北京オリンピックが幕を閉じた。連日連夜、熱い戦いが繰り広げられ、日本中がその熱気に巻き込まれたような気がする。日ごろはスポーツに対して無関心を決め込んでいるこのぼくが(体の弱かった人間にとって、運動会で苦しまされた思い出はいつまで経っても消えないものなのだ)、競技の結果に一喜一憂し、世界記録の樹立に感嘆し、期待に反して活躍できなかった選手たちを落胆と同情のない交ぜになった複雑な感情で思いやったりした。
日本人の多くがメダルを信じて疑わなかった女子マラソンは、まことに残念な結果に終わった。ぼくが住む京都は野口みずきの本拠地でもあるので、特に注目していただけに、心残りでならない。欠場という苦渋の決断を下すまで、野口選手の胸中にさまざまな思いが渦巻いたであろうことを考えると、何もいえなくなってしまう気がする。
一転してメダルの期待を背負い込むことになった土佐礼子も、スタートはしたものの無念のリタイアを喫した。足の痛みを抱えていた彼女は、文字どおり泣きながら走った。こんなことで完走できるはずがないではないか、と誰もが考えただろうが、それでも何とかしてゴールに近づきたいと、茨の道を裸足で進むような思いで走りつづけ、制止されるまでやめようとしなかった。その後、引退を表明するも、あわよくばもう一度走りたいような口ぶりだったそうだ。
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オリンピックの女子マラソンで思い出すのが、かつてロサンゼルス大会に出場したアンデルセンという選手である。最後には力尽きてふらふらになり、夢遊病者のようによろめきながらも、救助しようと駆け寄る係員をかたくなに拒否し、ゴールまでたどり着くとそのまま崩れ落ちてしまった。
24年経った今でも、あのときの情景は眼に焼きついているし、さまざまなテレビ番組などで繰り返し取り上げられている。マラソンという競技の過酷さをあらわすのに、あれほど象徴的なシーンはなかった。
指揮者の朝比奈隆は、ロスオリンピックの翌年に出版されたインタビューで、アンデルセンのゴールを見ていて涙が出た、といっている(明治生まれの豪快なマエストロですら、オリンピックを見て泣くのである)。学生時代にスポーツで鍛えた若いころと重ね合わせ、あれは忍耐というよりもやせ我慢だ、ともいっている。
たしかに余裕しゃくしゃくでゴールするつわものもいれば、必死な形相でようやくたどり着く選手もいる。マラソンはよく人生にたとえられるが、レース中の微妙な駆け引きによって展開が変わってきたり、予期せぬ波瀾に見舞われたり、あえなく戦線離脱する人がいたりという点でも、まさに人生の縮図そのものであると思う。全員が同じ道筋を進んでいるのに、どうしてこうも結果がちがってくるのか。それは、人が同じ年数を生きたところで、積み重ねてきた経験や思考力が大きく異なってくることと同じである。
人は、なぜ走るのだろう。マラソンを見ていてふと心に浮かぶ素朴な疑問は、人はなぜ生きるのだろう、という疑問とつながっているのである。
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フルマラソンなら早くても2時間あまり、一般参加選手なら数時間という長丁場を、たったひとりで走り切らねばならないというのも、やはり人生と似ている。誰かが代わりに走ってくれる、ということはない。沿道から指示を出すコーチがいたとしても、実際にどのタイミングでスパートをかけるか否か、それは選手自身の行動力にかかってくる。むしろ自分自身と本当に向き合わないかぎりは、マラソンを走る意味が薄らいでくるといってもいい。
そういう意味では、ぼくたちが金メダルの2連覇を勝手に期待したりするのも、まるで他人の生きざまに干渉するようなもので、まったくもって余計なお世話なのかもしれない。彼らは日本の代表として現地に乗り込んだけれども、走っているそのときは国のためではなく、自分のために走っているのにちがいない。男子マラソンで最下位でフィニッシュした佐藤選手が、走ってきたコースを振り返って深々と頭を下げた姿は、そのことをよく物語っているような気がする。
シリトーの短編小説『長距離走者の孤独』の主人公スミスは、盗みを働いて感化院に収容されていたが、ある日クロスカントリーの選手に任命される。院長はスミスに向かって、「きみがフェアプレイでやってくれるなら、われわれもきみに対してフェアプレイでいこう」とのたまい、監視もつけずに荒野を駆けることを許可し、訓練を積ませるのである。
そして、感化院対抗レースの本番。トップを独走していたスミスは、誰の眼にも優勝まちがいなしに見えた。しかし彼はゴール直前で走ることをやめ、後続の選手に追い抜かれる。院長のメンツはたちまちにして地に落ちたが、それがスミスにとっての“フェアプレイ”だった。彼は、院長とのレースに勝ったのだ。
スミスの行動は、「人はなぜ走るのか」という問いの答えを、裏返しのかたちではあるけれど、鮮やかに示してくれているように思う。ぼく自身は脆弱な人間なので、とても長距離を(いや、短距離ですら)走ることはできないけれど、それとは別のやり方で、自分の信じるゴールめがけて走っているつもりなのだ。ただし、大変ゆっくりとではあるけれど。
参考図書:
朝比奈隆・矢野暢『朝比奈隆 わが回想』(徳間文庫)
アラン・シリトー『長距離走者の孤独』(丸谷才一・河野一郎訳、新潮文庫)
(画像は記事と関係ありません)