てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

京の文化の層を観る ― 三条高倉にて ― (1)

2014年01月30日 | 美術随想


 また少し間があいてしまったので、別の記事を挟むこととしよう。

 先日、京都文化博物館へと出かけた。いつもは日曜に出かけることが多い京都だが、この日はがんばって土曜の午前中に家を出た。今年から仕事の派遣先が変わって、普段よりかなり早く家を出なければならなくなったので(そのせいで多少の“通勤ラッシュ”に揉まれるハメにもなったが)、体内時計がちょっとばかり朝方にズレたせいだろうか。その代わりに夜は異常に眠く、ぼくをパソコンから遠ざける一因となってもいるのだけれど・・・。

 久々に訪問した土曜日の昼前の京都は、意外なほどに人が少なかった。某施設の入口で、普段は来場者たちに忙しなく呼び込みのチラシを渡しているおじさんも、この日は暇なせいか、職員らしい人を相手に無駄口をたたく余裕すらあるようだ。

 こんなときにこそ、いや寒い時季だけになおさら、美術館や博物館で朝から晩まで過ごすのがいい。適度に暖かくて、あまりお金がかからないからだ(何か所もハシゴすれば別だが、ひとつの場所にどれだけ長居をしても、喫茶店ではないのだから追い出される心配はない)。

 京都文化博物館は、さまざまな催しを同時進行的におこなう場所だから、必要最小限の出費でもって多彩な展示物を観ることができる。とりわけ総合展示室と呼ばれるフロアは、京都の歴史が概観できるようになっていて、修学旅行生などにはもってこいではないかと思うのだが、ぼくも他の展覧会を観たあとなどでは疲れてしまって、何となく素通りした記憶しかない。

 ただ、こんな適当な鑑賞のしかたをしたぐらいでは、眼の前を流れていく回転寿司をただ眺めているのと同じで、腹も満たされなければ心も癒やされまい。いつか、時間を見つけて朝から晩までこの文化博物館にはりついてやろうというのが、ぼくのささやかな目標である。

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 まずはかつて日本銀行の建物だった別館に入って、ちょっとおもしろい展示物と対面し(このことはいずれ詳しく書くと思うが)、本館のビルの5階にのぼる。ここに入場するのは無料なので、ときどき足を運ぶことがある。

 この日は、「京都美術文化賞受賞記念展」なるものをやっていた。覚えているところでは、4年ほど前にも同じ場所で、同じ記念展を観ている。そのときの受賞者のなかに、野村仁という、いっぷう変わった現代アーティストがいた。太陽や星を写真に写してつないだり、天体の運行を楽譜にして音楽を奏でたり、というようなことだったと思う。ぼくは、かつてNHKの番組で紹介されていたので野村のことを知っていたし、他の場所で作品に接したこともあったが、京都の名を冠した賞が与えられるとは、ちょっと意外に思った。

 もちろん、京都といっても古びた伝統工芸だけではないのだ。今回の受賞者のひとり、染色作家の麻田脩二は、名前から連想されるように麻田辨自や麻田鷹司たちの親戚にあたるそうだが、かつて京近美でも回顧展が開かれた稲垣稔次郎に学び、南禅寺の塔頭に下宿しながら制作に励んだという。

 展示されていた作品は、まるでカラフルな図形のようで、菅井汲の絵を連想させるスタイリッシュなセンスのよさがある。京都に深く根付いているはずの工芸の分野にも、ほとんど無国籍的ともいえるドライな表現が横溢しているのは新鮮だった。日本的な湿っぽい情緒など、ここには無縁なのだ。

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年明け東京周遊記(7)

2014年01月19日 | 美術随想
正月気分でトーハクへ その2


『火焔土器』(縄文時代中期、東京国立博物館蔵)

 「日本美術の流れ」と題された展示室に入る。かつて、教科書などでよく馴染んでいた縄文式土器が、やはりその発端に位置するように冒頭に陳列されている。

 だが、今となっては有名な話だと思うけれど、縄文式土器の価値を“再発見”したのは、美術史家でも考古学者でもなく、一介の絵描き(本人はそう呼ばれるのをいやがるだろうが)である岡本太郎だった。もちろん、それ以前にも土器は発掘されていたし、実際に展示されてはいたようだ。彼が縄文式土器に出会い、狂喜して写真を撮りまくったのは1951年というから40歳のとき、ここ東京国立博物館でのことらしい。

 以来、縄文式土器に新しい光が当てられたという。太郎も多くの論文を残しているようだが、まとまったかたちで読んだことはまだない。ただ、のちの太郎の仕事ぶり、とりわけ彫刻や陶芸などの立体作品を観ていると、ひしひしと“縄文的”なものを感じ取ることができるように思う。

 それは何かと問われれば、無茶を承知で要約すると、余計な動きの多さ、とでもいおうか。土器はおそらく食料品などを保管したりするためのものだったのだろうが、のちに柳宗悦らが見いだした“用の美”とは対極にあり、観る者に「いったい何のために?」と首をひねらせる過剰なまでの装飾にみちている。強いていえば、それば“無用の美”なのであろう。

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参考画像:岡本太郎『縄文人』(1982年、川崎市岡本太郎美術館蔵)

 太郎は、よく知られているように、今でいうところのパブリック・アートを数多く手がけた。パブリックというのは“公的な”という意味であるから、なるべく多くの人に愛されるような、いいかえれば突出したところのない性格のものが求められるのが普通だろう。しかし、彼が作るものはことごとく、露骨なまでの“岡本太郎”らしさの主張に満ちていた。

 たとえば例の「太陽の塔」だが、万博という世紀の一大イベント、全世界から国境を越えて人々が集うという桁外れのお祭には、三波春夫が歌ったように「こんにちは」と率直に歓迎するためのシンボルが必要とされるはずだ。しかし、テーマ館として太郎が作り上げたのは、まるで来場者を睨みつけるかのような不機嫌な顔をもつ“ベラボー”な建物だった。

 それから40数年を経た今、やたらと愛嬌を振りまく“ゆるキャラ”なるものが日本中を跋扈しているのを見ると、孤高の存在として千里丘陵に突っ立っていたあの塔から、ずいぶん遠く離れたところまで来てしまっていることを実感せざるを得ない。

 縄文式土器という様式も、その前後の時代からすると何の連関性もなく、突出しているということがいわれている。いわばあの1万年あまりが、古代の日本にとってもっとも岡本太郎的な、破天荒でおもしろい時代だったのではあるまいか。もう一度、日本を挙げて「縄文リバイバル」のようなものが勃興することを心待ちにしているのは、ぼくひとりではあるまい。

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年明け東京周遊記(6)

2014年01月14日 | 美術随想
正月気分でトーハクへ その1


〔東京国立博物館のチケット〕

 「やあ、こんにちは」とあいさつしているような埴輪の写真に、勾玉のスタンプが押されたチケットを受け取って、門をくぐった。「謹賀新年」と書かれた幕が下がっていたりして、雰囲気を盛り上げる。正面の本館入口では、和太鼓の演奏。のちには、ここで獅子舞も出た由である。

 本館の内部に入ると、荘厳な大階段が迎えてくれた。あとから知ったことだが、ここは昨年度の高視聴率を記録して、さる流行語も生み出した経済ドラマのロケに使われたらしい。しかし、流行に疎いぼくはその番組を見ていないので(階段の写真を撮りそびれたのもそのせいだが)、いったい何が“倍返し”なのか、いまだにわからないままだ。


〔帝冠様式による本館は、赤煉瓦の京博に比べて渋い印象〕

 ついでながら、昨年出かけた東京都美術館のレオナルド・ダ・ヴィンチ展の会場が、某ドラマのワンシーンに使われているのをたまたま見たことがある。そのときは美術館の建物だけではなく、展覧会場の内部に入って撮影がおこなわれたらしい。もちろん、展示されていた作品もいくつか映り込んでいる。このときは、そのドラマの放送局が主催者に名を連ね、音声ガイドも主演俳優が務めていることから、要するにタイアップというのはこういうことか、と思ったが、本物のダ・ヴィンチの作品を背景にドラマが収録できるなんて、何とも贅沢な話である。

 ほかにも、展覧会にカメラが入って視聴者を案内するタイプのテレビ番組がいくつかあるけれど、どうしても撮影用の照明が要ることはシロウトでもわかる。ぼくは展覧会の初日にはなるべく出かけないようにしているのだが、それはニュースの取材などが入って、作品に煌々とライトを当てるのが苦痛だからだ(その光の強さたるや、われわれの想像をはるかに上回っている)。日ごろは美術番組を喜んで見ているが、それが作品に多少のダメージを与えるのではないかと考えると、ひやりとさせられないこともない。

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〔ステンドグラスから朝の光が射し込む〕

 さて、階段をのぼりながら見上げると、壁面には大時計。その下には、華やかな生け花が正月を演出している。先ほどはひと気のない寺や神社を見てきたあとなので、ようやく東京で正月を迎えた実感がわき起こってくる。

 2階には貴賓室があり、特別に扉が開かれて内部が鑑賞できるようになっていた。もともと皇族方の休憩のために作られたそうだ。ということは、京都や奈良の博物館にも、やはり同じような部屋が用意されているのだろうか?


〔階段をのぼったところにある豪華な貴賓室〕

 話はまた横道にそれるが、高貴なお方でなくとも、博物館や美術館のなかに休憩できるスペースがあるとうれしい。トーハクはその点、部屋と部屋のあいだとか、階段の周りなどに、ふんだんに椅子が置かれているので助かる。実はこの日も、夜行バスで眠れない夜を過ごしたあとだからか、それとも上野公園をうろうろしすぎたためか、しばしば猛烈な眠気に襲われ、椅子に座って体を休めたりしながらでないと先に進めなかった。

 けれど、正月で夜更かしをしている人も多いと思うのに、他の人たちはひたすら元気で、熱心に展示室を歩き回っている。美術鑑賞は体力との戦いでもあると、このところ痛感している次第だが、トーハクのような広大な敷地を旺盛に巡るつもりならば、バスによる強行軍もそろそろ限界に近づいているのかもしれない。いいかえれば単に、ぼくが年を取っただけなのかもしれないけれど・・・。

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年明け東京周遊記(5)

2014年01月11日 | 美術随想
新宿着の夜行バス降りたときから その5


〔日本最初の音楽ホールである奏楽堂〕

 東照宮を離れて、動物園の前を横切る。まだ開門前なのに、すでに30人ほどの家族連れが列を作っていた。ここ上野を“大きな動物園のある場所”と思っている人と、“美術館や博物館のメッカ”と思っている人と、どっちが多いのだろう、というようなことをふと思う。

 ちなみに大阪の天王寺でも、そして京都でも、美術館のすぐ隣に動物園があるが、ぼくは美術館のほうにしか行ったことがない。うまく住み分けができていれば、それでいいのかもしれない。上野にはこれからも繰り返し足を運ぶにちがいないが、ぼくが動物園のなかに立ち入ることはおそらくないだろう(動物が嫌いなわけではなく、時間がないのだ)。

 かつて何度か訪れた東京都美術館を通り過ぎると、旧東京音楽学校の奏楽堂があった。もともとこの場所にあったわけではなくて、近年に移築されたものだが、日本における西洋音楽の黎明期を支えた重要な建物である。ホールでは滝廉太郎や山田耕筰が演奏し、若き日の岩城宏之や山本直純らが大きな夢を抱えて出入りしていたはずだ。


〔建物の脇には滝廉太郎の銅像がある〕

 何年か前、宮崎あおいが主演した連続テレビ小説「純情きらり」の再放送を見ていたら、実際の奏楽堂がロケに使われていたので驚いた。何にしても、現在の日本で大勢のクラシックの演奏家たちが活動し、連日のようにコンサートがおこなわれているのは、奏楽堂から撒かれた種が見事に成長し、実をつけたからにほかならない。残念ながら建物は閉館中だったが、いつかは内部に入ってみたいものだ。

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〔耐震工事中の黒田記念館〕

 ここには、もうひとつ閉館中の建物がある。日本洋画の祖ともいえる黒田清輝を顕彰する、黒田記念館である。施設としては東京国立博物館に属するが、入館は無料だったはずだ。しかし、連日公開されていたわけではないので、東京の美術ファンにも意外と穴場だったのではないか。

 煉瓦作りの瀟洒な外観は風格があって、つい立ち止まって眺めたくなる。うまくいけば、このなかで例の『湖畔』や『智・感・情』といった名画がタダで鑑賞できるのだ。再開されるのは来年の1月とのことなので、楽しみに待ちたいと思う。

 ただ、今回の別の展覧会で、思いがけず黒田清輝の作品に出くわす機会があった。そのことについては、のちに触れることになるだろう。

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 気がつくと、トーハクが開く時間も近づいていた。何やら、太鼓を連打する響きも聞こえてくる。正月気分が否応なく高まるが、こちらは6年ぶりの博物館訪問ということもあって、いささか緊張している。過去にも円空仏の企画展とか、洛中洛外図が勢揃いする展示とか、関西で指をくわえているにはあまりにも惜しい展覧会があって悔しい思いをしていたのだが、再訪する機会にめぐまれなかった。

 ゲートに近づくと、動物園ほどではないが、開門を待ちかねた人々が集まっている。なかなかの熱気だ。さて、今年の美術行脚は、ここから幕が切って落とされるのである。

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年明け東京周遊記(4)

2014年01月10日 | 美術随想
新宿着の夜行バス降りたときから その4


〔漱石の『三四郎』にも出てくる上野精養軒〕

 池を離れて、坂をのぼる。有名な老舗レストラン精養軒の前を過ぎ、足が疲れてきたころに、上野東照宮への参道が見えてきた。昨年放送されたテレビで、長年にわたる修復が年末に終了することを知ったので、機会があれば足を運ぶつもりだった場所だ。

 ぼくはいまだに、日光の東照宮には行ったことがない。しかし、いつも団体客でごった返していることは何となく知っている。ひょっとしたら上野の東照宮も、このたび新装なったということで、初詣をしようとする人がとぐろを巻いているかもしれない・・・。

 そんな思いでおそるおそる近づくと、意外にというべきかどうか、境内にはほとんど人の姿はないのだった。社殿がまだ公開されていないせいかとも思ったが、参道の突き当たりには賽銭箱が置かれていて、お参りできるようになっている。さほど有名でない神社でも初詣には列ができるという ― 現に御香宮神社でも30分並んだのだ ― 京都の実例に肌で接したあとだけに、しかも日光の混雑ぶりが頭にあるだけに、閑散とした正月3日のありさまはまったく拍子抜けというしかない。


〔整列しているように並んだ無数の石灯籠〕

 人がいないぶん、参道脇に建ち並ぶ灯籠の数々が眼につく。石でできたものと、青銅製のものと、全部で何百基あるのだろうか、かなりの量だ。たくさんの石灯籠なら大阪の住吉大社でも見たが、そちらは大きさもスタイルもバラエティーに富んでいた。こちらは形状の統一がとれていて、整然と並ぶ様子は美しい。神となった家康公が従える従者たちといった感じがする。

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〔上野東照宮の唐門〕

 せっかくなので唐門に近づいて、塗り直されたばかりの装飾をしげしげと眺めた。真新しい金の輝きが、朝の光に映える。写真を撮っていても、誰ひとり邪魔にならない。巨大なお宝を独り占めしているような、妙な高揚感がある。

 だが、かつて京都市民だったぼくは、古色蒼然たる神社仏閣のほうに惹かれるものがあるのもたしかだ。わかりやすくいえば、金閣寺よりも銀閣寺のほうが、心を落ち着かせるのである。オリンピックでは、金メダルを「いちばんいい色のメダル」と称し、それも間違いではないと思うが、街を歩いていて髪を金色に染めた若者とすれちがったりすると、その毒々しさに顔を背けたくなる。そういう危うい二面性を、金という色がもっていることは否定し得ない。


〔左甚五郎の作といわれる龍も鮮やかによみがえった〕

 もちろんかつては、すべての文化財が新しかったわけで、新築ホヤホヤの寺や神社が建ち並んでいる景観もあったにちがいない。いってみれば、寂れた寺社をありがたがるなどというのは、当初は予想し得なかった意外なる属性というべきものだ。運慶も快慶も、当然ながら新品の仏像を造っていたわけで、時間の経過とともにあらわれる枯淡の“味わい”は、いわば現代のわれわれにだけ与えられた偶然の副産物なのである。

 それを、よしとするか。もう一度、新品同様のものを求めるか。究極の選択といったところだ。もちろん今回の上野東照宮の修復は、デパートが売り場をリニューアルするのとはちがって、人の眼を惹くためのものではなく、文化財を維持するうえでの必要性に迫られてのことだろう(そうでなければ、この日の参拝者の少なさは哀れなほどだ)。

 だが、ぼくとしては、もう少し歳月が経って適度に薄汚れたころに、ふたたびここを訪れてみたいと思った。そのほうが、歴史ある建物が多い上野という土地柄に、ほどよく馴染むような気がするのである。


〔繊細な透塀(すかしべい)と銅製の灯籠〕

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