てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

孤独なランナーたち

2008年08月31日 | 雑想


 北京オリンピックが幕を閉じた。連日連夜、熱い戦いが繰り広げられ、日本中がその熱気に巻き込まれたような気がする。日ごろはスポーツに対して無関心を決め込んでいるこのぼくが(体の弱かった人間にとって、運動会で苦しまされた思い出はいつまで経っても消えないものなのだ)、競技の結果に一喜一憂し、世界記録の樹立に感嘆し、期待に反して活躍できなかった選手たちを落胆と同情のない交ぜになった複雑な感情で思いやったりした。

 日本人の多くがメダルを信じて疑わなかった女子マラソンは、まことに残念な結果に終わった。ぼくが住む京都は野口みずきの本拠地でもあるので、特に注目していただけに、心残りでならない。欠場という苦渋の決断を下すまで、野口選手の胸中にさまざまな思いが渦巻いたであろうことを考えると、何もいえなくなってしまう気がする。

 一転してメダルの期待を背負い込むことになった土佐礼子も、スタートはしたものの無念のリタイアを喫した。足の痛みを抱えていた彼女は、文字どおり泣きながら走った。こんなことで完走できるはずがないではないか、と誰もが考えただろうが、それでも何とかしてゴールに近づきたいと、茨の道を裸足で進むような思いで走りつづけ、制止されるまでやめようとしなかった。その後、引退を表明するも、あわよくばもう一度走りたいような口ぶりだったそうだ。

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 オリンピックの女子マラソンで思い出すのが、かつてロサンゼルス大会に出場したアンデルセンという選手である。最後には力尽きてふらふらになり、夢遊病者のようによろめきながらも、救助しようと駆け寄る係員をかたくなに拒否し、ゴールまでたどり着くとそのまま崩れ落ちてしまった。

 24年経った今でも、あのときの情景は眼に焼きついているし、さまざまなテレビ番組などで繰り返し取り上げられている。マラソンという競技の過酷さをあらわすのに、あれほど象徴的なシーンはなかった。

 指揮者の朝比奈隆は、ロスオリンピックの翌年に出版されたインタビューで、アンデルセンのゴールを見ていて涙が出た、といっている(明治生まれの豪快なマエストロですら、オリンピックを見て泣くのである)。学生時代にスポーツで鍛えた若いころと重ね合わせ、あれは忍耐というよりもやせ我慢だ、ともいっている。

 たしかに余裕しゃくしゃくでゴールするつわものもいれば、必死な形相でようやくたどり着く選手もいる。マラソンはよく人生にたとえられるが、レース中の微妙な駆け引きによって展開が変わってきたり、予期せぬ波瀾に見舞われたり、あえなく戦線離脱する人がいたりという点でも、まさに人生の縮図そのものであると思う。全員が同じ道筋を進んでいるのに、どうしてこうも結果がちがってくるのか。それは、人が同じ年数を生きたところで、積み重ねてきた経験や思考力が大きく異なってくることと同じである。

 人は、なぜ走るのだろう。マラソンを見ていてふと心に浮かぶ素朴な疑問は、人はなぜ生きるのだろう、という疑問とつながっているのである。

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 フルマラソンなら早くても2時間あまり、一般参加選手なら数時間という長丁場を、たったひとりで走り切らねばならないというのも、やはり人生と似ている。誰かが代わりに走ってくれる、ということはない。沿道から指示を出すコーチがいたとしても、実際にどのタイミングでスパートをかけるか否か、それは選手自身の行動力にかかってくる。むしろ自分自身と本当に向き合わないかぎりは、マラソンを走る意味が薄らいでくるといってもいい。

 そういう意味では、ぼくたちが金メダルの2連覇を勝手に期待したりするのも、まるで他人の生きざまに干渉するようなもので、まったくもって余計なお世話なのかもしれない。彼らは日本の代表として現地に乗り込んだけれども、走っているそのときは国のためではなく、自分のために走っているのにちがいない。男子マラソンで最下位でフィニッシュした佐藤選手が、走ってきたコースを振り返って深々と頭を下げた姿は、そのことをよく物語っているような気がする。

 シリトーの短編小説『長距離走者の孤独』の主人公スミスは、盗みを働いて感化院に収容されていたが、ある日クロスカントリーの選手に任命される。院長はスミスに向かって、「きみがフェアプレイでやってくれるなら、われわれもきみに対してフェアプレイでいこう」とのたまい、監視もつけずに荒野を駆けることを許可し、訓練を積ませるのである。

 そして、感化院対抗レースの本番。トップを独走していたスミスは、誰の眼にも優勝まちがいなしに見えた。しかし彼はゴール直前で走ることをやめ、後続の選手に追い抜かれる。院長のメンツはたちまちにして地に落ちたが、それがスミスにとっての“フェアプレイ”だった。彼は、院長とのレースに勝ったのだ。

 スミスの行動は、「人はなぜ走るのか」という問いの答えを、裏返しのかたちではあるけれど、鮮やかに示してくれているように思う。ぼく自身は脆弱な人間なので、とても長距離を(いや、短距離ですら)走ることはできないけれど、それとは別のやり方で、自分の信じるゴールめがけて走っているつもりなのだ。ただし、大変ゆっくりとではあるけれど。


参考図書:
 朝比奈隆・矢野暢『朝比奈隆 わが回想』(徳間文庫)
 アラン・シリトー『長距離走者の孤独』(丸谷才一・河野一郎訳、新潮文庫)

(画像は記事と関係ありません)

まとまりのない盆休み(3)

2008年08月22日 | 美術随想


 三橋節子と三岸節子との間には、不思議な共通点と、正反対な点がある。まず、どちらもが夫婦ともども画家であった。

 三岸節子の夫の好太郎は、太く短く荒っぽく生きた画家だった。妻から“暴君”呼ばわりされるほどの男だったが、31歳の若さで病いに倒れ、まるでバトンタッチしたかのように、妻がその才能を開花させる。彼女が奔放な色彩を大胆に駆使して大輪の花の絵を描き、94歳の天寿を全うしたことは広く知られるとおりである。

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 一方で三橋節子は、現在でも活躍している日本画家の鈴木靖将氏と結婚した。同じ美術団体で活動していた縁で知り合ったという。夫婦の間に生まれたお子さんは、ぼくと同世代である。

 展示室には家族とともに写った節子の写真が何枚か飾られていたが、ぼくの子供時代を思い出させるような、ちょっとくすんだ昭和の色合いにみちていた。節子はショールのようなものを羽織り、失った右腕をさりげなく隠しているが、それ以外には何も変わったところのない、どこにでもある幸せそうな家族の姿に見えた。

 彼女の物静かな表情には仏さまのように慈愛があふれ、病気と闘うというよりは、すべてをあるがままに受け入れる諦観のようなものがにじみ出ているかに思われた。だがそれは家庭人としての、妻であり母としての顔なのだろう。

 画家としての節子は、大きな試練に直面して悩み、苦しんだはずである。彼女がたどり着いた画境には、つらい運命をいかに受け止めるべきかという問いと、自分なりに導き出した答えが、はっきりと描かれているにちがいない。


〔近松寺にある観音像の風貌は、どことなく節子に似ているようだ〕

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 三橋節子が描く世界は、決してスケールの大きなものではなかった。三岸節子とは対照的に、可憐な植物を繰り返し描いた。「雑草の画家」とも、彼女は呼ばれているらしい。ふたりの子供にも、草の名前をつけたほどだ。

 節子自身の人柄も、非常に物静かで、いつも黙ってにこにこ笑っているような女性だったという。しかし内向的な性格かというとそうでもなく、若いころにはバドミントンの選手として活躍したり、頻繁に登山もし、インドに取材に出かけたこともある。彼女の師は秋野不矩だったので、その影響もあるのだろう。

 ほかにも三橋節子は、いろいろな仕事をしている。京阪五条のそばにある六波羅蜜寺という寺を去年の暮れに訪ねたとき、本堂をいろどる彩色が意外なほど鮮明なのに驚いたことがあったが、実は今から30年前に何人かの画家によって塗り直されたもので、そのなかに独身時代の節子もいたのだった。

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 先月には京都文化博物館で「京都 美の探訪」という展覧会が開かれ、不矩をはじめとした多くの京都画壇の作家たちに混じって、三橋節子の絵が展示されているのを観た。この絵は自発的に描かれたというよりも、「京の百景」という絵画のシリーズの一環として依頼されたもので(ちなみに企画したのは例の蜷川虎三知事であるそうだ)、いってみれば頼まれ仕事である。

 『陶器登り窯』というその絵は、すでに見慣れた節子の作風からあまりにもかけ離れているような気がして、あまりぼくの気を惹かなかった。多くの画家が協力して完成した「京の百景」は、昭和48年に開かれた展覧会でお披露目されたが、節子が右腕切断の手術をしたのは、その会期中のことである。『陶器登り窯』は、節子が利き腕で描いた最後の作品になってしまった。


〔昨年12月に撮影した六波羅蜜寺。この装飾のどれかを三橋節子が描いたかもしれない〕

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まとまりのない盆休み(2)

2008年08月19日 | 写真記


 三橋節子美術館に入る前に周辺の写真を撮り、カメラを鞄にしまってからおもむろに中へ入ると、先ほど裏手で煙草を吸っていた男性がいつの間にか受付のところに立っていて、ぼくを待ちかねていた。やれお客さんだと、一服するのもそこそこに出迎えてくれたのにちがいない。

 案の定、ほかにお客はひとりもいなかった。「どちらから来られましたか」ときくので、「京都からです」とこたえる。かなり遠くから来る人もいるのではないかと推察される。

 「三橋節子についてまとめた10分間のビデオがありますのでご覧ください」と、その男性がいう。先日、水上勉の故郷の若狭に建てられた若州一滴文庫を訪れたときにも、同じようなことをいわれた覚えがある(このときのことはいつか書こうと思う)。短いが波瀾に富んだ節子の人生が、たった10分のビデオにおさまるとはとても思えないけれど、いわれるままにソファに座ってビデオを見た。彼女について、大まかなことは知っているつもりだった。

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 ある芸術家の作品に接するとき、その生涯にまつわる予備知識から入ることには、功罪がある。鑑賞の助けになることももちろんあるが、下手をすれば、偏った色眼鏡で観てしまうことにもなりかねない。そして、巷にはそのような知識を充実させるための読み物があふれ返っていることも事実だ(展覧会で用いられる「音声ガイド」も、似たようなものではないかと思う)。しかし三橋節子に関しては、必要最小限のことは知っておいたほうがいいかもしれない。

 節子は画業なかばにして、病気のために右腕を切断することを余儀なくされた。画家にとって利き腕を奪われることは、その道を断たれたも同然である。けれども節子は、絵筆を左手に持ちかえ、貪欲に絵を描きつづけたのだった。35歳の若さで命を失うまで。

 何も知らない人が観れば、右手で描いた絵と左手で描いた絵を区別することができないぐらい、その完成度は高い。力強い描線が走り、深みのある色彩が大画面にきらめく。

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 三橋節子の絵を実際に観るのは、はじめてではない。もうかなり昔に、どこかの百貨店で大きな展覧会を観たように思う。ただそのときには日本画に深い関心がなかったので、彼女が大津に住んでいたということを忘れていたし、美術館があるということも知らなかった。

 その後も節子のことはしばしばテレビや雑誌で取り上げられたが、さほどメジャーな存在になったとは思えない(一字ちがいの洋画家「三岸節子」のほうが、はるかに知名度が高いだろう)。梅原猛は『湖の伝説 ― 画家・三橋節子の愛と死』という本を書き、文庫化もされたが、今は絶版になっているようだ(ぼくは古本屋を探しまわってようやく手に入れたが、まだ読んでいない)。

 この美術館も秘境のなかにひっそりと建つ感じで、あまり観光地化されているとはいえない。だが、そこがいいのだ。ひとりの画家に与えられた苦悩と、それを乗り越えて生み出された珠玉のような作品が、訪れる人の心に静かに響く。節子には、安っぽい“悲劇のヒロイン”になどなってほしくないと思う。それこそが、彼女の絵と純粋に向き合う最大の障害になるような気がする。

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 ビデオが終わると、展示室に案内された。会議室のような重々しい扉の向こうには、節子の絵がいっぱいに掛け並べられていた。扉が閉まると、そこはぼくと節子とだけしかいない、濃密な、しかし心落ち着く空間だった。

 一枚一枚、時間をかけて、まるで画家と会話を交わすように絵を観ていった。


〔美術館の看板。いったい誰の筆跡だろう〕


〔建物の前には栂(つが)の巨木がそびえる〕

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まとまりのない盆休み(1)

2008年08月17日 | 写真記


 一週間の盆休みを与えられた。ここ数年では、特に長い盆休みだ。ちなみに、ぼくは休みを有効に使うことが下手である。

 予算があれば長期の旅行でも計画したいところだが、そうもいかない。しかも今の会社に転職したばかりなので、どのくらいの休みがもらえるのかも未知数だった。だからといって、家でごろごろしながらオリンピックばかり見ているというのも能がない。気分転換を兼ねて、どこか小ぎれいな場所で一日を過ごそうと、14日の晩に神戸のホテルを予約しておいた。

 しかし予想よりも長めの休みがもらえたので、とりあえず少し体を休めながら、散らかり放題の部屋を適当に片付け、心も新たに盆明けを迎えよう、などと優等生的なことを考えたりした。けれどもいざ休みがはじまってみると、不甲斐ないことに、テレビのオリンピック中継をつけっぱなしで寝てばかりいた。

 といっても頭が半分ぐらい目覚めていて、今は何の競技をやっているな、とか、今は表彰式の時間だな、とか、かすかに意識はしているのである。だが、ちゃんと起きてテレビを見ようという気にはならない。気がついてみると、オリンピックの時間はとっくに終わって、何やらくだらない深夜番組がはじまっている。ああ、時間と電力を無駄にしたな、と後悔するが、時すでに遅し。

 休みの前半は、そんな調子でたちまちのうちに過ぎ去ってしまった。どうやら自分でも知らないうちに、疲れが相当たまっていたようである。

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 13日になって、これではいかんと、ようやく重い腰を上げた。とりあえずどこかに出かけてみよう、と思い、京都を離れて滋賀方面に足をのばすことにする。地下鉄東西線から京阪の京津線に乗り継いだ。鋭く切れ込んだ谷底を蛇行しながら走る電車は、なかなかスリルに富んでいる。

 降り立ったのは、浜大津よりひとつ手前の上栄町という駅。京都からたった数十分で、こんな辺鄙なところに来てしまうのかと思うぐらい、小さな駅だ。自動改札もひとつしかないが、その貴重な改札が故障していて、修理に余念がない駅員は無造作に「どうぞ通ってください」といった。降りた客はぼくを入れて4人ほどである。

 駅を出ると、すぐに急なのぼり坂が迫ってきた。コンビニも喫茶店も、自動販売機すら見当たらない。はじめて来る場所だが、迷いようもなくその坂をのぼる。よく晴れていて暑いけれど、つくつくぼうしが夏も後半にさしかかったことを告げている。

 なぜこんなところにやって来たのかというと、三橋節子という日本画家の美術館を訪れるためだった。若くして世を去ったこの画家については後からふれることにするが、知る人ぞ知る、という存在だろう。自宅兼アトリエがすぐ近くにあり、遺族が今でも住んでいるということである。


〔坂の片側には鬱蒼と緑が茂る〕


〔遠くには三井寺の屋根がのぞめる〕


〔近松門左衛門が修行したという伝説のある近松寺(ごんしょうじ)。なお近松には大津絵師が主人公の作品もある〕


〔近松寺には不思議な陶製のオブジェが並べられていた〕

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 坂の上に点々とある民家からは人声が聞こえてくるが、外には誰もいない。盆休みのさなかだというのに、閑散としている。このあたりは長等(ながら)公園といって、桜の名所だという話を聞いたことはあるが、今の季節は訪れる人も少ないのだろう。

 道端の矢印を目当てにして進んでいくと、石段の下にこぢんまりした建物が見えた。どうやら美術館に着いたようだ。木々の梢からもれ落ちる日の光に眼をすぼめ、流れる汗をぬぐいながら近づいていく。あまりのひと気のなさに、ひょっとしたら休館日なのではないか、誰もいないのではないかという不安も頭をよぎったが、裏口のようなところに出て煙草に火をつけようとしている男性を見かけ、ちょっと胸をなでおろした。

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広島まんだら(2)

2008年08月14日 | その他の随想


 昨年の秋、ぼくははじめて広島の地を踏んだ。10月8日のことである。目的はある展覧会に出かけることだったが、やはり平和記念公園と原爆ドームだけは、どうしてもこの眼で見ておきたかった。

 前日の深夜に、京都から夜行バスに乗り込んだ。寝ている間に雨が降り出したらしく、朝6時過ぎに広島に着いたときには大雨だった。

 もちろん街はまだ眠っているので、24時間営業の定食屋で朝食を食べながら雨宿りすることにする。途中でおそろいのユニフォームを着た中学生ぐらいの生徒たちが大勢やって来て、ぼくひとりきりだったカウンターは満員御礼になった。

 生徒たちがビニール傘を差して出ていっても、まだ雨はやまない。彼らは部活の朝練に行くところかもしれないが、こんな空模様では屋内での練習しかできないだろう。こっちもぐずぐずしているわけにはいかないと、外へ出てみたものの、足は重く気分もすぐれない。やはり長時間座っているにはバスの座席は狭く、少し寝苦しかった。

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 とりあえず原爆ドームに行ってみようと、相生通りを西に進んでいく。道路を挟んで広島カープの本拠地である市民球場が見えてきた。周囲には何の隔たりもなく、街並みの中にいきなり球場があらわれたのは驚きだった。もちろんドーム球場ではないので、歓声が市街地にこだまするだろう。

 さらに驚いたことに、原爆ドームは市民球場の眼と鼻の先にあった。この旅行のために前もって地図を見ておいたのだが、まさかこんなに近いとは思わなかった。未来永劫にわたって残される廃墟、人類史上最初の核爆弾の“死に証人”が、野球に熱中する人々の叫びや、賑やかな鳴り物や、うぐいす嬢のアナウンスが届くようなところに建っていたのである(しかしこの球場も、2008年のシーズンかぎりでお役御免となるそうだ)。

 この日は雨だし、早朝でもあるので、原爆ドームは深い静寂に包まれていた。写真ではもちろん見たことがあったが、実際に前に立ってみると、その傷ましい姿に呆然となるほどだった。しばらく瞑目して、それから眼底に焼き付けるために凝視した。瓦礫の山が、たった今崩れたばかりのように、変わり果てた建物のまわりに散らばっていた。

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 原爆ドームはもともと広島県物産陳列館として建てられ、のちに産業奨励館などと名前が変わったが、核の爆風を浴びたのは築30年目のことだった。原爆の(というより被爆の)象徴となってからのほうが、皮肉なことに長い生命を生きていることになる。

 人々がこの建物を「原爆ドーム」という名で呼びはじめたのは、いつからだろう。ふと、そんな疑問が頭をよぎった。調べればわかることかもしれないが、手もとにはそんな資料もない。自分たちのことで精一杯のはずの広島市民らに、その存在が意識されていたかどうかもわからない。

 焼け野原と化した広島の地に、丸屋根をいただいた廃墟が巨大な墓標のようにたたずんでいるのを、誰かが“再発見”したのにちがいない。だからこそ「産業奨励館のなれの果て」ではなく、「原爆ドーム」という新しい呼び名を得て、新しい役割も与えられ、戦争を放棄した日本に改めて生まれ変わったのだ。

 この無残な姿で建ちつづけるかぎり、原爆ドームは平和の象徴でもあるのだった。

つづく
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