てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

今年もまた、「正倉院展」へ(5)

2013年11月11日 | 美術随想

『投壺』と『投壺矢』(正倉院 中倉)

 「正倉院展」には、遊戯に使用された道具もよく展示される。前回は双六の盤であったが、今回は『投壺(とうこ)』と、それに付随する『投壺矢(とうこのや)』であった。

 カンのいい人なら、この写真を観ただけで遊びかたがわかるのではないだろうか。要するに、壺に向けて矢を放つ。壺のなかに入れば、得点になる、というわけだ。単純極まりない、幼児の輪投げにも類する遊びだといってもいいかもしれない。

 といっても、その歴史は驚くほど古い。そもそもは古代中国の宴会の余興として使われたという。なるほど、酔いが回れば回るほど焦点が定まらなくなり、ゲームが白熱するのが眼に見えるようだ。

 ものを投げて的に入れる、あるいは当てるという原理では、現在でもおこなわれている投扇興(とうせんきょう)に似ているような気もしたが、調べてみると、やはり投壺は投扇興のルーツにもなったという記述があった。ただ、投扇興は日本流にアレンジされて、源氏物語などの知識が必要となってくるので、遊びとしての投壺の素朴さは失われてしまっているだろう。

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 正倉院事務所長である杉本一樹氏は、著書のなかでこんなエピソードを披露している。

 ある年、鳥羽法皇が南都に滞在中、正倉院の扉を開けて宝物を見せよという話になった(今ではもちろん、こんな暴挙は許されない)。あまりに突然のことなので、錠前が錆びついてしまって開けられず、やむなく扉の一部を壊して内部に入ったようだ。この当時は、定期的な曝涼などはおこわなれていなかったのだろうか。

 やがて、数ある宝物のなかから、聖武天皇ゆかりのものが鳥羽法皇の前に運ばれる。それに解説を加えるために呼び出されたのが、藤原通憲(みちのり)という学者だった。また、この銅の器は何か、という法皇の問いに通憲は、これは投壺の器です、と答え、中に小豆が入っていたりしませんか、と付け加えた。

 そこで係の者が壺を倒すと、中から実際に小豆の粒が転がり出た、というのだ。通憲がこんな予言をしたのは、投壺で遊ぶ際に、矢が壺から飛び出さないための錘りとして小豆が入れられることを知っていたからである。それを知らない周囲の者は感嘆したというが、正倉院にはひょっとしたらまだどこかに日の眼を見ぬ宝物が眠っているかもしれない、という可能性を示す話でもあるだろう。もしそのときの小豆が今でも残っていたら、それも正倉院宝物のひとつとして数えられていたはずだからである。

 なお、藤原通憲はのちに出家し、信西(しんぜい)と名を改め、平清盛と組んで世の中を動かしたが、平治の乱で晒し首となった。昨年の大河ドラマにも登場していたが、正倉院の内情にも通じていたとは、驚くべき博学の徒であったにちがいない。

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