てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

日本と花と、その他のものに(6)

2010年05月23日 | 美術随想

上村松篁『桃春』(佐藤美術館蔵)

 近現代の日本画家のなかで、もっともスタンダードな花鳥画を描くのは、上村松篁と淳之(あつし)親子である。松篁も、満98歳とかなりの長寿だった。

 淳之のほうは喜寿を迎え、自身が館長を務める奈良の松伯美術館で記念展が開かれていた。しかし、名だたる日本画の巨星たちの作品に囲まれてみると、まだまだ若手だという感じがしなくもない。

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 江戸時代まで盛んに描かれていた花鳥画は、この極東の島国が近代化への道をがむしゃらに突き進むうちに、急速に過去のものとなっていったように思う。いってみれば日本画の世界にも“文明開化”が訪れ、画家たちも否応なく近代的な生活に巻き込まれていくにつれ、日本古来の感性を表現する花鳥風月は保守的で時代遅れなものとみなされるようになったのではなかろうか。それらの画題は床の間の掛軸や屏風、襖絵、扇面の絵柄などの装飾品としてようやく生きながらえたかもしれないのだが、やがて床の間のない家は当たり前になり、襖のない家も珍しくなくなった。

 むしろ、しゃれた応接間には油絵の一枚でも飾っておくのがステータスだとされた時代もあったはずである。ぼくにも覚えがあるのだが、子供のころに裕福な従姉妹の家を訪ねると、子供部屋にはピアノがあり、リビングには百科事典の重厚な背表紙が並び、ダイニングにはモディリアーニの絵がかかっていた。思わず「ほんもの?」ときくと、その家の人は何のこだわりもなく「うそもの」と答えたが、それもそのはず、その絵はぼくが少し前に「サンパウロ美術館展」で観たのと同じ絵だった。多分そこの売店で買ってきた複製だったのだろう。

 こういう現象は、まだまだ過去の話ではない。絵画が純粋な鑑賞のためではなく、ある種の権威づけとか高級感のためとか、美の本質とはおよそかけ離れたことがらのために流通したり使用されたりしているのは、われわれの周辺で数え切れないぐらい起こっている事実なのだから。


参考画像:モディリアーニ『ルネ』(サンパウロ美術館蔵)
1978年、7歳だったぼくがはじめて観たモディリアーニの絵画である

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 ところで、花鳥画をひとすじに描きつづけて明治から平成までの激動の時代を生き延びた上村松篁という存在は、単なるひとりの日本画家であることを超えて、この国が次第に鉄やコンクリートの建物が林立する姿へと変貌していくことへの素朴な、それでいて強靭なアンチテーゼだったのではないかという気がしてならない。

 日本画が近代のものとして再生するためには、掛軸や屏風であることをやめてタブローとして自立し得ることが必要だったはずだ。それは生活の一部であることを捨てて、いわば美術としてひとり立ちすることであった。母親の上村松園に対して、松篁には軸装された作品が圧倒的に少ないのは、そのことを端的に物語っている。

 さらには松に鶴、梅にうぐいすといった、昔から飽きずに繰り返されているワンパターンな組み合わせをかなぐり捨て、花や鳥をみずからの無心な眼で見つめ直すことからはじめようとした。その点、伊藤若冲についてのよく知られたエピソードを思い出させもする。お手本に忠実に描く粉本主義に飽き足らず、自邸の庭に生きた鶏を放って写生したという、あの話である(それが本当の話かどうかは、また別の問題だが)。

 松篁の絵には、これまでほとんど描かれたことのない珍妙な鳥が登場するようになった。たとえば『桃春』に描かれている、黄色く小ぶりなくちばしと黒い尾を持ったこの鳥は、いったい何という種類なのだろう。まあ、家の周りで普通に見かける鳥でないことはたしかである。逆にいえば、桃の花咲く枝にはどんな鳥がとまったっていいはずなのだ。

 ちなみに、松に鶴がとまることは現実にはあり得ないという。あれはコウノトリの見間違いだそうである。


大阪城の桃園にて、雨に濡れる一輪(2010年3月7日撮影)

つづく
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日本と花と、その他のものに(5)

2010年05月05日 | 美術随想

福王寺法林『ヒマラヤの花』

 稗田一穂と同じく、今年90歳を迎える日本画家に福王寺法林がいる。文化勲章を受けた画家のなかでは、存命している唯一の人でもある。

 福王寺はヒマラヤにとりつかれていた。「秋の訪れと「院展」(2)」にも書いたが、ぼくはこれまでヒマラヤの絵しか観た記憶がないといってもいいぐらいだ。近年は特に『ヒマラヤの朝』と題した絵をたてつづけに描いていた。それは“世界の屋根”を訪れる劇的な、そして神秘的な朝の瞬間をとらえたものだ。けれども高齢ゆえか、絵のサイズは徐々に小さくなり、ここ最近の展覧会にはもう作品を出さなくなってしまったようである。

 今回展示されていた『ヒマラヤの花』は70歳近くの作品ということになるが、覇気のみなぎる大きなサイズのものだった。金色の空を背景にして、山頂の雪が突風を受けていっせいに吹き飛ばされているのは福王寺絵画にお馴染みの風景だが、ここでは峰々を覆い尽くさんばかりに深紅の花が咲き乱れている。いったい何という花なのか、植物に疎いぼくは残念ながらよく知らないのだが、まるで熱帯の火炎木のように赤く燃えさかっている。ヒマラヤといえば、花の万博には「ヒマラヤの青いケシ」と呼ばれるメコノプシス・グランディスが展示されて話題となったものだが(「咲くやこの花館」では今でも見ることができるそうだ)、それとは対照的な情熱の花である。

 日本画のモチーフというと、よく花鳥風月などといわれる。だがそれらは花と鳥と風と月とが程よいバランスを保っていることが重要で、地上の生きとし生けるものと、はるか遠くの宇宙の現象とを同列のものとみなすところが日本独特の自然観なのだろう。しかしこの絵では、小さいはずの花が巨大な山脈を圧倒してしまっている。いわば自然の序列を大胆にひっくり返してしまっているわけである。

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片岡球子『富士に献花』

 おもしろいのは、同じ展覧会に片岡球子の『富士に献花』という絵があったことだ。こちらも、山と花の組み合わせという点では似たような趣向の作品である。福王寺のヒマラヤシリーズと同じように、片岡にもおびただしい富士山の連作があり、『富士に献花』と題された絵も少なからず存在する。これは文字どおり富士という偉大なる存在に花を捧げ、画家としてあるいは女性としての畏敬の念を率直に表明したものだろう。

 つまり、描かれる花が必ずしも富士に自生している植物というわけではない。ときには富士の麓に大輪のひまわりを描きこんだりもしているのだが、まるで異様な取り合わせである。いやむしろ、そこに描かれている花は片岡球子自身の姿であって、頭上はるかに高く屹立する荘厳な山に対しての自分のちっぽけさをあらわすと同時に、美という手段でそこによじのぼろうとする作者の熱烈な思いを伝えているのにちがいない。103年にもわたる片岡球子の一生は、絵筆一本で富士に登攀する生涯だったのだ。

 だとすれば、『ヒマラヤの花』に福王寺法林が描き込んだ赤い花も、氷河をとかさんばかりに熱くたぎる画家の心情を反映しているのかもしれない。

(いずれも佐藤美術館蔵)

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日本と花と、その他のものに(4)

2010年05月04日 | 美術随想

稗田一穂『残照』

 ぼくが同時代の日本画の魅力に目覚め、「日展」に毎年出かけるきっかけともなった東山魁夷も奥田元宋も、すでに世を去って久しい。この稗田一穂(ひえだ・かずほ)はその当時から名前を知っていたような気がするが、うれしいことにまだ現役である。「日展」の画家ではなく創画会の人だが、「創画展」にも足を運ぶようになったのは最近のことなので、ほかの展覧会で出会って印象に残っていたのだろう。最初はその名前から女性ではないかと思っていたが、写真を拝見すると哲学者のような厳粛な風貌の男性であった。今をときめく千住博の師でもあるという。

 稗田は今年90歳を迎えるそうで、やはり日本画家には長寿が多い。この展覧会の翌日に京都市美術館で観た「第35回 京都春季創画展」には彼の作品が陳列されておらず残念だったが、お元気で創作をつづけておられるだろうか。今もっとも回顧展が観たい画家のひとりでもある。

 まことに勝手な印象だが、稗田は美術団体の一員といったところで、ぼくには孤高の画家といったイメージのほうが強い。いやもっと正しくいえば、わが道を極めた芸術家の作品はおのずと孤高性を帯びてくるものだろう。しかし稗田一穂は、現在の画風に行き着くまでにモチーフを転々とされた方のようだ。ぼくが稗田の画業をたどり直す展覧会を観てみたいと思うのは、そのへんをもっとよく知りたいからである。彼がどんなプロセスを経て今の高みに至ったかを、つぶさに追ってみたいからである。

 『残照』には、これまでの日本画家がさんざん繰り返してきたモチーフが総登場しているといっていい。真ん丸な日輪に、突兀とした岩山、輝く海。そして、満開の桜の木。どれもが、画題の主役になり得るほどの存在感をもっている。

 これらのものが一枚の絵のなかに見事に共存できているのは、長年にわたって日本の自然を見つづけてきた画家が、みずからの心のなかにひとつの理想郷を作り上げているからではなかろうか。この絵が単なる写生によるものだとは、ぼくには思えない。繰り返しいうようだが、そこには偶然の産物ではない、よく考え抜かれた秩序がある。太陽と桜がともに引き立てあっているような程よい緊張感と、それらを大らかに受け止める金色の水面(みなも)。花の万博のための作品を依頼されて、このような壮大な世界観を絵にした稗田一穂は、やはり哲学者のごとく深い思索を積み重ねてきた人物なのだろうと思えた。

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高山辰雄『椿』

 思索を重ねた日本画家というと、ぼくには高山辰雄の名も思い出される。この人も3年前に95歳で世を去ったが、琳派などに代表される派手で装飾的な日本画の系譜には背を向け、地味だが底深い味わいをもつ絵を描いてきた。

 高山も画風を変転させた人だったが、ぼくが「日展」で彼の絵を毎年観るようになってからは、生きることの非情さを顔に貼り付かせたような、ある種の無表情な人物画が多かったように思う。亡くなる年のはじめに観た「日展」で、眼鼻のない『自冩像二○○六年』に出会ったときの衝撃は「『日展』の“点と線”(3)」という記事に書いたが、実はそのとき、この画家の命はすでに終息に向かっているのではないかという不謹慎な思いが頭をよぎったことも事実であった。今だからいえるのだが、あの絵は高山なりの遺書だったのではないか、という気がしてならないのだ。

 彼が花の万博のために選んだのは、華やかな桜ではなく、椿の花であった。それは花瓶というよりも、中国古代の青銅器を連想させる縦長の壺に入れられ、背景にはあるかなきかの薄い描線で山並みが描かれている。

 枝に咲いている花ではなく、このように器に挿した花を描くのは、日本よりも西洋で圧倒的に広まった形式である。今回の展覧会でもわずかしかなかったように記憶するが、高山があえてこういったモチーフで描いたのは、やはり彼の孤高性と関係があるように思われる。『自冩像二○○六年』で、ほとんど何もない風景のなかに凛と立つ画家自身の姿が、命果てるまで咲ききろうとしている椿の花と重なった。

(いずれも佐藤美術館蔵)

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日本と花と、その他のものに(3)

2010年05月03日 | 美術随想

参考画像:堂本印象『木華開耶媛』(京都府立堂本印象美術館蔵)

 ところで、桜はなぜ“サクラ”と名づけられたのだろうか。30年あまりにわたって日本に住むC.W.ニコルは、日本人以上にこの国の環境について深い考察を重ねている人物だが、こんなふうに書いている。

 《「サ」とは稲の神を意味し「クラ」が“神の席”を意味するという話を読んだことがある。また「サクラ」という言葉が、「咲くや」に密接に関連していることも知っている。

 伝説によると、サクラは日本の神話に登場する木花開耶姫(このはなさくやひめ)にちなんだ名前だという。》(NHKテレビテキスト 歴史は眠らない『サクラと日本人』/日本放送出版協会)

 コノハナサクヤヒメという名前は、大阪に住むわれわれには馴染み深い。というのも、まさしく花の万博のときにオープンした植物パビリオンが「咲くやこの花館」であり、そこで世界最大の花といわれるラフレシアを見た覚えがぼくにもあるのである(同館は万博閉幕後も存続)。また大阪市には此花(このはな)区もあり、あのユニバーサル・スタジオ・ジャパンがあることで大勢の観光客を集めていたりもする。

 ただ、これらは神話と直接の関連がある地名ではなくて、古今和歌集に出てくる《難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花》に由来しているそうだ。難波津(なにわづ)とは昔の大阪にあった港のことだが、「なにわ」という言葉は現在でも大阪の別名のような扱いを受けていて、浪速とか浪花などいろんな表記がある。

 難波を音読みにした「なんば」という地名も存在するし、浪速を訓読みにした「なみはや」という呼び方もある。さまざまな名前が入り乱れていてややこしいが、そういう細かいことにこだわらないのが大阪人の心意気なのかもしれない(京都ではそのあたりが異常に厳格である。ぼくが去年まで住んでいた西京区は、行政上は京都市の一部だが、市民の多くは京都だと認めていなかったにちがいない)。

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奥田元宋『吉野細雨』(佐藤美術館蔵)

 C.W.ニコルの一説とはちがって、今年99歳を迎える日野原重明医師は、次のように書いている。

 《サクラという言葉は、「咲く」に「ら」つまり等という複数の意味の言葉がついた言葉だそうです。花がパッとたくさん同時に咲いているところから来ているということで、元来は花が密生する植物全体を指していたようですが、後に桜だけに使われるようになったとか。》(「月刊美術」2010年4月号/実業之日本社)

 なるほど桜の名所というのは、坂口安吾ではないけれど“桜の森”と呼びたくなるぐらいにたくさんの花に埋もれてしまうところが多い。生け花のように抑制された引き算の美ではなく、あふれんばかりに咲きこぼれる飽和状態の桜が人々を酔わせ、現実離れした振る舞いへと駆り立てるのだろう(もちろん、あの無粋な宴会のことをいっているのである。この風習についてはC.W.ニコルも非常に嘆いているようだ)。冷静な気持ちになって桜の花を愛でるのは、実は意外と困難なことであるのかもしれない。

 その点、日本画家たちは桜をよく観察している。というよりも、真摯に向き合っている。かつて「さくら三昧 ― “極美”を訪ねて ―」という記事を書いたとき、3枚の桜の絵を取り上げたが、奥村土牛などは1本の桜を描くのに10年の歳月をかけている。すぐに舞い散ってしまう桜の美を画布に定着させるには、それだけの執念と地道な努力が必要なのである。

 その記事のなかで奥田元宋の『寂静』という絵のことにふれたが、このたびの展覧会でも元宋の桜に出会った。『吉野細雨』は、奈良の吉野山を描いた風景である。ここも混雑がひどいという話を聞くので、ぼくは花見に出かけたことはないが、3年前の2月、今の妻とともに一泊旅行したことがあった。そのときはもちろん桜は咲いていなくて、旅館は開店休業の状態だったことを覚えている。吉野杉の産地でもあることを忘れていて、妻はひどい花粉症に悩まされ、売店のおばさんからマスクを譲ってもらったこともいい思い出だ。

 絵の上部、桜の色を反映したかのような幻惑的な雲が一面に垂れこめ、そこに三角形の屋根が突き出ているのがひときわ眼につくが、これは金峯山寺(きんぷせんじ)の蔵王堂である。咲き乱れる山桜の上に、まるで重しをするように大屋根がのっかっている景色を眺めていると、ここにもまた自然と人間との間に美しい秩序がなりたっていることに気づかざるを得ない。花の美しさだけに眼をくらまされていては、説得力のある桜の絵は描きようがないのだろう。奥田元宋がとらえる風景の厳しさに、背筋を正されるような気がした。

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日本と花と、その他のものに(2)

2010年05月02日 | 美術随想

阪急京都線・洛西口駅近くに咲いた菜の花(2008年4月4日撮影)

 今年は大阪万博から40年という記念の年であり、それを上回る規模をもつ上海万博もはじまったばかり、何かと万博がらみの話題を耳にすることが多い。しかしもうひとつ、ぼくにとって忘れがたいのは、花の万博が開かれてから20年経ったということである。

 なぜ忘れがたいかというと、その博覧会が開幕した1990年の4月にぼくは福井の実家を離れ、大阪の豊中にあるオンボロ木造アパートに移り住んだからだ。同時に南森町駅のそばにあった小さな企業に就職し、ほそぼそと自活をはじめた(この時期のことはかつて「小さな居場所(2)」という随想にも書いた)。それからしばらくして、まだ最低限の生活に要するぎりぎりのお金しかないときに、会社の終業後に花の万博の会場へ駆け込んだことがあったのである。たしか夜間割引とかで、夜は半額の料金で入場できたと思う。

 何月に行ったのかは忘れたが、ゲートをくぐったときにはすでに薄暗く、国際色豊かに造営された庭園を見る余裕はなかったので、なるべく人の少なそうなパビリオンを選んで並んだ。頭の上から足の下までの全球ドームに映像を映し出す「三菱未来館」、『最後の審判』などの世界的名画を原寸大の陶板に再現した「ダイコク電機 名画の庭」(信楽で制作されたこの絵画は現在「京都府立陶板名画の庭」に移設されている)、ルソーの絵画世界をモチーフにした「ふしぎな森の館 松下館」などは今でも印象に残っている。

 そういえば、この5年前にはつくばで科学万博が開かれていた(ぼくは出かけなかったけれど)。大阪万博が未来を見据えた先端技術への志向を大々的に打ち出したあと、神戸のポートピア'81を経て科学万博まで、その路線は順当に継承されたかに思われる。しかし花の万博あたりから市民や企業の眼が徐々に環境破壊や自然保護へと向きはじめ、ついには2005年、「自然の叡智」をテーマに据えた愛知万博(愛・地球博)が開催されるまでに至った。たかだか40年しかない日本の万博の歴史にも、20世紀から21世紀にかけて人々を押し流したこの国の(あるいは世界の)迷走ぶりが露骨にあらわれているというべきである。開幕したばかりの上海万博は、はたして人類史上にどんな足跡を刻印してくれるのだろうか。

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東山魁夷『麗春』(佐藤美術館蔵)

 ところで、花の万博には「花と緑・日本画美術館」もあったらしいが、ぼくはまったく知らなかった(というのも、当時はまだ日本画に何の興味も抱いていなかったからだ)。

 そのパビリオンでは、当時を代表する51人の日本画家が花の万博のために描きおろした絵が1点ずつ展示されていたという。博覧会の閉幕後は東京の佐藤美術館に所蔵されていたが、20年ぶりにそれらが大阪で一堂に会することになった(ただなぜか奥村土牛の絵は含まれておらず、全部で50点だった)。ぼくはしばらく迷ったすえに、その展覧会に足を運ぶことにした。

 なぜ迷ったかというと、そういうイベントのために描かれた作品に観るべきものがどれだけあるものか、あまり期待がもてないと思ったからだ。だいたい、万国博覧会には建築家や前衛芸術家の出番はふんだんに用意されているが(たとえば大阪万博には岡本太郎、丹下健三、黒川紀章、イサム・ノグチ、高松次郎、横尾忠則、ジョアン・ミロなどそうそうたるメンバーが協力した)、旧来の様式を守りつづける日本画家という人種にはあまりそういった機会はもたらされないだろう。そもそも、人類が到達し得た科学技術の精華を披露するべき博覧会に、日本画を展示することはまるで逆効果ですらある。パリ万博に日本の浮世絵や伝統工芸品が展示されて注目を集めた時代からは、すでに1世紀以上も経過しているのだから。

 けれども、予想に反してとても素晴らしい展覧会だった。「花と緑と人間とのかかわり」をテーマとする花の万博では、むしろ日本画にこそ大きな発言権が与えられたかのようだった。そしてそれだけではなく、今を去ること20年前には偉大な日本画の大家たちがまだまだ大勢活躍していたのだな、という実感を新たにした。それは、いいかえれば現代の日本画にただよう不毛感を裏打ちすることでもあるのだが・・・。

 東山魁夷の『麗春』。人物を描かず、象徴的な自然を繰り返し描いたこの巨匠の絵には、花や緑と人とのかかわりが直接描かれているわけではない。だが、そこには人類と自然との間の絶妙な距離感が描かれている。古来、わが国の画家たちは中国から輸入された山水画を理想的な風景のあるべき姿として描いた。しかし近代以降、われわれは自分の身のまわりにある自然に眼を向けざるを得なくなる。過剰な開発や公害によって荒れ果てた自然も、現実のものとして受け入れないわけにはいかなくなったのである。人間と自然とのかかわりがこれでよかったのか、人々がいっせいに問い直そうとしている時代に、この特異な画家は国民的な支持を受けるようになっていったのだ。

 松の梢の間からのぞまれる幾本かの桜。真っ直ぐに、そして細長く伸びた松の幹は、絵のなかに一定の秩序を与えている。しかし、その秩序が自然の摂理を破壊することはない。相異なる種が見事に共存し、ひとつの調和を作り上げている世界。東山魁夷の絵は、高度成長期が過ぎて疲弊し切った日本人の神経に、底知れぬ癒やしだけではなく、大いなる指針を与えてもれくれたのだろう。

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