てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

か弱い巨人たち ― ウィーンの19世紀末 ― (3)

2009年12月31日 | 美術随想

エゴン・シーレ『自画像』(ウィーン・ミュージアム蔵)

 クリムトと生涯にわたって密接な関係にあったのが、エゴン・シーレだ。この画家は最近とみに有名になってきて、日本でも何度か作品が展示され、画集や評伝も出版されるようになっているが、ぼくが子供のころには百科事典にすら名前が載っていなかった。

 ずいぶん前に梅田の大丸ミュージアムでシーレ展を観たのが、ぼくの最初のシーレ体験である。なにげなく入ったその会場で、ぼくは途轍もない困惑の底に突き落とされた。当時ぼくはまだ20歳そこそこで、まだ大人の秘められた世界に片足も突っ込んでいないころだったが、決して美しくはない男や女があられもない姿態を晒す絵に激しい衝撃を受けたものだ。しかもそのいくつかがシーレ自身の自画像だと知り、みずからの痩せこけた裸体や苦吟の表情を臆面もなく他人に見せつけるこの画家は何者だろうと訝らずにはいられなかった。

 今、世間の多くが無抵抗にシーレを受け入れているように見えるのは、時代の病める部分が彼の芸術に共振しているからだとしか思えない。ということは、現代の日本にもウィーンの前世紀末とシンクロしているところがあるということか。ただそれは、外見だけは綺麗に塗り固められ、一見すると何の不足もなく思えるが、隠れたところでは人間の根源的な苦悩が出口を求めて蠢いているような、いびつな重層性をもっている。

 その複雑な構造は、同時代を生きていたクリムトとシーレがまったく異なる表現方法で人間を捉えようとしていたことと通じる。いわば、クリムトによって施された美しい装飾を無残に剥ぎ取ったのが、シーレの絵画だといえるのである。

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エゴン・シーレ『裸婦背面』(ウィーン・ミュージアム蔵)

 クリムトはエロスの画家だといわれ、シーレもそのようにいわれる。しかし、ふたりの作品はあまりにもちがう。それがすなわちエロスの二面性だといわれれば、そうなのかもしれない。絶対的な恍惚は、どこかで苦悩と通じ合うのである。

 『裸婦背面』は、本来ならばきわめてエロティックなポーズだ。顔が隠されたまま服はずり下げられ、臀部があらわになっている。しかし、描かれているのが本当に女性であることを示す確実な根拠はない(そのみすぼらしい肉付きから、ぼくは最初この人物が男ではないかと疑ったし、実は今でもそう思っている)。

 まあ仮に、これが若い女のヌードだとしよう。けれども多感な年ごろの男が観ても、この絵に扇情的なところはまったく感じないだろう。たとえばアングルが描いた裸婦の後ろ姿に比べれば、その差は歴然たるものがある。


参考画像:ドミニク・アングル『ヴァルパンソンの浴女』(ルーヴル美術館蔵)

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 クリムトが人間の醜い部分を隠すために金色の装飾で補完するという方便を講じたのだとすれば、それは陶器の欠けたところを漆でつないで金を施す「金接ぎ」とよく似ている。それはそれで新しい風景になり、眼利きたちに重宝されるのだ。しかしそのような良心的処置を一切しなかったのがシーレで、社会的な地位も肩書きも、市民生活を匂わせる背景すら取り去ったところに救いようもなくごろんと投げ出された素裸の人間の姿を描いた。焼物でいえば、“かけら”をありのままに描いてみせたのだ。それは今では流行らなくなった“実存”という言葉を思い出させる。

 エロスというこの捉えがたいものに向かって正反対のアプローチをしたのが、クリムトとシーレだった。ふたりは奇しくも同じ年に没したが、彼らが暴いた人間のふたつの局面は、生と死が表裏一体となって複雑に錯綜したわれわれの生きざまを鋭く照らし出しているのである。

(了)


DATA:
 「クリムト、シーレ ウィーン世紀末展」
 2009年10月24日~12月23日
 サントリーミュージアム[天保山]

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謝辞

 今年は私生活上のさまざまな変化があり、残念ながら記事を書くのが後回しになってしまいました。展覧会はたくさん観たのですが、そのすべてを書き切れなかったことが心残りです。こんな途切れ途切れのブログでも、1年間読みつづけて下さった方がおられましたら心から感謝申し上げます。来年はもう少し頻繁に更新できるよう頑張りますので、どうかよろしくお願いいたします。

 皆さま、よいお年をお迎えください。

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か弱い巨人たち ― ウィーンの19世紀末 ― (2)

2009年12月30日 | 美術随想

グスタフ・クリムト『パラス・アテナ』(ウィーン・ミュージアム蔵)

 今回の展覧会は、有名無名を合わせた数多くの画家たちによる“ウィーン世紀末の群像”ともいうべき性格を備えていた(そのなかには作曲家シェーンベルクが描いた絵も含まれている)。それらの中心をなしていたのは、やはりクリムトだ。なかでも名作のひとつである『パラス・アテナ』は大きな呼びものとなっていた。

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 ウィーンという土地は、日本なら京都に匹敵するような伝統文化のメッカである。音楽でいえば、クラシックの聖地というべき街だ。ハイドンやモーツァルトやベートーヴェンが活躍し、彼らが確立した西洋音楽のいしずえはその後長いこと破られず、ブラームスさえもその呪縛に苦しんだ。19世紀後半に誕生したクリムトが、ハンス・マカルトに代表される古典的な絵画芸術の嫡子としてそのスタートを切ったのもやむを得なかった。

 ただその一方で彼は、前述のとおり工芸家の子として生まれ、工芸美術学校で学ぶなど、装飾美術とも密接な関係をつづけていった。ウィーン美術史美術館の「階段の間」に壁画を依頼されたときは29歳の若さだったが、その出来栄えによって時の皇帝から表彰されるほどの力作をものした。彼はそこにアテナの姿を描き込んでいる。


参考画像:グスタフ・クリムト『古代ギリシャの美術』(ウィーン美術史美術館蔵)

 この美術館の眼と鼻の先にはオーストリアの国会議事堂があって、ギリシャ神殿ふうの豪奢な外観を誇っているが、建物の正面には「パラス・アテナの泉」と呼ばれる噴水があり、大理石でできた立派なアテナの像が建っている。クリムトが美術史美術館に描いたのは、まさにこれを絵画化したものといえるだろう。古代ギリシャの女神アテナは(ギリシャの首都アテネの名前の由来となったのはもちろんだが)、ここウィーンの守り神であり、芸術の都の象徴でもあったのだ。

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 のちにウィーンの美術家組合から離脱し、クリムトたちは「ウィーン分離派(ゼツェッション)」を結成する(京都でいえば「文展」を脱退した気鋭の画家たちで結成された「国画創作協会」のようなものだ)。そのポスターに、クリムトはふたたびアテナを描いた。


参考画像:グスタフ・クリムト『第1回分離派展ポスター』(オーストリア応用美術博物館蔵)

 槍を手に持った姿は前と同じだが、まるでエジプト壁画のように真横を向いて描かれ、そのかわり金の盾に刻印されたゴルゴンがその真ん丸な眼で正面を見つめている。ゴルゴンと眼が合った人は石になってしまうといわれるが、ゼツェッションのポスターに眼を惹かれる者は体がこわばってしまうほど強烈な印象を植え付けられるということか。このデザインは検閲にかけられ、背景に描かれた英雄の局部は樹木によって隠すことを余儀なくされるが、アテナという古代の神を換骨奪胎して新しい美術運動のシンボルへ担ぎ出したところに、クリムトの不敵な自信のほどがうかがえるというものだ。

 そして同年、みたび描かれたのが冒頭の『パラス・アテナ』である。彼女は儀仗兵であるかのように堂々たる姿勢で立ち、そこには儀式めいた荘重な雰囲気さえ感じられるが、胸もとのゴルゴンは観る者を嘲るかのように舌を出している。もともと右手に掲げられていた「ニケ」の像は、艶かしい裸婦の姿に変じている。クリムトはギリシャの女神を自分たちの味方につけ、いかなる権力からも身を守り、自分たちの芸術を貫くことを声高らかに告げたのである。

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参考画像:グスタフ・クリムト『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』(個人蔵、ノイエ・ギャラリーに貸与)

 その後の作風は、よく知られているとおりだ。絢爛たる金の輝きは、われわれの眼を魅了してやまない。絵を観ることの至福といったものを、クリムトほど実感させてくれる画家は少ないだろう。

 だが、リアルな肉体と金ピカの装飾は、しょせん相容れないものだと思う。高価な宝飾品を身につければつけるほど、その人の内面の空虚さがあぶり出されるのである。クリムトの絶頂期の絵画は、金で飾り立てるほどにモデルの存在感が稀薄なものになっていった。ついには画面全体が装飾の渦で埋めつくされ、人物の顔や手の部分がわずかにのぞくばかりになっていく。生身の体はすっかり侵食されてしまったのだ。

 華美な装飾に依存しなくては自律し得ない、屈折した人間像。クリムトが提示したのは、19世紀から20世紀初頭にかけてを生き延びた病める人々の姿だったのではあるまいか。

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か弱い巨人たち ― ウィーンの19世紀末 ― (1)

2009年12月29日 | 美術随想

大阪港・天保山の夜景

 気がつけば、2010年はもうすぐそこまで迫っている。この間の世紀末は、すでにはるか昔といった感じである。

 最近また2012年に人類は滅亡するという説が世間を賑わしているが、今から10年前にもそんな話はあった。しかし結局は何も起こらず、むしろ現実的な騒動となったのはコンピューターのいわゆる「2000年問題」のほうである。世間の多くはミレニアム(千年紀)を祝うお祭りムードに踊らされ、“世紀末”という言葉が匂わすイメージが100年前とは決定的に異なっているだろうことが実感された。「世紀末的」という表現は、辞書を引くと「退廃的なさま」などと説明されているが、どうやら19世紀末のことに限って用いるのが正しいようだ。

 もちろん、現代が健全な社会だとはいわない。地球規模の不安はますます加速し、先日おこなわれたCOP15が揉めに揉めたことを見てもわかるとおり、先行きに希望を見出すのが困難なことは明らかだ。ただ、誰もが「退廃的」な世の中であることから眼を背けたがっている。夜を彩る各地のイルミネーションは年々豪華になる一方だが、つらい現実を忘れてつかの間の慰安を求める人々の願いを反映した現象ではないかとぼくには思われる。

 だが19世紀から20世紀の境目を生きた作家や芸術家たちは、世紀末の不安をみずからの創作の糧とし、貪欲に生き抜くことを心得ていた。彼らは一見すると病的なほどに繊細なようで、実はわれわれよりよほどたくましかったのではなかろうか。日々、意気が削がれるようなニュースばかり耳にさせられ心底げんなりしている現代人にとって、彼らの生きざまから学ぶところは多いにちがいない。

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グスタフ・クリムト『牧歌』(ウィーン・ミュージアム蔵)

 2009年の展覧会の締めくくりに、「クリムト、シーレ ウィーン世紀末展」を観た。

 クリムトこそは、ウィーンの前世紀末を象徴する存在である。金色を多用したゴージャスな作品群は、日本でも非常に人気が高い。オーストリアの画家でもっとも名の知られた人物であることは明らかだ。だが、あたかも金の輝きに眼が眩んでしまうように、そのきらびやかな絵画の後ろに彼の複雑な人間性が隠れてしまっているのではないかという気もする。

 彼が金を用いるようになったのは、彫金師の家系に生を受けたことや、日本美術を愛好していたことなど、さまざまな理由が挙げられているようだ。おそらくそれらが複合的に作用して、あの稀有な芸術を生み出したのだろう。だが、クリムトは決して写実的な描写が不得意だったわけではない。

 22歳のときに描かれた『牧歌』は、隆々たる筋肉の盛り上がりをそなえた2人の男性の間に、優美な女性と子供の姿が描かれている。その的確なデッサン力は驚くべきもので、彼のなかにはまるでミケランジェロとラファエロが同居していたかのようだ。クリムトはその画業の出発点において、アカデミックな技法を完全に自家薬籠中のものとしていたのである。

 けれども『牧歌』のなかには、真に迫る肉体の写実性とともに、紛うかたなき装飾性への偏愛といったものも認められるだろう。それは、この絵がクリムトの創意によるものではなく、「寓意と象徴」という書物の挿画として依頼されたという事情にもよるかもしれない。だが、浮彫り調の男性像と、それらに挟まれた画中画の形式をとった『牧歌』は、クリムトの画業の出発点においてすでに、彼の生涯が“リアルな人体”と“豪華な装飾”とに引き裂かれ、かおかつ相互に依存しあうデリケートな関係性のうえに成立することをはるかに予告していたように思われる。

 このことをもっとも象徴するのが、彼が繰り返し描いたギリシャの「アテナ像」だ。それについては、次にもっと詳しく見てみよう。

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寄り道しながらボルゲーゼへ(4)

2009年12月22日 | 美術随想

ヴェロネーゼ『魚に説教する聖アントニオ』(ボルゲーゼ美術館蔵)

 マーラーの歌曲集に『子供の不思議な角笛』というのがあり、そのなかに「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」という1曲がある。奇妙な題だなと思いながら、これまであまり気にもしなかった。交響曲第2番『復活』の第3楽章には同じメロディーが流用されていて、何度も耳に馴染んでいるのだが、聖アントニウス(アントニオ)なる男がどのような人物なのかは別にどうでもよかった。そもそもキリスト以下諸聖人たちが起こしたいわゆる“奇跡”というものに、ぼくは特段の関心を抱いていないのである。何度もいうように、クリスチャンではないからだ。

 だが今回このヴェロネーゼの絵を観て、なるほどこういう状況だったのかとようやく腑に落ちた。海に面した岩の上にひとり立って説教をする聖アントニオの前に、魚たちが口を開けて集まっている(一見すると撒き餌をしているところのように見えなくもないが、いいかえれば説教というものも救われない人々に対する一種の撒き餌にほかならない)。絵の右側には、奇跡をまのあたりにして驚く民衆たちが描かれている。

 ということは、これはいわゆる宗教画だ。だが、画面の半分以上は海景と神秘的な空の描写で占められ、風景画としての要素も強い。海は完全に凪いでいて、はるか遠くに見える真っ直ぐな水平線はまるでダリの絵のようである。

 けれどもぼくが引っかかるのは、聖アントニオがとっているポーズだ。人々より一段高いところに立って、自分の説教を聞くために集まってきた魚たちを指さしているように見える。左足を一歩前に出し、「ほら、あれを見よ」といわんばかりに群衆のほうに顔をねじ向けている姿は、まるで自分が起こした奇跡を誇っているかのようではないか。聖アントニオはこのとき、人々に向かって何といっているのだろう。「魚たちさえ私の話を聞いているのだ、あなたたちも聞きなさい」とでも?

 作者のヴェロネーゼについてはあまり詳しく知らないが、やはり他のヴェネツィア派の画家たち同様、宗教画の依頼にこたえなければ画家として生活できなかったにちがいない。いうまでもなく、宗教画というのは何かと制約の厳しい分野だ。さまざまな決まりごとが多いのである。しかしながら、この絵には宗教画の枠にはまらない自由な発想が見受けられるような気がする。いわばこれは、聖アントニオをひとりの英雄のように描いているのである。

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参考画像:ジャン=フランソワ・ミレー『種まく人』(ボストン美術館蔵)

 さてここで寄り道したいのは、ミレーのことだ。日本人がとりわけ好きだといわれるミレーはこの国でもたくさんの作品が知られているが、思い起こしてみると『魚に説教する聖アントニオ』との共通点がある。農婦たちが腰をかがめている『落ち穂拾い』を除いて、その多くが地平線から頭が出た状態で描かれていることである。

 一頭地を抜く、という言葉があるが、この描き方はまさに人物の優位性を決定づける。平たくいえば、えらく見えるのだ。ミレーは農民の苦しい暮らしぶりを活写したというよりも、一種の尊厳を付与して描いている。労働に従事することは尊いのだ、農民たちは名もない英雄なのだとたたえているように感じられるのである。

 その点で『種まく人』は、まさに“大地への撒き餌”であり、声なき説教だといっていい。若いころ牧師を目指していたゴッホが、ミレーの絵を執拗に模倣しているのもうなずける。ゴッホが描いた『種まく人』は、地面から頭が抜き出ているどころか、はるか遠くに太陽の後光さえ射している。農民は英雄を超えて、ここでは聖人にまで昇華されているのである。


参考画像:フィンセント・ファン・ゴッホ『種まく人』(クレラー・ミュラー美術館蔵)

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 あまり寄り道が過ぎるとまた連載が長引いてしまいそうなので、このへんで終わることにしよう。それにしても、このたびの展覧会の図録の立派な仕上がりには驚いた。たった50点ほどの絵を載せるのに、なぜ2300円もかかるような本を作るのだろう。結局買わなかったが、絵画芸術の品位と見てくれの高級さをとりちがえてはいないか。こんな暴挙を黙って見過ごせるほど、ぼくは聖人ではないのである。

(了)


DATA:
 「ボルゲーゼ美術館展」
 2009年10月31日~12月27日
 京都国立近代美術館

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寄り道しながらボルゲーゼへ(3)

2009年12月21日 | 美術随想

カラヴァッジョ『洗礼者ヨハネ』(ボルゲーゼ美術館蔵)

 実をいうとカラヴァッジョは、個人的に避けつづけてきた画家である。その生涯と作品に正面から向き合うのは、どうにも気が重い仕事のように思えたからだ。何しろ彼が殺人者であることが、その主な原因だといえる。決闘で相手を刺し殺し、逃亡生活をしながらも劇的な作風の絵を描きつづけたその数奇な運命は、映画にもなった。いわば、破滅型の芸術家の極端なケースである。

 生活破綻者というのは美術にとどまらず文学の世界にもたくさんいて、特権的な天才は人並みの生活をしたりまっとうな人生を送ったりしないものだというような誤った認識が広く流布する結果となった。だが本当のところ、芸術家だから世間に迷惑をかけてもいいということはないのであって、酒に溺れながら作品を生み出した無頼派の作家よりも、こつこつと努力を積み重ねて創作をつづけた作家のほうに共感を覚えるのである。

 けれども最初にカラヴァッジョの名前を知ったときは、すねに傷もつ存在だとは知らなかった。亡くなった若桑みどりさんがかつてテレビの連続講座でイコノロジー(図像解釈学)を取り上げたとき、最初の教材としたのがカラヴァッジョの『果物籠』という、いささか地味だが素晴らしい表現力に富んだ作品だった。その徹底的なリアリズムの底に、瑞々しい生命は永遠ではないのだといういわゆる“ヴァニタス”の考え方が盛り込まれているのを知ったときは、可視的な“描写”と観念的な“思想”とがこれほど見事に合体し得るということに驚かされたものだ。


参考画像:カラヴァッジョ『果物籠』(アンブロジアーナ絵画館蔵)

 ぼく個人はイコノロジーを頭から信奉しているわけではなく、学問によらない自由な解釈をする余地があってもいいと思っていて、その姿勢に基づいてこの随想を書いているわけだ。それでもカラヴァッジョが若き日に描いた『果物籠』を眺めていると、画家がみずからの波瀾万丈の人生をすでに予感し、“ヴァニタス”の思想にとらわれていたのではないかという想像をしたくもなってくる。

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 『洗礼者ヨハネ』は、そんな彼が短い生涯を閉じる最晩年に描かれた一枚である。

 ヨハネの描かれ方は実にいろいろで、非キリスト者であるぼくにはかなりわかりにくい部分もなくはない。今回の展覧会にもヨハネが登場する絵がいくつかあって、幼子イエスと無邪気に戯れていたり、眠れるイエスの枕もとで「シーッ、静かに」と口に指を当てていたり、愛くるしい姿で描かれているものも多い。しかし周知のように、のちにヨハネは斬首刑に処せられ、そのいきさつを描いたのがサロメの物語である。カラヴァッジョ自身、ヨハネの首がまさに切られようとしている作品を残しており、聖書に出てくる重要なエピソードとはいえ、子供には見せたくないショッキングな絵柄となっている(こんなふうに思うのも、ぼくがクリスチャンでないせいかもしれないが)。

 そのようなヨハネの姿を描いた後で、牧歌的な少年としてのヨハネを描けようはずがない。ましてや画家自身が人を殺めた経験をもつ以上、『果物籠』を描いていたあの頃には戻れない。この『洗礼者ヨハネ』が心なしか鬱屈した表情で描かれているのは、すでに若さを失い、自分の悲劇的な将来を予感しているからではあるまいか。これは宗教画であると同時に、一種の“ヴァニタス”の表現でもあるのである。

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参考画像:村上華岳『裸婦図』(山種美術館蔵)

 ついでながら『洗礼者ヨハネ』を一見したとき、ぼくの頭のなかでは村上華岳の『裸婦図』が浮かんだ。人物のポーズがよく似ていたからである。もちろんこちらのほうは菩薩にも通じる大らかで包容力にみちた表情をたたえていて、あのヨハネとは対極にある精神状態をあらわしているといえるだろうが、仏教的な境地を描くにはこのようなデフォルメというか、現実の世界を超越した表現こそが説得力をもつのではないかと思えた。その傾向は、たとえば先ごろ亡くなった平山郁夫の宗教画にまで受け継がれている。そしてぼくには(仏教を深く信仰しているわけではないが)こちらの世界のほうが親しみがもてる。

 そんなことを考えていたら、展示室の上の階で村上華岳の特集展示をやっていて『裸婦図』を印刷した古い絵はがきが陳列されているのに出くわした。奇妙な偶然であった。

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