てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

動物を彫るということ(2)

2011年05月30日 | 美術随想

〔芸術センターの4階の窓から日が射し込む〕

 ぼくが三沢厚彦の展覧会を観たのは、最終日だった。朝から天気が悪く、最初はどこにも出かけるつもりがなかったのだが、三沢本人のギャラリートークがあることを知って、急遽出かけることにしたのである。

 だが会場に着いてみて、驚いた。入口の自動ドアが閉まりきらないぐらい、多くの人が集まっているではないか。一見すると若い人が多いようにも見受けられるが - ぼくは「日展」での工芸の列品解説のように年齢層の高いものをよく聞くからそう感じるのかもしれないけれど - 特に学生ばかりというわけでもない。三沢の作る動物は、意外なほど多くの人々に受け入れられているようだ。

 やがて、マイクを持った三沢氏があらわれた。わざわざ紹介されなくても、この人があの動物たちの生みの親だな、ということがたちどころにわかる風貌だ。今年50歳になるそうだが、髭をたくわえているにもかかわらず、あまり芸術家然としたところはない。どこか地方で農場でも営んでいるように見えるといったら、怒られるだろうか。

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〔「文學界」4月号。三沢厚彦の猿が表紙を飾っている〕

 だいたいぼくは、作家や芸術家が自作について語る言葉を、それほど傾聴するほうではない。よくいわれるように、作品というものは作者の手を離れたとたん勝手にひとり歩きをはじめるものであり、いったんそうなってしまったら最後、「本当はこういうつもりで作った」などと主張したところで聞き入れてはもらえないからだ。ぼくが工芸の解説を聞いたりするのも、作者がどういった思いをこめて作ったかというよりは、具体的にどのような素材や技法を駆使したかを知りたいからである。

 しかし三沢厚彦は、自分の技法についてほとんど何も語らなかった。現代の美術は立体作品に限らず、絵画や、とりわけ“ミクストメディア”と呼ばれるような - 早い話が分類するのが厄介な - さまざまなジャンルにおいても、作者の技術的な巧拙に関してはあまり言及されない。なかには美大でいったい何を教わってきたのかというような、テクニックのまったく感じられない作品もある(それこそ野田弘志に代表される写実絵画は、大きな例外だが)。“どのように作るか”よりも“どんなものを作るか”が、今の芸術家にとって最大の関心事なのだろうかとさえ思われる。

 三沢の話のなかで印象に残ったのが、リアリティーとリアリズムはちがう、というようなことだった。たしかに、写実絵画の身上はリアリズムの具現化であるが、そこに描かれているものに生き生きとしたリアリティーを感じられるかというと、一概にそうともいえない気がする。逆説的にいえば、リアルすぎるがゆえにむしろどことなく空虚な、現実のものではないものを観ているのだという感じにうたれることが、なくはない。写真に撮られた顔が、その瞬間によってまるで別人に見えることがあるように。

 動物というものはわれわれに親しい存在であるだけ、リアルに作り上げることは難しい。あまり本物に忠実すぎると、それは剥製になってしまう。野田弘志をはじめとした写実画家たちが、人間は別としてほとんど生き物をモチーフに取り上げようとしないのも、そのへんに理由があるのではないか。野田は、動物は動物でも、その骨を執拗に描いている。たしかに毛皮に覆われた体が滅び去って、あとに残った白い骨はもはや不動のものであり、確固たるリアリズムに耐え得るだけの強固なモチーフとなるだろう。だがときとして、それはあまりにも冷たく、われわれの日常からは遠くかけ離れてしまうのである。

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動物を彫るということ(1)

2011年05月25日 | 美術随想

〔旧明倫小学校の校舎を再利用した京都芸術センター〕

 久々に、美術随想を書き継ごうという気持ちになってきた。東日本の大震災は、ぼくの精神活動にも大きな影響を与えたのだ。

 ただ、前に書きかけていた記事はもう古くなりすぎて、そのつづきをやろうという気にはならない。まずは、最近観た展覧会のことから筆を起こしてみようと思う。

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 ぼくはもともと作家志望であったから、週刊誌なんかより月刊文芸誌のほうをよく買ったし、今でもときどき買っている。ただ、掲載されている文学作品よりも、表紙を飾っている美術作品のほうから強いインパクトを受けることが少なくなかった。

 20年ほど前、親もとを離れて大阪に越してきたころから「文學界」誌を買いはじめたのだが、そのときの表紙は現代写実絵画を代表する野田弘志が担当していた。当時ぼくは野田の存在を知らず、その作品が絵画か写真かさえ判然としないありさまだったが、やがてすっかり彼の世界にのめりこみ、展覧会を観るためにわざわざ夜行バスに乗って広島まで出かけるほど熱中してしまったものだ。

 その後、静謐なインスタレーションで知られる内藤礼といった、およそ雑誌の表紙とは似つかわしくないアーティストを起用するなどの野心的な試みを経て、最近は三沢厚彦の作品がその表紙を飾っている。これまた、別の意味で文芸誌とはまったく似つかわしくない。何せ、それは動物の彫刻だからだ。木彫に彩色された、ユーモラスでもありちょっと気味悪くもある、クマやネコやサイやキリンたちなのである。

 古い小学校を改装してギャラリーやアトリエを設えた京都芸術センターで、その三沢の展覧会が開かれていた。作品からはあまり想像できないが、彼は京都の出身だという。念願だった故郷での個展の開催と、学び舎の懐かしいおもかげが残る会場にちなんで、この催しは「Meet The Animals ― ホームルーム」と名づけられた。

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参考画像:高村光雲『老猿』(重要文化財、東京国立博物館蔵)

 三沢厚彦は、昨今のアートの世界においては特異な存在である。むしろ、現代美術の範疇に安易に組み入れられることを拒んでさえいるようだ。およそありとあらゆることがやりつくされた感のある現代美術だが、ざっと記憶をたどってみても、この人の仕事は他の誰にも似ていない。

 木で作られた動物の彫刻ということでいえば、高村光雲の『老猿』をはじめとして前例がないわけではなかった。けれども『老猿』のポーズには実はあまり猿らしいところがなく、腰を不自然にひねったままで眼光鋭く上のほうを睨む姿は、明らかに作為的だ。光雲は実際に生きた猿を連れてきて写生をしたそうで、本人が次のように書き残している。

 《モデルはその頃浅草奥山に猿茶屋があって猿を飼っていたので、その猿を借りて来ました。この猿は実におとなしい猿で、能(よ)くいうことを聞いてくれまして、約束通りの参考にはなりました。》(高村光雲『幕末維新懐古談』)

 だが仕上がった作品を観てみると、とても「実におとなしい猿」とは思えない。猿の左前足 ― 別に“左手”と呼んでも差し支えあるまいが ― には鳥の羽根がしっかりと握られており、彼は鷲と格闘したあげく取り逃がした相手を睨み据えているところだという。もちろん彫刻家の眼の前でそのような激戦が演じられたわけではない。次のエピソードを読めば、実際に光雲はどんな猿をモデルにしていたのかがわかる。

 《物置きに縛(つな)いで置いたが、どんなに縄をむずかしく堅くしばって置いても、猿というものは不思議なもので必ずそれを解いて逃げ出しました。一度は一軒置いてお隣りの多宝院の納所(なっしょ)へ這入り坊さんのお夕飯に食べる初茸(はつたけ)の煮たのを摘(つま)んでいるところを捕まえました。一度は天王寺の境内へ逃げ込み、樹から樹を渡って歩いて大騒ぎをしたことがありますが、根がおとなしい猿のことで捕まえました。》(前同)

 このところ、凶暴化した猿が市街地をわがもの顔に荒らし回り、人間どもを相手に大捕物を演じるなどというニュースをよく耳にするが、『老猿』のモデルになった猿も人間の手を煩わせたとはいえ、まだまだ可愛いものだ。しかしその無邪気な、ある意味で人馴れした猿を前にして、あのような迫力にみちた造形を作り上げるには、そこに付与されたストーリーが要るはずである。鷲と闘って云々という話は単なる添えものではなく、作品の成立を左右する重要な鍵を握っていたのだ。

 しかし、三沢厚彦の彫る動物たちには、そんなストーリーは存在しない。彼らはただそこに、ありのままに存在しているだけなのである。

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生まれていちばん暑い夏(2)

2011年05月19日 | その他の随想


 話を現実に戻さねばならない。

 現在のわが家には3台ものエアコンが設置されている。住人はぼくと妻のふたりだけなので、すべてを同時に使うことはないが、要するにダイニングルームに一台と、それぞれの居室に一台ずつある。一部屋に一台のエアコンが当たり前になっている昨今、別に珍しいことではないだろう。

 だが、ぼくが生まれた頃は ― もちろん福井での話で、他の場所ではどうか知らないが ― エアコンはまだ貴重品だったと思う。ぼくが育った家にはたった一台、客間兼仏間の窓に縦型のクーラーが嵌め込まれていて、もっぱら来客のあるときだけ使われていた(冬は寒い福井だが、暖房機能はなかった)。リモコンもなく、何やら難しいスイッチやダイヤルがついていて、どこをどうやったら動くのかもわからなかったが、それ以前に子供がおいそれと触らせてはもらえないようなシロモノだった。ものものしい応接テーブルや切子ガラスの灰皿、卓上ライターなどの一式と並んで、大人社会の敷居の高さを象徴するような道具だったのである。

 福井で18歳まで暮らしたあと、大阪に出て木造の安アパートに住みはじめたのだが、その部屋には風呂もトイレもないのに、エアコンが備え付けられていた。ぼくにはカルチャーショックといってもいいほどの驚きだったが、これでどうやら自分ひとりで自由に使えるエアコンが手に入ったのだった。

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 それから20年あまり、時代の流れか、それとも誰かのたくらみかは知らないが、昔あれだけ身近にあった扇風機はみるみる減り、すっかりエアコンにお株を奪われてしまった感がある。

 新しく建てられるビルには必ずエアコンが整備され、室外機がベランダに鈴なりになった醜い外観の建物が増えた。かつては大阪の地下鉄にも冷房のない車両があり、窓を全開にしたまま暗いトンネルの中を走っていたりしたものだが、今はもうないだろう。いつの間にか日常生活には欠かせぬ生活必需品へと“昇格”したエアコンだが、家庭の電力消費量のうち四分の一をエアコンが占めていると聞くと、なぜそんなものがわが家に3台もあるのだろうかと、ぞっとする。

 しかしよく考えてみると、積極的に扇風機を遠ざけねばならなかった理由など、何ひとつないのではなかろうか。LPレコードが姿を消してCDが台頭してきたように、アナログからデジタルへという必然的な流れがわれわれの生活を押し流しつつあるが、それとも関係がない。あえていえばラジオ全盛の時代に突如としてテレビなるものがあらわれ、あれよあれよという間に日本を席巻していった、そんな動きに似ているかもしれない。

 思うに、暑い日には冷房を、寒い日には暖房を提供することが、ひとつのサービスの形態として定着していったのではなかろうか。商業施設などでは客寄せの手段として、エアコンの設置は不可欠のものとなった。猛暑を避けるために百貨店へ逃げ込む人は、都会では数知れないだろう。日本中の商店街から客足が遠のいている理由は、こんなところにもあるにちがいない。

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 今年の夏は、いくら客商売といえども、無制限に冷房をかけつづけるわけにはいかなくなるのだろうか。今、おそらくさまざまな模索やシミュレーションが繰り返されていることだろう。

 けれども、10万人以上ともいわれる人々がいまだに避難所での生活を強いられていることを考えると、われわれ関西人が味わわねばならない苦労など、何ほどでもない気がする。今日、福島では最高気温が30度を超えたという。寒さとの戦いだった避難生活が、“冷房のない夏”との戦いに変貌する日も近づいているのである。

(画像は記事と関係ありません)

(了)

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生まれていちばん暑い夏(1)

2011年05月16日 | その他の随想


 つい先日まで肌寒い日があり、今年はなかなか冬が終わらないなどと思っていたら、いつの間にか気温が25度を超えることもでてきた。季節の移り変わりとはかくも性急で、情け容赦ないものなのだろうか。

 だが今年ばかりは、夏の訪れを呑気に待ち構えているわけにもいかないようだ。このたびの大震災に端を発する原発事故により ― これは不名誉な「レベル7」の称号を与えられたうえになおも継続中だが ― 夏場の電力供給量は決定的に不足することが眼に見えているからである。

 そしてこの事故は、原子力発電という仕組み、ましてやそれに依存しながら暮らしてきたわれわれ日本人の日常生活そのものが根底から問い直されるという事態を招いた。誰もが何となく不安に思いながらも直視するのを避けてきたことがらを、否応なく眼の前に突きつけられたかっこうである。もはや“きれいごと”は通用しないし、問題を先送りすることもできない。本格的な夏の到来は、待ってはくれないからだ。

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 ぼくは今でもよく思い出すのだが、十数年も前のある夜、毎晩のように超過勤務をつづけている(らしい)同僚のオペレーターに向かってこう問いかけたことがあった。

 「いつもこんな時間まで働いていて、大丈夫なの? もう夜も遅いのに」

 当時のぼくは福井から大阪に出てきたばかりで、ネオンや街灯の少ない田舎の夜の風景が懐かしかったこともある。だが、彼はこんなふうにこたえたものだ。

 「大丈夫ですよ、原子力もあるし」

 ぼくには一瞬意味がわからなかったが、つまり夜中まで煌々と電気をつけて ― もちろんパソコンも使って ― いくら仕事をしていても電気が底を突く心配はないという意味だろうと、あとでわかった。

 いうまでもなくぼくは彼の健康を心配して声をかけたのだったが、彼はまるでこう考えているかのようだった。日本の労働力を支えているのがほかならぬ原子力で、それが24時間稼働して電力を絶えず起こしつづけている以上、人間が夜も休まず働きつづけることには疑問を差し挟む余地もないと。そうでもして働かないと、われわれ勤め人は満足な給料も得られないのだと。

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 けれども、そうやって大阪の夜の労働を支え、数多くの夜勤従事者の生活に力を貸してきた電力の何割かは、わが故郷の福井に建てられた数機の原発から送られてきたものだったのだ。そこに考えが及んだとき、ぼくは背筋に寒いものが走るのを覚えた。原発の安全性が信じられないから、というわけではない。人口の少ない僻地に原発を作り、そこで都会の電力をまかなっているという図式が、あまりにも中央集権的な、都合のよすぎる発想のような気がしたのである。

 今回、福島周辺で避難生活を強いられている人たちのなかには、農業や畜産業に従事する人が多く含まれている。彼らは夜の人工的な照明のもとで働いていたわけではない。天然の太陽の恩恵を受けた、まことに健全なる仕事をしていた人たちなのである。そんな無辜の民の生活が、都会に送る電力を製造するために作られた得体の知れないマシーンの故障によって危機に晒されているとは、どう考えても理不尽な話だとしか思えないではないか。

(画像は記事と関係ありません)

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