山元春挙『雪渓遊鹿図』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/7e/fa407e8dea4dcd213018aea7277683b2.jpg)
山元春挙は、ぼくがもっとも愛する日本画家のひとりだといっても過言ではない。その作品を目にする機会は決して多くはないけれども、日本画としては異例なほどのスケールの大きさは、観るものを必ずや引き込んでしまうだろうと、ぼくは信じている。何を隠そう、このぼくもそうやって春挙の世界に引きずり込まれたひとりであるから。
春挙は京都で活動した画家だが、出身は滋賀の大津である。7年ほど前に、彼の生まれ故郷の美術館で大きな展覧会が開かれた際には、春挙の作品に周りをぐるりと囲まれるという、願ってもない体験をした。展示室の壁のあちこちに窓が穿たれ、それぞれに素晴らしい景観がのぞいて見えるようであった。それは壮観というしかなかった。
***
伝統的な日本画では、風景画のことを山水画と呼ぶ。明治の初期に生まれた春挙の時代には、まだ山水画の概念が根強く残っていただろう。しかし彼の絵を観ると、山水画とはとても呼べない気がする。むしろ、パノラマとでも呼びたくなるほどだ。
彼の描く風景は、描かれた画布の大きさをはるかに超えた雄大さをもっている。これはまったく不思議なことである。最近は大型テレビなどというものが注目されていて、スケールの大きさを表現するには大きな画面が必要だと誰もが思っているようだ。さらには、臨場感あふれるダイナミックな音声が不可欠だと・・・。しかしそれは、現代人の想像力が枯渇しているだけではあるまいか。春挙の絵を観ていると、何だかそんな気持ちにさせられるのである。
『雪渓遊鹿図』は、モノトーンの寡黙な世界だ。華やかな春の景色とも、紅葉の風景ともちがう。観るものに媚びる要素は、どこにもない。むしろ、人間を厳しく拒絶するような、凄絶な眺めだといってもいい。
ふと、絵の左下に目をやると、何匹かの鹿が駆けているのに気づく。そのときぼくたちは、まるで啓示のように、大自然の雄大さを理解することができるのである。鹿だけではなく、われわれ人間どもも、取るに足りないちっぽけな存在にすぎない。ただそのことを忘れているだけなのだ、と。
***
若いころから山登りを好んだ春挙にとって、山岳の風景はお得意のものだったにちがいない。日本の山だけでなく、ロッキー山脈に登ったこともあるそうである。彼のスケールの大きさは、絵の中だけの話ではない。
意外に思われるのは、春挙が作品のためにカメラを使ったということだ。それはもちろん、山の記憶を画室に持ち帰るためだろうが、日本画家にはあまり前例がないだろう。ただ、彼はフィルムに写ったとおりに描いているのではあるまい。人間が作った機械よりも、手付かずの自然に対する大いなる畏敬の念が、彼の風景画からは感じられるのである。
(西宮市大谷記念美術館蔵)
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山元春挙は、ぼくがもっとも愛する日本画家のひとりだといっても過言ではない。その作品を目にする機会は決して多くはないけれども、日本画としては異例なほどのスケールの大きさは、観るものを必ずや引き込んでしまうだろうと、ぼくは信じている。何を隠そう、このぼくもそうやって春挙の世界に引きずり込まれたひとりであるから。
春挙は京都で活動した画家だが、出身は滋賀の大津である。7年ほど前に、彼の生まれ故郷の美術館で大きな展覧会が開かれた際には、春挙の作品に周りをぐるりと囲まれるという、願ってもない体験をした。展示室の壁のあちこちに窓が穿たれ、それぞれに素晴らしい景観がのぞいて見えるようであった。それは壮観というしかなかった。
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伝統的な日本画では、風景画のことを山水画と呼ぶ。明治の初期に生まれた春挙の時代には、まだ山水画の概念が根強く残っていただろう。しかし彼の絵を観ると、山水画とはとても呼べない気がする。むしろ、パノラマとでも呼びたくなるほどだ。
彼の描く風景は、描かれた画布の大きさをはるかに超えた雄大さをもっている。これはまったく不思議なことである。最近は大型テレビなどというものが注目されていて、スケールの大きさを表現するには大きな画面が必要だと誰もが思っているようだ。さらには、臨場感あふれるダイナミックな音声が不可欠だと・・・。しかしそれは、現代人の想像力が枯渇しているだけではあるまいか。春挙の絵を観ていると、何だかそんな気持ちにさせられるのである。
『雪渓遊鹿図』は、モノトーンの寡黙な世界だ。華やかな春の景色とも、紅葉の風景ともちがう。観るものに媚びる要素は、どこにもない。むしろ、人間を厳しく拒絶するような、凄絶な眺めだといってもいい。
ふと、絵の左下に目をやると、何匹かの鹿が駆けているのに気づく。そのときぼくたちは、まるで啓示のように、大自然の雄大さを理解することができるのである。鹿だけではなく、われわれ人間どもも、取るに足りないちっぽけな存在にすぎない。ただそのことを忘れているだけなのだ、と。
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若いころから山登りを好んだ春挙にとって、山岳の風景はお得意のものだったにちがいない。日本の山だけでなく、ロッキー山脈に登ったこともあるそうである。彼のスケールの大きさは、絵の中だけの話ではない。
意外に思われるのは、春挙が作品のためにカメラを使ったということだ。それはもちろん、山の記憶を画室に持ち帰るためだろうが、日本画家にはあまり前例がないだろう。ただ、彼はフィルムに写ったとおりに描いているのではあるまい。人間が作った機械よりも、手付かずの自然に対する大いなる畏敬の念が、彼の風景画からは感じられるのである。
(西宮市大谷記念美術館蔵)
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