てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ごみ収集に音楽は必要か

2012年04月30日 | その他の随想


 『乙女の祈り』というピアノ曲は、初心者向きの愛らしい小品としてよく知られている。

 けれども、ぼくが生まれ育った福井では、この曲が「ごみ屋さんの音楽」だった。ごみ屋さんといっても、もちろんごみを売り歩くわけではなくて、ごみ収集車のことであるが、のべつ『乙女の祈り』をテーマ曲のように鳴らしながら、朝の福井の街を走っていたものである。

 大阪では、ほとんど各家庭の玄関前にごみを出しておけば、そのまま集めていってくれるようだ。けれども福井では、町内に一か所ごみステーションのようなものがあって、そこまで捨てにいかなければならない。あの澄んだピアノの音色が聞こえてくると、うちの親などは「あ、ごみ屋さんが来た」といって、慌ててごみを出しにいくということがあったような気がする。

 小学校の高学年ぐらいになって少しずつクラシック音楽への興味を深めてきたぼくは、ある名曲集のレコードのなかに「ごみ屋さんの音楽」が収録されているのを聞いて仰天した。解説を見てみると、この曲はバダジェフスカというポーランド人の少女が作曲したもので、『乙女の祈り』という、ごみとは何の関係もない美しいタイトルがつけられていることがわかった。

 夕食のときにそのことを話題にすると ― 食事中にごみの話をするな、と怒られやしないかとびくびくしながらであったが ― 父親はぼそりと「あのせいで、この曲の値打ちが下がってしまったな」といった。どうやら『乙女の祈り』はごみ収集車のBGMとしてふさわしくないのではないかということは、誰もが感じていることらしかった。

 (なおこれはぼくが福井に住んでいた20年以上前の話なので、今はどうなっているか知らない。)

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 社会人になって大阪に住んでみると、ここでは『乙女の祈り』の代わりに、和声のない奇妙な電子音のようなメロディーを鳴らしながらごみを集めていた。

 ぼくは最初、それが何の音なのかわからなかった。会社に出勤して仕事をしていると、その不快な、ひと昔前のゲーム機のような音楽を鳴らした車が窓の外を通り過ぎる。いったい何の音だろう、と不審に思っていると、隣の机で仕事をしていた笑顔もめったに見せない上司が、その音楽に合わせて鼻歌で唱和しはじめたのである。これは吉本新喜劇のテーマ曲と同じぐらい大阪人に親しまれている音楽にちがいないと思ったが、福井の『乙女の祈り』に相当するものだというのがわかったのは、少し経ってからだった。

 他の地域では、いったいどうなのかわからない。だが、ごみを集める際に音楽を流す必要がどこにあるのか、はなはだ疑問に思う。おそらくはごみの出し忘れを防ぐべく、「ごみを集めに来ましたよ」ということを周知するためなのだろうが、だったらもっとほかのやり方がありそうである。

 豆腐屋は、街へ売りにくるときに気の抜けたラッパを鳴らす。「笑点」のテーマ曲に出てくるような妙な音だが、あれはあれで人々の意識にとけ込んでいるといえそうだ。別のいい方でいえば“刷り込まれている”のかもしれないが、よくいえば音の風物詩にまで昇格している、ということだろう。

 屋台のラーメンといえば、物悲しいチャルメラがつきものである。あのメロディーは誰が考えたのか知らないが、いつの間にかわれわれの心にインプットされてしまっている。もしラーメン屋が流行歌を流しながらやって来たとしても、誰も気がつかないにちがいない。

 ぼくが子供のころに聞いた福井のかき氷屋は、おじさんの声で「さぁさぁいらっしゃい、お二階の百恵ちゃんも聖子ちゃんも、あわてて階段から落ちないように」などというジョークをいっていた。けれども、あの「ごみ屋さんの音楽」には、ぼくはまだ抵抗がある。もう少し人々の耳に優しい効果音を、誰か考えてはくれないだろうか。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

あたたかな静寂 ― ル・シダネルを回顧する ― (5)

2012年04月29日 | 美術随想

『コンコルド広場』(1909年、ウジェーヌ・ルロワ美術館蔵)

 フランスの画家であるにもかかわらず、ル・シダネルとパリとのあいだには一定の距離があるように思う。

 10代の終わりから20代のはじめにかけて絵を学ぶためにパリに滞在したのちは、32歳になるまでパリに住んでいない。その後も各地を転々としていて、長期間パリに定住しようとした様子がない。

 印象派のルノワールやピサロらはパリの都市景観を何枚も描いているし、もっと若い世代のユトリロや佐伯祐三、荻須高徳らもパリの街並みを主要なモチーフに据えていたことを考えると、パリはよほど絵心をくすぐる場所なのではないかと想像したくなるけれど、一概にそうともいえないようだ。ル・シダネルとパリとの相性があまりよくなかったのは、内向的な彼の性格のしからしむるところなのだろう。

 だが、例外的といってもいい作品がある。『コンコルド広場』は、いうまでもなくパリの名所が主題となっている(なお今回の展覧会ではル・シダネルの旅の道筋を跡づけるためか、舞台となった地名が作品名のあとに括弧つきで書かれていたが、コンコルド広場はパリである、と但し書きするのも馬鹿げているので、この記事のなかではすべて省いてある)。

 画面の上部に聳えるオベリスク。水を噴き上げつづける噴水。少し方向を変えれば、エッフェル塔も眼に飛び込んでくるはずだ。だが、画家は近代の象徴である鉄骨の建造物など描こうとはしなかった。

 都会的なものをぼかして表現するために、ル・シダネルは夜のパリを選んだ。雨が降っているのか地面は濡れているように見え、ガス灯や車の照明がぼんやりと映り込んでいる。前項の『運河』でみたような薄暗い川面の描写を、ここに応用しているのである。

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『月下の川沿いの家』(1920年、岐阜県美術館蔵)

 『月下の川沿いの家』はブルターニュ地方のカンペルレという土地の風景で、地図を見るとポン=タヴェンにほど近い。

 ポン=タヴェンといえば、かのゴーギャンらが画家たちのコロニーを形成した場所であり、美術史上忘れてはならないところである。あの特徴的な民族衣装は、フランスの他の地域にはみられないものだろう。暗色を敬遠してきた印象派主導のフランス絵画に、黒と白の激しいコントラストを持ち込むきっかけとなったのではないだろうか。昨年のワシントン・ナショナル・ギャラリーの展覧会でも、ゴーギャンのいっぷう変わった絵が出品されていた。


参考画像:ポール・ゴーギャン『ブルターニュの踊る少女たち、ポン=タヴェン』(1888年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)

 けれども、ル・シダネルが描いたブルターニュには、独自の民族色などかけらもない。城館のような白い建物と、その姿をおぼろげに映す夜の川は、いってみれば『コンコルド広場』とほとんど同じ手法で再現されている。

 このへんに、ル・シダネルという画家の限界をみることは間違いではない。だが、彼は嵐のように人生を駆け抜けるタイプではなくて、ゆっくりと、少しずつ変化を遂げる画家であった。このころ、ル・シダネルはすでに「薔薇の画家」へと生まれ変わりつつあったのである。

 血のかよった女性の頬にほんの少し赤みがさすように、彼の絵にも少しずつ明るい色が加わってくるのだ。

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あたたかな静寂 ― ル・シダネルを回顧する ― (4)

2012年04月28日 | 美術随想

『運河』(1904年、個人蔵)

 ル・シダネルの年譜を読んでいると、おもわず膝を打ってしまいそうになる一行があった。1892年、画家が30歳のとき、フリッツ・タウロヴ(Fritz Thaulow)と知り合う、とはっきり書かれていたのである。

 フリッツ・タウロヴといっても、ご存じない方がほとんどではないかと思う。いや、別の読み方で記憶されている方はあるかもしれない。この人物こそ、ぼくが8年前にある展覧会で観て以来ずっと気になってきた、ノルウェー生まれの知られざる風景画家のことだろう。

 2年前の東京旅行のおり、まったく偶然にこの人の絵を観た。ただし、そのときは名前が「フリッツ・トーロフ」となっていたので、ちっとも気がつかなかった。ちなみに彼の絵をはじめて観たときは、タヴロヴという表記になっていた。ウェブサイトをいろいろ調べてみると、トーロゥと書かれているのもある。つまりこのマイナーな画家は、日本語での読み方がまだ定着していないのである(このあたりのことについては、「テツの東京鑑賞旅行(11)」を参照していただきたい)。

 けれども、かの有名なゲーテだって昔は「ギョエテ」などと書かれていた時代もあったのだ。タウロヴが将来有名になり、ル・シダネルのように日本で回顧展が開かれるようなことがないとはいえない。そのときは、喜んで馳せ参じたいと思う。

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 ところで、ル・シダネルとタウロヴとがどういう関係にあったのか、そこまでは年譜に書かれていなかった。北欧に生まれた画家と、南の島国に生まれた画家が、どういうきっかけで知り合うようになったのだろうか。

 ひと気のない風景と、光を映して繊細に輝く水面は、双方に共通したモチーフである。おそらくは絵描きたちの欲望が渦巻いている画壇の空気を嫌って、郊外でぼんやりと自然を眺めたり、黄昏どきの光線の変化をたどったりするのが好きだったのではないかと思う。

 『運河』は、自然が満ちあふれた風景ではない。水の流れも人工のものなら、塀の向こうにのぞいている木々も、邸宅の庭に人工的に植えられたものだろう。窓のなかには明かりが灯され、そこにも人の気配がする。街なかの、ごくごくありふれた風景である。

 だが、そんな人間どもの生活に伴う薄汚いもの、不潔なものは、この運河の水にすべて流されてしまったかのように、ここには純粋で美しいものだけが描かれている。ル・シダネルもタウロヴも、都会を浄化する優れたフィルターを備えていたのにちがいないと思う。

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あたたかな静寂 ― ル・シダネルを回顧する ― (3)

2012年04月27日 | 美術随想

『朝』(1896年、ダンケルク美術館蔵)

 印象派の画家たちは水を愛したが、ル・シダネルにも多くの水辺の情景がある。ことに、前半生の作品にそれが著しい。

 『朝』は、静まり返った川面を花嫁のようなヴェールをかぶった女がひとり、ボートで連れて行かれるところに見える。船頭が乗っているとおぼしき船の先端は画面からはみ出していて、彼女がどういう状況に置かれているか、誰に連れられてどこへ行こうとしているのか、今ひとつよくわからない。いや、物語の説明をすることがル・シダネルの目的ではないのだから、そんなことは観る者の空想にまかせておけばいいのだろう。

 気になるのは、ほんのちょっとだけ朝日が当たっている花嫁の凛とした横顔である。といっても、その表情までは明らかでない。水が穏やかなせいか、彼女は両手を膝の上で組んで、姿勢を正して座っている。若さにつきものである心の動揺などといったものは、その様子からまったくうかがうことはできない。

 カバネルの弟子として画業をスタートさせたル・シダネルだが、この絵にはいかなる物語性も、センチメンタリズムもない。ただ、強く印象に残る情景がそこにあるばかりである。たとえば、同じ小船での情景を描いたピュヴィ・ド・シャヴァンヌの代表作『貧しき漁夫』と比べると、ル・シダネルにはいかに説明的な要素が少ないかがよくわかる。


参考画像:ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ『貧しき漁夫』(1881年、オルセー美術館蔵)

 水面に映る彼女の姿も曖昧模糊として、いかにもつかみどころがない。カバネルの画塾ではモデルをデッサンする授業があったのではないかと思うが、そういった経験はほとんど生かされていない。この絵を描いたときル・シダネルはすでに34歳になっていたけれども、まるで女性の体に近づき、克明に観察するのを避けているようでもある。あくまで想像でしかないが、ル・シダネルはかなり奥手な、内気な人間だったのではないかという気がする。

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『カミーユ・ル・シダネルの肖像』(1904年、個人蔵)

 そんなル・シダネルの身の上にも、燃えるような恋が訪れた。『朝』を描いてから2年後、カミーユという女性との結婚を反対された彼は、果敢にも愛の逃避行を試みる。『朝』のように船を使ったのだとしたら「つれて逃げてよ」「ついておいでよ」という演歌のひと節が思い浮かぶが、ふたりは国境を越えてベルギーまで行ってしまった。

 というと大袈裟に聞こえるけれど、モーリシャスから帰国後に多感な少年時代を過ごしたダンケルクという街はフランスの最北端で、ベルギーの眼と鼻の先であった。ル・シダネルにとっては、この程度の冒険が精いっぱいだったのだろう。これをきっかけにして、のちにル・シダネルはベルギーの風景をよく描くようになる。

 苦労して一緒になったカミーユは15歳も年下で、肖像画を観てもわかるとおり、非常にチャーミングな容姿の持ち主であった。最愛の女性をこれほどクローズアップで描くということは、控えめなル・シダネルにとって逃避行以上の大冒険だったかもしれない。もちろんその描写はおぼろげで、月の光に照らされているみたいに細部がはっきりしているわけではないが、カミーユの眼もとには夫に対する厚い信頼と、底なしの愛情があふれているように見える。

 プライベートな動機で描かれた作品かもしれないが、だからこそ彼の人物画の極北とでもいいたい一枚である。

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あたたかな静寂 ― ル・シダネルを回顧する ― (2)

2012年04月26日 | 美術随想

参考画像:『夕暮の小卓』(1921年、大原美術館蔵)
京都会場は不出品


 アンリ・ル・シダネルは1862年に生まれているから、あのグスタフ・クリムトと同い年である。ただ、クリムトが世紀末という時代の病理を一身に背負ったような刺激的な作品を次々と発表したのに比べ、ル・シダネルの絵画世界は時代の動きとほとんど結びついていない。

 美術史というのは、美術運動がいかに変遷したかをたどるものである。マネ、クリムト、マティス、ピカソといった次なる新しい絵画を切り拓いていった人物に関しては、多くのページが割かれるだろう。

 けれどもル・シダネルのように、美術の潮流から一歩引き下がったところで独自の創作活動をつづけた画家は、美術史の網からこぼれ落ちてしまう。彼が現在まで広く知られることがなかったのは、日本人が西洋美術に詳しくなったことの弊害だといってもいい。

 ただ、本人は決して世捨て人のような生き方をしたわけではなかった。誰からも認められないという不遇の画家でもなかった。洲之内徹の証言によれば、『夕暮の小卓』(今回は観ることが叶わなかった)は大原美術館の開館当初からコレクションに加わっていたそうだから、遠く離れた東洋の島国でも人眼に触れる場所に置かれていたのだ。

 ただ、“点”よりも“線”を追いかけることに熱心な日本の美術ファンのあいだでは、ル・シダネルにたどり着くきっかけがそもそもつかめなかったのだろうと思う。彼は絶海の孤島に浮かぶ、一輪の花のようなものなのだから。

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『帰りくる羊の群れ』(1889年、ひろしま美術館蔵)

 会場の入口をくぐると、予想に反して、とりあえずは人物を描いた絵が何枚も眼に飛び込んできたので安心した。いきなり「孤独のぬくもり」のなかに投げ込まれることはなさそうだ。

 彼の年譜を見ると、生まれたのは南洋のモーリシャスである(驚いたことに、彼自身が絶海の孤島の出身なのであった)。ぼくにはほとんど馴染みがない国だが、「インド洋の貴婦人」と称されるほどの澄んだ青い海と白い砂に恵まれた島国だそうだ。父親は船乗りだったというから、仕事の関係でフランス本土を離れていたらしい。

 けれども、こういった生い立ちがル・シダネルの作風と関係があるとは思えない。ただ、のちに理想の住みかを求めて各地を転々とした彼の生き方は、父のDNAを受け継いでいたのではないかという気もする。その父親も、アンリが18歳のときに海の藻屑となってしまった。彼に孤独の影が差すのは、このときからではなかろうか。

 父が死んだ同じ年、ル・シダネルはアレクサンドル・カバネルの塾に入っている。カバネルといえば、今では印象派の眼のかたきのようにいわれている官展の大御所だ(「五十点美術館 No.19」参照)。だが、後年の作風をたどっていくと、カバネルよりは印象派に多くを学んでいるように思われる。少なくとも、人物を理想化して描くようなことは、ル・シダネルにはおよそありそうもない話であろう。

 ただ、初期の『帰りくる羊の群れ』を観ると、人物の明確な造形力や、極端な奥行きが眼につく。これは、のちのル・シダネルがことごとく手放してしまう手法だが、それ以上に、ミレーの『羊飼いの少女』との類似点に気づかないわけにはいかない。杖を手にした少女のポーズなども、そっくりだ。


参考画像:ジャン=フランソワ・ミレー『羊飼いの少女』(1864年、オルセー美術館蔵)

 芸術の中心地としての都会パリの喧噪が、ル・シダネルは好きになれなかったのだろう。アカデミックな神々や高貴な人物の像などではなく、描くべきモチーフを“周縁”に求めようとした時点で、彼はみずから旅人となるべき人生に足を踏み入れたのである。

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