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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

正月点描 in 枚方(4)

2010年01月05日 | 大阪逍遥


 森繁久彌が住んでいた形跡は発見できなかったが、上之町には古くからつづいた工場の跡地があった。このあたりでは昔から鍋や釜などを鋳造することが盛んで、安土桃山時代から昭和にかけて田中家の人々が鋳物師(いもじ)を営んでいたという。ときには梵鐘を作ることもあったそうである。

 とはいっても、これまで鋳物について特別の関心があったわけでない。ちょうど2年前に京都の細見美術館で、芦屋釜という古い茶釜をいくつも観たことがあるくらいだ。芦屋というのは兵庫県の芦屋市ではなく、福岡の芦屋町のことだが、今でも「芦屋釜の里」という施設があるという。ぼくは詳しく知らないが、茶の湯を嗜む通人たちの間では重宝されているのだろう。

 南北朝時代からつづいていた芦屋釜の伝統は、江戸初期には途絶えてしまっていた。ところが昨年の暮れごろ、往時の製法を忠実に再現して芦屋釜を復元させたというニュースを読んだ。実に400年ぶりということである。一度でも芦屋釜を丹念に観賞したことのある者として、うれしい一報だった。

 このたび初詣のついでに道草したことによって、思いがけず身近にも鋳物の産地があったことを知ったが、こちらでは残念ながら復元の試みがおこなわれているという話はない。かつて上之町にあった工場の建物は別の場所に移築され、「旧田中家鋳物民俗資料館」として活用されているという。機会があったらのぞいてみようかと思う。

 そういえば京都にも「大西清右衛門美術館」があったのを思い出した。一度行ってみたいなと思いながら場所もたしかめずにいたら、去年の祇園祭の宵山のおりに偶然前を通りかかったのだ(夜だったのでもちろん閉館していたが、これも道草の功名である)。大西家は芦屋釜の隆盛ときびすを接するように、千家十職(じっそく)の釜師として400年あまりにわたって茶釜を作りつづけている家系である。当代の16代目はまだ48歳と若く、民族学資料とのコラボレーションもして型にはまらない活動を展開しているが、芦屋釜の研究にも従事されているらしい(今回の復元の成功に彼が寄与していたかは知らない)。ここもいつか訪問してみたいものだ。

                    ***


〔旧田中家にあった椋の木は今も生きのびている〕

 ただ、やはり京都と大阪のちがいを痛感させることもある。京釜師がみやこの中心部を拠点としていて、多いときは90人近くもの鋳物師を擁し、「釜座(かまんざ)」という地名すら残しているのに対して、田中家の工場跡は遠くに移されてしまい、現在の上之町にはかつて鋳物の生産地であったことを示す名残がほとんどないことである。

 端的にいって、行政と歴史の関係というものはこういった面によくあらわれる。前にも書いたことだが、ぼくのふるさとでは旧福井城の石垣の上に県庁のビルを建ててしまった。福井藩主と県知事とは同一ではないはずだが、誰かが強引に結び付けてしまったのだ。お堀によって周囲から隔離された県庁が、縦社会の権化のようにして市内を睥睨しているさまは滑稽でもある。

 田中家の邸内には、大きな1本の椋の木があった。ざらざらした葉の表面で製品を磨いたというが、遠くから見える目印でもあっただろう。樹齢700年にも及ぶこの木だけは移転できずに、もとの場所に残っている。今では高さが20メートルを超えた。かつて枚方で栄華を極めた河内鋳物師の、たったひとつの生き証人である。

 冬の椋の木はすべて葉を落とし、太い幹から無数に分かれた枝々が寒空に向かってのびているさまは、まるで人間の体の内側の、大動脈から毛細血管までをシルエットにしたようであった。


〔駅のそばには椋の木への道しるべもある〕

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 元日のことを書こうとしたこの話も、いつの間にやら正月っぽい気分からだんだん離れてきてしまった。少々道草が過ぎたようなので、このへんで終わることにしよう。

(了)

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正月点描 in 枚方(3)

2010年01月04日 | 大阪逍遥


 さて用件もすんだのでさっさと帰ればいいのだが、いざそうなってみると別のどこかへ足をのばしてみたい衝動に駆られる。これはほとんど発作といってもいいが、まるでヤケクソのような感じでもある。気の向くままに知らないところへ足を踏み入れてみると、思わぬ出会いが待っているような期待がわいてくるのだ(もちろん誰かに出会うのではなく、何か興味あるものごとに)。

 ぼくがうっすらと記憶にとどめていたのは、あの森繁久彌がこのあたりの生まれだったということである。去年の11月に訃報が流れたとき、彼が枚方出身だということをはじめて聞いて大変驚いた。名誉市民にもなっていたそうだが、何となく江戸っ子のような気がしていたぼくには容易に受け入れがたい事実だった。

 といっても、森繁久彌のことをそれほどよく知っているというわけではない。あまりにも世代が離れすぎている。彼が出演した映画やドラマは全然見たことがないし、『知床旅情』が流行ったのも生まれる前の話だ。印象に残っている最初のイメージは、視聴者に向かって語りかけるキャベジンのCMであるが、そのときにはすでに長老という雰囲気だった。

 何年か前にNHKラジオの『日曜名作座』で声だけの演技を聞いたことはあったが、おそらく再放送だっただろう。ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』の主演をロングランでつづけたことも語りぐさになっていたが、それを知ったころはすでに上條恒彦に代わっていた。

 というわけで、ぼくにとっては雲の上の存在というか、有名すぎてほとんど何の接点もなかったわけだ。それが、意外に身近な地域の出身だったと知ると、ちょっとでもその形跡を探したくなる。一般人の悲しい性(さが)である。

                    ***


〔枚方上之町あたりの住宅街〕

 インターネット上の百科事典によると、彼は枚方市蔵谷の生まれだという。蔵谷という住所はもうないらしいが、どうやら現在の枚方上之町(かみのちょう)にあたるようだ。意賀美神社の南側である。

 万年寺山をいったんくだり、ふたたびじわじわとせり上がってくる坂道を歩いていくと、高低差に合わせて段ちがいになった長い生垣があったりする。剪定するのに何日もかかるようなしろものだ。森繁はかなりの資産家の生まれであった旨が事典には書かれているが、なるほど高級住宅地といった感じがした。当時はいったいどんな家が建ち並んでいたのだろうか。

 しばらくうろついてみたが、「森繁久彌生家」を示す看板も見当たらず、どのへんの生まれかは突き止めることができなかった。それもそのはず、彼は最初から森繁姓だったわけではなく、家庭の事情から名字が二転三転したそうで、「森繁」という表札を探してもあるわけがないのだ。枚方市のホームページによると枚方小学校に入学したということだが、かよったのはどうやら1年生までで間もなく兵庫の西宮へ転校し、さらに現在の大阪キタあたりに移ったようである。こうなるともはや当時の痕跡を探すのも絶望的だろう。何しろ、まだ大正の御世だったころの話だから。

 そんな彼も、役者を目指していた下積み時代はかなりの極貧生活に甘んじていたらしい。75歳のときに書かれた随筆には、かつて奥さんが栄養失調を心配して魚屋から鯖の頭をもらってきたり、裏の小川でとれたザリガニをフライにしたことなどが回想されている。子供たちの履きものを買うお金がないので、進駐軍が捨てた乾電池についていたコールタールを空缶で煮溶かし、厚い布地に塗りつけて靴を作った話なども。ひもじいけれど、活気にみちていて楽しそうな生活に思えなくもない。

 昨今は低所得層の切実な困窮ぶりが社会問題になっているが、当時の人々はいろいろな知恵を絞って窮地を乗り越えてきたのだろう。「必要は発明の母」とは、おそらくそういうことではなかろうか。自戒をこめて、そう思うのである。

参考図書:
 ’88年版ベスト・エッセイ集『思いがけない涙』
 (日本エッセイスト・クラブ編、文春文庫)

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正月点描 in 枚方(2)

2010年01月03日 | 大阪逍遥


 それにしても、ひどく寒い。京都の底冷えとは少しちがうが、肩の上にのしかかってくるような寒さだ。気がつくといつの間にか猫背になっていて、ポケットに両手を突っ込んだりしている。そぞろ歩きもほどほどに、手短に初詣をすませて帰りたくなった。

 展望広場を過ぎると、ようやく初詣の幟が見えてくる。左手にふたたび石段があらわれた。先ほどとはちがって真っ直ぐな石段である(このあたりは枚方八景のひとつ「万年寺山の緑陰」に認定されているらしいが、あまりに寒くてそんなことは忘れていた。それを味わいたいなら夏に行くべきだ)。のぼりつめたところに境内があるのだろうと、脚力にだけは自信があるのでどんどんのぼっていくと、人の背中に行く手をさえぎられてしまった。まったく予想していなかったことだが、拝殿の手前から参拝者の列がつづいていて石段の途中にまでのびているのだ。ぼくはますます背筋を縮め、ポケットに手を突っ込んで、足踏みしながら前の人につづいてじりじりと進むしかなかった。


〔石段をのぼって境内へと向かう〕


〔拝殿の前に列を作る人々〕

 ただ、大勢の人で賑わっているわりには、あまり華やかさがない。気がついてみると、初詣客相手の屋台が一軒も出ていないし、邦楽のBGMも流れていない。お神楽などもなく、社務所でほそぼそと縁起物を売っているばかり。虎の大きな絵馬が出ている以外は、正月らしい演出が何もないのである。境内が山上にあるので狭いせいもあるのだろうが、シンプルなことこのうえない。本来の初詣とは、このようなものではなかろうか。

 寒空の下、20分ほども並んだだろう。 参道の真ん中にある百度石をやりすごして、ようやく拝殿に進み出た。定型どおりのお参りをしたあとで、おみくじを引いてみる。ぼくの運勢は一昨年が凶、昨年が大吉と、どうも起伏が激しすぎるようだ。今年はどうかと、おっかなびっくり開いてみると、「中吉」の文字。まずは、ほっと胸をなでおろした。

 おみくじには、さらに次のようにも書いてあった。

 「心を決めて いろいろとさわがず 迷わず 今までの事をつとめればよし」

 よし、自分の信ずる道をあやまたず行けということか。そう勝手に解釈することにした。今のぼくにとって、まことに力強いご託宣だ。「転居(やうつり) 利益なし」ともある。結婚が去年でよかったな、と思う。

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〔参道を挟んで座る狛犬たち〕

 参道の両脇には、口のなかと眼の周りを赤く塗られた狛犬が鎮座していた。迫力はあるが、何となく間が抜けていて可愛らしい。いつごろできたものかは知らないが、おそらくそんなに古くはないだろう。

 考えてみれば、寺院にある仏像は誰が作ったなどという話がいろいろ取り沙汰されているのに(運慶とか快慶とか。あるいは空海のような高僧がみずから彫ったという話もよく聞くが本当だろうか)、神社の狛犬にはあまりそういうエピソードは聞かない気がする。ただ、世の中には狛犬のガイドブックというか、全国各地のさまざまな狛犬を紹介した本などもあるようで、一度は読んでみたいものである。


〔境内にある琴平神社の狛犬はもっとユーモラスだ〕

 参拝を終えて本殿の周りをぐるりと一周しようとすると、柵で仕切られたトタン屋根の小屋のなかに古い石造の狛犬が置かれているのを見つけた。表面は朽ちていてぼろぼろだが、明らかに阿形と吽形の一対である。調べてみるとこの神社は昭和9年に天災のため大破し、翌年に再建されたとあった。もしかしたらこの狛犬は、そのときの風害をもろに受けたせいでこんな痛々しい姿をしているのではあるまいか。

 すでに現役は退いているが、捨てるに捨てられず、今でも境内の片隅で神社のなりゆきを静かに見守っている。自分の都合で簡単にペットを捨ててしまう現代の飼い主たちも、少しは見習ったほうがよろしかろう。


〔隠遁した先代の狛犬たち(?)〕


〔本殿の裏手には「明治神宮遥拝所」と「皇祖遥拝所」があった。鳥居の向こうには空間があるばかり〕

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正月点描 in 枚方(1)

2010年01月02日 | 大阪逍遥


 昨年、結婚とともに引っ越した家は、大阪で北河内といわれる一帯にある。ちなみにこれまで北摂地方と京都にしか住んだことがなかったぼくには、この呼称はほとんど耳馴染みがなかったし、どのあたりを差すのかもよくわからなかった。

 北河内とひとことでいっても、巨大な家電メーカーの本拠地もあれば、いにしえの天皇が即位したといわれる場所もあり、老舗の遊園地が頑張って営業をつづけているところでもあり、稲穂が一面に広がる田園地帯でもある。いわゆる学研都市のエリアも含まれている。住みはじめて半年以上になるが、その全貌はいまだに茫洋としてつかみにくい。市民のひとりとして少しでも土地カンをつけておきたいと思い、機会があればあちこち訪ね歩いてみることもあるが、何しろ勝手がわからないことばかりで、道に迷ったあげくに疲れて帰ってくるというありさまである。

 これからも当分の間ここに住みつづけるのだろうから、何もそんなに急いで探検しなくてもいいではないかといわれるかもしれないが、ぼくが家にじっとしていられないのは、前に京都に住んでいたころのことが悔やまれるからだ。そのころはなるべく時間を見つけて京の街をほっつき歩き、さまざまな神社仏閣を訪れ、いくらかは本も読んで勉強したように思っていたが、いざ京都を離れてみるとまだまだ訪問しそびれている場所が山ほどあることに気づいた。家から徒歩で行けるほどの距離にあった桂離宮にさえ、ついに一度も足を踏み入れなかった。こんなもったいないことがあるかと、今でも後悔することしきりなのだ。

 京都に移り住んだときとちがって、北河内という土地に惹かれてやって来たわけではない。しかし、このあたりをほじくり返してみれば興味ある事実もいろいろ発見できそうである。今年は少しずつでも、そんなことについて書いてみようかと考えた。なお、専門的な文献を参照しているわけではないので根拠のない独断もあるかもしれないが、そのへんはご容赦いただくことにしよう。

                    ***

 とりあえず、年も明けたので北河内のどこかに初詣に行こうと思い立った。それでいうと、めぼしいのは寝屋川の成田山不動尊ということになるか。あそこは交通安全の神様で、大阪を走る車はたいてい成田山のお守りをぶら下げているし、京阪電車の車内にも貼ってある。けれどもぼくは車を運転しないので(京阪には乗るが)、もうちょっと手近の別な神社を探してみると、枚方市駅から歩いて行ける距離に意賀美神社というのがあった。

 意賀美は正式には「おかみ」と読み、「おがみ」と呼ばれることもあるらしいが、いずれにせよ新参者のぼくは名前を聞いたこともない神社で、どんなところだかわからない。まあ、「おがみ」神社で神様を「おがむ」のもご利益がありそうだし、平安神宮や伏見稲荷みたいに混み合ってはいないだろうと高をくくって、元日の昼過ぎに家を出た。今年の正月は荒れ模様ということで、生まれ故郷の福井では雪が積もっているという話だが、大阪も手が痺れそうなほど冷たい風が吹いていた。空もどんよりとして、新春をことほぎたくなるような明るさはない。

 まずは駅を降りてみる。百貨店や飲食店がごみごみと立て込んでいるが、この日はさすがにシャッターを下ろしているのが目立つ。ぼくが元日の風景を好きなのは、日常とはちがったエアポケットのような空間が街なかに出現するからである。もし人類がどんどん滅びていったら、最後にはこんなふうになるのかもしれない。

 いつもは店のなかに吸い込まれている人の群れが、京阪の高架に沿って流れていく。目指す神社はその方向だろうと目星をつけて進んでいくと、正月の縁起物をもった家族連れとすれちがうようになった。さらに進むといよいよ石段がはじまるが、左にカーブしているので行き先が見えず、どこまで連れて行かれるのかわからない。神社は万年寺山という小高い山の上にあるので、結局はそこへ導かれるのだろうが、このスリリングなアプローチは京都の神社にはあまり見られないような気がする。

                    ***


〔展望広場の入口〕


〔高台からは淀川が一望できる〕

 ようやく石段が途切れると、中腹に平らな広場ができていた。「御茶屋御殿跡展望広場」と書かれている。説明書きによると、ここにはもともと太閤秀吉が建てた「御茶屋御殿」があったらしい。なんでも枚方城の城主の娘を秀吉が気に入り、その御殿に住まわせていたという話だ。大坂城と伏見城とのちょうど中間地点にあるので、行き返りの途次ここに立ち寄って遊んだりもしたのだろう。

 しかしそのおなごの名前が「乙御前」というらしい。乙御前(おとごぜ)というと、お多福の別名である。本阿弥光悦には「乙御前」と銘打たれた茶碗があって、見るからに赤い頬をした福々しい娘の顔を連想させるのだが、秀吉が愛した乙御前もそんな顔だったのか。まあ無駄な詮索をしても甲斐はないが、正月早々お多福ゆかりの史跡に遭遇できたというだけでも、あなめでたし、としなければならないだろう。


参考画像:本阿弥光悦『赤樂茶碗 銘 乙御前』(重要文化財)

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