てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

雪なき冬を送る ― 日本の冬景色選 ― (3)

2007年02月28日 | 美術随想
山元春挙『雪渓遊鹿図』


 山元春挙は、ぼくがもっとも愛する日本画家のひとりだといっても過言ではない。その作品を目にする機会は決して多くはないけれども、日本画としては異例なほどのスケールの大きさは、観るものを必ずや引き込んでしまうだろうと、ぼくは信じている。何を隠そう、このぼくもそうやって春挙の世界に引きずり込まれたひとりであるから。

 春挙は京都で活動した画家だが、出身は滋賀の大津である。7年ほど前に、彼の生まれ故郷の美術館で大きな展覧会が開かれた際には、春挙の作品に周りをぐるりと囲まれるという、願ってもない体験をした。展示室の壁のあちこちに窓が穿たれ、それぞれに素晴らしい景観がのぞいて見えるようであった。それは壮観というしかなかった。

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 伝統的な日本画では、風景画のことを山水画と呼ぶ。明治の初期に生まれた春挙の時代には、まだ山水画の概念が根強く残っていただろう。しかし彼の絵を観ると、山水画とはとても呼べない気がする。むしろ、パノラマとでも呼びたくなるほどだ。

 彼の描く風景は、描かれた画布の大きさをはるかに超えた雄大さをもっている。これはまったく不思議なことである。最近は大型テレビなどというものが注目されていて、スケールの大きさを表現するには大きな画面が必要だと誰もが思っているようだ。さらには、臨場感あふれるダイナミックな音声が不可欠だと・・・。しかしそれは、現代人の想像力が枯渇しているだけではあるまいか。春挙の絵を観ていると、何だかそんな気持ちにさせられるのである。

 『雪渓遊鹿図』は、モノトーンの寡黙な世界だ。華やかな春の景色とも、紅葉の風景ともちがう。観るものに媚びる要素は、どこにもない。むしろ、人間を厳しく拒絶するような、凄絶な眺めだといってもいい。

 ふと、絵の左下に目をやると、何匹かの鹿が駆けているのに気づく。そのときぼくたちは、まるで啓示のように、大自然の雄大さを理解することができるのである。鹿だけではなく、われわれ人間どもも、取るに足りないちっぽけな存在にすぎない。ただそのことを忘れているだけなのだ、と。

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 若いころから山登りを好んだ春挙にとって、山岳の風景はお得意のものだったにちがいない。日本の山だけでなく、ロッキー山脈に登ったこともあるそうである。彼のスケールの大きさは、絵の中だけの話ではない。

 意外に思われるのは、春挙が作品のためにカメラを使ったということだ。それはもちろん、山の記憶を画室に持ち帰るためだろうが、日本画家にはあまり前例がないだろう。ただ、彼はフィルムに写ったとおりに描いているのではあるまい。人間が作った機械よりも、手付かずの自然に対する大いなる畏敬の念が、彼の風景画からは感じられるのである。

(西宮市大谷記念美術館蔵)

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雪なき冬を送る ― 日本の冬景色選 ― (2)

2007年02月25日 | 美術随想
木島桜谷『寒月』


 木島桜谷(このしま・おうこく)の名を知る人は少ないだろう。ぼくも数枚しか絵を観たことがないし、その経歴についてもほとんど知らない。

 このたび少し調べてみたら、京都の烏丸御池という駅からほど近い三条室町の生まれだと書いてあった。ここは祇園祭のときに山が出るところなので、ぼくも一年に一度は、桜谷の生まれたあたりをうろついていたことになる。

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 『寒月』は六曲一双の屏風であり、ぼくがこれまで観た桜谷の作品の中では最大のものだ。と同時に、彼の名前を記憶に刻みつけた決定的な作品でもある。今のところ、ぼくはこの屏風をして、桜谷のすべてだといいたいほどに惚れ込んでいるといってもいい。

 画家の知名度の低さに反して、この絵を京都の美術館で観る機会は多い。しかも毎回のように、この雪景色の前で数分間を費やさずにはいられない。北陸生まれのぼくにとって、雪はおのずと馴染み深いものである。ことに雪のない冬ともなると、無性に雪が見たくなってくるのだ。たとえ、それが絵に描いた雪であっても。

 先日もこの絵の前に立っていたら、ある女性のお客が「写真みたいね」といっていた。雪の白さに目を奪われていたぼくは、その言葉を聞いて我に返った。屏風なのに写真のように見える絵というのは、そうそうあるものではないからだ。

 いわれてみると、雪原の中から木立が伸び、奥の方へゆくにつれてその密度を増し、やがて林となるありさまは、息を飲むほどリアルである。迫真の描写力というのは、こういうことをいうのだろう。

 雪をいくら丁寧に描いても、雪らしくはならない。雪を取り巻く情景をしっかりと描いてはじめて、雪が生きてくる。雪はすべてを写し込む鏡のようなものだ。

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 桜谷は美術学校の教師を努めながら活動を続けたが、40代のころから第一線を離れ、読書にいそしむ生活を送ったという。彼が美術史に輝かしい名声をとどめていないのは、おそらくそのためだろうし、桜谷はそれを望まなかったのだろう。彼は61歳のとき、電車事故で不慮の死を遂げている。

 北野天満宮の近くに、「桜谷文庫」という建物があるのを最近知った。桜谷の作品を保管しているのだろうが、行ったことはないので公開されているかどうかはわからない。それにしても、知られざる画家の絵をこうやって後世に伝えていく人たちがいるということは、何と素晴らしいことか。『寒月』とはまたちがった、まだ観ぬ桜谷の世界が、そこには眠っているのだろう。

(京都市美術館蔵、画像は部分)

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雪なき冬を送る ― 日本の冬景色選 ― (1)

2007年02月24日 | 美術随想
小野竹喬『冬日帖』


 小野竹喬といえば、ざっくりと単純化された形態と、鮮やかな色彩を思い浮かべる。特に、彼が好んで描いた夕日の茜色は、それこそ太陽の残像のように、ぼくの目に強く残っている。

 だが、30代の終わりに描かれた『冬日帖(とうじつちょう)』はちがう。小さな画面に、緻密な線描がびっしり描き込まれている。その線の細かさたるや、少々目の悪いぼくには、展示室のガラス越しだとじゅうぶんにとらえきれないほどである。

 数年前に一度、この絵をガラス越しではなく、間近で鑑賞する機会があった。『冬日帖』は実は6面からなる連作だが、そのすべてがこんな感じで、微細な線に埋められているのである。ぼくは文字どおり、なめるようにその絵を観た。無謀にも、ありとあらゆる線を味わい尽くそうとしたのだ。全部観終わったときには、すっかり疲れ果ててしまっていた。

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 だが、特筆すべきは線だけではない。後年の竹喬からは想像もできないような、ごく淡い色彩が、うら寂しい冬の景観に奥行きをもたらしている。冬枯れというよりも、春の間近いことを予感させるような、暖かな風景である。

 緩やかな起伏が折り重なるように連なるこの眺めは、まるで日本の田舎の縮図のようであるが、この絵には『故里(ふるさと)の郊外』という副題がついているそうだ。ということは、小野竹喬が生まれ育った岡山県笠岡の景色でもあろうか。あの遠くの空の下には、瀬戸内海が広がっているのであろうか。

 絵の真ん中あたりに、藁葺き屋根の小屋がぽつんと建っている。ここに描かれた、唯一の人工物である。左側の赤い着物を着た女性は、この小屋から出てきたのかもしれない。彼女は何をするでもなく、ただのんびりと散歩をしているように見える。冬の日差しの中に、ゆっくりとした動きが生まれる。穏やかな冬の、かすかな息吹き。

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 この絵を描いたとき、小野竹喬はすでに笠岡を離れ、京都で活動していた。29歳のとき、彼は若い画家仲間とともに「国画創作協会」を立ち上げている。しかし財政難などの理由から、この新しい絵画運動は、わずか10年で解散の憂き目に会う。『冬日帖』は、その最後の展覧会に出品された作品である。

 日本画の一大中心地である京都で、いわば最初の挫折を目前にした竹喬が描いた、故郷ののどかな風景。彼の脳裏に去来していたものは、いったい何だったのだろうか。

(京都市美術館蔵)

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オルセー寸描(6)

2007年02月22日 | 美術随想


 ゴーギャンはまことに有名な画家であるが、ぼくにとってはかなり難解な存在である。彼の絵には、つねに“裏”があるような気がするからだ。描かれている表面を眺めているだけでは決して共感できない何かが、ゴーギャンの絵の下地には塗りこめられているように思われる。

 美術史の上においては、ゴーギャンは後期印象派に分類されるようだ。実際、彼は最後の印象派展となった第8回の展覧会に参加しているから、それも間違いではあるまい。だが、基本的に目に見えるものから発想した印象派の面々に比べて、ゴーギャンの絵は、より精神的な意味合いをもっている。モネがジヴェルニーに住み着いたことと、ゴーギャンがタヒチに移住したことの意味は、根本的にちがうのである。

 しかし、究極のところ絵画が視覚的なものである以上、そこにいかなる高尚な哲学が描かれ、人間の根源的な苦悩が刻印されていたところで、見た目の好き嫌いが鑑賞に大きく影響することはやむを得ない。ぼくは生理的に、ゴーギャンが描いた褐色の女性像を好まなかった。これは人種差別的なものではまったくなく、彼女たちが絵の登場人物としてはあまりに破格で、刺激的すぎたのである。主に白人の美男美女が描かれることの多かった近代の絵画の歴史の中で、ゴーギャンのタヒチ時代の絵画は、何の前触れもなくあらわれた突然変異のようなものだと思う。

 ぼくはもちろん、ゴーギャンの絵から目をそむけようとしてきたわけではない。しかし彼の絵は、ただ眺めていただけではよくわからないということもまた確かなのだ。そのへんを理解するために、ちょっとしたゴーギャンの評伝や、彼の著書『ノア・ノア』も読んだことがある。だからゴーギャンの生涯のおおまかなアウトラインは知っているつもりだが、いまひとつ彼の作品と直結してこないもどかしさを感じてしまうのである(ちなみに、ゴーギャンをモデルにしたというモームの小説『月と六ペンス』はまだ読んでいない)。

 これはまあ、今後の課題ということにしておこう。もし、ゴーギャンの作品を年代順に並べた大展覧会が開かれたなら、彼に対する理解がもっと深まるにちがいないと、ぼくは確信している。そう思ってずっと待っているのだが、今のところそんな展覧会が開かれる様子はない。

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 この『黄色いキリストのある自画像』(上図)は、ゴーギャンがタヒチに旅立つ直前に描かれたものだという。いわば彼にとって、一種の決意表明ともいえる絵なのかもしれない。

 好き嫌いの話ばかりで恐縮だが、ぼくはゴーギャンの顔があまり好きではない。いや、ゴーギャンの顔というより、彼が描いた自画像の顔が好きではないのである。ゴーギャンの自画像には、何か人を見くだしているような、高慢な雰囲気がある(そうでもない絵もあるが)。

 この自画像にしても、観るものの気持ちを逆撫でするような、挑発的な表情をしているように見える。ぼくの個人的な判断でいえば、右目 ― 鏡像なので、絵の中でも右側の目 ― がやや吊り上がっているせいかもしれない。これより前に描かれた『光輪のある自画像』(下図、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)も、やはり同じような顔である(正確にいえば、より誇張されている)。



 今回のオルセー展の解説によれば、この『光輪のある自画像』は、みずからを「誘惑者の悪魔」になぞらえているのだそうだ。それが真実だとすれば、ぼくがゴーギャンの顔に何だか胸くその悪いものを感じるのも、あながち的外れとはいえまい。専門家のお墨付きを得たところで、あらためて『光輪のある自画像』を眺めてみると、その顔はまさしく悪魔か、トランプのジョーカーにしか見えなくなってくるのである。

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 『黄色いキリストのある自画像』については、以前から疑問に思っている点がある。それは、ゴーギャンの背後に描かれたふたつの作品のことだ。



 ひとつは、題名にもなっている『黄色いキリスト』(上図、オルブライト=ノックス美術館蔵)である。これはゴーギャンの作品の中でも有名なものであろう。自画像の中では、当然のことながら左右逆向きに描かれている。

 もうひとつ、向かって右の奥に描かれているのは『ゴーギャンをかたどったグロテスクな頭の形をした壺』(下図)で、実際にゴーギャンの手で作られた焼物である。しかしこの壺だけは、なぜか鏡像ではなく、本来の向きで描かれているのだ。これはいったいどうしたことか?



 ここからはぼくの想像だが、やはり“右目が吊り上がった顔”というところに、ゴーギャンはこだわったのではなかろうか。この壺に彫られた顔は、もはや人間のものとは思えないほどゆがんでいるが、題名にもあるとおり“ゴーギャンをかたどった”壺、つまり一種の自刻像なのである。彼はそこに、おのれの悪魔的な ― と本人が思っている ― 側面を刻み込もうとしたにちがいないのだ。だとすれば、それが自画像の背景として描き込まれる際にも、向きを反対にするわけにはいかなかったのである。

 黄色いキリスト像は、まるで眠っているかのような、まことに穏やかな表情に描かれている。一方でグロテスクな壺は、悪魔の顔である。ゴーギャン自身の顔は、その悪魔に似せた表情で描かれていることになる。彼はキリスト教に象徴されるヨーロッパ社会と訣別して、まさに野蛮な悪魔の国へと旅立とうとしているのである。それが果たして思惑どおりであったかどうかは、その後の彼の作品が物語っているのであろう。

(展覧会では「ゴーガン」と表記されていたが、ぼく自身の慣習にならって「ゴーギャン」に統一した。)

つづく
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20世紀版画おぼえがき(4)

2007年02月20日 | 美術随想
藤牧義夫『赤陽』


 初めて藤牧義夫の名前を知ったのは、この随想録にもたびたび登場する、洲之内徹の文章によってだった。ただそのときは、版画家だという意識はしていなかったように思う。そこで紹介されていたのが、『隅田川絵巻』と呼ばれる肉筆の線描画だったからだろう。藤牧が24歳のとき、突然消息を絶ったということも、そのとき知った。

 最近になって、この稿を書くために版画のことをいろいろ調べはじめたら、版画家名鑑のような本に藤牧の名前が大きく載っていたので驚いた。肉筆画と版画の両方を制作する画家は少なくないので、版画を作るから必ずしも版画家だということにはならないと思うが、よく調べてみると彼は「新版画集団」という版画家のグループに属していて、れっきとした版画家のキャリアを積んでいるようである。ただし、せいぜい5年間ほどのことにすぎないけれど・・・。

 その版画家名鑑の中で、藤牧の代表作として取り上げられていた『赤陽』という木版画が、このたび「美の巨人たち」というテレビ番組でも取り上げられているのを見た。この番組の魅力は、美術作品や作者をただ紹介するだけではなく、創作の謎といった部分に深く切り込んでいくところだと思うが、藤牧をめぐる謎は、番組を見終わった後も依然として解けないどころか、ますますもって深まっていくように思われた。

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 番組の中である人が語っていたところによると、藤牧は版木に下絵を描かず、いきなり三角刀で彫り進んでいったそうである。あの棟方志功ですらも、板の上に墨でおおまかな当たりをつけてから彫っていたことを考えると、藤牧の異常なまでの集中度の高さというか、決然たる意志のようなものが感じられる。木版画は、彫りあやまると決して修正することができないものだからである。

 しかし洲之内によれば、『赤陽』には3種類の異なったバージョンが存在するという。試みに、そのうちの2枚の図版を並べてみると(下図)、画面下の建物の位置が大きく移動していることに気づく。実はこの建物は、版木に彫られたそのままの位置にはなく、刷り上がったものを切り抜いて貼り付けたものだというのである。構図全体のトリミングも、かなり異なっているように見える。

 

 揺るがぬ意志をもって、下絵なしで板を彫り込んでいく姿と、刷り上がってから構図をあれこれ手直しし、逡巡することとの間には、大きな隔たりがある。そこにはまるで、ふたりの藤牧義夫がいるかのようだ。これはいったい、どういうことなのだろう?

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 1か月ほど前に、NHKの「日曜美術館」放送30周年を記念する展覧会で、初めて藤牧義夫の実物を観る機会に恵まれた。しかしそれは版画ではなく、例の『隅田川絵巻』である。全部合わせると60メートルもの長さがあるということだが、ぼくが観たのは、そのうちの第3巻であった(下図、部分)。



 これは毛筆で描かれているようだが、その筆致はまるでサインペンのように的確で、狂いがない。『赤陽』にみられる一種の荒々しさ、奔放さといったものは、まるで感じられないのである。語弊を恐れずにいえば、まるで風景にじかに紙をあてて、トレースしたかのようではないか?・・・と、このような感想を抱いてから、藤牧の経歴について調べてみると、彼は版画家になる前にトレース工として働いていたと書かれていた。

 トレースとはいうまでもなく、ものの輪郭をなぞる仕事である。板を刻んでイメージを彫り出す木版画とは、そのなりたちからしてまったく異なっている。藤牧はもともと、そういう二面性を内に秘めた存在だったのではあるまいか。

 藤牧をよく知る人の、興味深い証言がある。同じ「新版画集団」のメンバーだった清水正博が、かつて「日曜美術館」に出演した際に残した言葉である。

 《帝展に入選したときには、喜んで郷里でもお祝いの会を開いてくれたんですが、それでも版画では生活してゆけなかった。人をかき分けてゆくようなことはできなかった人ですしね。われわれ版画集団は、小野(忠重)君のところで、狭い部屋にとぐろをまいて深夜十二時過ぎまで話していました。帰り道も二人で、私は途中で別れますが、あとで聞くと、藤牧君は、下宿のおばさんを起こすのが気の毒で、裏のゴミ箱の中がきれいだったから、その中で寝た、なんていうんです。寒い時期の話だったと思いますよ。そういう、下宿のおばさんも起こせないような気の弱い人だったんです。ただ、絵の上にはその気の弱さというものは出ていませんね。反対に、藤牧君は絵の上では強くなれた人だったんじゃないでしょうか。》(展覧会図録より)

 確かに『赤陽』を無我夢中で彫っているときは、彼は強い人だったにちがいない。しかし、それと背中合わせの弱気な藤牧義夫がいて、作品の完成度が気になり、刷り上がった版を切り貼りしたのかもしれない。『赤陽』は、彼の強さと弱さが ― つまり彼のすべてが ― にじみ出た一枚なのである。

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 洲之内徹は晩年、まさに『隅田川絵巻』に描かれたあたりに住んでいたという。彼は藤牧を取り上げた随筆のしめくくりに ― 洲之内はこの随筆を書いた直後に死んだので、洲之内自身のしめくくりでもあるのだが ― 深夜の隅田川を眺めながら、こう書きつけている。

 《失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説もあるが、私は信じたくない。》

 藤牧義夫が姿を消してから今年で72年が経過するが、その行方は杳として知れないままだ。


DATA:
 「日曜美術館30年展」
 2006年12月13日~2007年1月21日
 京都文化博物館


参考図書:
 洲之内徹『さらば気まぐれ美術館』
 新潮社

つづく
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