てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ベルギー絵画いまむかし(2)

2007年06月27日 | 美術随想


 おどろおどろしい絵があった。恐怖映画が苦手な人なら、思わず目をそらしてしまってもおかしくないだろう。かくいうぼくも、ホラーやオカルトのたぐいは大の苦手なはずだが、しかしこの絵にはぐいぐいと惹きつけられた。おぞましい妖怪たちが跋扈し、数知れない裸の人間どもがひしめき合いながら渦を巻いているありさまに、ひたすら見入ってしまったのである。

 『地獄のアイネイアス』(上図)、作者はヤーコプ・ファン・スワーネンブルフという画家だ。しかし、ぼくはこの画家のことをまったく知らなかった。家へ帰って調べてみても、詳しいことはほとんどわからない。たしかなことは、彼がライデンに生まれてユトレヒトで没したということ(つまり彼はベルギーよりもオランダの画家というべきだろう)、ブリューゲルやヒエロニムス・ボス(ボッシュ)の影響を受けたらしいこと、ごく若いころのレンブラントに絵の手ほどきをしたということぐらいである。ブリューゲルとレンブラントという、一見あまり関連のないふたりの巨匠が、このスワーネンブルフという画家を介してつながるところが興味深い。

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 ここに描かれているのは、古代ローマのウェルギリウスによって書かれた『アエネイス』という叙事詩の一場面だそうである。ただ、ぼくは西洋の古典文学に関して何の素養もないので、絵の内容について詳しく触れることはできない。ひとつだけいえることは、紀元前の古い文献をもとにしながらも、この絵は現代のわれわれにまで激しく訴えかける迫真的な地獄のイメージを達成し得ているということである。画家の想像力というものは、やはりたいしたものだ。

 さて何といってもまず眼につくのは、画面の右下であんぐりと口を開けた化け物の巨大な顔だろう。極端に大きな口はトトロを連想させるし ― などといったらアニメファンに怒られるかもしれないが ― 水木しげるが描いた妖怪にもこんなやつがいたような気がする。ブリューゲルの『悪女フリート』(下図、部分、マイヤーファンデアベルヒ美術館蔵)にも大きな口を開けた怪物が登場するが、こちらは建物が化けたもののように見える。その点スワーネンブルフの描いた化け物は、ふにゃふにゃしていて、どことなく間抜けで、愛嬌がある。



 だが、この化け物は実際に人間を飲み込んでいるというわけではなく、アイネイアスが冥界を訪れた場面を描き入れるための、一種の額縁の役割を果たしているのかもしれない。というのも、アイネイアスの姿は同じ絵の中にもう一度登場するからだ。まるで幽霊船のような、傾きかけた帆船の上に、おびただしい死者たちを従えて乗り込んでいるのである(日本美術でよくいわれる「異時同図法」だが、何も日本の専売特許というわけではない)。

 しかし、死者たちはあとからあとから絶え間なく堕ちてくる。いつ尽きるとも知れない、果てしない渦の流れを見るようだ。まさしく、無間(むげん)地獄だとしかいいようがない。

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 ひしめき合う死者たちの凄惨な描写は、ぼくにひとつの絵を思い出させた。大原美術館にある、レオン・フレデリックという画家が描いた『万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん』(上図、部分)という作品である。

 もうかなり前のことになるが、はじめてその美術館を訪れたとき、展示室の壁を一面に覆いつくした数え切れないほどの肉体の群がりを観て、ぼくは感動するよりもただただ驚愕した。エル・グレコやゴーギャンなどの名画があるということは前もって知っていたが、この絵についての予備知識は何もなく、文字どおり不意打ちをくらわされたように、なすすべもなく絵の前に棒立ちになってしまったのである。

 フレデリックという画家の名前も初耳だったが、そのときは作者名も絵のタイトルも頭に入らず ― 後者は今でも暗記できているかどうか疑わしいけれど ― とにかく圧倒的な迫力だけが脳裏に焼きついた。というのも、7枚のパネルからなるこの作品は、全長が11メートルにもおよぶ途方もない大きさなのである。そこには地獄から天国への復活の物語が展開されていて、何百人という裸の老若男女が描き込まれている。なかでも地獄の場面に描かれたぎゅうぎゅう詰めの死者の描写は、およそ正視するにたえないほどむごたらしいものであった(画像にはあえて別の場面を掲げた)。

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 ぼくがこの絵を冷静に鑑賞することができるようになったのは、数年経ったのちに大原美術館を再訪したときのことである。ぼくは悪夢にもう一度向かい合うかのように、覚悟して絵の前に立った。フレデリックの精細を極めた筆は、驚くべき写実性で人間のありのままの姿をとらえていた。あれだけの数の人がいるのに、ひとりひとりに表情があり、個性があり、それぞれのドラマがあるようだった。そして悲惨な地獄の場面ですらも、それが神の愛によって救われるべきものという前提で描かれていることを考えれば、単にまがまがしいだけのものとも思えなかった。

 レオン・フレデリックがベルギーの画家だということを認識したのは、おそらくそのときだったろう。19世紀の半ばにブリュッセルに生まれた彼は、世紀の変わり目をまたいで『万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん』を描き継ぎ、25年の歳月をかけて完成させたという。

 第二次世界大戦がはじまって間もなく、1940年に彼は没した。あの恐るべき地獄絵図が、現実のものとなってしまう直前のことであった。

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ベルギー絵画いまむかし(1)

2007年06月24日 | 美術随想


 《ワッフル? ビール? いえいえ次はアートです。》

 これは、大阪で開かれた「ベルギー王立美術館展」のポスターに書かれたコピーである。誰が作ったのかは知らないが、いかにも普段から美術に縁のない人が考えそうな文章だ。多少なりとも西洋美術に関心のある人であれば、フランドルと呼ばれた時代から20世紀にいたるまで、かの国がどれほど偉大な画家たちを輩出してきたかを知っているはずである。

 童話『フランダースの犬』の舞台は現在のベルギーであり、主人公のネロ少年がルーベンスの絵と対面を果たした大聖堂は、ベルギーのアントワープに実在する。だいいちルーベンスはフランドルを代表する画家というだけにとどまらず、全ヨーロッパでもっとも成功をおさめた画家だといってもよかったのだから、美術の中心地は一時期ベルギーにあったといっても決して過言ではないだろう。

 それにしても『フランダースの犬』の物語は、世界中のどこにもまして日本でいちばん人気があるらしい。にもかかわらず、ベルギーといえば1にワッフル2にビールとは、いささか食い意地が張りすぎているのではないか、と苦言を呈したくもなる。

 とはいうものの、宣伝コピーが気に入らないからといって、その展覧会を観にいかないという理由にはならない。それに、日本でベルギー美術に接する機会は決して多くはないということも、残念ながら事実なのだ。姫路市立美術館のように、優れたベルギー美術のコレクションを有しているところもなくはないが、それでもフランドル絵画までは持ち合わせていないのが現状である。今度の展覧会でピーテル・ブリューゲル〔父〕の『イカロスの墜落』(上図)の出品が大きな話題となったのも、理由のないことではない。

 ただし、今回は画家の名前にクエスチョンマークが付けられている。ぼくが昔、画集か何かでこの絵の存在を知ったころには、普通にブリューゲルの作ということになっていた。しかし研究が進むにしたがって、いろいろ問題が出てきたらしい。だが今のところ、この絵をブリューゲルの作品とすることにぼくは何の不都合も感じていないので、その前提で話を進めていくことにしよう。

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 ギリシャ神話に登場するイカロスの物語が、現代の日本でもよく知られているのは、やはり『勇気一つを友にして』という歌のおかげなのだろうか。ぼくがまだごく小さいときにNHKの「みんなのうた」で流れ、のちに音楽の教科書にも収録されたというこの歌は、たしかに若者の心を奮い立たせるものをもっている。ぼくも大好きな曲である。

 余談だが、若いころにFM放送でクラシック音楽を聴きあさっていたころ、N響定期公演の生中継の司会を山田美也子さんという方が担当しておられた(あれからずいぶん年月が経つが、今でも番組に出演されているらしい)。ソフトで親しみやすい語り口が心地よく、ぼくはその放送を楽しみにしていたものだった。のちに大阪で開かれたあるコンサートの司会者として、ご本人を実際にお見かけする機会もあった。それから何年かして、『勇気一つを友にして』を歌っていたのが山田さんその人だということを知ったときには、本当に驚いたものだ。あの凛とした歌声と、ラジオでの穏やかな口調とが、頭の中でどうしても一致しなかったのである。

 それにしても、この絵のイカロスはあまりにみじめな姿だ。ここには“ロウでかためた鳥の羽根”など描かれてはいない。溺れてもがく人のように、海中から足だけがむなしく突き出している。しかもそれが、うっかりすると見過ごしてしまいそうなほどに、画面の隅のほうに小さく描かれているだけなのである。絵の中央には腕組みをして空を見上げている男がいるのに、イカロスの存在は眼に入らなかったらしい。海辺にはひとりの男が釣り糸を垂れているが、この男すらも眼の前で起こっている悲劇に気づいた様子はない(下図)。



 絵の題名を『イカロスの墜落のある風景』とした本も多くある。それほど、この絵の中でイカロスの占める位置は小さい。農民は黙々と畑を鋤き、海には帆船のマストが風にひるがえり、水平線の向こうには日が沈もうとしている。いつもどおりの一日が、いつもどおりに暮れようとしているだけなのである。

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 ブリューゲルの絵を日本で観る機会はめったにないが、ぼくは今から17年前に、京都の美術館で『干草の収穫』(上図、プラハ国立美術館蔵)を観た。

 ぼくはそのころ、故郷の福井を出て大阪でひとり暮らしをはじめたばかりだった。お金はなく、道はわからず、出かけようかどうしようか迷ったが、福井にいてはまずめぐり合えない西洋絵画の名作をひと目観たくて、行くことに決めた。京都に住むようになった今では2か月に一度は出かける国立近代美術館に、はじめて足を踏み入れたのがその展覧会だった。

 『干草の収穫』と対面したぼくは、これが本物のブリューゲルなのか、フランドル絵画とはこんなにすごいものなのか、と感じ入った。そのときの感激は、今でもちっとも色あせてはいない。それは油彩画とはいっても、普段からよく眼にするこってりした油絵とは全然別のものであった。草の葉一枚まで描かれた精密な細部と、地平線まで見わたせるような雄大なスケールとが、何の破綻もなくひとつに溶け合ったような絵はそれまで観たことがなく、まるで別世界に降り立ったような気分になったほどである。

 この絵でも、農民たちは黙々と働いている。馬に乗る者、頭上に載せた籠いっぱいに収穫物を入れて運ぶ者、画面の左には鎌を修繕するひとりの男。干草を収穫する人々のずっと向こうには ― 豆粒ほどの大きさだが ― 羊飼いがぽつんとたたずんでいるし、さらに遠くの家の前には何やら人だかりができている。皆がそれぞれ、自分たちの日常を一生懸命に生きている。他人のことに眼をくれる暇などない、といわんばかりだ。

 その中で唯一の例外が、前景を足並みそろえて歩きすぎる3人の娘たちの、真ん中のひとりである。彼女だけは、すれちがった馬がひいていく赤いみずみずしい果物のほうを振り返っているように見えるのだ(下図)。この絵の中で表情が判別できるのはその3人の娘だけだが、麦藁帽子をあみだにかぶった彼女の卵型の顔は、ひときわ愛らしい。一見すると労働のつらさにみちた農村風景の中に、彼女の存在が一抹の微風となって吹きそよぐようではあるまいか・・・。



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 “鉄の勇気”が頓挫し、まっさかさまに墜落したイカロスは、誰ひとりとして振り返らせることができなかった。彼は助けられることもなく、海の底へ沈んでいこうとするところである。

 今この瞬間にも地球のどこかで、勇気をもった若者が夢なかばで消え去ろうとしているかもしれない。しかし世の中の歯車は、そんなこととは関係なく、同じように回りつづける。現実とは、そんなものなのだ。

 ・・・こんなふうに考えていくと、400年以上前に描かれたこの絵の中に、21世紀の現代社会が二重写しになって見えてくるような気がする。イカロスの小さな姿が、ブリューゲルによって絵の隅に描きとめられたのは、今でいえば写真にたまたま写りこんでしまったというだけのことかもしれない。

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季節はめぐりて ― 「院展」の画家たち ― (3)

2007年06月22日 | 美術随想


 那波多目功一。なばため・こういち、と読む。まことに珍しい、そして簡単には読めない名前である。しかし日本画を愛する人々の頭の中には、この名前が強く刻み込まれているのではないかと思うがどうだろう。当代屈指の、花の絵の名手である。

 特定の花を好んで描きつづける画家は多いが、彼が手がける花の種類は、非常に幅広い。ぼくがはじめて観たのは、たしか牡丹の絵だったと記憶する(この絵は高い評価を受け、日本芸術院に所蔵された)。NHK教育テレビ「趣味の園芸」のテキストでは、彼の絵が毎号の表紙を飾っていて、季節ごとのいろいろな花が咲き誇るさまを楽しむことができる。

 このたび出品されていた『朧』(上図)は、見事に咲きそろった桜の花を描いたものだった。だが、ぼくたちが満開の桜から感じるような華やかさとは、少しおもむきがちがう。

 これは夜桜である。花々をうっすらと照らしているのは、篝火や人工の照明ではなく、ぼんやりとした朧月の光である。あるかなきかの、淡くはかない月影・・・。平山郁夫がイスタンブールの夜空に描いた月について、ぼくは日本の朧月と似ているなどと書いてしまったが、よくよく見比べてみると、やはりこちらのほうが日本的な複雑な情緒を宿しているような気がしてきた。幾層にも重なりあった雲の絨毯に乱反射する月光が、万物をやんわりと包み込む春の宵の情景が頭をよぎる。

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 そういえば、かつて月光仮面というヒーローがいた。彼が白黒テレビの中で大活躍したのはぼくの生まれるずっと前の話だが、その存在はなぜかよく知っているし、主題歌の歌詞まで暗記してしまっているのは今考えても不思議だとしかいいようがない。

 余談だが、月光仮面の原作者は先ごろ“おふくろさん騒動”で世間の注目を浴びた川内康範(こうはん)氏だそうだ。主題歌を作詞したのも川内氏で、「正義の味方」という言葉は彼がその歌の中ではじめて使った造語だという。それにしても、なぜ“月光”仮面なのだろう。川内氏によると、薬師如来の脇を固める月光(がっこう)菩薩がその発想のヒントになったということだが・・・。

 最近では“月にかわって”おしおきをするというヒロインまで登場した。このような“正義の象徴”としての月のイメージのよってきたるところは、ぼくにはよくわからない。ひとつだけいえるのは、春の夜空を柔らかく照らす朧月には、彼らのように善悪を厳しく分け隔てる鋭さは皆無だということだけである。

 『朧』に描かれた桜の花弁は、あるものは明るく照らし出され、あるものは妖しげに暗く沈んで見える。これをわれわれ人間界の縮図のように感じるのは、もちろんぼくの偏見にちがいないが、世間の脚光を一身に浴びる人がいるかと思えば、誰にも知られずひっそりと生きながらえる人々がいるということも、また事実である。その陰影をまことにデリケートに描き出すところが、那波多目功一の真骨頂であると思う。

 彼がテキストの表紙に描いている花は ― そのすべてを観たわけではないが ― いわばカメラに向かってポーズをとった花々かもしれない。だが展覧会で出会う彼の絵では、しばしば花は複雑微妙な表情を見せることがある。今を盛りと咲き誇っているだけが花ではない。煌々たるスポットライトを浴びているだけが花でもない。那波多目は ― 無理を承知でたとえれば ― そんな花々の喜怒哀楽に、慈愛にみちた優しい視線を向けているように思われる。月光仮面のような勧善懲悪のシンプルな図式からはこぼれ落ちてしまう何かが、彼の絵にはしっかりと描かれているような気がするのである。

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 手塚雄二には、以前から強く惹かれていた。彼の描く絵には、他の誰ともちがう独特の光と陰がさしている。今回の出品作は文字どおり『春』(上図)というタイトルだったが、われわれ凡人が感じる春と、彼の描く春はまったくちがう。

 昨年のこと、彼の半生を回顧する個展が全国を巡回し、ぼくも足を運んだことがあった。美術雑誌の記事によると、何度か開かれた作者自身によるギャラリートークはいつも大変な盛況だったということだが、ぼくは閉館まぎわの人の少ないミュージアムで、どっぷりと手塚の世界に浸ることができた。薄暗がりの中に照明がともされ、絵が闇から浮かび上がるように工夫された会場には、日本画展としては異例なことに、クラシックのBGMが流されていた。

 原則として、展覧会場に音楽をかけることはぼくは賛成できない。視覚と聴覚とはまったく別のもので ― テレビや映画のようにシンクロしているのでないかぎり ― 互いに相容れないものだとぼくは思っているからだ。だがそのときばかりは、何という絵だったか、激しい波のうねりを描いた大きな屏風絵の前に立ったとき、ちょうどマーラーのアダージェットがむせび泣くようなクライマックスを奏で、しばし恍惚としてしまったことを今でもはっきり思い出す。

 『春』も、手塚ならではの色彩感覚が画面を覆いつくしている。あえて強引にまとめるなら、近年の彼の絵はほとんど紫から金色への階層の中におさまる。この絵はまさに、今いったふたつの色のグラデーションからなっているといってもいい。まことに幻想的な、この世ならぬ光景である。

 シルエットで描かれているのは、よく見ると桜の枝のようだ。そして絵の全体には、桜の花びらが一枚一枚、可憐に散っている。このふたつが同じ植物だとはとても信じられないが、やはりそうなのだろう。彼の感性が凡人とはちがう、と書いた所以である。

 だが彼の顔写真を見ると、どこにでもいそうな、ごく一般的な風貌の男性だ。ベレーなぞをかぶってこれ見よがしに歩いている“芸術家気取り”の人をよく見かけるが、手塚はまったくそんなことはない。「平凡な家庭、非凡な仕事」が目標だと彼はいう。感受性のきらめきを、念入りに仕上げられた一枚の日本画に結実させるには ― いうまでもないことだが ― 日々の地道な努力が必要なのだろう。それは平凡かつ堅実な家庭を築くことと矛盾するものではない。

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 ぼくたちが彼らの絵から教えられるのは、季節のとらえ方のさまざまなありようである。画家の数だけ秋があり、冬があり、春がある。

 さて現実の世界は、もう夏も間近い。これまで気づかなかった夏の姿に、今年は気づいてみたい。


DATA:
 「第62回 春の院展」
 2007年6月6日~6月11日
 京都高島屋グランドホール

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季節はめぐりて ― 「院展」の画家たち ― (2)

2007年06月17日 | 美術随想


 大野百樹については、以前にも「秋の訪れと「院展」(3)」の中で取り上げたことがあるが、この画家ははたしてどれほど知られているのだろう。ぼくが彼のことをはじめて知ってから何年も経つが、それほど有名になった様子もない。だが毎年の「院展」では、多くの人が彼の絵の前で釘付けになっているのをよく見かける(かくいうぼくも、何度も釘付けになったひとりである)。「春の院展」に出品されていた『雪韻』(上図)も、ぼくをじゅうぶんに喜ばせてくれた一枚だった。

 去年から今年にかけて、サトエ記念21世紀美術館というところで大野の展覧会が開かれていたようだ。なぜか京都のあちこちで、その展覧会のチラシが置かれているのを見かけたものである。だがその不思議な名前の美術館は埼玉にあり、実際に出かけるにはあまりにも遠すぎた。もう少し近かったら、すぐにでも駆けつけたかったのだけれど。

 大野百樹の展覧会が埼玉で開かれたわけは、彼が埼玉の出身であり、今なお埼玉に住みつづけているからである。しかし以前にも書いたことだが、それ以外の詳しい経歴はほとんど何もわからない。マスコミに派手に登場することもないし、「院展」以外で作品を見かけたこともない。だから最初に彼の絵に出会ったとき、気鋭の新人を見いだしたかのような奇妙な興奮を覚えたのも無理からぬことだったろう。

 しかしいろいろ調べていくにつれて、彼は新人などではないことがだんだん明らかになってきた。この画家は何と、大正生まれだったのだ。正確にいうと1920年(大正9年)生まれ、今年87歳。平山郁夫より10歳も年長である。ということは、ぼくが彼の存在を知ったときには、すでに80歳に近かったのではなかろうか。

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 それにしても、この『雪韻』が80代も後半にさしかかった人の絵だなんて、誰が信じられるだろう。画家が年を取ると、その作品も枯れてくるものだ。枯淡の境地などといって、老いの手すさびのような絵を必要以上にありがたがる風習も日本にはある。しかし大野百樹の絵を毎年観ていると、脂の乗り切った壮年画家が自分の画境をぐんぐん切りひらいていくのを目の当たりにするような気がするのだ。

 彼は年齢に呪縛されないだけではない。伝統的な画法、型にはまった様式、おさだまりの陳腐なモチーフなどというものからも自由である。彼のみずみずしい色彩は、常識的な日本画の色合いからはかけ離れている。“にじみ”や“ぼかし”などといった技法には眼もくれず、明確な点描を駆使して夢見るようなグラデーションを描き出す。そしてもっとも重要なのは、それがうわべだけの虚飾にとどまらず、メルヘンの世界にも逃げ込まず、日本の冬の風景として堂々たる存在感をもっていることであろう。

 大野百樹の画業は、すでに60年にもなるという。埼玉で開かれた展覧会では、彼の若いころの作品も展示されたのだろうか。ぼくがこれまで観てきた大野の絵は、ほとんどが雪の光景だった。しかし彼が住んでいるのは、最高気温の記録地としてしばしばニュースに取り上げられる、埼玉の熊谷市だという。このこともまた、素朴な疑問としてぼくの頭にひっかかっている。彼は壮大できらびやかな雪景色の記憶を、どこでどうやって積み重ねてきたのだろう?

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 下田義寛の『寒暁』(上図)。これは雪は雪でも、見てのとおり富士山の雪だ。ぼくは恥ずかしいことにまだ本物の富士を見たことがないので、これくらい雪をかぶった富士は何月ごろの姿なのかわからない。最近の富士山には、温暖化の影響で万年雪が見られなくなったということである。

 下田は昨年の「春の院展」にも、『春暁』というタイトルで富士山から朝日が昇るところを描いている。しかし単なる繰り返しではなく、山のかたちがかなりちがう。別の角度から描いた富士をはめこんで、新たに描きなおしたものだろう。季節が春よりもやや冬に近づいていることも、おそらくたしかだ。

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 このように複数のイメージを組み合わせて描くという方法が、彼の絵を特徴づけてきたように思う。たとえば太陽の手前を鳥が横切っているような絵は、実際に横切っているというわけではなく、太陽と鳥とを組み合わせて描いたというべきである。この絵も、富士の稜線から朝日が劇的に昇るところを実際に見て描いたというよりは、頭の中で考え抜かれた構図であるような気がする。

 いや、こんなことは他の画家たちも大勢やっているといわれれば、そうにちがいない。見えたとおりにそのまま描くだけで絵になるような眺めなど、そうそうないからだ。芸術的な効果をねらってモチーフの位置や角度を調整することは、むしろ必要なことだろう。そのほうがより自然に見えるというようなことだってあるにちがいない。

 だが下田義寛は、画面のいわば“つぎはぎ”を修正しようとしない。むしろそれを前面に押し出そうとする。この『寒暁』を観ても、背景の空と富士との間にはっきりとした断絶感がある。ひとつの風景にもかかわらず、そこには異なった空気の粒子が流れているのを感じるのだ。彼の絵の前に立っていると、暖かさと肌寒さが微妙に入り混じったような何とも不思議な感じがするのは、多分そのためである。

 その結果かどうかはわからないが、この絵の中の富士山には、まるで絵の中から飛び出してこちらへ向かってくるかのような迫力が感じられる。これまで紋切り型のように描かれつづけてきた、観念的な日の出の情景からは明らかに一線を画している。絵を“つぎはぎ”にすることによって、より現実感が際立ってみえるという逆説が、この絵の背後には横たわっているような気がするのである。

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季節はめぐりて ― 「院展」の画家たち ― (1)

2007年06月15日 | 美術随想


 先日、京都の百貨店で開かれていた「春の院展」の最終日に滑り込んだ。「院展」というと、京都にはいつも9月から10月にかけて巡回するのが通例になっていて、秋の風物詩のような気がしてしまうほどだが、「春の院展」は3年前からようやく京都でも開かれだしたのだ。

 この展覧会は3月に東京で開幕するそうで、そのときはまさに春たけなわだが、京都にまわってくるのは6月で、すでに「春」というには遅すぎる。その日の京都は真夏日を記録する暑さで、すでに夏といってもよかった。だが巡回スケジュールを見てみると、「春の院展」は9月の中ごろまで全国のどこかしらで開かれているようだ。秋の声を聞くころに「春の院展」を観るという奇妙なことも、ある地方では起こっているわけである。

 それはさておき、画家が春や秋の展覧会に出品したり応募したりするための絵を描くのは、季節でいえばいつごろのことなのだろう。いうまでもないことだが、絵は一朝一夕に描けるものではない。春の情景を描いたからといって、それが春に描かれたとはかぎらないのだ。おそらく画家の心の眼に積み重なった何年もの春の堆積があり、それを掘り出し、磨き上げるようにして、一枚の絵に結晶するのではあるまいか。

 日本画の展覧会は、さまざまな季節の花がいっせいに咲き出す植物園のようなおもむきがある。向日葵の隣に、菊の花があったりする。それどころか春夏秋冬、異なる季節をあえて並べた連作も少なくない。四季の豊かな日本に住む人だけに許された、豪奢な贅沢なのかもしれない。

 ・・・と、こんなことを考えているうちに、いつの間にか近畿地方も梅雨に入ってしまった。日々の暮らしに追われてせかせか生きているうちにも、季節は着実にめぐっている。

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 田渕俊夫『刻』(上図)は、秋の夜の情景を鮮やかに切り取った一枚だ。木々はそよぎ、人家からは灯りが漏れているが、不思議なほど静まりかえった夜。ただ、満月が星空の中をゆっくりと動いていくばかりだ。その神秘的な光で、この世を浄化するかのように・・・。

 季節はたしかに際限なく移りゆくけれど、それを絵の中に封じ込めるのが画家の仕事でもあるだろう。季節を味わうということは、決してとどまることのない変転の中に、いわば永遠に過ぎ去ることのない一瞬を知覚することである。心ある画家はそれを表現するために、幾年もの季節の推移を積み重ね、その本質を掘り下げようとしているにちがいない。

 そしてそのために、同じモチーフの絵を繰り返し描く。田渕は、そんなタイプの画家だと思う。先日も同じ百貨店の画廊で田渕の新作展を観たが、夜空に貼り付けたようなくっきりとした満月が煌々と輝く絵が多くあった。はた目には単調なマンネリズムに映るかもしれないが、画家は描くことによって模索しつつ前進するものである以上、似たような絵が何枚も描かれるのはやむを得ない。ただ、まったく同じではないはずだ。それこそ季節が少しずつ変動するように、どこかが少しずつちがって描かれているにちがいないのである。

 だが、田渕俊夫にはもうひとつの大きな柱がある。その新作展でもっとも人目を惹いていたのは、襖に描かれた巨大な水墨画であった。彼は三十三間堂や京博にほど近い智積院(ちしゃくいん)という寺院に奉納するために60面からなる襖絵に取り組んでいて、そのうちの『朝陽』『夕陽』(各6面ずつ)が公開されていたのである。

 田渕は5年ほど前に福井の永平寺にも襖絵を描いているが、本格的に水墨画に取り組んだのはそのときがはじめてだったというようなことをテレビで見た覚えがある。以来、彼が毎年の「院展」に出品する作品も水墨画になっていったが、それは光の微妙な移ろいを繊細な墨のタッチでとらえた独創的なものだった。このたびの智積院のための奉納画は、その集大成となる作品ではないだろうか。木々に映える光のきらめきを写しとったような『朝陽』『夕陽』を観ながら、ぼくはつくづくそう思わずにはいられなかった。

 そしてその一方で、明確に構築された彩色画も彼は描きつづけていたのだ。ひとりの画家が描いたとはとても信じられない画風の振幅、その間口の広さには驚かざるを得ない。田渕俊夫の絵画世界がこれからどんな深まりを見せるのか、60面の襖絵の完成ともども、まことに楽しみである。

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 満月というと、平山郁夫の『朧月夜 ブルーモスク イスタンブール』(上図)も印象深かった。こちらは田渕俊夫が描いたようなくっきりと際立つ月ではなく、夜空にぼんやりと溶け出すような月である。朧月夜というと、俳句の世界では春の季語だそうだ。はたしてトルコのイスタンブールに朧月夜があるのかどうか、ぼくには想像がつかないけれど・・・。

 ブルーモスクというのは、会堂の内部が青いタイルで装飾されていることからついた呼び名だそうだが、この絵はまるで建物全体がブルーに染め上げられたようである。このモチーフも、実は平山が繰り返し描きつづけているものだ。これはぼくの勝手な推測だが、彼は公職に忙殺されていて、新しい取材地におもむくことが難しいのかもしれない。いやそれとも、数年前の『平成洛中洛外図』をもって、日本文化の源流をたどる旅はひとまず終息したのかもしれない。

 それにしても、この朧月はあまりに日本的な感じがする。「菜の花畑に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし」・・・「朧月夜」の歌から思い起こされる月そのままである。だが、考えてみれば月は日本だけのものではなく、どこに出る月も同じひとつの月だ。日本の春の宵を物憂げに照らした月が、まわりまわってイスタンブールの夜空にかかっている。われわれの日常を超えた時の流れが、ここにも描かれていたのだった。

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