レオナルドは左利き その2
ロンバルディア地方のレオナルド派の画家『貴婦人の肖像』(1490年頃)
古い時代の絵画には、その絵を誰が描いたか、という問題がいつもつきまとう。端的にいえば、展覧会のキャプションの作者名が「伝○○」とか「○○に帰属」とか「○○派」などという歯切れのわるい書き方で記されている場合は、その画家の作品だとする決定的な証拠に欠けていることになる。画家の名が伝えられているだけで、専門家による裏付けがとれていない場合もたくさんあるだろう。
われわれに親しい例でいえば、フェルメールがそうだ。現存する彼の真筆の絵は、三十数点などと曖昧に表記される。まったくもどかしい話だが、人によってフェルメール作か否かの判断がわかれるグレーゾーンの絵が何点かあるからである。作品を洗浄して、明らかに本人とわかるサインでもあらわれれば話は別だが、おそらく将来的にも白黒がはっきりする可能性は少ないものと思う。
レオナルド・ダ・ヴィンチにおいても、例外ではない。彼の真筆で、しかも下絵の段階で放棄されず一応の完成をみているものは、せいぜい十数点といったところだそうだ。その意味では、ルネサンスにおいてもっとも名高く、またもっとも寡作なのがダ・ヴィンチだといってもあながち間違いではなかろう。
『モナ・リザ』や『最後の晩餐』など、来歴のはっきりしているものは確実に本人の作といえるだろうが、作風から推測されているものも少なくない。ある人が「この描き方は確実にダ・ヴィンチだ」と断言しても、第三者を納得させる客観性に不足している場合がままある。美術の価値を定めるについて、言語の至らなさを痛感するのはそんなときだ。
***
ということは、結局のところ、すべては各自の審美眼に委ねられているということでもある。『貴婦人の肖像』は、今回の展覧会に出品されていた完成作のなかではもっとも魅力に富んだ一枚であった。作者は「ロンバルディア地方のレオナルド派の画家」という、何ともまどろっこしい呼び名が与えられているが、要するにダ・ヴィンチの系列には連なるけれどもダ・ヴィンチその人ではない、ということだろう。
ところが、過去にはこの絵をダ・ヴィンチ作とした専門家もいたらしい。どちらが正しいか、シロウトであるぼくにはわかりっこないが、ダ・ヴィンチか否かという論議とは別のところで、大変うまい絵だということは事実である。半透明の真珠の描写、袖をふちどる唐草模様の巧みさは、生涯を無名のままで終わるには気の毒なほど洗練されており、第一級の画家の手になるものだとぼくは思う。
ただ、何よりも気に入ったのは、その毅然とした横顔だ。この貴婦人のモデルは誰か、今でもさまざまな意見があって、謎に包まれている。しかし、そんな詮索をものともしない威厳のようなものが、彼女の引き締まった口もとや、しっかりと前方を見据えた視線にあらわれてはいないだろうか。少なくとも、『モナ・リザ』にみられる意味深な微笑などはここにはない。
***
参考画像:レオナルド・ダ・ヴィンチ?『美しき姫君』(15世紀後半か、個人蔵)
なお、これとよく似た『美しき姫君』という絵が、15年前のオークションで落札された。当時は『ルネサンスのドレスを着た少女の横顔』とされ、19世紀ドイツの画家が描いたものといわれていたのだが、最近になってダ・ヴィンチの真筆ではないかという説がかなり大っぴらに囁かれている。
その理由はいくつかあるようだが、最新のテクノロジーを駆使して絵の解析をした結果、ダ・ヴィンチとそっくりの指紋が検出されたことで一気に話題となった。要するに“第三者を納得させる客観性”が得られたというわけで、このへんのいきさつについて日本のテレビ局がドキュメンタリーを放映するほどだった(ぼくもその番組を見た記憶がある)。
けれども、大掛かりな機械まで持ち出して鑑定をしたところで、絵の価値は変わっても、そこに描かれているものまでが変わるわけではない。ぼくは『美しき姫君』の鼻の下の間延びしたところや、視線の何となくうつろなところが、先ほどの貴婦人と比べると少し物足りなく思える。見方を変えれば、そんなつかみどころのなさが『モナ・リザ』に似ているといえなくもないのだが・・・。
さて、あなたにはどう見えますか?
つづきを読む
この随想を最初から読む
ロンバルディア地方のレオナルド派の画家『貴婦人の肖像』(1490年頃)
古い時代の絵画には、その絵を誰が描いたか、という問題がいつもつきまとう。端的にいえば、展覧会のキャプションの作者名が「伝○○」とか「○○に帰属」とか「○○派」などという歯切れのわるい書き方で記されている場合は、その画家の作品だとする決定的な証拠に欠けていることになる。画家の名が伝えられているだけで、専門家による裏付けがとれていない場合もたくさんあるだろう。
われわれに親しい例でいえば、フェルメールがそうだ。現存する彼の真筆の絵は、三十数点などと曖昧に表記される。まったくもどかしい話だが、人によってフェルメール作か否かの判断がわかれるグレーゾーンの絵が何点かあるからである。作品を洗浄して、明らかに本人とわかるサインでもあらわれれば話は別だが、おそらく将来的にも白黒がはっきりする可能性は少ないものと思う。
レオナルド・ダ・ヴィンチにおいても、例外ではない。彼の真筆で、しかも下絵の段階で放棄されず一応の完成をみているものは、せいぜい十数点といったところだそうだ。その意味では、ルネサンスにおいてもっとも名高く、またもっとも寡作なのがダ・ヴィンチだといってもあながち間違いではなかろう。
『モナ・リザ』や『最後の晩餐』など、来歴のはっきりしているものは確実に本人の作といえるだろうが、作風から推測されているものも少なくない。ある人が「この描き方は確実にダ・ヴィンチだ」と断言しても、第三者を納得させる客観性に不足している場合がままある。美術の価値を定めるについて、言語の至らなさを痛感するのはそんなときだ。
***
ということは、結局のところ、すべては各自の審美眼に委ねられているということでもある。『貴婦人の肖像』は、今回の展覧会に出品されていた完成作のなかではもっとも魅力に富んだ一枚であった。作者は「ロンバルディア地方のレオナルド派の画家」という、何ともまどろっこしい呼び名が与えられているが、要するにダ・ヴィンチの系列には連なるけれどもダ・ヴィンチその人ではない、ということだろう。
ところが、過去にはこの絵をダ・ヴィンチ作とした専門家もいたらしい。どちらが正しいか、シロウトであるぼくにはわかりっこないが、ダ・ヴィンチか否かという論議とは別のところで、大変うまい絵だということは事実である。半透明の真珠の描写、袖をふちどる唐草模様の巧みさは、生涯を無名のままで終わるには気の毒なほど洗練されており、第一級の画家の手になるものだとぼくは思う。
ただ、何よりも気に入ったのは、その毅然とした横顔だ。この貴婦人のモデルは誰か、今でもさまざまな意見があって、謎に包まれている。しかし、そんな詮索をものともしない威厳のようなものが、彼女の引き締まった口もとや、しっかりと前方を見据えた視線にあらわれてはいないだろうか。少なくとも、『モナ・リザ』にみられる意味深な微笑などはここにはない。
***
参考画像:レオナルド・ダ・ヴィンチ?『美しき姫君』(15世紀後半か、個人蔵)
なお、これとよく似た『美しき姫君』という絵が、15年前のオークションで落札された。当時は『ルネサンスのドレスを着た少女の横顔』とされ、19世紀ドイツの画家が描いたものといわれていたのだが、最近になってダ・ヴィンチの真筆ではないかという説がかなり大っぴらに囁かれている。
その理由はいくつかあるようだが、最新のテクノロジーを駆使して絵の解析をした結果、ダ・ヴィンチとそっくりの指紋が検出されたことで一気に話題となった。要するに“第三者を納得させる客観性”が得られたというわけで、このへんのいきさつについて日本のテレビ局がドキュメンタリーを放映するほどだった(ぼくもその番組を見た記憶がある)。
けれども、大掛かりな機械まで持ち出して鑑定をしたところで、絵の価値は変わっても、そこに描かれているものまでが変わるわけではない。ぼくは『美しき姫君』の鼻の下の間延びしたところや、視線の何となくうつろなところが、先ほどの貴婦人と比べると少し物足りなく思える。見方を変えれば、そんなつかみどころのなさが『モナ・リザ』に似ているといえなくもないのだが・・・。
さて、あなたにはどう見えますか?
つづきを読む
この随想を最初から読む