てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

新年度は名古屋から(4)

2014年06月09日 | 美術随想

ジョルジュ・スーラ『ポール=アン=ベッサンの日曜日』(1888年)

 近代絵画に焦点を当てたこの手の展覧会でも、スーラの絵と出会うことのできる可能性は、はなはだ少ないといえる。それはもちろん、スーラ自身が短命だっただけでなく、創作に多大な時間を費やしたことも関係しているにちがいない。おなじ31年の生涯でも、才能のあふれるままに無数の作品を生み出していったシューベルトとは正反対のタイプである。

 ただ、なぜスーラが“点描”という手間のかかる手法にこだわったのかという疑問が、ぼくの胸の内から消え去ることはない。もちろん、彼が生きていた時代に光学や色彩の理論が大きく発展を遂げたということもあるだろうし、スーラ本人が理系の頭をもっていたといおうか、あらゆるものを徹底的に実験して少しずつ完成に導くといったたぐいの、科学者にも似た辛抱強さを有していたことも間違いないところだろう。

 でも、まだモネやルノワールらも生きていたあの時代に、彼らと同じ風景を眺め、空気の流れを肌で感じながら、それらが一瞬にして真空に閉じ込められてしまったかのような静謐なる世界を描くようになったのはなぜなのか。とりわけ、日の光が変化するたびごとに慌ただしく絵筆を走らせるモネの性急な描写を否定するかのような几帳面な制作方法へと、スーラを突き動かしていったものは何なのか。

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 『ポール=アン=ベッサンの日曜日』の舞台となったのは、モネも愛したノルマンディー地方の港だという。たしかに、モネの絵にもよく登場する海と、退屈そうに浮かんでいる何艘かの船、ぼんやりと雲をただよわせた冴えない空がそこにある。マストのてっぺんにたなびく三色旗は、スーラがフランスというお国柄、いうなれば芸術の最先端として隆盛を極めつつあるパリ画壇に誇りを抱いていたことのあらわれかもしれない。あるいは、自分が絵画の未来を背負って立つといったような気概の片鱗でもあろうか。いずれにせよスーラの絵は、何かしら実験的な試みというよりは、堅固な意思に支えられているという感じがする。

 ただ、彼の描きかたは、あまりにもモネとはかけ離れている。先ほど“三色旗”と書いたが、厳密にいうと、三色以上の色が使われていることは明らかである。橋の上を歩いている米粒のような人影も、絵の具の先端で描きなぐることをせず、服の色からそのポーズまでしっかりとらえられている。

 ここまで細部にわたって、いわば計算ずくで画面を構成していくやりかたは、モネにしてみればまどろっこしくてやりきれない、といったところだろう。モネの絵筆が人知れずとらえていた空気感、むら気なまでに変化する自然の様相といったものは、ここにはない。スーラの絵を眺めていると、その完成度の高さに圧倒される一方で、あまりの精巧さに少し息苦しい思いがすることもたしかなのだ。

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“あたりまえ”とは何か(4)

2014年06月08日 | 美術随想

〔美術館脇の一室には、展覧会期間中に堀尾が“色塗り”を施したガラクタの集積がある〕

 そろそろ、クロージングイベントの開幕が迫ってきた。といっても、まったくカネはかかっていないようだ。紙切れの詰まったビニール袋が脚立で吊り上げられて、人間のかたちになっていたりする。BBプラザのテナントに入っているフランス料理店とか、高級会席料理のお店などに比べたら、拍子抜けするほど安上がりだ(ちなみに展覧会の入場料も、わずか300円であった)。

 作品がぶちまけられた美術館内をおもちゃ箱のようだと書いたが、こちらのイベントもまた、幼稚園のお遊戯の域を出ていないように見える。それを、一人前の大人たちが大真面目に、一生懸命やっているのがおもしろい。われわれが世間の荒波に揉まれ、居心地よく暮らすことを覚えていくうちに、いつの間にか遠くに置いてきてしまった素朴な遊び心、なりふりかまわず好きなことに没頭できる人間らしさが、ここにはある。

 とはいっても、堀尾自身はプロのアーティストとしてそれに専念してきたのではない。通常の会社勤務と並行して、旺盛な創作活動を継続してきたというから驚く。彼は三菱重工という会社を定年まで勤め上げたが、社内ではゴミのような扱いをされたという(本人がインタビューで語っていることだから、隠すこともないだろう)。

 つまり堀尾は、作品を売って生活しているわけではなく、れっきとした(?)年金生活者なのである。この日も彼は、アーティストとしてのオーラをことさらに発することなく、近所のおじちゃんといったさりげない風情で、イベントの準備作業に参加しておられた。

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〔角材を利用して一日で作られた『にわか彫刻』〕

 やがて、人がわらわらと集まりはじめる。けれどもどちらがイベントを執行する側なのか、どちらがお客なのかが判然としない。皆が一緒くたになって、何かおもしろいことをやりたいという一心で、ひとつの得体の知れないまとまりを作り上げている。

 こういうとき、我を忘れてとけ込めないのが、ぼくの欠点であろう。会社で虐げられつづけたという堀尾の気持ちはよくわかるつもりだし、ぼく自身は今でも、社内の雰囲気に馴染んでしまわないように気をつけている。そうすれば毎日の生活はスムーズに滑り出し、心理的にも楽になるかもしれないが、何だか自分がとてもつまらない人間になってしまうような気がするのだ。いわば“その他大勢”の一員になり下がってしまうことが、悔しいのである。

 けれども、たくさんの人を巻き込んで何かをやってやろうという性格でもない。こうやって、ひとり細々とブログを書いているぐらいが関の山なのだろう。『にわか彫刻』の上に皆がのっかって記念写真を撮ろうという呼びかけにもぼくは参加せず、何かむずがゆい心の動きを抱えたまま、椅子に座ってそれを見物していた。もちろん大阪からはるばる出てきて、すでに美術館をハシゴしたあとだけに疲れていたのもたしかだが、ぼくよりはるかに年齢を重ねている堀尾貞治のパワフルな活動ぶりには、頭が下がる。

 さて、そろそろ家に帰らなければならない。明日は月曜日なので、普通の勤め人と同じように、仕事を中心にしたサイクルのなかへと戻っていくべきなのだ。会期中に堀尾が色を塗り重ねた“作品”を手に入れようと、地面に書かれたあみだくじの上を傍目も気にせずはいずり回っている人々を羨ましく眺めてから、ぼくは気持ちを切り換えて駅へと向かった。

(了)


DATA:
 「堀尾貞治 あたりまえのこと『今』」
 2014年3月21日~6月1日
 BBプラザ美術館

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“あたりまえ”とは何か(3)

2014年06月04日 | 美術随想

〔展示室の壁を覆い尽くす堀尾貞治の“作品”〕

 イベントといっても、何がおこなわれるのかはわからない。何人かが集まって、ビニール袋に紙切れのようなものを詰めている。高級感のただよう建物のアトリウムにはとても似合わない、異様といってもいいような眺めである。町内会が合同で、清掃作業に汗を流しているような雰囲気だ。前を通るバスのなかから、いったい何ごとかといった表情で眺めている人がいる。

 とりあえず準備が終わるまで、本日でクローズするという堀尾の展覧会を観ることにした。BBプラザ美術館というこの施設は、過去にも何度か来たことがあるが、ほとんどワンフロアしかない小さなスペースに、趣味のいい絵画が並ぶ静謐な空間であった。大規模な美術館の喧噪に疲れたときは、こういうこぢんまりした場所で心ゆくまで絵を鑑賞し、ひと息つくのもいいものだ。

 けれども、エントランスに足を踏み入れてみて、その変わりように驚かされた。ルノワールの彫刻も、手に棒切れのようなものを持たされて ― 何で私がこんなことを、といいたげな顔をしながら ― 堀尾のアートに参加している。壁面の隙間には、新聞紙のような紙くずがびっしりと詰め込まれている。ブールデルの彫刻は、まるでクリストの梱包芸術のようにすっぽりと紙で覆われ、その上からドローイングが施されている。美術館でやっていいことと、やってはいけないことの、ぎりぎりのラインのせめぎ合い。

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〔館内に備えつけられているスタインウェイのピアノもご覧のとおり〕

 展示室に入ると、ここがあの美術館か? という気にさせられる。おもちゃ箱をひっくり返したような、という表現は、安易に使うべきでない。こういうときのために、大事にとっておくべきだろう。

 ひとことでいえば、芸術の高尚さなどはどこにもない。壁いちめんに、ガラクタのたぐいがちりばめられている。いや、単に散らばっている、といったほうが正確かもしれない。板切れ、つぶれた空き缶、絵の具の空き箱、石ころ、何やら得体の知れないもの・・・。

 そこには何の秩序もなければ、おそらく計算もないだろう。展覧会のチラシによれば、およそ3000点もの“作品”が、こうやって展示されているという。まさにケタがちがう。そして大切なのは、これらが単なるガラクタではなく、堀尾によって色が塗られたり、文字が書かれたりして変貌させられているということだ。

 彼にとっては多分、世の中に無意味なものなどないのではなかろうか。日常の些末な、ゴタゴタした、ゴミのようなものでさえも、堀尾の手にかかると一瞬にして生まれ変わってしまう。いいかえれば、その無意味さを意気揚々と主張しはじめるのである。われわれは学校教育の一環として図工や美術を学び、作品を制作したりするけれども、そんな“お勉強”の域をはるかに超えている。幼い子供が家のなかをクレヨンでメチャクチャに塗りたくって、嬉々としている屈託のない笑顔が眼に浮かぶような気がした。


〔床の上にも隙間なく“作品”が並ぶ〕

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“あたりまえ”とは何か(2)

2014年06月02日 | 美術随想

〔美術館は瀟洒な商業施設「BBプラザ」のなかにある〕

 そこで開かれていたのは、堀尾貞治というアーティストの個展である。サブタイトルは、“あたりまえのこと「今」”という。

 堀尾については、知る人ぞ知る存在であるかもしれない。かつては関西を中心に華々しく活動した前衛集団「具体美術協会」の一員であった。といっても、実際に彼らが時代の“前衛”たり得た期間は非常に短く、主導者であった吉原治良が没すると運動は終焉し、メンバーもバラバラになってしまう。

 以来、芸術家として孤軍奮闘しつづけた人のなかには、白髪一雄(「訃報ふたつ ― 白髪一雄と小川国夫 ―」参照)や元永定正(「もとながさんさようなら」参照)のように巨匠と呼ばれる存在にまでなった人もいるが、その一方で大学の教授にのし上がった人(吉原がそれを望んでいたとは思えないが)、そしておそらくはアートから距離を置いてしまったような人もいたにちがいない。たったひとりで創作活動を継続し、それによって生活を維持するという営為がいかに困難であるかは、われわれ一般人の想像を大きく超えるほどのことであろう。

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 ただ、そんななかで堀尾貞治は、もう75歳になるというのに日々の制作を欠かすことはないらしい。

 何年も前の話だが、NHKの美術番組で堀尾が紹介されたことがあった。ぼくが彼の存在を知ったのもそのときだったが、世の中にこんな人がいるのか、と驚きもし、また呆れもしたというのが正直な気持ちだ。

 彼の日課となっているのが、一日一色、家の玄関前にある石か何かの上に色を塗るということだったと記憶している。次の日になると、同じところにまた別の色を塗る。技術的にさほど難しいことではない。ただ適当に、絵の具を塗りつけるだけなのだ。しかしそれが何年もつづくと、まるでカラフルな地層のようにこんもりと盛り上がってくる。毎日毎日、色を塗りつづけたという証しが、顕然としてそこにある。

 当時アナウンサーだった山根基世さんが彼の自宅(どう見てもアトリエとは呼びがたい)を訪問したとき、堀尾が眼の前でやってみせたのは、絵の具のついた棒切れのようなものを紙に叩きつけて鮮やかな痕跡を残す「一分打法」というものだった。このネーミングはもちろん、同じ名前の王貞治による「一本足打法」に引っかけたシャレであるが、ピカソもびっくりの、一分で作品を仕上げてしまおうという即席アートだ。山根さんも、これには笑い崩れるしかなかった。

 そんな堀尾が今でも元気で創作をつづけていることは、繰り返すようだが、驚きもし呆れもすることである。単純なことであれ、それを何年も何年も継続することがいかに難しいことか、われわれは知っているはずだ。けれども堀尾は、それを楽しみながらやっているように見える。まさに、“あたりまえのこと”なのである。

 今、通りかかった美術館の前で人々が集まって何かをやっているのは、その展覧会の最終日を飾るクロージングイベントの準備なのだった。

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“あたりまえ”とは何か(1)

2014年06月01日 | 美術随想

〔サヤエンドウをモチーフにした椿昇のオブジェ『PEASE CRACKER』〕

 真夏を思わせる酷暑。うかうかしているあいだに今年もこの季節がやってきてしまったか、と気ばかり焦る日々がはじまった。

 ぼくはこの日、兵庫県立美術館からの帰途、駅までの道を急いでいた。以前来たときには、たしか道路を渡る橋梁が工事中だったような覚えがあるが、すでにすっかり修復されている。それだけではなく、いつの間にか歩道のど真ん中に巨大なオブジェが出現していて、ペンキ塗り立てのような鮮やかな色彩を周囲に振りまいている。

 作者は、数年前に京都でも展覧会が開かれたことのある、椿昇という人物。ただしぼくはその展覧会に行かなかったし、椿氏についてもほとんど知るところはなかったので、何の前触れもなく得体の知れない立体作品と対面して、いささか度肝を抜かれてしまった。この日は暑かったせいか、立ち止まってオブジェを眺める人もなく、ましてや豆状のベンチに座って休息する人もなかった。

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 おそらくは、歩道にこんなケッタイなものを作るとは迷惑千万だ、という意見もあることだろうと思われる。実際、隣接した敷地には高層マンションが何棟も建っていて、見たところ数百世帯が暮らしており、朝などは通勤する人たちで路上が混み合うようなことも日常的にありそうな気がする。ただ、それを阻むかのごとく、なかば強引なまでに存在を主張するのが、芸術のひとつのありかたでもあるだろう。パブリックアートが世間に受け入れられるか、それとも邪魔者扱いされるかは、ほとんど紙一重といっていい。

 かのモーパッサンが、建設されたばかりのエッフェル塔を骸骨呼ばわりして徹底的に嫌い抜いたことはよく知られているが、それも今ではパリの一大観光名所と化している。神戸にできた真新しいオブジェが受け入れられるか否か、それは時間の流れだけが知っていることだ。

 いや、椿昇のような際どい冒険を試みずとも、近辺には頑丈な壁に守られた複数の美術館がある。この作品が、それらの美術館へ人を呼び込むための看板のような役割を担っていることも、やはり間違いのないところだろう。そして、この「ミュージアムロード」と名づけられた道を歩いていたぼくは、さる小さな美術館の入口付近で、何やらあやしい動きをする大人たちを見かけたのだ。ついさっきまで展覧会の王道ともいうべき近代フランス絵画の逸品を眺めてきたあと、いきなり退屈な日常の世界へ戻る前に、何となくふらふらと、そこへ立ち寄ってみたくなったのだった。

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