てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ひと夏を折り返す(1)

2010年08月23日 | その他の随想

〔岡崎公園から見た大文字〕

 8月16日の夜、京の盆地を取り囲む山々で順繰りに灯され、そして消えていく五山の送り火は、ひと夏の大きな節目という感じがする。

 お盆になっても里帰りもせず、先祖の墓に手を合わせることもしない私は不孝者だというそしりを甘んじて受けるつもりでいるが、実際問題として、そうそう簡単には帰省できない事情もあるのである。しかし、長い夏を無為にだらだらと過ごすのも得策とはいいかねる。海水浴やプールにはまったく出入りせず、花火見物に出かけるのも最近はおっくうになってきた私にとって、京都五山の送り火は家から比較的遠くないうえに、「夏」らしい破天荒さや無軌道ぶりとは縁のない、一年のうちで大晦日に匹敵するほどの厳粛な夜のひとときを送ることのできる大切な日だといえる。

 ただ、地元の信心深い人たちのように護摩木を奉納したりしたことはない。その点、私は京都市内に部屋を借りて住まった数年間のうちにも、ついに最後までよそ者で ― あるいは熱心な傍観者で ― あることをやめることはできなかった。京都に思い焦がれる気持ちがある一方で、やすやすとは人の群れにもぐり込めない奇妙な孤立意識が、京都市民としての私の身の上を縦横に揺り動かした。結局、後ろ髪を引かれるような気持ちで大阪へ移り住んでから二度目の夏を迎える。

 けれども、今年もやはり送り火を見に出かけずにはいられなかった。かつて無情な残業のために大阪の会社に釘付けにされたときにも、インターネットの中継映像で点火から最後の一灯がかき消えるまで見守っていたほどであるから、私にとって送り火を眺めることは、自分の先祖に礼拝するのと同じぐらいの宗教的体験の一種なのであろうと思わざるを得ない。

                    ***


〔2008年、北嵯峨あたりから見た鳥居形〕

 本当のことをいえば、今回の送り火見物は断念するつもりでいた。ところが想定外の事情で、16日のうちに岡崎公園の図書館へ本を返しに行かなければならないことになったのだ。

 例年のことを思い返してみる。都合よく送り火を見に行く時間がじゅうぶんにあったとしても、その日を平静な気持ちで、心穏やかに過ごしおおせたことはあまりなかったような気がする。火を見ると胸騒ぎがするという性格でもないのだが、なぜか京都の闇を隔ててのぞまれる橙色の炎は、私を物狂おしくさせるのだ。

 2年前のことだったか、鳥居形を見ようと思って嵐山まで赴いたが、北嵯峨に潜む広沢池(ひろさわのいけ)というところで灯籠流しがおこなわれているということをぼんやり覚えていたので、道もよくわからないままにずんずんと夜の奥に向かって分け入ったことがあった。案の定道に迷ってしまい、池にたどり着くことはかなわなかったが、人工の光がほとんど届かない田んぼの畦道に立ち尽くして、まるであの世の入口を覗き見るように、眼の前の夜空に信じられない大きさで燃え盛る鳥居形を茫然と眺めていたのは今でも鮮やかな思い出だ。

 今年はそこまで深入りする気にはなれず、あくまで安全に、無駄な骨折りをすることなく、如意ヶ嶽の大文字だけを拝んで帰ろうと考えた。というのも図書館のすぐ近く、平安神宮の参道と二条通が交差する四つ辻あたりから大文字をのぞむことができるのを知っていたからである。

つづく

テツの東京鑑賞旅行(28)

2010年08月12日 | その他の随想

〔ガラスで覆い尽くされた美術館の外壁〕

 国立新美術館は、黒川紀章最晩年の大作だ。2007年のはじめにオープンし、黒川はその年の都知事選と参院選に相次いで出馬、いずれも落選したあげく、10月には急に死んでしまった。日本建築界を代表する風雲児の最後の数か月間は、まことに波瀾に富んでいた(正直にいうと、その言動はよく理解できなかったが)。

 それから10年あまり前、黒川はぼくの生まれ故郷の福井に、やはり美術館を作っている。福井市美術館というところで、2回ほど訪ねたことがある。当時、福井市内には県立美術館が1館あるきりで、文化活動の面でもいろいろ制約があったのだが、これでずいぶん活発になっただろう。福井ゆかりの彫刻家高田博厚の常設展示のほか、市民参加型のギャラリーとしても使われているようだ。

 その建築はとてもおもしろい。ガラスでできた逆円錐形が地中に埋まったようなかたちをしている。ちょっと大阪のサントリーミュージアム[天保山]に似ている感じもあるが ― ただしそちらは黒川紀章ではなく安藤忠雄の設計だけれど ― ガラスの曲面で覆われている外観は、国立新美術館をかなり小ぶりにした姿にも見えるのである。

 美術館や博物館の建物の様相も、昔とはずいぶん変わってきた。かつては京博とか京都市美術館にみられるように煉瓦の外壁を多用したり、東博の本館や西洋美術館のような鉄筋コンクリートだったりと、重厚で閉鎖的な、まるで貴重な美術品を外気から保護する堅固なシェルターのようなおもむきだった。ガラスが使われているといっても、せいぜい明かり取りのためとか、庭園に面した開放的な空間を構成するためとか、副次的な目的が多かった。

 ところがパリのルーヴルに「ガラスのピラミッド」ができた例が象徴するように、美術館にガラス主体の建造物が登場しはじめ、今ではちっとも珍しくなくなっている。しかも全面的にガラスが使われているというだけではなく、鉄骨と組み合わされて有機的なカーブを描き、いわゆる窓ガラスとは異質な、建築素材としての存在を主張するようになった。福井市美術館もそのひとつだし、九州国立博物館やスイスのパウル・クレー・センターもその系列に属するだろう。本体は地下に埋まっている大阪の国立国際美術館も、屋根を覆うのはガラスである。そして極めつきが、この国立新美術館であるかもしれない。

 ただ ― ある程度の予想はつくことだが ― こういったガラス建築を作る際には、工事にあたる現場の人間の苦労は並大抵ではない。ぼくの父から聞いた話によると、ある工事関係者が「建築家は好き勝手な建物を設計するけれど、実際にそれを建てる俺たちのことは何も考えちゃくれない」などとこぼしていたそうであるが、彼らの気持ちも痛いほどわかるのである。

                    ***


〔エレベーターもシースルーである〕

 以前、地下から館内に直結する入口を通って入館した際にも、美術館の全体像を眺めるためにいったん外に出たような記憶がある。うねうねと湾曲するファサードは、航空写真で見ると正確に南を向いていて、太陽がどの角度にあっても日光を取り込めるようになっている。そのかわり、館内にはそれほど大きな照明はない。

 チケット売場には、すでに大勢の人が列を作っているのが見える。オルセー展と同時に、ルーシー・リーという女性陶芸家の展覧会もやっていた。ルーシーはそれほど知名度が高くないだろうと思っていたら、窓口でルーシー展のチケットを頼む人も意外と多い。テレビで紹介されたからだろうか。オルセーとルーシーを両方観る人も少なくなかった。けれどもぼくは今日の後半に別の展覧会を予定しているので、ルーシーは大阪に巡回してくるまでお預けである。

 すでに高く登りはじめた太陽に照らされながら並び、ようやくチケットを手にし ― 東京で前売券をうまく手に入れられるほど場数を踏んではいないのだ ― 美術館に足を踏み入れたときには、すでに10時を回っていた。


〔館内は障子を思わせる間接照明でほのかに照らされている〕

つづく
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テツの東京鑑賞旅行(27)

2010年08月09日 | その他の随想

〔国立新美術館の西門付近〕

 けれども今回は、乃木坂に宿泊したので勝手がちがう。ホテルは地下鉄に直結していたので、とりあえず地下まで降りていってみると、美術館に行くためにはいったん駅の改札に入ってホームを縦断し、反対側の改札から出なければならないことがわかった。そんなことをするのは馬鹿げているので、ふたたび地上に戻る。開館時間は迫っているのに、さっそくの無駄足である。

 土地勘がないので、どっちへ行けばいいのかはっきりしない。道路地図が書かれた案内板を見たが、京都とちがって道が直角に交差していないのでわかりにくく、ままよ、と思って歩いていくと、地面が半円形に張り出し、その脇に歩行者用の細い道がついているところに出た。どうやらこの下はトンネルになっているらしい。あとから調べると乃木坂トンネルといって、乃木神社のすぐそばから南青山のほうへ抜ける国道が通っているのだった。

 ついさっきまでは普通の道の上を歩いていたつもりなのに、まわりを見渡すといつの間にか高架になっている。これまた、高低差の多い東京の魔法というべきだろうか。道路がメビウスの輪のようにこんがらがって、あらぬところで結びついているようでもある。さんざん道に迷わされることもあるが、目的地にはそのうち到着できる。間違っても交番のお世話になるようなことはしないつもりだ。

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 トンネル脇の高架をずんずん進んでいくと、いつのまにか墓地に来てしまった。有名な青山墓地はここらしい。ぼくは墓をめぐるのがけっこう好きみたいで、しばしば随想にも書いたことがあるので、いずれはここにも訪問させてもらうことがあるかもしれないが、今日はそんな時間はない。実に多くの著名人の墓があるそうで、乃木大将夫妻の墓もここにあるという。

 少し引き返すと、陸橋から下に通じる階段があった。そこをおりたところで、どこに行けるかは自信がないが、そうしないとふたたび乃木坂に戻るばかりだ。意を決しておりていくと、手前の建物の陰に隠れて、国立新美術館の特徴あるガラスのファサードがちらりと見えた。やっぱり、いつかはこうやって着いてしまうのである。


〔ツタで覆われた壁を見ながら美術館へのスロープをのぼる〕

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テツの東京鑑賞旅行(26)

2010年08月08日 | その他の随想

〔可憐なアジサイが花をつけていた〕

 朝の奇妙な散歩がすんで、ようやく国立新美術館に出かけることになった。ここに来るのは3度目である。

 これまではどこか東京の他の場所に泊まって、地下鉄の乃木坂駅からそのまま美術館に行っていた。駅と直結しているから、東京の初心者でも迷わず到着することができる。考えようによってはまことに親切だ。

 こういうアクセスの便利さは、都会のように鉄道網が張りめぐらされているところでは、新しい大型施設を作る際の至上命令のような扱いになっているのかもしれない。駅から徒歩何分とか、バスに乗り換えてどこそこで下車、と書かれているだけで何だか非常に遠いところのような気がしてしまう。

 ただ、商業施設ならいざ知らず、こと美術館やコンサートホールのような文化施設においては、適度に駅から離れているほうがぼくは好きなのだ。美術館や演奏会場はただの入れ物ではなく、芸術の舞台背景ともなるものであって、そのためには周囲の街にあふれるネオンサインやBGMや、その他の雑多なるものから独立した孤高性があったほうがいいのではないか、という気がするのである。

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 昔の人の書いた回想録を読むと、たとえば生まれてはじめて海外の名高い演奏家の音に触れたあとなど、興奮のあまりどうやって家へ帰ったか覚えていなかった、という記述によくぶつかる。ぼくはそういう精神状態になったことはないけれど、ひとつだけ想像できることは、その人の頭のなかではさっき聴いたばかりの音色が繰り返し流れていたにちがいないということだ。

 けれども、ホールと駅とが否応なく直結していると、そういった余韻に浸る暇もなく帰路につかざるを得なくなる。まるで会社の終業のベルが鳴ったときみたいに、人々がいっせいに同じ改札へ吸い込まれ、地下鉄に乗ってそそくさと散っていくのは不自然である。

 感動を抑えられずにあたりをうろうろして、同じ気持ちを共有している人とすれちがい、今のはよかったですね、と言葉を交わし合えるような「無駄」なスペースがもう少しあったらいいと思うのは、ぼくだけだろうか。

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テツの東京鑑賞旅行(25)

2010年08月07日 | その他の随想

〔旧乃木邸横にあるアメリカハナミズキ。マッカーサーが日本を去るときに植樹したものだという〕

 美術館に行く前の乃木邸見学記がだらだらつづいているので、もううんざりだという方がおられるかもしれないが、実は自分でも少々うんざりしているのだ。

 だいたい、ぼくは日本が高度経済成長を突っ走った時期も終わりに近い年の生まれであって、乃木希典などとっくに過去の名前であるはずであった。彼を神として祀っている神社があったところで、同じである。

 偶然ではあるが、ぼくの名字はさる高名な軍人と同じで、年上の人からは敬称のかわりに軍の階級名をつけて ― もちろん冗談で ― 呼ばれることもあったけれど、最初は何のことかピンと来なかったものだ。戦争放棄を憲法で明言している以上、軍人のことが話題にのぼることもなくなったのは当然のことだし、さしたる関心もなかった。

 だが、今回の記事を書くにあたってインターネットで調べてみると、想像以上に多くの人が乃木大将についての記事を書いており、乃木邸の一般公開に参加してつぶさに内部を見たという人もかなりの数にのぼることがわかってきた。実際に旅順まで足を運んだ人も少なくないようだ。もちろんただ見学してきたというだけではなく、明治という時代について深い考察を重ねておられる方もある。

 インターネットを操るのは基本的に若者の特権だと思い込んでいたぼくは、上の世代の人たちが熱のこもったホームページを展開されているのを知って、一種のカルチャーショックを受けたほどだった。ぼくのような何も知らぬ若造が、いい加減なことを書いたら笑われるか、場合によっては怒られるかもしれない。

 だが、知らないなら知らないなりに、先入観のない頭で歴史的痕跡に接して感じたことを書きとめるのも、決して無駄ではないだろうと考えた。ぼくは単なる観光案内のようなものを書くつもりはない。ただホテルの近くにあったというだけで、たまたま迷い込んでしまったようなスポットで目撃した「明治」の残滓を、どうにか咀嚼しようとしているのである。

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〔窓越しに見た「故大将夫妻殉死之室」〕

 さて、いよいよ殉死の現場を見る番になった。古ぼけたガラスを隔てているので、あまりはっきりとはわからないが、畳の上に「大将」「夫人」と書かれた札が置かれている。つまり、この場所に倒れていたということであろう。

 鑑識ではあるまいし、やたら写真を撮りまくるのもどうかと思ったので、上に掲げたようなおぼろげなものしかない。あまり鮮明な印象も残っていないのだが、部屋の正面には軍服姿の乃木大将の写真が立てかけられていたように覚えている。自刃する当日の朝に撮影されたものだそうだ。

 あとから調べていてわかったのだが、内部が一般公開される日には、この部屋も少しおもむきを変えるらしい。つまり、殉死したそのときに着用していた衣服なども一緒に置かれるのである。そして、夫妻の血痕が染み込んだ畳表もその場所に敷かれるという。ここまでくるとあまりに生々しくて、ぼくは見るに堪えないかもしれない。

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〔厩舎。池波正太郎が描いた煉瓦造りの外壁の裏側は質素な木造であった〕

 すべてを見終わったあとで、ぼくは奇妙な困惑の底に投げ込まれているのを意識せざるを得なかった。

 乃木大将夫妻は明治天皇に殉じたそのことによって讃えられ、神として祀られることにさえなった。しかし、乃木希典が軍人として生活し、死んで血を流したあとが今でも大切に保存してあるというのは、神格化されることと相反するようにも思われるのだ。しかも殉死の部屋と乃木神社とは眼と鼻の先にある。極端なたとえをすれば、「人間」乃木希典と「神」乃木希典の両方に、ぼくたちは数分もしないうちに出会うことができるのである。

 それでは、「神」の実体というのはいったい何なのであろうか。たしか、河合隼雄が日本神話の中空構造ということをいっていたような気がするが、神社の中心にはこれといって何もない。いいかえれば、何もないところに神が降臨する余地ができる。仏教寺院が本尊というものを後生大事に崇め、秘仏にまでして守ろうとするのとは対照的である。

 ぼくにとっては、乃木大将が神として鎮座している神社を訪れたときよりも、彼が生き、そして死んだ痕跡をまざまざと見せつけられたほうが、より衝撃を受けたということだ。そもそもぼくは神を信仰しているわけではないが、明治という時代の終焉を拒否し、天皇とともにみずからの生を終えたひとりの男が ― いわば「命がけで時代遅れになることを忌避した」男が ― いったい何を悩み、考え、その行動に至ったかには興味があるといえるだろう。

 ぼく自身も、昭和から平成へと移り変わる過渡期を生きた。だが、平成の世を全面的に受け入れ、首まで浸かっていることに何の疑問ももっていないかというと、いまだにそうではないのである。

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〔公園にあった小動物の小屋。家の主は留守だった〕

 妻も待っていると思うのでそろそろホテルへ帰ろうとするが、神とも軍人とも関係のないところで、けれどもこの朝に眼にしたさまざまなもののなかでとりわけ印象的な出会いがあった。しかし、それもまた「中空」であったのだけれども。

 乃木邸宅から公園の敷地へと抜ける扉の脇に、小さな動物の住まいがあった。誰が世話しているのかは知らない。一見、その小屋は厩と同じ煉瓦作りで出来ているようだが、おそらくはプリントされた紙を貼っただけのものだろう。そこに住んでいるのは犬か、鳥か、それとも他の何かか。住人はどこかに出かけているらしく、中を覗いても誰もいなかった。

 この日は梅雨に入っていて、いつ雨が降ってもおかしくない気候だったが、それを用心してか、骨の曲がったビニール傘が小屋の入口にかぶせてあった。天気が悪くても、外に出てきて餌にありつけるようにという気づかいだろう。どこの誰が、どんな生き物のためにしてやったかは結局わからなかったけれど、何となく胸のあたたまる光景であった。

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