てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

メモリアル・ピカソ(7)

2007年03月28日 | 美術随想
『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』


 2003年に東京で開かれた「ピカソ・クラシック」という展覧会は、『海辺を走る二人の女』をはじめ多くの名作が来日した豪華な展覧会だったそうだが、ぼくには行くことができなかった。『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』(パリ・ピカソ美術館蔵)も、そのとき出品された一枚である。この絵はポスターなどを通じてたくさんの人の目に触れたことだろうし、そのうちのかなりの人々が、これがあのピカソの作品かと思ったことだろう。

 描かれているのは、ピカソの最初の妻である。といっても、この端整な肖像画が描かれたとき、ふたりはまだ結婚していなかった。ロシア・バレエ団公演の美術を担当することになったピカソは、そこの踊り子のひとりであったオルガ・コクローヴァと出会う。評伝などによれば、ピカソの熱烈なアプローチの結果、ふたりは結ばれたそうである。ピカソというと掟破りの好色漢みたいにいわれ、苦もなく女を手に入れているような印象がなくもないが、このときばかりはちがったようだ。

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 ここに描かれたオルガの顔つきやポーズを観ていると、さもありなん、と思う。オルガの姿は確かに美しいし、それを完璧なまでに再現し得たピカソの傑出した腕も、もちろん素晴らしい。だがこれは、恋する女の顔ではないという気がする。いかにもガードが固そうな、冷ややかな、自尊心にあふれた顔である。言い寄る男たちなど、鼻もひっかけないといわんばかりだ。椅子の背もたれに乗せた右腕が、彼女のプライドの高さを物語っているかに見える。

 一見近寄りがたくも思われるオルガのこの風貌は、結婚後のピカソの生活にもたらされる決定的な変化を、はるかに予告しているかのようだ。妻となったオルガはピカソを連れて、さかんに社交界に出入りしはじめる。ピカソもひとかどの紳士きどりで、上流社会へと交友の場を広げていったという。

 この時代の、正装ですまし返ったピカソの写真がいくつか残されている。それを眺めていると、やはり奇異の感を禁じ得ない。ぼくが子供のころから、さまざまな本で見慣れてきたピカソの姿の多くは、ボーダーのシャツを着てらんらんと目を光らせていたり、上半身裸で腕組みをして立っていたりするような、まことに野性味あふれる男の姿だった。髪をきちんとわけ、スーツを着用に及んだピカソなど、まるで牙を抜かれたライオンのようである。だが、ピカソがふたたびその本性をあらわすのに、それほど時間はかからなかった・・・。

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 『女の肖像』(下図、ジャクリーヌ・コレクション蔵)というこの奇怪な肖像画が、誰の顔を描いたものかはわからないが、やはりオルガだと考えるべきなのだろうか。だとすれば、優雅な衣装を身にまとい、肘掛け椅子に座っていたあの美しいオルガの、9年後の変わり果てた姿である。



 この悪意にみちた ― としか考えられない ― 人物像は、キュビスムだとか何々主義だとかいう以前に、ピカソの率直な感情の表現だと思う。ピカソがこの女の顔を醜く誇張して描いたのは、彼女との関係が非常に険悪であったからにほかならない。子供に絵を描かせたりすると、嫌いな人の顔に角が生えていたりするのと同じで、嫌いなところを誇張して描いたまでである。

 よくいわれるように、ピカソは決してメチャクチャを描いたわけではない。よくよく観ると、筋の通った鼻梁や細長い首の表現に、やはり昔日のオルガのおもかげを認めることができる。彼は基本的に、現実から出発した画家だったのだ。現実が彼にとって醜悪であれば、それは醜悪に描く以外にないではないか?

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 『女の肖像』を描いた翌年、ピカソはマリー=テレーズという若きミューズと出会う。ピカソはオルガとの婚姻関係を解消できないままに、愛人関係にのめり込んでいくのである。オルガとの仲がますます悪化したのは、いうまでもないだろう。

 『赤い背景の接吻』(下図、ジャクリーヌ・コレクション蔵)を観ると、接吻とは名ばかりで、実際には噛み付き合っているようにしか思えない。ここまでくるとオルガの個性は認められないどころか、人物としての態をなしていない。どちらが男でどちらが女か、それすらも明らかではない。



 このときピカソは、現実から目を背けていたのだろう。彼はマリー=テレーズのもとへ逃げようとしていたのかもしれない。いや、むしろマリー=テレーズの存在こそが、徐々に彼にとっての現実となっていったのではなかろうか。ここに描かれたふたりの人物(?)は、ぬけがらでしかないのだろう。

(未完)

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奈良ばしご ― これもすべて、ほぼ同じ一日 ― (3)

2007年03月24日 | 美術随想


 中野美術館を出て、次は蛙股池を挟んだ対岸にある大和文華館へ向かう。このいっぷう変わった名前の建物は、何点かの国宝を含む古美術を収蔵する美術館である。ここも3度目の訪問となる。

 ちなみに、最初にここを訪れたのは数年前のことで、国宝『松浦屏風』を観るためであった(この4月からまた展示されるようだ)。2度目は去年の今ごろに、庭園での梅見を兼ねて富岡鉄斎の展覧会を観た。2回とも、「新日曜美術館」によくゲスト出演されている学芸員の中部氏を館内でお見かけしたが、今回は閉館時間が近かったせいか人も少なく、中部氏の姿もなく、閑散としていた。しかしそれは、ぼくには願ってもないことだ。

 今の時季にちょうどぴったりの、梅と桜の意匠を凝らした工芸品や絵画が並ぶ。今回の目玉は、国宝『寝覚物語絵巻』の一場面(上図)。例の「吹抜屋台」の様式で描かれた寝殿の外では、3人の女童が音楽に興じ、2本の桜が今を盛りと咲き誇り、観るものをたちまち平安の春へと招じ入れる。単に美しい景観を描くだけでなく、そこには匂いや音といった、人間の五官をくすぐる要素が巧みに描かれているような気がする。

 それにしても、桜の五弁の花びらが几帳面に描き込まれているのには驚かざるを得ない(下図、部分)。現代の日本画に至るまで、さまざまな桜の絵を観て思うことだが、満開の桜の表現というものはまことに難しいものだ。遠目には淡い霞がかかったみたいに幻想的に見えるが、仔細に見ていくと当然ながらひとつひとつの花の集積である。この異なった見え方を、どうやって一枚の絵に集約するか。画家たちは苦心を重ねながら、さまざまな表現方法を見つけていったのだろう。



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 江戸の後期に出版された観光ガイドブックのようなものも展示されていた。そのうち『大和名所図会』には、代表的な桜の名所のひとつ、吉野の様子が描かれていて、ぼくは感慨深くそれを眺めた。というのも、ぼくはつい1か月ほど前に、吉野へ旅行してきたばかりだからである。

 2月だったが暖冬で雪はなく、かといって桜にはまだ早く、これといって何というイベントもない時季だった。いや、むしろそれをねらって行ったのだ。道行く観光客はまばらで、温泉は貸し切り状態、天候にも恵まれ、日ごろの疲れを癒やすにはもってこいの環境が整っていた。旅行は閑散期にかぎる、とつくづく思ったものだ。

 吉野駅からロープウェイで山へ登り、旅館への道をのんびり歩いているとき、突然目の前に大きなお堂がぬっとあらわれた。金峯山寺(きんぷせんじ)の本堂、蔵王堂である。見上げるばかりの巨大な木造建築は、東大寺の大仏殿に次ぐ大きさだという。その蔵王堂の屋根が、吉野山を遠方から俯瞰した『大和名所図会』の絵の中にも、それとはっきりわかるように描かれていたのだった。

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 話は前後するが ― しかも、奈良をちょっと離れるが ― 実はこの日よりも少し前に、ぼくは同じ場所を描いた華麗な屏風を観ていた。京都で開かれた雪月花をテーマにした展覧会に、『豊公吉野花見図屏風』(重要文化財)が出品されていたのである。これは題名どおり、豊臣秀吉が吉野で花見をする様子を描いた屏風で、展示されていたのは左隻だけだったが、輿のようなものに乗って鳥居をくぐろうとしている秀吉の姿や、行く手に聳える蔵王堂の堂々たるたたずまいが、山をおおい尽くさんばかりの満開の桜の中に描かれていた。

 この屏風はすでに何度も観たことのあるものだったが、自分が吉野に行ってきたばかりだったので、そこに描かれた地形や神社仏閣の位置関係が手にとるようによくわかり、これまでになく楽しく観ることができた。それにしても、こうやって花の咲き乱れる風景を観ていると、桜の季節の吉野もいいものにちがいない、などと思ってしまう。いや、現代の吉野ではこの絵のように優雅な花見とはいかないだろうけれど・・・。

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 大和文華館で桜や梅に彩られたさまざまな美を堪能しているうち、むせ返る香気にあてられてしまったかのように、体の力がぬけていくのを覚えた。いや、単に疲れているだけかもしれない。なにしろ、睡眠をとるのもそこそこに朝から奈良へとやってきて、3つもの美術館を“はしご”してまわったのだから、心は満足したとしても、体の方が悲鳴をあげて当然である。展示室の一角に、池に面したベンチがしつらえてあり、ぼくはそこへ座って目を閉じた。

 ・・・ふと気がついて時計を見ると、10分ほど経ってしまっていた。いつの間にか、うとうとしてしまったらしい。すでに閉館時間が迫っている。近くを誰かが通りでもすれば、その拍子に目が覚めたかもしれないのだが、館内にはほとんど人がおらず、ベンチで眠りこけるぼくに気づく人もいなかったようだ。

 やれやれ、これが本当の「寝覚物語」だな・・・。そんなことを胸の中でつぶやきながら、ぼくはいそいそと展示室を後にした。


DATA:
 「梅と桜 ―清澄と爛漫と―」
 2007年2月17日~3月25日
 大和文華館

 「雪・月・花展 ―雛かざりとともに―」
 2006年12月15日~2007年3月11日
 細見美術館

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奈良ばしご ― これもすべて、ほぼ同じ一日 ― (2)

2007年03月20日 | 美術随想


 松伯美術館を出てふたたびバスで駅に戻り、南東の方角へしばらく坂をくだっていくと、蛙股(かえるまた)池という池がある。ちなみにここは現存する最古のダムだそうで、その珍妙な名前にもかかわらず、まことに由緒のある池なのである。その池に面して、住宅街の端っこにぽつんと、中野美術館という小さな美術館が建っている。ぼくが次に訪れたのはここであった。

 この美術館に来るのは3回目で、以前のことは「日本人が洋画に出会うとき(5)」に書いたことがある。それにしても、ここはいつ来ても他のお客に出会ったことがない。たまたまちょうど客足の途切れたときだったのかもしれないが、それにしても人が少ない。今度もまったく貸し切り同然である。受付の窓口に座っていたおばさんは、新聞を読む手をとめて、ぼくにチケットを売ってくれた。まるで、ひまな煙草屋の店番のようであった。

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 展示室は洋画と日本画とにわかれているが、ぼくには特に洋画がおもしろい。それは前にも書いたとおり、日本洋画の黎明期に生まれた作品が多く並んでいるからである。

 今では洋画というと、もっぱら外国映画のことを指すようになってしまっていて、油彩画とか油絵とかいう言葉にとってかわられようとしているが、現代のぼくたちが当たり前に洋服を着こなすごとく、洋画もすっかり国産化してしまったということだろう。

 しかし当時の画家たちにとっては、西洋の絵の具を使っていかに日本の風物を描くかということが、今からは想像もできないほどの大問題だったのではなかろうか。それはいわば手本のない習いごとに似て、絶え間ない試行錯誤の連続とでもいうべきものだったにちがいない。画家たちひとりひとりが、自分なりの答えを見つけ出すために躍起となっていた、そんな時代の洋画は何だかスリリングで、いつ観ても新鮮である。

 この日は思いがけず、村山槐多(かいた)の油彩画に出くわした。『松の群』と題されたその絵は(上図)、大正7年の作というから、彼が満22歳で夭折するその前年に描かれたことになる。ぼくはこれまで槐多のデッサンを観たことはあったが、油絵は写真でしか知らなかった。槐多といえばガランス(茜色)、とはよくいわれることだが、初めて目にする槐多のガランスは思いのほか毒々しく、花鳥画を観たあとでみちたりていたぼくの心は、激しく揺すぶられずにいなかった。

 それはまさしく燃え上がるような、鮮烈な松の木だ。自然観照という言葉があるが、槐多にとっての自然はさにあらず、おのれの激情でもってねじふせ、いわば自分色で塗りこめてしまったかに思われた。“若き晩年”を迎えていた槐多のみたされぬ思いが、90年という時間を飛び越え、痛いほど伝わってくるようだった。

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 洋画の部屋を出て階段をおりていくと、蛙股池に面して大きな窓があり、巨大な木の切り株が置かれている。ぼくはそこに座って池を眺め、さざ波立った心を静めようとした。この日はとても風の強い日だったのだが、水面は意外なほどに穏やかで、遠くを水鳥が優雅にすべっていたりした。ぼくは不思議な気持ちで、その風景をぼんやり眺めていた。

 日本画の部屋へ入っていくと、村上華岳の『早春風景図』が目についた(下図)。この画家は晩年、病気に苦しまされ、隠棲して深遠な風景画や仏画を描いたが、30代に入って間もないこの風景画は非常に穏やかで、素直である。



 うっすらと雪化粧した田畑の向こうに、けぶるような山が見える。淡い水色をした空には、鳶らしき鳥が一羽、緩やかに旋回している。3月になって一気にぶり返した寒さの中、ぼくは春を待ちこがれるような思いで、絵の前にしばらく立っていた。


DATA:
 春季展「近代日本の絵画」(前期)
 2007年3月9日~4月15日
 中野美術館

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奈良ばしご ― これもすべて、ほぼ同じ一日 ― (1)

2007年03月18日 | 美術随想


 年度末というのは何でこうも、従順な勤め人に対して厳しいのだろう。残業に次ぐ残業のあげく、今日という日が残り一時間しかないというときに、ようやく帰宅する。そこからが自分の時間だが、いったい何ができるか? 画集が見れるか? 本が読めるか? 音楽が聴けるか? その前にまず飯を食わなければならないが、食い終わったころにはもう明日になっている。いやはや。

 予定されていた休日出勤が回避されたのをねらって、朝からあわただしく奈良へと出かけた。こんな日ぐらい家で休んでいればよさそうなもので、実際そうしていることも多いのだが、家にいるよりも展覧会を観るほうが、ぼくにとっては効果的なリフレッシュ法らしいということに、最近ようやく気づいてきた。

 とはいっても、展覧会なら何でもいいということにはならない。群集がわんさか押し寄せるような人気の高いものは、かえって疲れてしまう。ここは、閑古鳥でも鳴いている美術館のほうが ― 当事者の方々にはお気の毒だが ― 打ってつけであることはもちろんだろう。静謐な環境で、ひとつひとつの美術品とじっくり対話をする。ねじを巻きすぎた都会の異常なスピードが、ブレーキでもかけたように徐々に減速し、緩やかな時間の流れを取り戻すことができるのは、そんなときだ。ぼくが、ぼくに返る瞬間である。

                    ***

 この日はなぜか気力もみなぎり、奈良の3つの美術館を“はしご”することに決めた。京都から出かけても奈良はけっこう遠く、交通費もかかるので、用事はできるだけ一度にすませたほうが賢いというものだ。だが、いつもはどうしても寝坊してしまって、なかなか果たせなかった。でも今日はどうにか、目的を達成できそうな予感がする。

 3つの美術館はすべて、学園前という駅の周辺にある。駅前からバスに乗り継ぎ、最初に到着したのは、前にもふれたことのある松伯美術館だった。池のほとりにあるこの美術館は ― そういえばこの日訪ねたところはみな池のほとりにあった ― 上村松園・松篁(しょうこう)・淳之(あつし)の三代にわたる日本画を全館に展示しているのだが、今は年に一度の公募展を開催していた。題材は花鳥画に限るという、いかにもこの美術館らしい公募展で、これまでも都合がつけばできるだけ観るようにしていたのだ。

 公募展の規模としてはごく小さなもので、展示されている絵の数も多くはないが、ぼくがなぜわざわざ出かけるかというと、やはり花鳥画が好きだからということに尽きる。もちろん現代の若い画家が手がけている花鳥画は、松篁や淳之の描く花鳥画とは大きく異なるけれども、そこには日本人と自然とのさまざまな関係が模索されているように感じられてならない。自然保護団体のように声高に叫ぶわけではないが、身近なさりげない自然の中にささやかな感動を見いだし、それを絵に託して描いているのである。

 入選作をここでいちいち紹介することはできないが、それぞれに作者のコメントが添えられているのもおもしろかった。塀に立てかけられた竹ぼうきに、朝顔のつるがからみついている情景を描いた画家は、この風景を残してくれていた人たちのやさしさを感じた、というようなことを書いている。ぼくは、加賀千代女の有名な一句を思い出していた。

朝顔に つるべとられて もらひ水

                    ***

 だが、ぼくにはやはり、上村松篁と淳之の花鳥画がなじみ深い。今回は松園の絵も含めてわずか5点ほどが、小さな展示室に集められていたにすぎなかったが、気がつくとぼくはそこで長い時間を過ごしていた。

 上村淳之の『月汀』(上図)は、なかでも比較的最近の作である。この作者は現役の画家で、松伯美術館の館長でもあるのだが、今ではこのような花鳥画を描く人ははなはだ少ない。とにかくシンプルで、余計なものは何も描かれていない。

 それにしてもこの華やかさ、優美さは何だろう。満月のスポットライトを浴びて、誇らしげに羽を広げてみせる鳥。思わず息をのんで、じっと見入ってしまいそうな光景ではないか。ぼくたちが、自然に対して畏敬の念をいだかざるを得ないのは、こんなときである。

 父親である上村松篁が描いた『若い鷹』(下図)は、さらに輪をかけてシンプルだ。そこには一本の止まり木があるだけである。自然のもとを離れ、人工の世界で飼われている鳥の姿。彼は見るからに孤独で、ひとりぼっちだけれど、その鋭いまなざしで、自分のゆくすえをしっかり見定めようとしているかのようだ。その毅然とした姿から、ぼくは勇気をもらう。



                    ***

 美術館の中庭に出ると、紅白の梅はもう咲き終わっていた。さざ波ひとつたたない池の中を、鯉が静かに泳いでいる。水に落ちた梅の花弁がゆっくりと流れる。時がとまったような、つかの間の静寂。

 ぼくはほんのちょっとだけ、草木や魚たちと同じ世界を共有できたように感じた。忘却の彼方に追いやっていた“いのち”の感覚が、ふたたびぼくの体によみがえってきた。生きているんだな、とぼくは思った。


DATA:
 「第13回 松伯美術館 花鳥画展」
 2007年2月13日~3月23日
 松伯美術館 他

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メモリアル・ピカソ(6)

2007年03月16日 | 美術随想
『水浴の女』


 ほぼ等身大の ― というよりそれ以上の ― 荘厳なる裸婦像『水浴の女』を観て、ぼくは圧倒された。もう8年ほども前の、オランジュリー美術館展でのことである。

 これはピカソのいわゆる“新古典主義”の絵画のひとつだ。縦182センチのキャンバスの中で、ずっしりと腰をすえるこの女は、「青の時代」に描かれた華奢でみすぼらしい人物像とは正反対の、太くたくましい手足をしている。

 今までさまざまな裸婦の絵を観てきたが、『水浴の女』ほど威圧的で、重量感にみちみちた裸婦像には出会ったことがない。彼女はまるで記念碑のように、まことに鷹揚にかまえていて、ちょっとしたことには動じないだろう。乳房のふくらみを別にすれば、ほとんど男の肉体のようだ。肩幅はアメフトの選手ほどもあり、太ももは競輪選手ほどもある。

                    ***

 ピカソはあの革命的なキュビスム絵画のあとで、このような人物像に戻ってきた。その意味では“新古典主義”といわれるのも何となくわかる。しかしピカソが見据えていたのは、“古典”をはるかに超えた“原始”とでも呼ぶべきものではなかったか?

 時代の最先端であったキュビスムが“知的な遊び”だったとすれば、ピカソは方向を180度転換して、文字どおり現代に背を向け、人間が本能のままに生きていた遠い昔を回顧しているかのようである。そこには、20世紀における生命力の屈折した姿が浮かび上がってもくるようだ。彼はキュビスムという論理的な絵画運動に身を投じている間に、理屈にからめ取られることのどうしようもない窮屈さを感じたのではないだろうか。

 ピカソが長い人生にわたって、その知名度や社会的地位をも顧みず、奔放な恋愛へと ― そして肉体関係へと ― 没頭したのはよく知られている。それはしばしば、世人の眉をひそめさせるほどのものだったにちがいない。

 だが、見方を変えれば、彼の生き方は古代の英雄の生き方そのものに見える。現代という複雑な、鬱屈した時代の中で、ピカソほど率直に生命力を爆発させ得た人物は、他にいないのではなかろうか?

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 『海辺を走る二人の女』(下図、パリ・ピカソ美術館蔵)は、4年前に日本で公開されたことがあったが、関西には巡回しなかったため、ぼくは涙をのんで我慢した。実はこの絵は、ピカソの中でもっとも好きな絵のひとつだったのだ。



 地響きをさせながら、なりふりかまわず海岸を疾走する女たちの姿は、まことに迫力がある。ところがこの絵は意外と小さく、A3の紙を少し大きくしたくらいのものらしい。

 だが、そこに表現された歓喜する肉体、なんら目的をもたない生命のひたすらな躍動に、ぼくは強く心動かされる。それは、ぼく自身が現代に生きる鬱屈した人間だからにほかならない。ぼくは永久にピカソにはなれず、だからこそピカソの芸術に焦がれるのである。

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