てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

バルテュスに会いたい

2012年02月29日 | 美術随想

バルテュス『夢見るテレーズ』(1938年、メトロポリタン美術館蔵)

 2月29日は、20世紀の謎めいた画家バルテュスが生まれた日である。この日は4年に1回しかめぐってこないので、今年が26回目の誕生日ということになる。

 ところで、バルテュスの絵を実際に観たのはいつだったろうか。たしかに何枚かは観たことがあるのだが、いつどこで何を観たのか、どうしても思い出せない。2001年、93歳の誕生日を目前にしてバルテュスが死んだあと、「芸術新潮」が出した追悼特集号を買ったのだけれど、どこに行ってしまったのか探しても出てこない。

 生前から謎に包まれていたこの寡作な画家は、没してから10年あまり経ってもさほどメジャーになる様子はないようだ。あいかわらず“知る人ぞ知る”画家である。おそらく、これから何十年経っても、彼の絵が美術の教科書の表紙を飾るような時代は決して来ないだろう。

 いや、そうともいいきれないかもしれない。ゴヤの『裸のマハ』はある貴族が秘蔵していたものだが、今ではスペインの国宝とでもいうべき扱いを受けているし、ワイセツであると非難を浴びたマネの『オランピア』は、オルセー美術館でもっとも人気のある絵の一枚になっているのだから。

 けれども、『夢見るテレーズ』にみられる露骨な少女趣味は、全裸の女性像を眺めているとき以上に、一種奇妙な罪悪感を呼び起こす。やはりあられもない少女を描いたパスキンの絵を観てもさほどではないが、バルテュスに至っては、自分がまるで画家と共犯関係にあるような居心地のわるさを感じさせるのである(それはある意味で、秘められた高揚感と表裏一体ではあるけれど)。

 バルテュスの没後、日本では一度も回顧展が開かれていない。生前には数度の展覧会があったようで、日本びいきであった画家はさぞ喜んだことだろうが、展示された会場はごく限られていた。熱心なファンが遠方からも駆けつけ、こっそりと宝箱の蓋を開けて楽しむように、バルテュスの不可思議な世界を堪能したのだろうか。

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バルテュス『コメルス・サンタンドレ小路』(1952-1954年、個人蔵)

 2000年のころだったか、NHKで作家の江國香織がスイスのロシニエールに住むバルテュスを訪ねる番組が放送された。

 このシリーズでは、ほかにフンデルトワッサー(放送のあった直後に亡くなったような記憶がある)やフランク・ステラ(今でも健在である)がインタビューにこたえていたが、バルテュスは高齢のせいかとりわけ寡黙で、取っ付きにくい感じがした。ただ、バルテュスは先ほども書いたように日本が好きで、奥さんも日本人であるから、江國の訪問を許してくれたのかもしれない。

 江國は、車椅子のバルテュスに案内されて、アトリエに入る。だが、彼は絵筆をとる様子もない。ただ、じっと座っていたように思う。テレビ番組だから、当然のことにスタッフはライトをつけて室内を照らそうとするのだが、バルテュスはそれを一喝する。照明は消され、画面にはバルテュスの薄暗い輪郭が写ったままで、時間は過ぎていった。

 やがて、静かな明るみがアトリエの窓から入り込んでくる。テレビカメラがそれをどこまでとらえられたかわからないが、バルテュスは「これだ、この光なんだ」というようなことを口走ったような気がする。もちろんぼくの勝手な記憶ちがいかもしれないが、あの無愛想だった老画家の顔が一瞬力を得て、若やいだように見えたのはたしかである。

 画家は毎日、スイスのアトリエでこのように自然光との劇的な邂逅を繰り返しているのかと思うと、不夜城のごとき都会で生活する現代の日本人に、バルテュスの絵がどこまで理解できるものか心もとない気もした。

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 もうそろそろ、またバルテュスの絵に会ってみたい。そんなことをふと、思ってみるようになった。

 (江國香織がバルテュスと会ったときの様子は、彼女のエッセイ集『日のあたる白い壁』に収録されている由である。)

(了)

異邦人が写したパリ ― イジスの写真を観る ― (3)

2012年02月28日 | 美術随想

『チュイルリー公園』(1950年)

 舞台をパリに戻そう。

 『チュイルリー公園』に写っているのは、メリーゴーラウンドである。というよりも、文字どおりの回転木馬で、馬車などの優雅な乗り物はなく、ひ弱な馬たちが浮かんでいるだけだ。

 地面を見ると、何やら白い石ころのようなものが散乱しているが、これは雪であろう。背景もいちめん銀世界だ。こんな日に、回転木馬に乗りにくるような物好きな人はいない。したがって馬たちは、ただ人待ち顔に止まっているだけである。さぞや寒いだろうけれども・・・。

 画面の奥にはすっかり葉を落とした木々が並んでいて、馬と屋根とをつなげているポールと重なり、心地よいリズムを奏でる。この縦のラインと、ゆるやかに回転する ― ただし今は動いていないが ― 木馬たちの円形の動線が交錯して、空間の不思議な広がりを伝えてくれる写真である。

 無人の回転木馬を写しているのに、ただ打ち捨てられただけの淋しさではなく、どことなく人肌のあたたかさを感じさせるのは、イジスの手腕の見事さであろう。あるいは、心の優しさといいかえてもいい。

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『ヴィクトール・バッシュ広場、5月1日』(1950年)

 こちらは、鬱陶しい雨のパリである。道ばたに立つふたりの足もとを見ても、かなり激しく降っているようだ。

 さて、親子連れとも見えるふたりは、この悪天候に何をしようとしているのだろうか。実は5月1日というのが鍵で、フランスではこの日、スズランを贈る習慣があるという。贈られた人は、幸せになるともいわれている。

 それだけではなくて、この日は無許可でスズランの販売をしても罪にならない。よって5月1日にもなると、パリの街角がスズランの屋台であふれる。この親子も、テーブルの上にささやかなスズランを並べてお客を待っているところだが、天は彼らに味方しなかったようだ。

 商売は上がったりなのに、とにかく屋台に立ちつづけなければならない親子のあいだには、明らかに亀裂が生じている。互いにそっぽを向いているし、会話すらもなさそうだ(もっとも、話をしようにも雨と自動車の音に掻き消されてしまうだろうけれど)。

 スピードを上げて走り去る背後の車、左下にちょっとだけ見える通行人の爪先の動きが、なすすべもなく立ち尽くしているにわか花屋の、いつ終わるともない退屈な時間をあぶり出すのである。

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 ほかにも、画家のシャガールに密着した一連の写真も興味深かった。シャガールがパリのオペラ座の天井画に取り組んでいる様子。カフェテラスで何やら真剣な眼差しでデッサンをしている姿。筆先から、魔法のように彼独特の生き物が紡ぎ出される瞬間をとらえた連続写真。この連作にのみ、カラーの写真が数枚混じっていた。

 シャガールもパリでは異邦人であり、ユダヤ人でもある。イジスは、彼の生きざまに共感できる部分があったのだろう。シャボン玉、回転木馬のような宙に浮かぶイメージは、どことなくシャガールの無重力のような絵画世界と通じる。ひしと抱き合うカップルも、同じである。

 古き良き時代を記録した素敵な写真家を、またひとり教えてもらった。

(了)


DATA:
 「イジス写真展 ― パリに見た夢 ―」
 2012年2月2日~2月26日
 美術館「えき」KYOTO

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異邦人が写したパリ ― イジスの写真を観る ― (2)

2012年02月27日 | 美術随想

『カップル』(1952年頃)

 イジスとドアノーは1歳ちがいだと書いたが、イジスの『カップル』という写真は、ドアノーの代表作『パリ市庁舎前のキス』を思い起こさせる(詳しくは「モノクローム・ド・パリ - ドアノーを回顧する - (1)」を参照)。

 ドアノーの写真が1950年のものだから、『カップル』とは年代的にも近い。ただ、イジスのほうはトラファルガー広場で撮られたというから、舞台はロンドンである。

 『パリ市庁舎前のキス』は、キャパの『崩れ落ちる兵士』と同様、長らく“やらせ”論争が絶えることのなかった作品である。そのへんの真偽はさておき、イジスの『カップル』は周囲にほとんど人影がないことから、被写体として狙われやすい条件にあったといえる。むしろ「撮ってください」といわんばかりに・・・。

 誤解をおそれずにいえば、この写真には「隠し撮り」に近い一面があるのである。隠し撮りといえば、今でもしょっちゅう週刊誌に掲載されているぐらいなので、カメラを手にした人間が二度と抜け出すことのできない甘い蜜のようなものかもしれない。

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 実は路上で撮影する写真家にとって、隠し撮りの疑惑をもたれることはしばしばあることらしい。以前に展覧会を観たことのある森山大道は、都会の雑踏を歩きながらコンパクトカメラのシャッターを切りまくるタイプだが、たまたま写った人とトラブルになったことがあると、何かの本で書いていた。けれどもそういう危険性は、かの土門拳だって、現代のアラーキーにだってあるわけだし、多少は覚悟しながら仕事をしているのだろうと思うけれど。

 ただ、『カップル』は、そういったドキュメンタリーふうの臨場感よりも、抱き合うふたりのかっこうに思わず眼が行ってしまう。女は今にも男を押し倒してしまいそうな勢いだし、男のほうもそうはさせまいとして上体を後ろへ反らし、肘を踏ん張っている。だが、男がそんな苦労をしているということは、女の眼には入っていないにちがいない。

 幸か不幸か、このカップルは顔がほとんど写っていないので、ドアノーのように肖像権をめぐって訴訟を起こされることもなかっただろう。モデルの詮索よりも、若い男と女の微妙な力関係、その駆け引きの絶妙さが普遍的なもののように思えて、ぼくの印象に残った。

 もしこの男女がめでたく夫婦になったとして、数年後にはきっと旦那は奥さんの尻に敷かれているにちがいない、などと余計な想像までしてしまいたくなるのは、それこそいらぬ詮索というべきものではあるが。

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『シャボン玉を吹く男』(1952年頃)

 『シャボン玉を吹く男』も、ロンドンで撮影された。今回の作品は2枚とも「異邦人が写したパリ」という本稿のタイトルに反するが、まあ大目に見ていただきたい。

 というのも、この名も知れぬ男の風変わりな姿が、ぼくの脳裏に焼き付いてしまったからだ。一瞬、眼鏡をかけたとても知的な顔に見えた。だがよく観察すると、男の眼の前にシャボン玉が浮かんでいるのが、丸眼鏡の縁のように見えているのだとわかった。

 それにしても、不思議なシチュエーションである。イギリスの紳士が、こともあろうに街中の雑踏のなかでひとりシャボン玉を吹いているとは・・・。もしかしたら近くに幼い子供たちがいて、この男はお手本を見せてやっているだけなのかもしれないのだが、状況を説明するものが何も写っていないので、こちらは自由に想像の翼を羽ばたかせることができる。

 イジスの写真は、物事の本質に迫ろうとする鋭さよりも、曖昧なものは曖昧なままで、一瞬のうちに芸術に転化させてしまう詩人のようなところがある。その場の状況はどうあれ、無心にシャボン玉を吹くこの男の眼つきは真剣そのものだ。幼児の遊びに思わず取り憑かれてしまった男の心は、それこそシャボン玉のように宙にふわりと浮かんで、どこかへ飛んでいってしまうのかもしれない。

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異邦人が写したパリ ― イジスの写真を観る ― (1)

2012年02月26日 | 美術随想

〔「イジス写真展」のチケット〕

 「イジス」という、奇妙な名の写真家のことを、ぼくは今まで知らなかった。京都で開かれた大規模な展覧会にも行かないつもりだったのだが、モノクロでパリの風景をとらえた写真がだんだん観たくなってきて、最終日に滑り込んでしまった。

 イジスというのは本名ではない。1911年生まれというから、あのドアノーより1歳年長にあたるが、ユダヤ人であり、リトアニアの出身という経歴は、最近また原発がらみで注目されている画家ベン・シャーンに似ている。

 イジスは憧れの地パリへ出るが、第二次大戦がはじまり、磁器で有名なリモージュへ避難する。そこで対ドイツを標榜する運動員が銃を構えた物騒な肖像写真などを撮って、カメラマンとしてのキャリアをスタートさせた。

 展覧会の劈頭にでかでかと並んだその戦士たちのいかめしい、しかしどこか素朴な顔写真は、技巧を凝らして撮影された形跡はなく、演出すらもなく、ただ記録のために残したというような感じだった。ぼくが観たかったのは、こんな写真ではなかった。

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『ポール・エリュアール』(1946年)

 人物と一対一で向き合っていたイジスの眼は、やがて相手を俯瞰する位置にまで退く。至るところに寝そべっている、今でいうホームレスの姿を見下ろすようになる。パリのホームレスが写真の素材になるなど、考えてみればいささか妙だが、日本のボロ切れ然とした連中よりははるかに身だしなみがいいように思える。

 カミュやコレット、ドラ・マール、ローラン・プティなどの有名人のポートレートもある。なかでもおもしろかったのは、詩人のポール・エリュアールの肖像であった。

 といっても、エリュアールと聞いて彼の詩の一節が頭に浮かんだりはしない。何といっても思い出されるのは、ダリの妻でシュルレアリストたちのミューズとして賞賛されたガラという女が、もともとはエリュアールの妻であったということである。

 ダリとガラの関係は謎めいていて、間違っても“おしどり夫婦”だったわけではないが、ダリはガラを自作のなかに描きつづけ、崇め奉ったように見える。もしガラがエリュアール夫人でありつづけたら、20世紀の絵画史はガラリと変わったことだろう。エリュアールが失ったものは、果たしてどれほど大きかったのか。

 それにしても、この肖像写真は異常だ。これだけ観ると、イジスという人物はトリックを駆使する写真家だと思い込んでしまいそうだが、決してそんなことはない。もちろん合成写真でもない。おそらくは鏡を使って撮影されているのだろうが、鏡像のほうにピントが合っているせいか、現実と虚構が逆転してしまったような違和感がある。

 ところでエリュアールはガラと離婚したあとも、二度結婚しているという。このポートレートにみられる物憂そうな表情は、ガラを失ったせいでないことだけは確実である。

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ピースサインの蔓延

2012年02月25日 | その他の随想


 子供のころについやってしまったことで、今でも心に引っかかっていることがひとつある。ほかの人に話すと、何だそんなことぐらい、といわれるに決まっているけれど・・・。

 何かの集まりで ― こども会だったか、学校の行事だったか忘れたが ― どこかの競技場のようなところに行ったとき、同行のカメラマンか親御さんだったかが不意に、何の予告もなしにカメラを向けた。その場にいた5、6人を撮ろうとしたのだが、なぜか皆申し合わせたように、右手でピースをした。ぼくもつられて、カメラに向かってピースサインをしてしまった。そのことが、いまだに悔やまれるのである。

 なぜなら、ぼくは他のいかなる場合でも、写真を撮られる際にピースサインをしたことがなかったからだ。そういう主義だというわけではないが、なぜ皆がこぞってピースをしようとするのか、いったいあのポーズに何の意味があるのかがわからない。納得もできないのに他人のするままに流されることが、ぼくは嫌いなのである。あの競技場での一枚の写真は、一生の不覚だったといえる。

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 そもそも、ピースサイン(Vサイン)というのは何なのか。ピースといえば平和ということだが、何が平和だというのか。

 デジタルカメラの全盛期を迎え、画像の複製も消去も手軽にできる今の時代ならともかく、フィルムのカメラがまだ支配的だったあの当時、そこまでして平和をアピールする姿をネガに焼き付けたかったのだろうか。そんなわけではあるまい。

 ピースサインの起源についてはいろいろいわれているようだが、そんなことはどうでもいい。カメラを向けられると、わけもなくピースをしてしまう日本人の心理が、ぼくには不思議でならないのだ。

 明治時代のころの集合写真を見ると、まだ写真というメディアに対して一種の気おくれがあった時代が懐かしくなる。かつては「写真に写ると魂が抜き取られる」などといわれたせいもあるだろうが、必要以上に自分を誇示することなく、ほとんど直立不動の姿勢で写っていた。おとなしく“撮られている”さまが、いじらしい。

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 日本人の謙虚さが写真から失われるようになったのは、なぜなのか。皆で写真を撮るとき一斉にピースサインをすることによって、そこに一体感が生まれているように思うのか。だとしたら、とんでもない勘ちがいではないかとぼくはいいたい。

 よくないたとえかもしれないが、若者が事故などで不慮の死を遂げたとする。まだ若いので、写真館で撮るようなちゃんとした写真は残っていない。仕方なく、仲間と一緒に写したスナップを切り抜いて祭壇に飾ることになるが、なぜかピースサインをしていることがある。ニュースなどの報道でも、そういった写真が使われることが少なくない。

 その写真からは、いいようのない孤独感があぶり出されているように、ぼくには見える。皆で一緒にピースサインをすることによって、仲間意識に寄りかかっているときは楽しいかもしれないけれど、ひとり切り離されたときには、その断面があまりにも哀れなのだ。彼は(彼女は)ひとりで何をなし得たのか、自分のどこに誇りをもっていたのか、これからどうやって生きていこうとしていたのか、まったく伝わってこないのである。

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 他の国の人が見ても、日本人の“ピース狂”は理解しがたいことだろう。ぼくも一歩離れたところから彼らを見ていて、その心の奥にあるものを計りかねている。

(了)

(画像は記事と関係ありません)