
森繁久彌が住んでいた形跡は発見できなかったが、上之町には古くからつづいた工場の跡地があった。このあたりでは昔から鍋や釜などを鋳造することが盛んで、安土桃山時代から昭和にかけて田中家の人々が鋳物師(いもじ)を営んでいたという。ときには梵鐘を作ることもあったそうである。
とはいっても、これまで鋳物について特別の関心があったわけでない。ちょうど2年前に京都の細見美術館で、芦屋釜という古い茶釜をいくつも観たことがあるくらいだ。芦屋というのは兵庫県の芦屋市ではなく、福岡の芦屋町のことだが、今でも「芦屋釜の里」という施設があるという。ぼくは詳しく知らないが、茶の湯を嗜む通人たちの間では重宝されているのだろう。
南北朝時代からつづいていた芦屋釜の伝統は、江戸初期には途絶えてしまっていた。ところが昨年の暮れごろ、往時の製法を忠実に再現して芦屋釜を復元させたというニュースを読んだ。実に400年ぶりということである。一度でも芦屋釜を丹念に観賞したことのある者として、うれしい一報だった。
このたび初詣のついでに道草したことによって、思いがけず身近にも鋳物の産地があったことを知ったが、こちらでは残念ながら復元の試みがおこなわれているという話はない。かつて上之町にあった工場の建物は別の場所に移築され、「旧田中家鋳物民俗資料館」として活用されているという。機会があったらのぞいてみようかと思う。
そういえば京都にも「大西清右衛門美術館」があったのを思い出した。一度行ってみたいなと思いながら場所もたしかめずにいたら、去年の祇園祭の宵山のおりに偶然前を通りかかったのだ(夜だったのでもちろん閉館していたが、これも道草の功名である)。大西家は芦屋釜の隆盛ときびすを接するように、千家十職(じっそく)の釜師として400年あまりにわたって茶釜を作りつづけている家系である。当代の16代目はまだ48歳と若く、民族学資料とのコラボレーションもして型にはまらない活動を展開しているが、芦屋釜の研究にも従事されているらしい(今回の復元の成功に彼が寄与していたかは知らない)。ここもいつか訪問してみたいものだ。
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〔旧田中家にあった椋の木は今も生きのびている〕
ただ、やはり京都と大阪のちがいを痛感させることもある。京釜師がみやこの中心部を拠点としていて、多いときは90人近くもの鋳物師を擁し、「釜座(かまんざ)」という地名すら残しているのに対して、田中家の工場跡は遠くに移されてしまい、現在の上之町にはかつて鋳物の生産地であったことを示す名残がほとんどないことである。
端的にいって、行政と歴史の関係というものはこういった面によくあらわれる。前にも書いたことだが、ぼくのふるさとでは旧福井城の石垣の上に県庁のビルを建ててしまった。福井藩主と県知事とは同一ではないはずだが、誰かが強引に結び付けてしまったのだ。お堀によって周囲から隔離された県庁が、縦社会の権化のようにして市内を睥睨しているさまは滑稽でもある。
田中家の邸内には、大きな1本の椋の木があった。ざらざらした葉の表面で製品を磨いたというが、遠くから見える目印でもあっただろう。樹齢700年にも及ぶこの木だけは移転できずに、もとの場所に残っている。今では高さが20メートルを超えた。かつて枚方で栄華を極めた河内鋳物師の、たったひとつの生き証人である。
冬の椋の木はすべて葉を落とし、太い幹から無数に分かれた枝々が寒空に向かってのびているさまは、まるで人間の体の内側の、大動脈から毛細血管までをシルエットにしたようであった。

〔駅のそばには椋の木への道しるべもある〕
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元日のことを書こうとしたこの話も、いつの間にやら正月っぽい気分からだんだん離れてきてしまった。少々道草が過ぎたようなので、このへんで終わることにしよう。
(了)
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