てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

大阪の街を歩いて

2022年03月02日 | その他の随想


 昨年の12月のことであるが、「新型コロナ」以外の話題が世間をざわつかせることになった。各局のテレビのニュースはトップでこのできごとを扱い、世間の関心もかなり高かったようだ。

 それこそが、大阪の北新地で突然発生した放火事件である。容疑者も死亡してしまい、これ以上調べても明らかになることはほとんどないだろうし、砂を噛むような虚しさと、「何とかしてこの事件を未然に防げなかったのか」という切なる思いが、今でも胸の中を去来する。

 というのも、この放火されたビルは、ぼくがいつも通勤で利用している駅のすぐ近くなのだ。けれども駅は地下に潜っており、会社への往復も地下道を使っているので、普通に行き来していただけでは、火事の現場を見ることはない。ぼくは野次馬に成り下がりたくはなかったので、わざわざ地上に出て焼け跡を眺めることもしなかった。ただ家を出る前に、テレビの中継で現場からの映像を見て、大変なことが起こったな、今日は無事に出勤できるだろうか、と考えたばかりである。

 だが、地下の駅を降りて会社へ向かう途中、さっきのニュースは嘘ではなかったのかと思うほど、何ごとも普段どおりであった。すぐ近くのビルで大惨事があり、多くの人が巻き込まれて亡くなったことなど誰も知らないかのごとく、いつものように人々は談笑し、親子連れや恋人たちは手をつないで楽しそうに歩いていたのである。

 一方で、出勤先ではもちろん、その火事の現場を見た、などの話で持ち切りであった。それをまるで自分の手柄であるかのように、大声で話しつづける人もいた。けれども、命を落とした罪もない多数の人々、そして凶行に至った犯人の心境などを思うにつけ、ぼくは胸の底に大きな石を詰め込まれたかのように無口になり、周りの誰かのように話の輪に入ることはできなかったのだ。

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 思うに、最近、奇妙なことが多すぎる。社会のひずみのようなものが、あちこちに露出しているような気がするのである。

 日本という国は、以前はもっと平和な、のどかな国だったと思うのだが、いつからこんなふうになってしまったのであろう。いや、ウクライナのように戦争に巻き込まれているわけではないから、平和は平和だ。ただ、見えないところで、人の心を傷つけて得意になっている人が増えているように思えてならない。

 これを“陰湿化”といってしまえば、話は早かろう。けれども、人の命や性格といったものが、年月を越えて受け継がれて行くものだとしたら、今のこの異常な事態が、いつか“顕在化”してしまわないとも限らない。むしろ、病巣がどんどん皮膚の下に潜り込み、根治させるのが困難な事態に立ち至っている、とはいえないだろうか。

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 先日、夜遅く、その火災の現場の前を通り過ぎた。そこは雑居ビルだったから、各階にさまざまな店が入っているのだが、今はもちろん、どこも営業していない。そのときは事件が発生してからすでにかなりの日数が経っていたからか、特に警備の人がいる様子もなかった。

 ただ、ビルの前に、慰霊の花束が山のように供えられていたのである。これは、大阪のような都会では滅多に見ることのない、異様な眺めであった。大阪ではしょっちゅう、鉄道の人身事故が起こるが ― そしてかなりの確率で死者が出ているのだが ― 現場に花が手向けられているのを見たことはない。むしろ、他人の迷惑を考えろ、といったドライな声がSNSに溢れたりするのではないかと思うのだが、このたびの悲惨な放火の場合には、通行人の迷惑を顧みることなく、路上に花束が山と積まれていたのである。

 これが、今の時代では見えにくくなった良心の姿なのか。いや、そんな簡単なものではないであろう。ただ、都会の人込みに紛れてしまった人間の心の一部が、そこに漂っているような気配はしたのだった。あってはならない、つらい事件の付属物としてだけれども…。

 しかし数歩進むと、すぐそばのビルでは、コーヒー店でくつろぐ客たちがカップを前にスマホいじりに没頭しているのが見えた。これも、好き嫌いはどうあれ、現代を代表する風景の一部である。

 多くの人が亡くなった現場、そこに供えられた大量の花、そしてその近くでは平常どおりスマホに夢中になる人々。これが都会の断面図なのだ、といえばそうであろう。だが、ぼくはこういった人々に混じって、どうやって生きていったらいいのか、そんな問いを突きつけられたような一夜であった。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

日々のこと(1)

2021年07月29日 | その他の随想


 去年からは、まったくひどい日々の連続だ。もちろん、例のウイルスのことである。われわれの日常生活というものは、去年を境に、本当に一変してしまったのだろうか? そうは思いたくないのだが。

 美術の面に限っても、さまざまなスケジュールの変更があり、休館に追い込まれる美術館も相次いだ。休みのたびごとに展覧会に出かける習慣のあるぼくとしては、困惑するしかない事態だった。しょうがないから、あまり“密”になることのない植物園などへ出かけ、木々の鬱蒼と茂るなかを歩いたりして時間をつぶしていたものだ。

 やがてそんな日も過ぎ、休館明けの最初の日に、南大阪にある小さな美術館に出かけて行った。他に来客は誰もおらず、監視員の姿もなかったので、ぼくはマスクを外し、それまでの飢えを満たすように、絵画とじっくり向き合った。久しぶりに本物の美術と相対する喜びに、ぼくの体は震え上がらんばかりだった。何というか、“美術のありがたみ”を再確認したような気持ちだったのだ。自分にとっては、こういったものは決して“不要不急”のものではないのだと。

 さて、展示を観終わって美術館を出ようとすると、係員の人から呼び止められた。話によれば、ぼくが休館明けの最初の客だったというのだ。ぼくがそこに出かけたのはすでに午後のことなので、午前中にはひとりの客もいなかったということになる。美術に飢えていたのは、ぼくだけではないはずなのに・・・。

 やがて、館長さんが出てきた。もちろん双方ともマスクをしていたが、ちょっとばかり世間話をした。美術館の館長なる人と会話をするのははじめてのことなので緊張したが、どこかの企業に勤められていた方らしく、学者然としたところはなくて、豪快なオジサンといった感じだ。

 ついにぼくは、休館明け最初の来館者として、記念写真に写されることになった。ロビーの花瓶の横に立って、マスクをしたままシャッターを切られたぼくは、このことに何の意味があるのか、ちょっと疑問に思いもしたのだが・・・。

 いよいよ美術館を後にしようとするぼくを、館長さんは、あたたかな握手で送ってくれた。この時期に握手をするのはいかがなものか、という気もしたが、自分の美術館に久々に人が来てくれたことがそれほどうれしかったのだろう、と思うことにしている。

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 ただ、これも思い返せば遠い話で、それ以降も緊急事態宣言は繰り返され、今が第何波なのかもよく分からない状態になっている。

 明けない夜はない、などといわれているが、ではいつになったらこの夜は“明ける”のか、まったく見当もつかない日々だ。本当に、ため息が出るというものである。

つづく

(画像は記事と関係ありません)

城をめぐりて(1)

2021年02月26日 | その他の随想

(1月、晴れの日の大阪城)

 最近、大阪城によく行く。あまり家にいたくないので、いつもどこへ出かけるか考えているが、大阪城は定期券だけで行けるので、交通費はかからない。

 ただ、ぼくが大阪城に惹きつけられる理由は、それだけではないだろう。ここのところ城ブームのようで、日本の名城をランク付けするテレビ番組があったりするが、ぼくは別段、城マニアというわけではない。むしろ大阪城は、エレベーターが完備されるなど近代的すぎて、これまでちょっと敬遠してきた傾向があった。

 どちらかといえば、急峻な階段を苦労しながらのぼる姫路城のほうが好きだったものだ。天守閣の険しさを、身をもって教えてくれるのが姫路城でもあったのである。だが最近はコロナの影響で、あまり遠出する気も起きない。それに姫路市立美術館がメンテナンスのため休館中なので、姫路に行く用事もない。わざわざ城だけを見に行くほど、城が好きでもないというわけだ。

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 では、最近のぼくはなぜ、大阪城に足が向くのか。何年かぶりに天守閣にものぼったが、歴史に疎いぼくにとっては、さほど興味をそそられる展示品もない。それに、大河ドラマ「真田丸」も見ていないので、事実関係がまったく分からない。ただ、淀殿が自刃したと伝わる場所を通るときに、ちょっとばかり薄気味悪い感じがしたばかりである。

 思うに、梅田の中心地に勤務しているぼくは、やはり都会のよそよそしい喧噪にウンザリしているのではなかろうか。世間はコロナ禍だの巣ごもりだの“おうち時間”だのといいつつも、個人的にはマスクをしている以外、規則正しい電車の走行に揺られ、従来どおり家と会社の往復をつづけている。判で押したような変化のない生活のリズムが、際限なく繰り返されているのである。

 ところが、そのような日常的な生活の反復といったものから遠く離れた戦国の世、明日をも知れぬ命を懸命に生きつづけた昔の人々に、シンパシーを覚えるようになってきたのかもしれない。いや、今の人々が歴史小説に熱中し、城めぐりがブームになったりするのも、現代生活のつまらなさの裏返し、ともいえるのではなかろうか。つまり、今を生き抜くための堅実な“世渡り”というものが、人間性の奥底を揺すぶることのない、形式的でつまらないものに思えて仕方ないのではなかろうか。

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 こんなものをどうやって運んだのだろう、という気にさせられる途方もない巨石で築かれた石垣を横目に、決して足もとのよくない道をくねくねと歩きながら、やがて天高く聳える城の偉容の前にたどり着くとき、たしかに現代から失われた興奮なり切実さなりが、ふつふつとわき上がるのを感じるのである。

 この年になって、“生活の安定”よりも別の場所によろめきつつあるぼくが、果たして褒められるような者か否か、それは分からないけれども。

つづく

コロナのもとで音楽を(1)

2020年10月16日 | その他の随想

(ある夜のザ・シンフォニーホール)

 今年は、コロナ禍という印象だけで過ぎて行ってしまいそうだ。

 この不自由な暮らしも、せいぜい何か月かの辛抱だと思っていたら、我々の生活を根幹から見直す必要に迫られてきた。本来マスク嫌いのぼくは、マスクをして出歩くことなどなかったが、今は必要不可欠なものになっている。人が服を着て外を出歩くのと同様、マスクなしで出歩くのは破廉恥極まりない、といった勢いだ。

 その一方で、人との接触や、いわゆる“密”を避けるため、さまざまなイベントが中止になった。ぼくの愛する展覧会や、演奏会も例外ではない。展覧会は今でこそ各地で開催されるようになり、これまでの不足を取り返すようにぼくもあちこち出かけているが、ところによっては予約制だったり、入口で整理券を渡されたりすることもある。いざという時のために連絡先を書かされる場合も多い。

 とはいっても、展覧会は人の集まる場合もあれば、さほどでない場合もある。自粛期間が明けるのを待って、さっそく南大阪の某美術館に赴いた際には、公開が再開された日の午後にもかかわらず、ぼくが再開後初の客だと知らされた。当然ながら他の観覧者はおらず、監視員もいなかったので、ぼくは堂々とマスクを取り、いつもと何も変わらぬようにじっくり絵を観て回ったのだった。

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 ただ、演奏会の方はどうなっているのだろう? 今年はベートーヴェン生誕250年という記念の年で、それにちなんだコンサートが数多く計画されていたはずだし、いつも以上に盛り上がる期待もされていたと思うが、やはり大半が中止になったのではなかろうか。

 オリンピックとはちがい、来年に延期というわけにもいかず、どうやらベートーヴェン祝賀の催しは不発のまま過ぎてしまいそうである。こうなったら、さらに50年後の「生誕300年祭」を待つべきかもしれないが、そうなるともう、ぼくは生きてはいない。

(つづく)

地獄の七夕

2018年07月09日 | その他の随想


 今年は正直な話、七夕どころではなかっただろう。その日を含む数日間、日本はまさしく地獄の日々を味わったといっていい。天の川ではなく、地上の河川の動向から眼が離せない人も多かったはずだ。

 我が家の近辺には大きな川はなく、崖崩れを危惧するような山もなく、自分の心配はあまりしていなかった(むしろ、先日以来たびたび発生する地震のほうが恐い)。ただ、ぼくもよく知る京都の鴨川や、渡月橋の掛かる桂川が猛烈な濁流で満たされ、決壊まであと少しという状況がテレビのニュースで報じられたときは、さすがに胸が痛んだ。これでは風光明媚な景色であるとか、納涼床であるとか、呑気なことをいっている場合ではない。

 けれども蓋を開けてみれば、決壊したのは京都の川ではなかった。ぼくのよく知らない岡山や愛媛の町が冠水し、水浸しになっている映像が繰り返し流れ、京都のことはたちまち忘れ去られたようにテレビの画面から消えた。

 もちろん、被害が少なかったのは結構なことだが、ぼくにこのたびの災害を記憶させるのは、今後も京都に足を運ぶたび眼にするに違いない鴨川の景観であり、猛雨に降りこめられた一大観光地が途方に暮れたときの“どうしようもなさ”だろう。最近はインバウンドとか、世界遺産への登録とか、訪日客に主眼を置いたビジネスが散見されるが、いざ今回のような国家の非常時となったときに何ができるか、はなはだ心もとない。

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 実をいうとぼくの生まれ故郷も、数年前に大水害に見舞われた。実家は無事であったが、親戚の家は水に浸かり、転居を余儀なくされた家もあったようだ。

 つまるところ、いつ何時、何が起こるか分からないのが人生である。といってしまえば投げ遣りなようにも聞こえるが、毎年毎年マメに初詣をしたって、ご先祖への礼拝を欠かさなくたって、占い師が何の警告も発してくれなくたって、ひどいメに遭うことはある。なるようにしかならないのである。

 もちろん、備えをすることは重要だ。それと、協力者の存在も欠かせない。2002年のこと、ドイツのエルベ川があふれ、ツヴィンガー宮殿が水没したが、市民たちが所蔵品の避難に力を貸したらしく、2005年には日本で展覧会も開催されている。

 天災に立ち向かうのは困難だが、歴史を未来に残そうという人々の努力が、一定の歯止めをかけてきたのは確かだ。近年の日本は、「観光、観光」で浮かれすぎなのではないか、と思わないでもない。守るべきものを、じっくり守りつづけること。これも大切であろう。

(了)

(画像は記事と関係ありません)