てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

本屋はめぐるよ、どこまでも

2015年02月22日 | その他の随想


 前にも一度書いたことがあるが、福井には勝木書店という老舗の本屋がある。今では店舗を関東地方にまで広げているらしいが、ぼくには福井駅前にある本店にかよったことが忘れられない。ビルはすでに老朽化していて、床の上を歩くと妙に凹むように感じられるところもあったし、たしかエスカレーターなどもついていなかったように記憶するが、今でも福井に帰省すると、勝木で本を立ち読みしたり、何冊か購入したりするのがならわしになっている。

 だが、その名店にも、時代の波は容赦なく押し寄せる。路面電車の走る道路を挟んだ向かい側には、百貨店の新館ができる際、紀伊國屋書店が入った。福井では恐らく無名に近かった書店だと思われるが、例の新宿に本店がある有名書店のひとつである。今の客層はどちらにどう流れているのか知らないが、勝木vs紀伊國屋、という構図がなりたっているような気もする。

 そもそも書店とは、古本屋とちがって、どの店に行っても同じものを、同じ料金で売っているのが前提である。もしその店になくても、簡単に取り寄せることができる。いや、“ネット通販”と呼ばれるものが台頭してきている昨今では、もはや本屋の店舗すら必要としない読者も多いはずである。

 けれども、かすかに紙とインクの匂いのする本棚のあいだをうろついた挙げ句、思い切って高価な本をレジに運び、ずしりと重くなった鞄を提げながら帰路につくときの喜びは、何ものにも代えがたいと思う。他人から送り届けられた本など、ぼくは読む気にもならない。本は自分で本屋に出向いて、おびただしい書籍の群れのなかから一冊を選び出し、家に持ち帰ってページをめくるその瞬間こそが、まさに至福のときなのだ。

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 そんな本好きの期待に応えるためでもないだろうが、都会に暮らしていると、新しい書店がオープンする機会にしばしば出くわす。

 阪急梅田駅のホーム下の大半を占める広大なフロアをもつ紀伊國屋は、福井から出てきたばかりのぼくにとっては、カルチャーショックともいうべきものだった。世の中にはこんなに本があるのか、という率直な驚きと、これだけの本のなかから誰かに選びとって読んでもらうのは大変だなどと、当時作家を目指していたぼくは思ったものである。しかしこの店も、大阪の本屋では老舗の部類ではなかろうか。

 その後は近くにブックファーストや、大阪駅に隣接するブックスタジオなどが続々とできた。さっきも書いたが、同じものを同じ価格で売っているのに、なぜこれだけの店舗が必要なのか? という疑問を覚えたことも一再ではない。もちろん、なかには淘汰されたものもある。梅田に新しい地下街、いわゆるディアモール大阪が完成したときには、たしか三省堂書店が広い売り場を構えていたが、いつの間にか閉店していた。ジュンク堂の梅田ヒルトンプラザ店は、5階と6階の二層を使って展開していたが、今は5階だけに縮少されてしまった。

 また、紀伊國屋梅田本店と並ぶ老舗である旭屋書店は、いつかも書いたようにビルごと解体され、今年には営業を再開すると報じられていた。先日梅田に立ち寄った際、その場所に行ってみたのだが、たしかに新しいビルができあがってはいるものの、どこから見ても完全なオフィスビルのようである。ここに、あの昔のような旭屋書店が入居するとは、ちょっと考えにくい。ただ、別に旭屋が復活しなくても、他の店にいけば欲しい本が手に入ってしまうのも事実である。

 かつて京都では、梶井基次郎の小説の舞台になったという絶対的な“付加価値”のついた丸善でさえも閉店し、カラオケ屋に姿を変えてしまった。それが時代の流れだ、といわれれば仕方はないが、長年の本の匂いが染みついた書店が姿を消してしまうのは、何ともさびしいことだ。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

鳳凰と兎と ― 宇治の寺社を歩く ― (5)

2015年02月21日 | その他の随想

〔宇治川の中州に建つ十三重の塔〕

 平等院には何度も来たことがあるが、今回ははじめて、宇治橋とは反対側に位置する南門から出た。土産物屋やお茶屋さんなどが軒を並べるいつもの参道に比べると、特に何もなく、殺風景といってもいい景観だ。

 しかし“裏門”というものには、独特の肩肘張らないよさがある。何となく他人の家へ勝手口から出入りするような、気安さがあるのである。もっとも、今のところそこまで親しんでいる寺社はないが、もしも平等院の近くに住んでいたら、散歩ついでにぶらりと裏門から足を踏み入れて、阿弥陀様を拝して帰路につくというのもいいかもしれない。むしろ、観光客然として表門から入るよりは、より素直な信仰の姿を示しているような気さえする。

 ところが、今回ははじめてなものだから、門を出てみても、道がよくわからない。ふと見ると、家々の屋根の向こうに、何やら立派な石塔が建っている。宇治橋の上から遠望したことはあったのだが、近くまで行ってみたことはなかった。これ幸いと、そちらへ足を向けてみると、およそ想像を上回る、見上げんばかりの巨大な塔なので驚いてしまう。

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 あとから調べてみると、この「浮島十三重石塔」は、重要文化財だそうだ。高さは15メートルもあるらしい。いつも見慣れた平安神宮の大鳥居が24メートルだというから、おおよその見当はつく。よく寺院の庭などに点在している石塔に比べれば、まるで冗談ではないかと思えるほどに、大きい。

 その歴史は古く、何と鎌倉時代の建立だという。もともとは宇治川の氾濫を鎮めるためのものだったそうで、その事業の壮大さから推察するに、当時の人々はかなり水害に悩まされたものであろう。現代では、たとえば自然の脅威を改善するために塔を建てよとか、仏像を造れなどというのはナンセンスなことだが、凛として空を突き刺す石塔の存在は、実用性を超えた精神の象徴として、この地に聳えつづけたのだ。

 しかしこの塔も洪水で壊され、長らく水没していた。それが地上に引き上げられ、今見るような姿に再生されたのは、明治になってからのことだというから驚きだ。

 冒頭にも書いたように、宇治川の沿岸では今でも、大掛かりな護岸工事がおこなわれている。自然と人間との共存の試みは、700年余りの時代を超えてすらも、いまだに模索されつづけているのである。

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紙幣の怪

2015年02月16日 | その他の随想


 駅で切符を買おうとしてよく見ると、「旧紙幣は使えません」と書かれていることがある。そりゃあそうだろう、と思うなかれ。街なかの古い自販機などには、色あせた文字で「新紙幣使えます」と書かれていることも、まれにあるのだ。じゃあその自販機は、新札と旧札、両方使えるということなのだろうか?

 もちろん、実際に試してみたことはない。というのも、こちらの手もとには新しい絵柄の紙幣しかないからだ。そもそも、飲料水の自販機で使えるのはだいたい千円札どまりと、相場が決まっている。つまり、野口英世が使えるのは当然だが、夏目漱石は使えるか否か、という話になる。

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 そこで思い出すのだが、ぼくが社会に出て勤めはじめてから間もないころ、会社の近くのコンビニで昼食の弁当だかパンだかを買ってから出勤するのが習慣になった。そういう人は多いと見えて、始業時間前のコンビニというのは、かなり混雑する。遅刻してはならないので、弁当を物色する時間も惜しんで、レジに並ぶことになる。

 だがあるとき、ぼくが並んだレジの列の縮まりかたが、はかばかしくない。その店は開店したばかりで、まだ慣れないオーナーらしきおじさんがレジに立っていたりして、普段から客あしらいがスムーズではなかったのだが、今日はいつも以上に停滞している。これは何かあったのか、と思いながら前の方を覗き見ると、あるおばさんがこういっているのが聞こえた。ただし、満面の笑顔で、だが。

 「さあ、これでいいでしょ。これ使えるでしょ」

 「はい。ありがとうございます」とオーナーは答える。

 おばさんのお客さんの手から、紙幣が一枚、ひらりとなびきながら、レジの台の上に置かれたと思うが早いか、彼女はいかにも急いでいるのだといわんばかりに、店を出て行ってしまった。残されたオーナーの前には、伊藤博文の顔がついた千円札がぽつんと取り残されている。まるで不潔なものでもあるかのように、誰も手を触れようとしない。いや、札束を収納するレジの内部には、当時は夏目漱石用のスペースはあっただろうが、伊藤氏の居場所はどこにもなかったはずだから当然ではある。

 おそらくオーナーの頭のなかには、この旧札を換金するときの手間であるとか、ひょっとしたら偽札なのではないかとか、さまざまな想念が瞬時のうちに去来したことであろう。だが、そんな悠長なことを考えていられるほど、朝のコンビニは暇ではない。その後どうなったのかは知らないが、ぼくが伊藤博文の紙幣を目撃したのは、そのときが最後である。

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 もうひとつ、どうでもいいことかもしれないが、気になるのが二千円札の行方だ。旧紙幣に比べればまだまだ現役のはずだが、ぼくの財布に入っていたことは、ほとんどない。見かけたのも、二度か三度ぐらいだったと思う。

 かつては、二千円札は自販機で使えないから不便だ、という声もあった。しかし、そういう世論に尻を押されたからかどうか、24時間営業の飲食店の券売機は、二千円札に対応しているものが多い気がする。少なくとも、紙幣をいったん挿入したはいいものの、あの気抜けのする音とともに戻ってくるというような、恥ずかしい思いはしなくてもいいようになっているのだ。しかし、実際に二千円札を券売機に挿入している人を見かけたことは、今のところ一度もない。

 コンビニに話を戻すが、実にさまざまな業務を請け負っているはずの店員は、ものを買おうが、公共料金を払おうが、チケットの発券手つづきを依頼しようが、郵便物を頼もうが(自分でやったわけではなく見ただけだが)、非常によく訓練されているものだと感心する。何をするにも、戸惑ったり、わからないから店長に聞きます、などと逃げたりすることなく、たんたんとこなしている(こういう店員のいるコンビニが不必要なまでに巷に氾濫している事実が、ぼくには驚異だ)。

 では、先ほどの不慣れなオーナーではないが、支払いのときに二千円札を差し出してみたらどうなるか。まったくためらうことなしに、正確なお釣りを返してくれるものかどうか。ちょっと試みてみたいような気がしないでもないが、こちらもまた手もとにないのだから、所詮は無理な話なのである。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

榮久庵憲司が残したもの

2015年02月12日 | その他の随想


 不意に、榮久庵(えくあん)憲司の訃報が流れた。とはいっても、すでに85歳だったということだから、相当の年齢ではある。

 いろいろ調べてみると、彼が工業デザインに残した歴史は古い。例の赤い蓋のついた、注ぎ口がふたつあるキッコーマンの醤油瓶は、剣持勇がデザインしたヤクルトの容器と並んで、日本ではもっともありふれた、それでいて工夫と創意に満ちた革命的な“入れもの”の代表選手であろう。

 ただし、我が家にはなぜかキッコーマンの醤油瓶はなかった。今も、ない。もっぱら、飲食店などのテーブルで見かけることが多かったような気がするが、それも最近は減ってきたように思う。けれども、頭のなかのどこかには、あの特徴的な形状の記憶が格納されていて、すぐに思い浮かべることができる。これこそ工業デザインの魔術であるが、それに比して、作者の名前は広く知られているとはいいがたい。

 ほかにも、ぼくのような関西人には、東京の地下鉄に乗るとよく眼にする東京都のマークも榮久庵のものである。それ以外に鉄道のデザインも多く手がけているらしいが、よく知らない。差し出し口がふたつついたポストも彼がデザインした、というような話を聞いたような気もするが、今調べても出てこない。いずれにせよ、作者名とは切り離されてひとり歩きするのが、デザインの宿命なのであろう。

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 ぼくが榮久庵憲司の名を心に刻んだのは、もうずいぶん前に放送されたNHKの「美と出会う」という番組だったと思う。そのとき、この奇妙な名前をもったデザイナーのことはまったく知らなかった。

 ただ、どことなく人なつこそうな、愛嬌のある人柄が、ぼくの心を深く射抜いたのだ。デザイナーというと、いつも締め切りに追いまくられて、鬼気迫る形相をしているようなイメージがあったのだが、かの田中一光と同様に、生きることにおける“余裕”とか“遊び”といったものを大事にしている人のように見受けられた。

 それだけではない。彼の名字が示すように、榮久庵には、僧侶としての一面もあったのだ。晩年に開かれた個展でも、仏教にまつわるインスタレーションがあったという話だが、あの先鋭的なデザインの発想と、深遠な仏教感とがどこかでつながっていたのかと思うと、興味深い。

 古い話なのでうろ覚えだが、「美と出会う」のなかでは、彼がイメージを書きとめるノートのようなものも紹介されていた。いや、ノートというより、およそ巻物によく似たもので、筆でもって自在に、奔放に描かれていたと記憶する。工業デザインといっても、発想の原点は、徹底してアナログなのだった。

 液垂れしない醤油瓶など、綿密な計算に裏付けられているのかもしれないが、そこには自在なアイデアの発露と、手仕事のあたたかさが感じられるような気もする。パソコンとにらめっこばかりしている現代人が、何だか途轍もない穴ぼこに落ち込み、厳しい閉塞状況に追い込まれているとしたら、それを打破する手段は、榮久庵憲司のような人間らしい仕事ぶりにあるのかもしれない。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

鳳凰と兎と ― 宇治の寺社を歩く ― (4)

2015年02月08日 | その他の随想

〔雲中供養菩薩 南5号(国宝)〕

 鳳翔館のなかでもっとも好きなのは、雲中供養菩薩が展示されているフロアだ。雲に乗って楽器を奏でたり、さまざまなポーズをとる菩薩たち。50体余りのうち、半数がこちらに移されているということである。残りは、今回は間近で拝見する機会を逸したわけだが、本尊の阿弥陀如来の周りを飛翔している。平等院の修理期間中、これらは東京の美術館に出張して公開されたということだ。

 小さな菩薩たちを展示するために設計されたこの「雲中の間」は、従来の博物館などでみられる仏像の展示室とは大きく異なっている。地面を踏みしめて、ずっしりと量感のある仏たちとは異なり、文字どおり雲の上で、軽やかに戯れている感じだ。ああ、極楽とは楽しいところなんだろうな、と予感させるものがある。

 だが、それだけではないらしい。平等院のご住職の著書に書かれていたのだが、人が臨終の際に最後まで認識できるのは聴覚だから、彼らは楽器を弾いているのだ、という。なるほど、ぼくも身近な人が亡くなったとき、耳はまだ聞こえているから何か声をかけてあげて、といわれたような記憶があるし、死後間もなくおこなわれる枕経というのも、そのためなのであろう。

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 それにしても、彼らが奏でている楽の音とは、どんなものなのだろうか。作曲家のシューマンは、シューベルトの長大なハ長調交響曲(日本ではなぜか「グレート」などと英語で呼ばれたりする)のことを「天国的な長さ」と評した、と伝えられる。天国的というのは、いったいどういう長さなのか、いまひとつはっきりしないのだが、おそらくは「終わってほしくないほど心地いい」ということなのかもしれない。

 ぼくはこのへんに、人間が浄土に対して抱く憧れの“からくり”のようなものを感じる。雲に乗った菩薩たちが、文字どおり“天国的”な調べを奏でているのだとしたら、あの世で過ごす時間というのはそれこそ“終わってほしくない”ことだろう。人間の命には終わりがあるが、死後の世界には、終わりがない。楽しい音楽を鳴らしながら、永遠に暮らせるとしたら、こんな幸せなことはあるまい。

 視覚の面からも、同様である。今回の鳳凰堂の修復では、鮮やかな色合いがやや取り戻されたが、本来はそれを遥かに上回る、極彩色の装飾が施されていたらしい。当初のイメージを復元した映像がCGで作成されているが、古色蒼然たる寺院を見慣れた眼からすると、おそよ悪趣味としか思われない。

 ところが、今の日本人は、寂れた京都をこそありがたがっている。ケバケバしいネオンなどは、景観を著しく損なうとして、条例で禁止されているようだ。そのことに反対はしない。けれども、昔の人が抱いていた極楽のイメージは案外ケバケバしく、華美な安っぽさに満ちたものであったことも、これまたたしかなことなのである。

 浄土への憧れというのは、今の我々が想像するような尊いものではなく、隣町にできた豪華なショッピングセンターに行ってみたいというような、気楽な願いだったのではないか、という感じがしないでもないのだ。こんなことをいうと、大勢の雲中供養菩薩たちに叱られるかもしれないが・・・。

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