てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

タワー狂想曲(3)

2010年04月26日 | その他の随想

大阪市役所に出現したヤノベケンジの『ジャイアント・トらやん』(2009年9月13日撮影)

 ヤノベケンジという現代美術家がいる。彼は美術館の内部にとどまらず、各地で旺盛なパフォーマンスを展開しているので、知らないうちにその活動を目撃している人は多いかもしれない。

 たとえば昨年の夏から秋にかけて大阪で開催された「水都大阪2009」という一大イベントでは、市役所のロビーに『ジャイアント・トらやん』なる燻し銀に輝く巨大な人形を登場させた。身長7メートルあまり、首を振りながら口を開けて何か呟くこの不思議な物体は、ゴミ捨て場に放置されたセルロイドのおもちゃが化けたような愛嬌と、何ともいえぬ奇怪さとをあわせもった存在である。なお、“トらやん”なるネーミングは大阪出身である作者が関西人におもねるためにつけたのかと思っていたが、東京でも展示されたことがあるらしい。屋外では口から火を吹くこともできるという、可愛さとは裏腹の特技(?)をもってもいるそうだ。

 ヤノベはぼくより5歳ほど年上であり、万博“以前”生まれと“以後”生まれという点では決定的な世代差があるといっていいだろう。ただ、彼が実際に万博に出かけたのはまだ5歳のときなので、鮮明な記憶は残っていないらしい。しかし万博終了後、家にあった万博の写真集を食い入るように眺めては想像力を働かせていたというあたりは、ガイドブックに夢中になっていたぼくの幼いころとよく似ている(先日NHKローカルで放映された「かんさい想い出シアター」という番組で、当時の万博を取材したディレクターがその本を紹介していた。ぼくは懐かしさのあまり声をあげそうになった)。

 ヤノベは小学1年のとき、万博会場にほど近い場所に引っ越し、まだ大屋根などが残っている跡地によく遊びにいったという。この少年時の体験が、のちの彼の創作活動に決定的な影響を与えたことは明らかだ。もうひとつ、ヤノベの作品に繰り返しあらわれるのが「鉄腕アトム」のイメージである。『ジャイアント・トらやん』も、実は後頭部に2本のとんがりをつけている。

 大阪万博とアトム。昭和30年代から40年代にかけて日本を駆けめぐったふたつの“未来”のイメージが、そしてそのとおりの未来像を実現し得なかった21世紀に対する問いかけが、“未来の廃墟”を探索しつづけるヤノベ芸術の根底にある。原発事故で荒廃したチェルノブイリを訪れる彼のプロジェクトも、単なる環境問題にとどまらず、最先端の科学文明と素朴な人間生活とが平穏に共存することの困難さをわれわれに鋭く突きつけてくるのだ。

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 ところで、農地や竹林であった千里丘陵に1970年の万博とともに出現したもうひとつの塔「エキスポタワー」は、すでにない。

 ぼくが小学4年生ぐらいのころ、今はなきEXPO'70の華やぎに憧れて福井の田舎から万博記念公園へ旅行したことがある(ついでに京都の金閣寺や清水寺にも行ったけれど、ぼくのなかではあくまで太陽の塔を見ることがメインだった)。そのときエキスポタワーのエレベーターはまだ稼働しており、太陽の塔にはない展望塔としての役割を果たしていて、ぼくも昇った覚えがある。しかし老朽化のため、やがてタワーの内部には入場できなくなり、2003年にはすっかり解体された。当時、曲がりなりにも社会に出て阪急京都線で通勤していたぼくは、だんだん短くなるエキスポタワーの姿を電車の窓から毎日眺めていたものだ。ついに何も見えなくなってしまったとき、その落胆は大きかった。

 のべ6000万を超えるという大阪万博の入場者のなかには、エキスポタワーの斬新な造形に驚かされた人も少なくなかっただろう。これこそが当時の最前衛の建築である「メタボリズム」運動のひとつの成果だった。しかし、取り壊されるにあたって目立った反対意見などはなかったようだ。万博後に太陽の塔の撤去の話が持ち上がった際、それに反対する署名運動が起こったのとは対照的である。そういえば「メタボリズム」のもうひとつの代表作というべき黒川紀章の『中銀カプセルタワービル』(東京・銀座)も近いうちに取り壊されるという話で、こんな調子では“現代建築”の論理は残っても、作品はそのうち跡形もなくなってしまうだろう。

 そんな「メタボリズム」建築の“老後”に手を差し伸べたというべきか、はたまたうまく利用したというべきか、ヤノベケンジはエキスポタワーの廃材を自作に取り入れている。『タワー・オブ・ライフ』と名づけられたその作品には、解体前のタワーに生えていたコケが培養され、死と再生との奇妙な二重奏を奏でてみせる。廃墟には人は住まないが、植物とか眼に見えない微生物などが大勢はびこっているのかもしれない。だとすれば、時代の最先端の思想と技術を駆使して特大のシャーレを作っていたということにもなる。何だか皮肉な話である。

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 エキスポタワーはすでに滅びたが、バカでかい道祖神ともいうべき太陽の塔は不敵な面構えをして建ちつづけている。まるで岡本太郎の人格が乗り移ったかのように、今日もまた現代の日本社会を抜け目なく睥睨しているように思えるのである。

(了)


参考図書:
 「連続講座 岡本太郎と語る '01/'02」
 (岡本太郎記念館編、二玄社刊)

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タワー狂想曲(2)

2010年04月04日 | その他の随想

太陽の塔(2008年12月20日撮影)

 塔といえば、まったく同じときに同じところに誕生して、その後は対照的ななりゆきをたどった二つの塔がある。1970年、大阪千里の万博会場に忽然と姿をあらわした「太陽の塔」と「エキスポタワー」がそれだ。

 太陽の塔は、建設されてから現在に至るまで、人の口にのぼることが絶えなかった存在である。万博当時、その両側に「青春の塔」と「母の塔」が寄り添うように建っていたことを知らない人でも、太陽の塔のことなら必ずといっていいほど知っている(母の塔は、“塔”と呼ぶには無理があるような低い建物だったが)。

 と、まるで見てきたことのように書いてしまったけれど、ぼくは万博の翌年に生まれているので、実物に接したことはもちろんない。だが子供のころ、親が現地で買ったボロボロの公式ガイドブックが家にあった。ぼくはこれから開催される大イベントを待ち焦がれるような気持ちでパビリオンの紹介を丹念に読み、イラストを眺めてはつかの間の未来都市(その時点ですでに過去であったが)に思いを馳せたのである。

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 なかでも強烈な印象を残したのが、やはり太陽の塔であった。これだけは夢と希望にみちた未来のほうを向いていないで、万博という前代未聞のお祭り騒ぎを渋い顔で睨みすえていた。浮かれ気分に水をさすような造形をよくぞテーマパビリオンにしたものだと、ぼくは呆れもし感心もしたが、今ではそれが大阪万博を代表する遺産として永久保存され、人々に親しまれているのだから不思議なものである。

 万博が終わって40年が経ち、“夢の跡”どころかすっかり市民の憩いの場として生まれ変わった記念公園に、まるで巨大化した土偶か何かのように太陽の塔は聳えつづけている。天を支えるように伸ばされた両腕は、引力に反して作られたこの構造物の維持がいかに困難であるかを物語っているようだが、万博開催当時この手はシンボルゾーンを覆いつくす大屋根を支えていて、なおかつ人々を塔の内部から屋根へと導く経路の役割も果たしていた。屋根がすっかりなくなり、実質的な腕の機能も必要ではなくなった現在、太陽の塔は“万歳する途中”とでもいうような曖昧なポーズをとったまま千里丘陵に建ちつづけているのである。

 ただ、あのどこか憎めない渋面は、日本が高度経済成長の頂点から陥落した21世紀の今でも健在だ。いや、今だからこそ多くのことを語りかけてくれるかのようにも思われる。太陽の塔が見つめてきた激動の時代は、われわれが夢見たような明るい希望だけに満たされてはいなかったことを告げているのかもしれない。


東京青山の岡本太郎記念館で撮影した太陽の塔の模型(2007年11月17日撮影)

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タワー狂想曲(1)

2010年04月01日 | その他の随想

京都タワー(2009年6月18日撮影)

 最近、建設中の東京スカイツリーなるものが東京タワーの高さを超えたという。

 一時期は来場者の数も落ち込んでいた東京タワーが、小説や映画の舞台となったことで人気を盛り返したらしく、連日多くの観光客が訪れているらしいことは報道で知っていた。しかしその一方で新しい電波塔が、東京タワーの倍近い高さまで聳えるべく着々と建設が進められていたとは、関西在住のこちらとしてはごく最近まで知らなかったことである。いったいいつの間に、というのが正直なところだろう。

 ナントカと煙は高いところが好きだというが、別に日本一高い建造物ができたというぐらいで、東京から遠く離れた地域ではさしあたって関係のない話だ。だいたいまだ完成していないのだから昇れるわけでもないのだし、各テレビ局がこぞってスカイツリーの話題を取り上げているのが不思議ですらあるけれど、こういった新名所は目新しいうちが花であって、何年もすれば誰も一顧だにしなくなる可能性がないとはいえない。

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 大阪でいえば17年前にできたスカイビルは、その斬新な外観と吹きさらにしなった展望台「空中庭園」とが大変な人気を集め、エレベーターを待つ長い列が絶えなかったものだが、今ではそれほどのこともない。梅田の中心部にある商業施設にできた赤い観覧車はこれまでのキタの景観を一変せしめ、ぼくも何度か列を作って乗りにいったが、ここ数年はすっかり足が向かなくなってしまった。ましてや、旧朝日放送の敷地内にあった大阪タワーが昨年末にひっそりと撤去されたことなど、地元でも知らない人が多いのではなかろうか。大阪でいちばん有名なタワーであるところの通天閣には、ぼくはまだ一度も昇ったことすらないのである。

 京都には去年まで住んでいたし、今でも月に一度は出かけるが、京都タワーに昇ったことは後にも先にも1回しかない。東京の日本武道館と同じ建築家によって手がけられたこの異色の塔は、さまざまな景観論争などもあったようだが今では京都の街並みに馴染んでいると思う。ただ、いざ塔の内部に入ってみると何だか古びていて薄汚く、がっかりした思い出がある(だいぶ前の話なので、今ではもうちょっときれいになっているかもしれない)。それにしても、具体的にどんな施設だったのか、まったくといっていいほど印象に残っていないのは驚きだ。

 20年前に花の万博が開かれた鶴見緑地には「いのちの塔」と名づけられた展望タワーがあって、たった200円で昇ることができるが、現在では大阪の名所にすら数えられていない。そうかと思うと、大阪府の知事はかつてコスモタワーと呼ばれたWTCに府庁の機能を移転させようとしている(WTCとはワールド・トレード・センターの略だが、あのニューヨークの同時多発テロのことを思うとまことに不吉な名前だという気がする。これは偶然の一致ではなく、同じ名前のビルやタワーが世界各地に建っているのだそうだ)。いずれにせよ、関西だけでも数多くの塔状建築物があり、それらがたどる運命もまたさまざまのようである。

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