てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

京を歩けば(1)

2008年09月30日 | 写真記


 休みの日になっても、これまでみたいに財布の中身を気にせず徘徊することはできなくなった。このところ急に秋めいてきて、朝晩は肌寒いぐらいだが、ふところも負けず劣らず寒い。

 だからといって、家でごろごろしていられる性分ではない。ここは思い切って、日ごろの運動不足の解消も兼ね、できるだけ交通機関を使わない覚悟で京都へ出る。まずは阪急を使って河原町まで行き、そこからはひたすらテクシーで進むのだ。減るのは靴底ばかりで、後日の筋肉痛さえ気にしなければ、秋の京都をほっつき歩くのはなかなか爽快なものである。いつもの定番コースをちょっとはずれて、ひと気のない路地を歩いていると、思わぬものに出くわしたり、意外な発見があったりする。

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 秋分の日のことだ。いうまでもなく、お天道様が真東からのぼって真西に沈む。前々から、この日は奈良との県境に近い浄瑠璃寺を訪れたいと思っていた。というのも、この寺は明らかに彼岸の太陽の運行を意識したつくりになっていて、真東にある三重塔の背後からのぼった朝日が、池を挟んで向かい合った本堂の九体仏の真後ろへ沈んでいくという。

 だが何しろ辺鄙なところにあって、バス代だけでも馬鹿にならない。人一倍元気な瀬戸内寂聴さんは奈良公園から歩いて浄瑠璃寺まで行ったことがあると書かれていたが、今のぼくの体力で無理なことをすると、本当に彼岸に行ってしまわないともかぎらない。ここはあきらめて、歩ける範囲で京都市内をめぐることにする。

 河原町で電車を降りて、通常なら京阪線に乗り換えるところを、ひたすら歩く。京都の街は碁盤の目なので、方角に迷うことはない。とりあえず鴨川のほとりに出て、澄んだ水の流れに逆らって“上(あが)ル”。残りも短くなった納涼床を過ぎると、これまた元気なご老人たちがゲートボールに興じていたりする。和気あいあいとしていて何とも楽しそうだが、ぼくにはこんな平穏な老後は迎えられそうにない。





 鴨川には白鷺が集まってきていた。流れが浅いからか、水のなかに平然と立ってすましている。気持ちよさそうだ。東の空を見上げると、すっかり緑が茂った斜面に大文字が白く浮かんで見えた。



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中村紘子のピアノを聴いて(2)

2008年09月27日 | その他の随想


 ラヴェルの妙手が冴えわたる管弦楽の名作として、非常によく演奏される組曲『展覧会の絵』だが、一度も演奏会では聴いたことがない。しかしまだCDが普及する前のこと、この曲のLPはぼくがもっとも針を落とす回数が多いものだった。あの華麗で色彩的なオーケストレーションを聴いていると、それだけで贅沢な気分になってくるから不思議なものだ。

 20年以上も前、レコード録音を拒否することで幻の指揮者といわれていたチェリビダッケが来日公演をやった際に、なぜか“音楽後進県”の福井にも立ち寄ってブラームスの4番などを振ったことがある。全日程のプログラムを見ると、このときメインに据えられていたのは『展覧会の絵』だったのだが、福井では演奏されなかった。会場の文化会館で、前の席に座っていたふたりの女性客が「惜しかったね、『展覧会の絵』をやってほしかったね」と話していたのを、ぼくも大いに同感しながら聞いていたものである。チェリビダッケの死後、遺族の英断によって記録用音源が次々とCD化されたが、その1枚目に吹き込まれていたのは『展覧会の絵』のライブと、指揮者自身がドイツ語で長々と“ZEN”などについて語る肉声だった。

 それはさておき、ピアノ版のほうの生演奏を先に聴くことになろうとは、夢にも思わなかった。もちろんこちらがオリジナルなのだが、あの管弦楽の響きに慣れてしまうと、どうしても多少聴き劣りすることは否めない。ムソルグスキーは親友で画家のガルトマン(ハルトマンともいう、上図)の遺作展を観たあと、驚異的な短時日でこれを書き上げたということだが、その着想は2本の腕で弾かれるピアノという楽器のキャパシティーを大きく逸脱してしまったのではないかという気がする。事実、この曲はムソルグスキーの生前には公開演奏も出版もされず、人知れず埋もれていたそうである。

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 中村紘子は、ピアノの前に座ると間髪を入れずに弾き出した。客席が静まり返るのをじっと待っていたりはしない。私の奏でる音楽は何にも増して強いのよ、とでもいわんばかりに、確信をこめて腕を振り下ろす。ちょっと鬼気迫るものすら感じられる。

 よく知られているように、この曲の冒頭は「プロムナード」と呼ばれ、単音ではじまる。ラヴェル版ではトランペットの朗々たるソロで吹かれるのだが、中村は渾身の力を指先に込めるように、打鍵の音がホールに響くぐらいの大音量で弾く。ぼくの持っている楽譜では、最初から最後まで「フォルテ」と書かれているだけだが、彼女の演奏はフォルテ2つぶんぐらいはありそう。スピードも速く、これからのんびり展覧会を観ようという期待にみちた豊かな感情よりも、息せき切って駆けつけてきたような慌しさが前面に出ているようだ。

 「プロムナード」は一聴するとシンプルな音楽だが、譜面は思いのほか複雑である。4分の5拍子と6拍子が目まぐるしく入れ替わり(譜例上)、途中からは2分の3拍子も出現して、音楽の表情は微妙に揺らぐ。ラヴェルはさすがというべきか、音符を巧みに色分けして、金管楽器と弦楽器を交替で鳴らすことで音色に変化をもたせたり、強弱のコントラストをもちこんだりしている。ブラスの、華やかだが乾いたハーモニーがひとしきり鳴り響いたあと、重厚でみずみずしいストリングスが滔々と湧き出してくるところは、いつ聴いてもちょっと目頭が熱くなってしまう箇所である。

 これほどの多彩さをピアノソロに望むのは間違っているかもしれないが、中村紘子はテンポも音色もほとんど変えることなく、一気呵成にどんどん突き進んでいった。オーケストラバージョンを思い浮かべながら耳を傾けていたぼくは、いつの間にか置いてきぼりをくわされているという具合である。そして「プロムナード」が終わるとすぐさま、まるで余韻を断ち切るかのように、次の曲「小人」へと突入していく。

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 「小人」は、題名だけ聴くと愛らしいが、同じ作曲者の『禿山の一夜』と直結する不気味さを放つ。悪趣味な音楽だといってもいいすぎにはならないだろう。ここで描かれているのはロシアでいう「グノーム」のことで、地底に住む妖精だという。

 つくづくオーケストレーションの困難な曲だと思うのだが、ラヴェルは特殊な打楽器やチェレスタなども多用して、色彩豊かで迫力ある音楽に仕上げている。でも、かつてNHKの取材班が探し当てたガルトマンの原画(上図)は未完成のスケッチのようなもので、ラヴェルが構築した世界からはかなりかけ離れているようにも思える(もちろんラヴェルはその絵を観ていないので、彼の責任ではないけれど)。

 さらにおもしろいことに、ラヴェルみずからが『夜のガスパール』というピアノ曲のなかで、「スカルボ」という地の精を描写した音楽を書いている。ムソルグスキーの「小人」と比べてみると、ややグロテスクな感じは似ているが、ピアノの扱い方は水と油ほどちがうのに気づかざるを得ない。そんなラヴェルがムソルグスキーの曲をアレンジした『展覧会の絵』が、まるで別の作品であるかのように面目を一新しているのも当然のことなのだ。

 ここへきて、中村紘子の演奏は奔放さを増した。テンポは揺れ動き、短2度上の前打音と主要音はほぼ同時に弾かれ、すさまじい不協和音をまき散らす。ピアノ音楽は美しくて心地よいもの、という先入観をもっている人がもしいたら、頭を殴られるような衝撃を受けたかもしれない。

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中村紘子のピアノを聴いて(1)

2008年09月24日 | その他の随想


 日曜日。よどんだ空からぬるい雨粒が落ち、時おり雷鳴が轟くあいにくの天気のなか、久しぶりに大阪のザ・シンフォニーホールへ出かけた。中村紘子のピアノリサイタルを聴くためである。

 中村紘子というと、日本のピアニストの代名詞のような存在だ。旺盛な演奏活動のかたわらテレビ出演をこなすかと思うと(そういえばずいぶん前に「N響アワー」の司会をしていたこともあった)、洒脱なエッセイの執筆で賞をもらい、世界各地のピアノコンクールの審査員も務めるという八面六臂の活躍ぶり・・・などと、こうやっていちいち数え上げることもないだろう。日本からは優秀な若い人材が続々と輩出されているというのに、いまだに中村紘子以上に名前と顔を広く知られたピアニストはあらわれていない、というのはどうやら事実なのだから。

 しかし、妙ないい方になるが、ぼくはピアニストとしての中村にあまり注目してこなかった。20年ぐらい前に一度、ラジオでライブ録音に接したことはあるが、何だかひどくがっかりしてしまったのを覚えているからである。詳しいことは記憶にないが、おそらくそのときの演奏が、徐々に形成されつつあったぼくのクラシック音楽への嗜好というか、好みのスタイルに一致しなかったのだろう。まあこんなことはよくあることで、それ以来ラジオで彼女の演奏が流れるからといって特に耳を傾けることもなかった。

 だが数か月前に、あるコンサートでもらった山のようなチラシをめくっていて中村紘子の名前にぶつかると、やはりいっぺんぐらいは生演奏を聴いておくのもわるくないかもしれない、という気になった。かくしてこの日、雨のなかをわざわざ出かけていったのだ。

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 チケットが売り出されたころには曲目は全然決まっておらず、リサイタルの前の日になってインターネットで知ったようなあんばいだったが、いざ会場に着いたら貼り紙があって、前半のプログラムがすっかり変更されたと書いてあった。結局この日演奏されたのは、ベートーヴェンの『月光ソナタ』とムソルグスキーの『展覧会の絵』、そして後半がショパンのワルツ全曲という、まことにポピュラーな作品ばかり。初心者向けといってもいいほどである。

 でも、よく知っている曲であればあるほど、一定の好みの演奏パターンというのをもちやすい。『月光』の第1楽章にいたっては、その昔、自分で練習したことがあるので(といっても本物のピアノではなく、安物のキーボードをなでまわしていたにすぎないけれど)、譜面もよく知っている。一見すると簡単そうな、音符が少なくて隙間の多い感じのする楽譜だが、シンプルな3連符の繰り返しと、数学的に割りきれない付点音符とを右手でいっぺんに弾かなければならないという、一筋縄ではいかない音楽でもある。書かれているとおり正確に弾くというのではなく、作曲家が意図したリズムの揺れにいかなる意味をくみ取って弾くかというのが、演奏家の仕事であるように思われる。

 だが、中村紘子の演奏は、ぼくには少し快速すぎるように思われた。いいかえれば、淡白に聞こえた。もちろんどんな速度をとるかは個人の自由だが、ぼくはかつて自分で演奏するとき、ちょっと過剰ではないかというほど思いきってゆっくり弾くのが好きだった。そうでないと、例の右手のリズムが交錯する部分で、どうしても音がじゅうぶんにのびきらず、小節線の内側に音符を全部おさめてしまわないと次の小節へ進めないというような、事務的な処理になってしまう気がしたからである(単に、速く弾ける技術をもっていなかったせいでもある)。

 楽章の終わり近く、右手の分散和音が大きく弧を描いて上昇し、また下降してきて、音量的にもクレッシェンドしてすぐまたディミヌエンドするという山をつくる、そういう動きが2回反復されるところがあるが、最初の強弱記号は右手のみに、2回目は左手のみに書かれている、ということをドイツ人のオピッツというピアニストが指摘していた。だがそのように弾いているのはオピッツ以外に聴いたことはなく、今回の演奏でもそういうことはなかった。

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 ソナタは次の楽章へと進むが、この第2楽章はぼくにはどうもよくわからない音楽だ。単純なメヌエットふうの曲だが、メロディーと伴奏が右手と左手で1拍ずれて追いかけっこしたりする。ヴァイオリンのための『スプリング・ソナタ』でも似たようなことをやっているが、いったいベートーヴェンはどのような演奏効果をねらったのだろう?

 中間部でも、右と左のリズムはほとんど終始、仲たがいしたままだ。農民たちが集まって合奏しているとでもいおうか、素朴さのうえに稚拙さが合わさって予期せぬ効果をもたらすような感じである。それにしても中間部の右手は徹頭徹尾オクターブを弾くだけで、簡素なことこのうえない。『月光ソナタ』の楽章でなかったら、おそらくほとんど演奏されないような気さえする。

 最後の第3楽章。ぼくの本音をいえば、このソナタのなかで真の傑作の名に値するのは、この楽章のみだと思う。長い曲ではないが起伏に富み、一編のドラマのようである。本当によく考え抜かれていて、飽きさせない。

 ただ、中村紘子の演奏は、やはり少し飛ばしすぎのような印象を受けた。16分音符で駆け上がっていく分散和音が、何だかもやもやとした雲のような、かたまりになって聞こえる。これはぼくの座席の位置のせいかもしれないし、CDで聴きなれていたものが実演では異なって聞こえるのも当然の話だが、ベートーヴェンのような論理的な音楽の場合、骨組みがある程度見えてこないとどうしてもわだかまりが残ってしまう。“奏でる”ことが音楽の主流だった時代に、激情的なダイナミズムを持ち込んだのはこの作曲家の大きな手柄だが、やはり彼は古典派の最後の牙城でもあり、そのへんのバランスが演奏の可否を決するといってもいいように思われる。

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 全体としてハイスピードで、ややあっさりした感じの『月光』であった。聴衆の反応もまだ控えめで、弾き終わったピアニストが袖に引っ込んでからも、拍手で呼び戻すことはしなかった。ちょっとしたオードブルがわりに『月光』をもってくるとは、やはりベテランらしい自信のあらわれかとも思ったが、とにかく次の曲以降、このリサイタルの雰囲気は大きく変貌することになる。

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秋の「院展」抄景(1)

2008年09月21日 | 美術随想


 季節の変わり目だからか、慣れない仕事からくる気疲れか、収入が激減して(夜勤から日勤に変わったためである)爪に火を灯すような生活を余儀なくされているからか、どうも体調すぐれぬ日々がつづく。ただ、妄信的な金儲け至上主義がさまざまな社会腐敗の元凶だと信じて疑わないぼくにとって(近ごろのMフーズの事件だってそうだ)、貧乏なのは正直者の証し、と胸を張りたい気分ですらある。切なる望みは、生活のなかに芸術と親しく接する習慣を取り入れ、豊かな感受性とともに日々暮らすこと。フトコロではなく、ココロを富ませることである。だが、これがなかなか難しい。

 そろそろ秋の声も聞こえるころとなった。9月1日には東京都美術館(例の「フェルメール展」の会場でもある)で「院展」が開幕し、このたび京都市美術館へ巡回してきたので、さっそく足を運んできた。東京では300点以上が展示されたということだが、ここではぐっと少なくて、京都新聞の記事によると118点である。しかし展覧会では体力と集中力を大いに消耗してしまうので、これでもぼくにはいっぱいいっぱいの分量だと思う。

 他の会場ではどうか知らないが、京都では誰の絵がどこに陳列されるか、だいたい決まっているようだ。同人ならまだしも、ひょっとしたら落選するかもわからない一般の出品者まで、毎年ほぼ同じ位置に展示されているのである。これは、京都に巡回してくるメンツが固定化されていることにほかならず、公募展の公正さということも含めて、ぼくには非常に不思議なことに思われる(初入選の作品などは、いちばん奥のちょっと暗い部屋に追いやられている)。

 「院展」を代表する存在というべき平山郁夫の絵は、いつも第1室の東側に掛けられる。入口から中へ入ると、まず真っ先に眼に飛び込んでくる、特等席とでもいいたい場所だ。しかし今年はちょっと様子がちがっていた。

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 平山郁夫は、長いこと仏教を創作の中心に据えてきた画家である。それは日本文化の源流を探ることでもある。彼はしばしばこの国を飛び出し、シルクロードをさかのぼり、かつて玄奘三蔵が歩んだ道のりに思いを馳せた。ヒマラヤ山脈を訪ね、アフガニスタンやイランのような今では危険地帯とされている国にまで足を踏み入れ、北朝鮮でも取材を重ねているという。

 だが今回の作品、『祈りの行進・聖地ルルド・フランス』(上図)は、当然ながら仏教ではなく、カトリックの巡礼を題材にしている。このルルドという土地は、実のところ日本では純粋な信仰のメッカとしてよりも、興味本位のオカルトじみた紹介のしかたをされることが多いのではないかと思うが、今を去ること150年前に聖母マリアが姿をあらわしたといわれ、あらゆる病気を治す奇跡の泉が湧き出しているともいわれる。

 もちろん、この手の伝説はすべての宗教につきものだし、はたから見ればあり得そうもないことを信じるのが信仰心であるともいえるのだが、画家が描こうとしたのは人知を超えた宗教それ自体というよりも、ろうそくの灯りを手にして黙々と行進する一般市民の姿である。満天の星空の下には十字架やマリア像が描かれ、ルルドの教会も背後に小さく見えているが、何より画面の大部分を占めるのは、悲痛な表情で巡礼に加わる人々なのだ。あなたたちはなぜ、そんなに暗く沈んだ顔をしているのですか? 思わずそう問いかけたくなってしまうような気がする。

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クールベ『オルナンの埋葬』(オルセー美術館蔵)

 この絵の前に立って、真っ先に頭をよぎったのが、クールベの『オルナンの埋葬』だった。横長の画面に人々がぎっしりと並んで立ち、揃いも揃って沈鬱な表情をしているところも似ているし、どこかの犬が紛れ込んできているところも似ている。背後に十字架が描かれていることも共通している。そして何よりも、そこに描かれている人々が聖者ではなく、何か特別な人などではなく、ぼくたちと同じごく普通の市民だというところが一致しているのである。

 クールベの絵に描かれているのは葬儀の情景だから、もちろん悲しい場面であることには相違ないが、このリアリズムの画家は宗教的な事例にことよせて、包み隠さぬ市民の悲哀を描いたのだろうと思われる。平山郁夫もまた、意識したかどうかは別として、クールベの例にならったのだ。ただ、ひとつだけ、しかし決定的にちがうところがあるとするなら、現代の巡礼者は近親者の冥福を祈るだけではなく、おそらく世界平和をも強く願わなければならない、ということである。

 平山郁夫の絵には、平和への切なる祈りというものがつねに横たわっている。彼は広島の地で被爆したが、それから60年余り経った現在では、ひとたびの戦争が全世界を危機におとしいれかねない状況にさえなっている。仏教だの、キリスト教だのと区別している場合ではない。平和を願うひとりの画家が、国境を越えて世界中に題材を求めなければならないというのも、考えてみれば必然のことだといわざるを得ないだろう。

 平山郁夫みずからが、巡礼者なのだ。

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五十点美術館 No.21

2008年09月11日 | 五十点美術館
川端龍子『金閣炎上』


 京都の代表的な観光名所というと、金閣寺は必ず5本の指に入るだろう。だが、ぼくは京都に長いこと住んでいながら、金閣寺にはあまり行ったことがない。大阪に住んでいたときから数えても、18年間に3、4回ぐらいではないかと思う。

 衣笠とか、きぬかけの道とかいわれるあの近辺にはしばしば出かけるが、ついでに金閣に立ち寄ろうという気にはなかなかなれない。ぼくが寺院を訪れる際にかすかに期待する、煩悩まみれの日常をつかの間でも忘れて心の平安を得たいという願いを、あの金ピカに輝く豪奢なお堂は叶えてくれそうにもないからである(むしろ、煩悩をかきたてそうですらある)。

 もちろん金閣寺の輝きが今もって色あせないのは、昭和25年に焼失したあと再建されたからだし、焼ける前の年ふりた金閣がどんな風情をただよわせていたのかは想像するしかないけれど・・・。

 ひとりの学僧が金閣寺に放火した事件は人々に衝撃を与え、いくつかの文学作品を生み出した。なかでも三島由紀夫の『金閣寺』と、水上勉の『金閣炎上』は代表的なものだろう。三島版は金閣が再建された翌年の昭和31年、水上版はずっとのちの昭和54年に発表されている(水上は『五番町夕霧楼』でもこの事件をモチーフにしている)。

 とりわけ三島の作品は日本近代文学の金字塔とされ、きわめて世評が高く、ぼくも福井にいた10代のなかばぐらいに読んでみたが、なかなかどうして簡単に理解できるものではなかった。小学生のころに一度金閣寺を訪れたことがあったのだが、子供だったぼくの眼にはただの金細工のようにしか見えず、ひとりの人間の身を滅ぼしかねない“美の象徴”とはとても思えなかったのである。その抜きがたい落差が、今でもぼくの足を遠ざけている一因なのかもしれない。

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 ところで三島の『金閣寺』のなかに、こんな一節がある。

 《金閣は雨夜(あまよ)の闇におぼめいており、その輪郭は定かでなかった。それは黒々と、まるで夜がそこに結晶しているかのように立っていた。瞳を凝らして見ると、三階の究竟頂(くきょうちょう)にいたって俄かに細まるその構造や、法水院と潮音洞の細身の柱の林も辛うじて見えた。しかし嘗(かつ)てあのように私を感動させた細部は、ひと色の闇の中に融け去っていた。》

 放火する直前、学僧の溝口が眺めた最後の金閣の姿だ。見事な文章だが、意外なことに三島は炎上する金閣の描写を書いていない。火をつけたあと、溝口は左大文字山へ逃げ出すが、そこからの眺めは次のように語られている。

 《ここからは金閣の形は見えない。渦巻いている煙と、天に冲している火が見えるだけである。木の間をおびただしい火の粉が飛び、金閣の空は金砂子を撒いたようである。》

 闇夜に燃えさかる金色の御堂という、美しさと荘厳さと背信性をあわせもったような多義的なイメージは、さしもの美文家の手にも負えなかったのかもしれない。小説家なら、まあそれもいい。しかし画家がこの出来事を描くとなったら、絶対に避けて通れないのが、燃える金閣そのものの描写であることはいうまでもない。

 川端龍子(りゅうし)の『金閣炎上』は、その難題に正面から立ち向かった作品だといえるだろう。濃墨で塗りこめられた息づまるほどの闇のなかに、細く真っ直ぐな雨の軌跡が落ちる。そして紅蓮の炎が、今まさに“夜の結晶”のごとき建築物をのみこもうとしているのである。静かな鏡湖池にほむらが映り、三島がいみじくも書いたとおり、金の砂子が空に舞い散っている。

 まるで、先に引いた『金閣寺』のふたつの文章を一体化させたような、見事な絵ではないか。ぼくはてっきり、三島の小説を読んだ川端龍子が想像力をふくらませて描いたのかもしれない、などと思っていた。だが、それは正しくなかった。

 三島の『金閣寺』が、放火から6年後に発表されたことは前にふれたが、川端龍子の『金閣炎上』は、事件のあったその年に描かれたものだったのだ。“金閣燃える”という驚くべきニュースが、いかにすばやく日本中を駆け巡ったかの傍証となるような作品である。ひょっとしたら、三島由紀夫のほうがこの絵を参考にした可能性だって、全然ないとはいいきれないのではないか?

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 ところが、川端龍子はひとつだけ、事実と異なるものを描き込んでいる。屋根のいただきで羽を広げる、鳳凰のシルエットがそれだ。といっても周知のとおり、復元された金閣の屋根にも鳳凰がいるし、焼け落ちる前にもそこにいたであろう。いったい何がちがうというのか。

 数年前、たまたま福井に帰省したときに、デパートで「五木寛之の百寺巡礼」という番組にまつわる展覧会を観た。そこに思いがけず、焼けた金閣の屋根にあったという鳳凰が展示されていたのである。黒焦げの残骸かと思ったらそうではなく、意外と美しい姿を保っていた(ただし金色ではなかったように記憶する)。あとで調べてみると、金閣が燃えたときには鳳凰を屋根から取り外していたため、運よく火災を免れたのだという。

 川端龍子が、はたしてこの事実を知っていたかどうか。いや、たとえ知っていたとしても、炎上する金閣の屋根の上には、やはり鳳凰が描かれなければならないだろう。彼もまた、炎に包まれた金閣の姿に、ある完璧な美を探り当てようとしていたにちがいないのだ。これは報道写真ではなく、絵画なのだから。

(東京国立近代美術館蔵)


参考図書:
 三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫)

つづく