てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

幻になったコンサート(4)

2011年06月15日 | その他の随想


 さて、このたびドレスデン・フィルとともに来日するはずだった指揮者は、音楽監督のラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスだった。その道に詳しくない人には、何だか舌を噛みそうな長ったらしい名前だなと思えるかもしれないが、クラシックに親しんできた人間には馴染みがある。ただ、ラジオのFM放送で演奏に耳を傾けたことがあるだけで、その生きて動く姿を見たわけではなく、CDすら持っていない。けれども日本にはしばしば来ていて、読売日本交響楽団の名誉指揮者でもある。

 はじめてこの人の名前を眼にしたら、いったいどこの国の人か、と考えさせられるだろう。実際は父親がドイツ人、母親がスペイン人で、本名はラファエル・フリューベックという。「デ・ブルゴス」というのは、彼が生まれたスペインの地名にちなんでいるそうだ。つまりイタリアのヴィンチ村に生まれたレオナルドが、レオナルド・ダ・ヴィンチと呼び習わされているのと同じである。最初はスペインで音楽を学び、のちドイツに留学したという経歴の持ち主で、ドイツやオーストリアの楽団のシェフを転々とした挙げ句、現在のポストにたどり着いたのであろう。

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 実は『ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿』のなかにも、彼の名前が1か所だけ出てきた。出典によるとその記事は昭和46年、ぼくが北陸の片田舎にオギャーと生まれ落ちた年の12月に書かれているようだが、その年に吉田秀和はまたヨーロッパに出向いていて、記述のあるだけでもワルシャワ・プラハ・ウィーン・ロンドンとまわり、ベルリンで年を越したとある。何ともまあ、呆れるほど活動的というか、行動的である。21世紀の今、こうやってクラシックの本場で、足を棒にして“音楽行脚”をする評論家がどれだけいるだろうか?

 さて、吉田はブルゴスの指揮を、ベルリン・フィルではじめて聴いたのだった。ただ、その長くてややこしい名前は、「ラファエル・フリューベック・フォン・ブルゴス」と書かれている。フォンというのは、ヘルベルト・フォン・カラヤンしかり、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテしかりで、ドイツ人の名前につく。若かりしラファエル・フリューベックは、スペインの故郷を名前の末尾にくっつけながら、どこかでドイツ人を気取っていたのかもしれぬ。もっと穿った見方をすれば、すでに長らくベルリン・フィル首席指揮者のポストにあったフォン・カラヤンの向こうを張って、あえて「フォン・ブルゴス」と名乗ったのかもしれぬ。

 そういえばカラヤンも、よく考えると国籍不明の名前である。彼が日本で指揮者の代名詞のようになったのも、ちょっと大阪弁を連想させるようなその風変わりな名前に一因があるのではないかという気がする。よく知られているようにカラヤンの生まれはオーストリアのザルツブルクだが、先祖をたどってみるとギリシャ系の人物に行き当たるという。ヘルベルトのひいひいお祖父さんにあたる人がドイツに出てきて爵位をたまわり、「フォン・カラヤン」となったそうだ。そしてその高貴な名前が、いかにも貴族的な風貌のカリスマ指揮者の評判に輪をかけ、ついには“帝王”と呼ばれる地位にまで導いたというのは、まんざら荒唐無稽な話とはいえないだろう。

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 話は戻るが、昭和46年(というより1971年というべきだろうが)のベルリンでフォン・ブルゴスが振ったのは、グリンカの『ルスランとリュドミラ』序曲、ボストン響の指揮者だったクーセヴィツキーのコントラバス協奏曲(滅多に演奏されない珍曲!)、そして『幻想交響曲』であったという。

 『幻想』は、今でもブルゴスが得意としているレパートリーだそうだ。ぼくもいつかは一度聴いてみたいものだが、そのときはドレスデンのオーケストラじゃないほうがいいかな、などと勝手なことを思ってもみるのである。

(画像は記事と関係ありません)

(了)

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幻になったコンサート(3)

2011年06月14日 | その他の随想

吉田秀和『ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿』(中公文庫)

 ところで、ぼくは福島原発事故に対する政府の対応に文句をいうために、この稿を起こしたのではない。演奏家の来日予定がいくつもキャンセルになるという事態は、今から数十年前には考えられない話であった。いわば今回の一連のできごとは、思いがけないかたちではあるが、日本におけるクラシック音楽受容の移り変わりというか、いわゆる“音楽シーン” ― ぼくはこの言葉が決して好きではないが ― の劇的な変貌ぶりを改めて浮かび上がらせる結果となった。

 ドレスデン・フィルの公演中止のニュースを聞いたとき、ぼくはちょうど吉田秀和の『ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿』(新潮社、のち中公文庫に収録)を読んでいた。すでに本屋では見つけることができないだろうこの本を、ぼくは古書店で初版本・文庫本ともに手に入れていたのだ。

 もうじき98歳を迎えようという吉田が、昭和43年に「藝術新潮」誌に連載していた評論を中心にまとめられたこの本は、しかしただの音楽評論集というわけではない。

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 昭和43年というとぼくが生まれる3年前で、考えてみれば時代は東京オリンピックと大阪万博のあいだ、先進諸国への仲間入りを果たさんとして国を挙げておこなわれたお祭り騒ぎの、その狭間である。吉田は当時、招かれて1年間を西ベルリンに過ごし、少し足をのばしてザルツブルク音楽祭を聴くなど、積極的に“耳目”を広めた。その折々の所感が記されているのが、文字どおり『ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿』というわけだ。

 最近では海外の名門オーケストラがひっきりなしに日本を訪れてくるが、当時はそんなことはなく、もちろん録音もまだ少なかったので、評論家みずからがヨーロッパに乗り込んでいったのである。そこでカラヤンやベーム、バーンスタインといった指揮者のスターたちや、最晩年を迎えていた“鍵盤の獅子王”バックハウスのピアノを聴いた話などが出てくる。このなかで最も若かったバーンスタイン ― 吉田より5歳も年下だ ― が亡くなってからでも20年以上過ぎているので、隔世の感にうたれると同時に、その間ずっと音楽を聴きつづけてきた吉田秀和という人間の存在には、どうしても敬意を表したくなってしまう。

 ただ、彼は巨匠の演奏ばかり聴いていたわけではない。若手のコンサートにも貪欲に足を運び、日本に少しでもその存在を知らしめようと努力している様子がうかがえる。なかには最近とんと名前を聞かなくなったような人もあるが、そのうちの何人かは、すでに音楽界を代表する名手にのぼりつめているのである。

 たとえば「ピアノの若獅子たち」という文章 ― これはもちろんバックハウスのあだ名にちなんだタイトルだろうが ― のなかでは、ベルリンで聴いた若いピアニスト4人について書いている。彼らは当時まだ20代で、早熟の天才の多いピアノの世界でも駆け出しといっていいだろうが、そのメンツがすごい。アンドレ・ワッツ、クリストフ・エッシェンバッハ、マルタ・アルゲリチ、ブルーノ・レオナルド・ゲルバー。今では泣く子も黙る、ピアニストの頂点に君臨する人たちではないか(エッシェンバッハは指揮者に転向してしまったが)。

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 われわれにとっての“同時代の名手”を、まだ若い芽や蕾のころからヨーロッパで聴いていた吉田秀和。アルゲリチの演奏会のとき、ちょうど真後ろの席にゲルバーが座っていて、曲が終わるごとに真っ先に拍手をしていたこと、しかもその拍手の力強さから、掌の厚い皮膚と訓練された筋肉の存在を感じ取ったこと。こんなエピソードも、現地で暮らした評論家ならではのものだし、海外からお客として招かれた演奏家をありがたがって聴いている現代のわれわれにとっては、まことに遠い世界の話だという感じが否めない。

 ただこのとき、アルゲリチはまだ26歳ぐらいだったはずだが、その3年前には、ショパン・コンクールで栄冠を勝ち取っていた。さらにそれより前には、結婚して出産、そしてバツイチにもなっていた! 吉田がそのことを知っていたか否か、本のなかでは何も触れられていないが・・・。

 そんなアルゲリチも、つい先日、70歳を迎えたという。狐につままれたような思いがする。

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幻になったコンサート(2)

2011年06月13日 | その他の随想

〔幻に終わったドレスデン・フィル演奏会のチケット〕

 だが先日、ドレスデン・フィルの来日公演が中止になったことが突然発表された。ぼくはたまたまインターネットのニュースでそれを知ったのだが、全然予想もしていないことだった。チケットセンターからわざわざ電話がかかってきもした。もちろん、払い戻しの案内である。

 震災にともなう原発問題の長期化を受けて、海外からの観光客が格段に減ったという話は聞いていた。ぼくも4月ごろに京都へ出かけた際、いつもあれだけ眼にする外国人の姿がほとんどなく、街が異常にがらんとしているのに驚いたことがある。だが、徐々に改善されるものと思っていた。人の噂も七十五日、風評被害もそのうち消えてなくなるだろう、ぐらいに甘く考えていた。現にわが家の近所のスーパーでは、福島産の野菜なども少しずつ売られるようになっていたからだ。

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 だが、当のオーケストラを招聘した会社がホームページに掲載した告知文によると、海外での反応は想像以上に厳しいようである。

 《この情勢下、弊社はドレスデン市とも話し合い、団員の精神的不安感を軽減するための様々な対応を協議してまいりましたが、原発事故以降の不安定な情勢が依然変わらず、また5月中旬のメルトダウン報道及び、5号機の冷却機能一部停止などが現地でも報道されたことで日本の報道に対する疑念が膨らみ、来日の意思に傾いていた団員にも大きな影響を与えました。これによって来日を表明する団員が過半数に満たなかったため、楽団としても日本ツアーを中止せざるをえないという決断となり、弊社といたしましても大変遺憾ではございますが、来日中止を決定した次第です。》(株式会社ジャパン・アーツのホームページより)

 もちろんこのオーケストラ以外にも、来日を見送った団体や演奏家はある。それどころか、海外の美術館が日本への作品貸し出しを見合わせるという事態も起こった。たとえば、横浜・名古屋・神戸で開催される予定だった「プーシキン美術館展」は、ルノワールの『ジャンヌ・サマリーの肖像』を“目玉商品”に据え、関東ではすでに大々的な宣伝活動を展開していたという。だが、東北地方に巡回するわけでもないのに、すべての展覧会が中止となった。

 膨大な広告料は水泡に帰し、すでに編集を終えていたにちがいない図録は日の眼を見ることができず、雑誌の特集やテレビの特番などの予定も差し替えられたことだろう。おそらく著名人によって録音されていたにちがいない音声ガイドも、お蔵入りとなってしまった(ついでにいえば、あわせて「音声ガイド貸出スタッフ」なるものも募集されていた由だが、その仕事もなくなってしまった。ちなみに、募集広告によると時給は830円だそうだ。神奈川県のホームページを調べてみると、最低賃金は818円ということだから、ほとんど変わらないではないか! 今度からは、彼女たちを見る眼が少し変わりそうである)。

 なお主催者によると、この展覧会は数年後をメドに実現させたいという話だ。しかし原発事故がいまだ終息していない以上、「数年後」がいつになるのかはわからない。まだ、スタート地点にさえつけない段階であるから。


〔今年来日する予定だったルノワールの『ジャンヌ・サマリーの肖像』(プーシキン美術館蔵)。この愛らしい女性に会えるのはいつのことになるのだろうか〕

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 それにしても、原発の問題はいつになったら終わるのか。時の総理は「一定のメドがついた時点で退陣する」と明言したそうな。しかしその「一定のメドがつく」のがいつなのか、そのメドがそもそも立っていない。

 震災から、そして原発事故から3か月。これはかなりの時間が経過したことを意味するが、では今までに何が変わったのか。いや、変わっていないのか。上のジャパン・アーツの文のなかで読み過ごせないのは、「団員は来日の意思に傾いていたが、その後の現地からの報道が疑念を生み、過半数の団員が来日の意欲を失った」ということである。こんなことを繰り返していては、いつまで経っても、誰も来てくれないではないか。

 今年の後半から来年にかけても、すでに大勢の音楽家が来日を予定しており、また海外から多数の美術品が海を渡ることになっているはずだ(特筆すべきはプラドから来るゴヤの『着衣のマハ』など)。しかし今の状況では、いつ中止になるかわかったものではないし、もしそうなっても簡単に穴埋めできるものではなく、美術館やコンサートホールは苦慮していることだろう。

 かくいうぼくも、マハに会うために東京へ行く計画を立てるべきか否か、現段階ではどちらとも判断しがたいのである。

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幻になったコンサート(1)

2011年06月12日 | その他の随想


 このたび生まれてはじめて、「チケットの払い戻し」なるものを経験することになった。出演者が急病になるとか、不可抗力によってコンサートが中止され、払い戻しされるというケースがしばしばあるのを知ってはいた。しかしまさか、自分がそういう目にあおうとは・・・。

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 ぼくの家はおカネがありあまっているという状態ではないので、以前あれだけ好きだったクラシックのコンサートに出かけるのも、今では稀なことだ。しかも、最高ランクの席で3000円からせいぜい5000円ぐらいの、比較的安いコンサートを選んで ― もちろん演奏者の名前や曲目も吟味したうえで ― 妻とふたりで出かけるのである。

 廉価なコンサートというと、どうしても国内のアーティストに限られてくる。さすがに巨匠クラスの人や名門オーケストラともなると、相当の出費を覚悟せねばならず、日常生活に支障をきたさないともいいきれない。

 だが、ときにはやはり音楽の本場、ヨーロッパからやってきた演奏家をナマで聴いてみたくなる。いくら日本人の技術が進歩したところで、音楽にこもるスピリットというか、理屈では解明できない部分で、どうしても太刀打ちできない部分があるのは否定しがたいからだ。たとえばドイツ音楽を聴くときは、何があっても絶対にドイツ人の演奏で聴くべきだとはいわないが、ドイツ人による演奏を一度も聴かずして、ベートーヴェンやブラームスについてあれやこれや考えても、それは空しいことかもしれない、ということである。

 別の角度からいえば、日本人が毎年のように各地で『第九』を聴いたり歌ったりするのは結構だが、改めてドイツのオーケストラが演奏した『第九』に ― たとえCDであれ ― 耳を傾けてみると、これまで自分たちがやっていたのとはちがう新しい側面が発見できるのではないか、ということにもなる。年中行事のように『第九』の合唱に参加することを自分に課し、なおかつ喜びにしているひとは、他者の『第九』の演奏をじっくり鑑賞したことがどれだけあるだろうか?

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 かくして、思い切ってドイツのオーケストラの来日公演のチケットを買った。ドレスデン・フィルである。ドレスデンというともうひとつ、シュターツカペレ ― NHKでは「ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」と呼ぶのだったか? ― という古参オーケストラがあって紛らわしいのだが、それほどの超のつく名門というわけではないだろう。ただ、ドレスデン・フィルはあのベルリン・フィルよりも少し歴史が古いようだ。

 料金は、A席で10000円×2枚だった。今の経済状況では、かなり思い切った出費だといわざるをえない。けれどもプログラムがあの『運命』だとなると、これは是非聴いておいてみたくなる。この曲はクラシックの定番であり、いやでも耳にする機会が多いが、それと同時にドイツ音楽の代名詞でもある。小さな煉瓦を積み上げて大聖堂を築くように一分の隙もなく、緻密で論理的に構成されたような交響曲が、おいそれと日本人の感性に馴染むわけはないと、ぼくはどこかで思っているのだ。

 妻とよく相談のうえ、チケットを“大枚はたいて”買ったのが、今年の1月25日。ドレスデン・フィルが大阪に来演するのが6月25日だから、ちょうど5か月前になる。以来、ぼくたちはその日を楽しみにしていた。日ごろ音楽に触れることが少なくなっていながら、あとしばらく待てばドイツのオーケストラでベートーヴェンを聴けるということが、毎日の味気ない生活にある種の希望と、同時に一抹の緊張さえもたらしてくれるような気がしたのである。

(画像は記事と関係ありません)

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動物を彫るということ(3)

2011年06月08日 | 美術随想

参考画像:バリー・フラナガン『ボールをつかむ鉤爪の上の野兎』(大山崎山荘美術館蔵)

 動物の彫刻というと、もうひとり思い出す人がある。バリー・フラナガンである。決してポピュラーな名前ではないかもしれないし、かくいうぼくも彼がイギリスに生まれて、2年ほど前に没したということぐらいしか知らないのだが、その世界は一度観たら忘れられない印象を残す。

 ぼくは京都と大阪の境目近くにある大山崎山荘で、彼の作品にはじめて会った(そう、“観た”というよりも“会った”といいたくなるのである)。美術館の建物から少し離れて、がらんとした広場のすみっこに、細くて俊敏そうな足を危ういバランスで直立させたかっこうで、まるで球乗りでもしているように立っていた。最初はそれが彫刻作品だとは思わず、子供向けの遊具か何かだろうと思っていたのだが、近づいてみるとタイトルを記したプレートが地面に埋め込まれていて、『ボールをつかむ鉤爪の上の野兎(Hare on Ball and Claw)』という、まるで作品のかたちそのものみたいにひょろ長い感じの題名がついていた。

 その後、何かの展覧会を観るために名古屋へ出かけたとき、美術館がある白川公園の歩道脇に同じ兎がいるのを見つけた(写真下)。当時ここはブルーシートで覆われた家が密集し、マネキンの首が市民を威嚇するように並べられていて ― そのかわり生きた“住人”の姿は滅多に見かけなかったのだが! ― ぴょんと跳ね上がろうとするフラナガンの兎も窮屈そうで、どことなく居心地が悪かろうという感じだった。しかしやがてそれらの住居(?)は撤去され、跡地にはシャガの花が植えられ、今では花畑のなかから野兎が顔をのぞかせるような童話的な風情も醸し出されている。



 思わず“童話的”と書いてしまったが、ぼくにはこの兎が、メルヘンやファンタジーという衣をまとっているようにしか見えないのだ。確証はないけれど、この彫刻家がイギリス出身であることが、何よりもそれを証拠立ててくれる気がする。『不思議の国のアリス』や『ピーターラビット』を生んだ国から、フラナガンの兎が不意に跳び出してきても、何の不思議もないではないか?

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〔元校舎内の廊下は歩くと軋む〕

 三沢厚彦の動物たちも、非現実の世界に生きているといえる。少なくとも、動物園で眼にするとおりのリアルな生態を感じさせたりはしないし、ましてや野生のそれではない。だが、フラナガンのメルヘンティックな兎とは決定的にちがう。三沢も兎の像を作っているが、それは跳躍しているのではなく、まるで標本のように不器用な姿勢で直立(というよりは“気をつけ”)をしていたりする。

 作者は実際に動いている動物を観察するのではなく、図鑑に載っている静止したイメージから作品を作り上げる、といっていた。なるほど、彼らは“動くことを忘れた動物”である。フラナガンの兎が、重力をものともせず宙に伸び上がるような軽快な動きを感じさせるのとは対照的に、三沢の動物は引力の法則に従順なのだ。

 けれども、三沢のギャラリートークについて歩いて最後の展示室に入ったとき、ぼくは戸惑ってしまった。そこにいたのは、大きなペガサスだった。馬の姿をしているが、もちろん現実の動物ではない。だからといって、メルヘンの世界の住人でもない。実際、そのペガサスは可愛らしいというよりも、本物の馬よりはるかに大きく感じられ ― もちろん翼があるからだが ― 迫力がある。そしてその表情は、決してわれわれに媚びを売るではなく、自分の世界に没入しきっているかのようである。眼を合わせようとしても、合わせてはくれないのだ。

 ペガサスの翼は、今にも飛翔しようというように、大きく広げられていた。しかし、その重そうな体が持ち上がるとはどうしても思えないし、4本の脚はしっかり地面についていて、助走をはじめようという様子もない。だいたい彼はギャラリーの四角く殺風景な部屋に閉じ込められていて、いわば自由を束縛されているのである。そんなペガサスを何十人という観衆が取り囲んでしげしげと眺めているのは、考えてみればちょっと残酷な時間であった。

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〔かつての校庭には子供たちの声がこだましていたのだろう〕

 しばらく散歩して時間をつぶしてから、人が少なくなったギャラリーにもう一度行ってみた。ペガサスは相変わらず、誰にも愛嬌などふりまくものかといった感じで、部屋の真ん中にむっつりと立っている。ふと壁を見ると、小さなヤモリがくっついていた。これも三沢厚彦の彫刻である。

 壁を這い上がって、飛べないペガサスを高みから見下ろすヤモリ。井伏鱒二の『山椒魚』を連想させるような、奇妙な共同生活がそこにはひっそりと営まれているような気がした。

(了)


DATA:
 「Meet The Animals ― ホームルーム」
 2011年4月10日~5月22日
 京都芸術センター

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