新生活がはじまってから幾日か過ぎ、ようやく落ち着きを取り戻してきた。しなければならない手つづきはまだ残っているが、何とか生活環境も整い、無事にインターネットも開通した。戸籍の上では、大阪府某市の住民ということになった。
そうこうしているうちにも、世の中は大変な時期を迎えていたようである。新型インフルエンザが蔓延し、身を守るべく完全武装した人々が巷にはびこった。ぼく自身、まさかマスクをした姿で婚姻届を提出することになろうとは夢にも思わなかった(役所の担当の人もマスクをしていた)。こんな事態では海外へ新婚旅行に出かけるのもはばかられるというものだが、幸か不幸か、その予定は最初からない。
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ここ大阪よりも、ついこの前まで住んでいた京都のほうが感染者ははるかに少ないようだ。しかしそれにもかかわらず、京都における観光客数の落ち込みようは極端で、非常に深刻である。テレビのニュース番組で放映された清水寺あたりの風景は、近ごろではあり得ないほど閑散としていた。
修学旅行生のほとんどいない京都というのも新鮮で、平穏な古都のたたずまいが戻ったようだ、と皮肉をいいたくなる気持ちもなくはないが、観光事業で生活している人々もたくさんいるはずだから、ただごとではない。何しろ京都市ではつい先日、昨年の観光客数が5000万人を超えたことを発表したばかりである。しかし早くも今年は、その数字を大きく下回るであろうことは確実だといっていい。
厚労省を訪れた門川市長は国に安全宣言を出すことを求め、朝の情報番組に電話出演して“京都のよさ”を繰り返しアピールしているのも見たが、他府県との境界線上で徹底した検疫をするのでもないかぎり、京都だけ安全だというのはあまり根拠のない話ではある。牛肉や餃子の場合がそうであったように、騒ぎがひとりでに終息するのを待つしかないのかもしれない(と思っていたら、神戸市が独自に「ひとまず安心宣言」を出してしまった。パフォーマンス性では、こちらが一枚うわてのようだ)。
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パフォーマンスといえば、参考人として国会に招致されたある検疫官が ― この女性は著書を出版したり、マスコミにもよく登場するなど“ものいう公務員”とでも呼ぶべき存在だが ― 政府のインフルエンザ対策に対して「空港での機内検疫はパフォーマンスだ」と痛烈に批判した。それが本当なら、われわれ関西人も「マスクをつけて感染抑止に努めています」という意思を標榜させられた一大パフォーマンス集団だったといえなくもない。店頭からいっせいにマスクが消えるという、往年のオイルショックを想起させる横並び主義は、いつまで経っても日本の風土から消えてなくなることはないのだろうか。
それに関して思い出されるのが、これも大阪でとりわけ多いと思われる歩行喫煙者の存在だ。違反者からは過料が徴収されるという指定区域ではさすがにあまり見かけないが、そこを一歩でも出ると、特に朝の通勤時間帯の路上は煙の無法地帯と化す。タバコの害があれだけかまびすしく喧伝され、世間の風当たりも厳しくなっているというのに、どこ吹く風とばかりにウイルスならぬ副流煙を撒き散らして平然としているのである。
世間の大多数がマスクをしはじめたら、一も二もなく“右へならえ”するくせに、禁煙意識の高まりを意にも介さず路上喫煙をやめる気のない者たちも数多く存在する。これらの相反する要素が混在する日本人の国民性は、ぼくにはまったく奇々怪々なるものだ。流行に敏感なのか鈍感なのか、理解に苦しむ(もっとも、禁煙の広まりを一過性の流行だとは思いたくないけれど)。
だが、これだけはいえるだろう。もし、タバコの煙を吸わされないですむような効果のあるマスクが発売されたら、ぼくは他の嫌煙家たちとすすんで“横並び”して、好んで身につけることになるだろうと。
(画像は記事と関係ありません)