けしてしまったけれども、ここに津高和一の遺族が住んでいるのかと思うと、何ともいえない複雑な感慨がわきおこった。

   *

 だが、ぼくとは縁もゆかりもない家をじろじろ眺めるわけにはいかない。門の前にしばらく突っ立っているだけでも、今のご時世ではどんな嫌疑をかけられるかわかったものではないのだ。ぼくはさりげない通行人のふりをしてふたたび歩きはじめたが、その数件先の家にもやはり「津高」という表札が出ているのを見つけて大いに失望させられた。さらに、あろうことか「津高」の名を冠したマンションすら見つかったのである。

 全国的には珍しいと思われる「津高」姓が、このあたりにはごろごろしているのだった。こうなってくると、津高和一のゆかりの家を突き止めるすべはない。あの貼り紙のあった場所も、もはや知りようがないというものだ。

 ぼくは頭を切り替えて、彼のモニュメントが置かれているという高木公園を探すことにした。しかしさっきも白状したように、ぼくはその場所をまったく知らないのだった。

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津高和一ふたたび(1)

2006年08月22日 | 美術随想
 日差しが容赦なく照りつける、ある暑い日のことだった。

 神戸方面に出かけるときは、いつも阪神電車に乗ることにしている。阪神間の主要な美術館をめぐるには、それでじゅうぶんだからだ。だがその日は、ある初めての美術館を訪れるため、久しぶりに阪急の神戸線に乗り込んだ。

 いつもとはちがう、見慣れない車窓の景色をぼんやりと眺めながら、ぼくはあることに気がついた。それはたった今まで忘れていたことだが、実はもう何年も前から、ぼくの頭に繰り返し去来していたことなのである。それを実行するためには、まず阪急神戸線に乗ることからはじめなければならないのだが、思いついたときにはすでにそれに乗っていたのだ。ぼくはためらうことなく、美術館訪問の前に目的地をひとつ追加することにした。

   *

 以前「瓦礫の下から」という記事の中で、阪神大震災の数日後に西宮の知人の安否をたずねたおり、画家の津高和一の家が全壊しているのを見かけたという話を書いた。すでに画家は荼毘に付され、そのことを伝える貼り紙が瓦礫の前に貼られているのをぼくは見たのであった。

 あれからかなりの歳月が流れ、毎年1月17日の記念日以外には震災の話題を耳にすることもなくなったが、ぼくはいつからか、もう一度あのときの道を歩いてみたいと思うようになっていた。すでに街は復興を遂げているだろうし、当時を偲ばせるものはもう残っていないかもしれない。しかし、まるで廃墟のようになった西宮を何時間もうろつきまわったあの日の記憶は、いつまでもぼくの胸の底にくすぶりつづけていた。今でも取り壊された住宅を目にしたりすると、それが呼び水のようになって、凄惨な光景がたちまち脳裏によみがえってくるのである。

 ぼくは確かにあの震災を体験したが、怪我ひとつしたわけではなく、知り合いを亡くしたわけでもない。西宮に住んでいた知人とも、無事に再会できた。それなのに、なぜぼくはいつまでもあの日の記憶に追いかけられねばならないのだろうか?・・・

 もちろん、震災の記憶を後世まで守り伝えるということは大切なことであろう。ぼくは決して、震災を忘却したいなどと望んだわけではなかった。ただ、ぼくは自分の眼底深く刻まれた瓦礫の街を復興させたかったのだ。そのためには、復興した西宮の街にもう一度降り立つことが必要だったのである。

   *

 そんなある日、インターネットで津高和一のことを調べようとしていると、こんな新聞記事に出会った。

 《阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた西宮市・西宮北口駅北東地区の区画整理事業で、四月に完成する高木公園(同市高木東町)に二十三日、震災で亡くなった地元の洋画家、津高和一さん=当時(83)=の作品を基にしたモニュメントが設置された。住民らは「若い世代にあの日の記憶を伝えるきっかけになれば」と話している。(略)

 高木公園の整備計画の中で、住民側が「ゆかりの深い津高さんの作品を復興モニュメントに」と提案。津高さんの弟子の画家吉田広喜さん(51)=伊丹市=らの協力で、自宅の庭に置かれていた石彫「作品3」(現在は西宮市大谷記念美術館蔵)を複製することにした。同作品は六つの突起を持ち、見る人に生命の息吹をイメージさせる。

 モニュメントは、オリジナルと同じ小豆島産の石を使い、約八倍(高さ約〇・八メートル、幅約一・四メートル、奥行き約一・二メートル)の大きさで制作。二十三日午前、クレーンを使って芝生内に据えられた。吉田さんは「この地を愛した津高先生の思いが形となって残るのはうれしい」と語った。》
(2004年3月23日付「神戸新聞」より)

 記事に付されていた写真を見ると、その彫刻は大谷記念美術館の庭園で見たような覚えがあった(それとは別のものかもしれないが、よく似ていることは確かである)。津高和一の本領はあくまで絵画であろうと思うが、平面から抜け出してきたようなシンプルな立体作品は、震災のモニュメントとしてまことにふさわしいものではないかと思われた。

 いつかこの高木公園に出かけてみよう、そしてこのモニュメントの前に立ってみよう、とぼくが考えたのも当然のことだろう。そのときにこそ、ぼく自身の震災の記憶にひとつの区切りをつけることができるにちがいない・・・。

 しかしぼくの不精も手伝ってか、なかなかその機会は訪れてはくれなかった。

   *

 ・・・気がつくと、今ぼくは阪急電車に乗っていた。震災直後に降り立ったのと同じ西宮北口駅が、もう間近に迫っていた。

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素顔の芸術家たち(4)

2006年08月19日 | 美術随想
 「作家からの贈りもの展」の会場の一角では、ビデオが繰り返し上映されていた。それは貴重な「カルダー・サーカス」の実録フィルムだった。

 アレクサンダー・カルダー(少し前まではたいてい「コールダー」と表記されていたものだ)は、世界で初めて“風で動くオブジェ”を作った人物である。彫刻を空間に浮遊させた彼のアイディアは、まさに発想の大転換であった。今でも美術館のエントランスなどに、「モビール」と呼ばれる彼の作品が気持ちよさそうに浮かんでいるのをよく見かけることがある。

 若き日のカルダーがパリに移って間もないころ、針金やブリキなどを使って猛獣や道化師を作り、みずから実演してみせたサーカスが、大評判になったという。それを見物するために、当時の名だたる前衛芸術家たちがカルダーのアトリエにつめかけたそうだ。カルダーにとってアトリエは閉じられた場所ではなく、ささやかだが活気に満ちた社交場であり、劇場だったのである。

   *

 上映されていたのは、すでに年を取って髪も薄くなったカルダーが最後に演じてみせたサーカスを撮影したものだが、それは見事なものであった。バネで飛び上がった曲馬師は、走っている馬の背にぴたりと着地する。空中ブランコの演技では、本物さながらに飛び移ってみせる(わざと落下したりもしていたが)。ほかにも猛獣使いとか、剣を飲む男といった、ややとぼけた登場人物たちが、だみ声のカルダーの語りにのって、軽妙に動き回るのである。観客席からは笑い声が絶えないが、カルダーの横でBGMのレコードをかけている奥さんらしい女性は、実につまらなそうな、ふてくされた顔をしている。それがいよいよおかしい。

 「カルダー・サーカス」が芸術作品かと問われれば、やや躊躇せざるを得ないが、カルダーの原点はまさにここにあると思える。20世紀前半、混迷を深める現代美術の網の目を、カルダーは持ち前の遊び心でかいくぐっていった。主義や思想で武装した芸術は、いつの日か袋小路に入り込んでしまうことを、本能的に感じていたのだろう。なにものにもとらわれない彼の自由な発想は、ついに引力のしがらみから彫刻を解き放ったのだった。

   *

 自分の命とひきかえに傑作を遺して死んだ、いわゆる破滅型の芸術家もたくさんいる。しかしそういう生きざまは、映画の題材ぐらいにはなっても、人生の手本にはなり得ない。ここで取り上げた素顔の芸術家と、彼らの愛すべき作品群は、ぼくたちの普段の暮らしにもいろんな示唆を与えてくれるように思う。

 生活という畑を耕して、そこから芸術という実りを収穫した作家たち。芸術とは決して天の高みにあるものではなく、われわれの人間くさい日常と陸続きのものだということを、彼らは教えてくれるようである。


DATA:
 「作家からの贈りもの展」
 2004年8月18日~8月29日
 大丸ミュージアム・梅田

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