てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ルネサンスから現代へ(7)

2013年06月30日 | 美術随想
レオナルドは左利き その2


ロンバルディア地方のレオナルド派の画家『貴婦人の肖像』(1490年頃)

 古い時代の絵画には、その絵を誰が描いたか、という問題がいつもつきまとう。端的にいえば、展覧会のキャプションの作者名が「伝○○」とか「○○に帰属」とか「○○派」などという歯切れのわるい書き方で記されている場合は、その画家の作品だとする決定的な証拠に欠けていることになる。画家の名が伝えられているだけで、専門家による裏付けがとれていない場合もたくさんあるだろう。

 われわれに親しい例でいえば、フェルメールがそうだ。現存する彼の真筆の絵は、三十数点などと曖昧に表記される。まったくもどかしい話だが、人によってフェルメール作か否かの判断がわかれるグレーゾーンの絵が何点かあるからである。作品を洗浄して、明らかに本人とわかるサインでもあらわれれば話は別だが、おそらく将来的にも白黒がはっきりする可能性は少ないものと思う。

 レオナルド・ダ・ヴィンチにおいても、例外ではない。彼の真筆で、しかも下絵の段階で放棄されず一応の完成をみているものは、せいぜい十数点といったところだそうだ。その意味では、ルネサンスにおいてもっとも名高く、またもっとも寡作なのがダ・ヴィンチだといってもあながち間違いではなかろう。

 『モナ・リザ』や『最後の晩餐』など、来歴のはっきりしているものは確実に本人の作といえるだろうが、作風から推測されているものも少なくない。ある人が「この描き方は確実にダ・ヴィンチだ」と断言しても、第三者を納得させる客観性に不足している場合がままある。美術の価値を定めるについて、言語の至らなさを痛感するのはそんなときだ。

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 ということは、結局のところ、すべては各自の審美眼に委ねられているということでもある。『貴婦人の肖像』は、今回の展覧会に出品されていた完成作のなかではもっとも魅力に富んだ一枚であった。作者は「ロンバルディア地方のレオナルド派の画家」という、何ともまどろっこしい呼び名が与えられているが、要するにダ・ヴィンチの系列には連なるけれどもダ・ヴィンチその人ではない、ということだろう。

 ところが、過去にはこの絵をダ・ヴィンチ作とした専門家もいたらしい。どちらが正しいか、シロウトであるぼくにはわかりっこないが、ダ・ヴィンチか否かという論議とは別のところで、大変うまい絵だということは事実である。半透明の真珠の描写、袖をふちどる唐草模様の巧みさは、生涯を無名のままで終わるには気の毒なほど洗練されており、第一級の画家の手になるものだとぼくは思う。

 ただ、何よりも気に入ったのは、その毅然とした横顔だ。この貴婦人のモデルは誰か、今でもさまざまな意見があって、謎に包まれている。しかし、そんな詮索をものともしない威厳のようなものが、彼女の引き締まった口もとや、しっかりと前方を見据えた視線にあらわれてはいないだろうか。少なくとも、『モナ・リザ』にみられる意味深な微笑などはここにはない。

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参考画像:レオナルド・ダ・ヴィンチ?『美しき姫君』(15世紀後半か、個人蔵)

 なお、これとよく似た『美しき姫君』という絵が、15年前のオークションで落札された。当時は『ルネサンスのドレスを着た少女の横顔』とされ、19世紀ドイツの画家が描いたものといわれていたのだが、最近になってダ・ヴィンチの真筆ではないかという説がかなり大っぴらに囁かれている。

 その理由はいくつかあるようだが、最新のテクノロジーを駆使して絵の解析をした結果、ダ・ヴィンチとそっくりの指紋が検出されたことで一気に話題となった。要するに“第三者を納得させる客観性”が得られたというわけで、このへんのいきさつについて日本のテレビ局がドキュメンタリーを放映するほどだった(ぼくもその番組を見た記憶がある)。

 けれども、大掛かりな機械まで持ち出して鑑定をしたところで、絵の価値は変わっても、そこに描かれているものまでが変わるわけではない。ぼくは『美しき姫君』の鼻の下の間延びしたところや、視線の何となくうつろなところが、先ほどの貴婦人と比べると少し物足りなく思える。見方を変えれば、そんなつかみどころのなさが『モナ・リザ』に似ているといえなくもないのだが・・・。

 さて、あなたにはどう見えますか?

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ルネサンスから現代へ(6)

2013年06月29日 | 美術随想
レオナルドは左利き その1


〔東京都美術館の休憩室は大きなガラス張り。建物の設計は紀伊國屋ビルと同じ前川國男〕

 ようやく「ルネサンスから現代へ」の、ルネサンスの部分へと突入していくことになる。

 ルネサンスの芸術家といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロの3人に代表されるというのが定説だろう。今回の旅は、そのうちダ・ヴィンチとラファエロの作品に触れることが大きな目的だった。この時点でミケランジェロの展覧会はまだはじまっていなかったが、東京に巡回する前には福井で開催されるということだ。福井で大規模なミケランジェロ展が開かれるのはもちろん前代未聞のことであり、おそらくこれが最後になるかもしれない。まあ、福井の人にとっては間違いなく、ここ数年の“大事件”のひとつであろう。

 それはさておいて、まずは上野公園に向かう。ぼくは東京を訪れる際、3回のうち2回は上野に立ち寄っているといっていい。もちろん多数の美術館が密集しているスポットだから、当然といえば当然だ。正直なことをいえば、上野動物園のパンダが妊娠しようがしまいが別に関心がないし、パンダをあしらった土産物を買うなどということも決してない。

 だが、ダ・ヴィンチやラファエロが、これまで展覧会におけるパンダのような扱いをされてきたのも事実である。たとえばダ・ヴィンチの絵が一点しかないのに、その展覧会のタイトルには麗々しくダ・ヴィンチの名が記され、ポスターにはダ・ヴィンチの絵が大きく掲載される、といった具合だ。これでは、ほかの作品はまるで“付け足し”であるかのようだし、メインディッシュ以外はそそくさと足早に通りすぎてしまう人が増えるかもしれない。

 ところが今回は、ダ・ヴィンチの業績にかなり焦点を合わせた内容となっているようだ。ちなみに、このあとで観るラファエロの展覧会も、ラファエロ本人の作品をかなり揃えているということである。このふたつの点だけで、今回の東京行きを決めたようなものだった。もちろん、それ以外の展覧会も“付け足し”で観たというわけではないのだが・・・。

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〔「レオナルド・ダ・ヴィンチ展 天才の肖像」のチケット〕

 去年の暮れに訪問して以来の、東京都美術館である。そのときは新幹線で来たので、到着したときにはすでに昼だった。今回は混雑を予想して ― “都美”で観る展覧会がガラガラだったことは一度もないのだが ― 開館時間の9時半よりも早めにたどり着こうと、新宿ぶらぶら歩きを切り上げて上野駅に着いたのは9時10分ぐらいだったろうか。

 ところが、すでに美術館の門前に大勢の人が並んでいるのが遠くから見えた。ひょっとしたら、パンダを見物する客を上回る熱気にあふれていたかもしれない。屋外で待たされることを想定していなかったので、念のために近くの公衆トイレで用を済ませて出てくると、まだ9時半にならないのに列は消えていた。商業スペースでは、人が集まりすぎたためにオープンを早めるということはよくある。だが、美術館を予定より早く開けるというのは、ぼくが経験したかぎりでは「正倉院展」のみであった。

 それにしても、日本人はそんなにダ・ヴィンチが好きなのか? という疑問も起こらないではない。もちろん『モナ・リザ』は別格で、かつて日本で展示されたおりにはとぐろを巻くほどの行列ができ、一日に3万人を超える人が押し寄せた日もあったという。ちなみにそのとき展示されていたのは『モナ・リザ』一点で、まさにメインディッシュのみのご馳走にありつくために、それだけの人が血眼になって駆けつけたのである。

 『モナ・リザ』がふたたび日本を訪れることは、当分ありそうにない。だが、『ダ・ヴィンチ・コード』の大ヒットは記憶に新しいし ― ぼくは本も読んでおらず映画も観ていないが ― この世紀の天才は美術に無関心な人をも惹き付ける魅力をもっているようだ。

 ぼくはもっと純粋な絵画としてダ・ヴィンチを鑑賞することはできないものかと思うけれども、今回の展覧会には彼の脳内の様子をあるがままに記した手稿の一部も出品されるそうなので、単なる画家ではないダ・ヴィンチの姿がクローズアップされることにもつながるだろう。

 それが、日本人のダ・ヴィンチ感にどう影響していくのか。われわれとの距離が縮まるのか、それとも遠のいてしまうのか。期待と不安が相半ばする心境で、美術館に入っていった。

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あじさいの寺へ(2)

2013年06月28日 | その他の随想

〔雨を受けて艶っぽさを増したあじさいの花々〕

 天気予報に反して、雨はますます強くなる。拝観に来た人々も、傘をさすべきか否か迷っているように感じられる。すれちがう人の邪魔になることと、カメラを構える妨げになることと、両方の理由からだろう。

 ぼくも写真をたくさん撮ろうと思っていたので、不意の雨には困惑したが、考えてみればあじさいほど雨の似合う花はあるまい。そういえば今年の梅雨入り直後は際立って雨が少なく、あじさいにとってはかわいそうな天候だった。今こうして花々が色づき、瑞々しく咲いているのは、最近ようやく降るようになった雨のおかげである。ぼくもカメラが壊れない程度に、雨に濡れることにした。

 ここ三室戸寺は、蓮やあじさい以外にも、つつじの名所として知られているようだ。たしかに気をつけてみると、とっくに見ごろを過ぎて枯れかかった哀れなつつじが幾株かある。しかし、誰も眼にとめようとはしない。皆はしたたるように咲きこぼれるあじさいの群落に向かって突き進んでいく。

 もちろん、季節の移り変わりというのはそんなものだろう。だが、売れっ子だったスターが誰からも顧みられなくなっていくような一抹の寂しさを感じたのもたしかだ。あじさいも何日か経てば、誰にも見向きもされない時期がやってくるにちがいない。いや、すっかり葉っぱだけになってしまって、これがあじさいだとすら気づいてもらえないときがくるのだ。

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〔あじさいのいろいろ〕

 ところで、何かで読んだことだが、われわれがあじさいの花と称して楽しんでいる色づいた部分は、実は花弁ではなく、萼(がく)だという。日本人がすぐに思い浮かべる花の定義は、少し桜の影響を受けすぎているような気もするが、実際にはもっとさまざまな種類のものがあるようである。

 もうひとつ、土が酸性なら青いあじさいが、アルカリ性なら赤いあじさいが咲く、ともいわれている。非常にややこしいことだが、あのリトマス試験紙とちょうど逆の色になるというのだ。でも、なかには中間色というのか、紫色をしたあじさいもあるし、数は少ないが純白のものも見受けられた。

 土壌の成分が、ここからここまでは酸性というふうに、画然と割り切れるものかどうかは知らない。ただ、人間が自分たちの国の境目をはっきりさせるために国境を引き、ときには海の上の島の領有権を主張しあって譲らないなどという争いを繰り広げるほどに、土が明確に区分けされているとも思えないし、その必要があるとも思えない。

 ぼくは庭園の小道を歩きながら、次々とあらわれてくる色とりどりの花を、ひたすら楽しんだ。満開の桜だと、同じ色のなかに全身が包まれてしまう息詰まる感覚があるが、あじさいの場合は色の変化を楽しむ余裕がある。近くから遠くへと、あじさいの花の丸いかたちがいくつも覗いているところは、大勢の人の頭みたいだ。たくさんの人に見られながら、ついでに喝采でも浴びながら ― それは本当はだんだんかまびすしくなっていく雨音なのだが ― ファッションモデルよろしく堂々と歩いている心地がしてきた。

 花に囲まれているとはいっても、お寺のなかなのだから、こんな思い上がりは罰当たりでもあろう。出口を出て、和菓子を売っている売店を眼にしたとたん、我に返った。体はもうさんざん濡れていたが、ようやく鞄から折り畳み傘を取り出して、頭上に掲げてみる。雨粒が葉っぱに当たったり、土に吸い込まれたりする音とはちがう、パラパラという人工的な音がいやに耳についた。

 京阪の駅に着くころには、雨はやんでいた。ぼくは駅のホームにぼんやりと立ちながら、これでまたひとつの季節が過ぎていってしまうのだな、などと考えていた。

(了)

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あじさいの寺へ(1)

2013年06月27日 | その他の随想

〔三室戸寺の境内に聳える三重塔〕

 少しは季節にまつわる話題も書いておきたい。ぼやぼやしていると、月が変わってしまう。

 先週末のことだが、あじさいを見るためにわざわざ出かけた。宇治市にある、三室戸寺(みむろとじ)というところだ。宇治にはしばしば出かけているが、この寺まで来たのはおそらく干支がひと巡りするほど前のことであろう。

 あのころはまだインターネットがさほど普及していなかったので、どの道をたどれば三室戸寺に着けるのか、皆目わからなかった覚えがある。帰り道はすでに薄暗くなっていたが、どこで晩ご飯を食べればいいのかも、まったく情報がなくて困ったものだ。

 ところが今では、パソコンでも携帯でも、駅からのルートが即座に確認できる。周辺にある飲食店もたちどころにわかる。便利だが、ここまで進歩してきてしまうと、次に同じ干支が巡ってくるときにはいったいどうなっているのか、空恐ろしい気もする。

 ところで最寄りの京阪の駅を降りると、改札を出た人々が全員同じ方向に歩いていく。インターネットのお世話にならなくても、皆がどこに行こうとしているかわかるし、そのあとを着いていけばまず道を誤ることはあるまい。

 ただ、歩道は決して広くはない。土産物屋が道端に並んでいるわけでもない。平等院とちがって、年がら年中観光客であふれているわけではないからだろう。同行の人と喋りながらのろのろ歩いている客は、本当に邪魔だ。ひとりですたすた歩きたいぼくは、どんどん追い抜いていく。

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〔鮮やかに開いた蓮の花〕

 山門をくぐるころから、雨がポツポツ落ちてきた。念のために傘は鞄に入れてきたが、予報は曇りだったので、ちょっとがっかりする。

 こういうとき、世間では「傘の花が咲いた」などという美しい表現を使う。けれども、参道を歩きながら眼をやると、境内にはもっと美しい本物のあじさいが咲き乱れているのだ。いや、咲き乱れる、というのは適当ではない。あじさいは、たとえば白玉の周りにきな粉がまぶされているように、丸っこいかたちを保ちながら咲いている。よくぞ、こんな不思議な植物を神は作り給うたものだと思う。

 だがその前に、石段をのぼって本堂に参拝するのが筋だろう。と思ったが、皆も考えることが同じなのか、それともそういう順路になっているのか、本道の前に長蛇の列ができていたので失礼することにした。なおこの寺の本尊は秘仏で、4年前におこなわれたご開張が84年ぶりだったというから、ぼくが生きているあいだに直接拝むことはできないかもしれない。

 本堂前には、たくさんの蓮が咲いている。蓮の花が開いているところを見たいがために、午前中にやって来たのでもある。折しも雨あしが強くなりはじめ、蓮の葉のくぼみにきれいな水玉が散らばった。ぼくはなぜか、天の摂理といったものをそこに感じた。

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ルネサンスから現代へ(5)

2013年06月26日 | 美術随想
新宿うろうろウォッチング その4


〔新宿文化センターの外観〕

 木々に囲まれた小道のようなところに入っていく。進んだ先には「新宿文化センター」がある、という看板が出ている。どこかで耳にした施設名のような気もするが、これ以上あてもなくぶらぶらするのもいかがなものかと思い、そこを目指して歩いてみることにした。

 先ほどのゴールデン街も、そのなかにあった小劇場も、いわば文化の一翼を担ってはいる。だがそれを大きなステージにのせないことには、発表したことにはならないし、世間には認められない。それが、数年前までの常識だった。けれども今では、インターネットを使って作品を世に問うことが容易になったし、電子書籍などという媒体を使って販売もできるようになっているらしい。

 ぼくはただ細々とブログを書いているだけで、ネット社会の奥深い部分についてはよく知らない。ただ、10代のころに地元のジュニア・オーケストラに所属して下手なヴァイオリンを鳴らしていた経験からすれば、市民の前でナマのステージに立つことほど緊張し、またやり甲斐を感じることはなかった。

 そのオーケストラでは年一回の定期演奏会のために練習を積み重ねた。練習場などは確保されていないので、大きな家具屋のなかにある会議室のようなところを使った。家からは遠く、いつも父親に車で送り迎えをしてもらったような覚えがある。夏になると、泊まりがけの合宿を敢行した。佐渡裕が率いるスーパーキッズ・オーケストラの活動がテレビで紹介されているが、あれと似たことをぼくも若いときにやっていたわけである(われわれはスーパーキッズではなく、単なる児童・生徒の寄せ集めであったところが大きくちがうけれど)。

 そして実際に公演をするのは、市の文化会館とか、県民会館とか、そういった公立の建物がほとんどだった。あまり音響のよくない、いわゆる多目的ホールである。福井にクラシック専用の音楽堂ができるのは、ぼくが大阪に出たあとのことだ。

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 新宿文化センターも、おそらくはそういう“何でもござれ”のホールなのであろう。重厚な感じの日清食品の建物を経て、それはようやく姿をあらわした。先ほどの看板のあった場所からは、あまりにも遠すぎる気がする。ぼくはいつの間にか、繁華街からずいぶん離れてしまっていた。

 センターの建物それ自体は、とりたてて派手なところもなく、また地味すぎもしない、堅実なものだった。どんな公演でもできればいい、というのではなく、いかなる公演も咀嚼して飲み下してやろうじゃないか、といった懐の深さが感じられた。

 新宿というと、何となくギラギラした印象をもっていたぼくとしては、そのあまりの常識的なたたずまいに驚かされもした。押し付けがましい広告やネオンで武装された表通りからしばらく奥へ入っていくと、まだまだ素朴な住宅街の雰囲気が残されているのだ。“ハコモノ行政”は何かと批判に晒されてきたが、このへん一帯に住む人たちが選り好みせず、通ぶりもせず、さまざまな催しに足を運んで文化の諸相と触れ合うために、こういったハコはどんどん活用されるべきだと思った。

 がんばれ新宿。

                    ***

 そろそろ歩き疲れたので、あてのない散策をやめて、美術鑑賞へと頭を切り換えることにした。どんな街であっても、深入りすればするほど固定観念を揺るがすような意外な顔を見せてくれるが、今回はこのへんにしておこう。

 あとからわかったのだが、松本竣介や中村彝が好んで描いた下落合は新宿区に属するそうだ。ほかにも夏目漱石、島崎藤村、永井荷風、林芙美子、小泉八雲らが暮らしていた場所が点在しているようである。まだまだ勉強不足だった。この次に新宿をうろつく際には、文豪たちにゆかりの旧跡にも眼を向けてみたいと思った。

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