てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

涼と寂を求めて ― 無帽で無謀な嵯峨野めぐり ― (3)

2008年07月26日 | 写真記


 寂庵を辞去して(といっても玄関から一歩も入ってはいないが)、そろそろ帰ろうかとも思う。バス停からここまででも相当歩いてきたが、同じ距離をふたたび歩いて引き返すことを考えると、少々気が重くなる。以前から痛めている右膝がだんだんうずいてきた。夜勤の無茶な仕事でボロボロになった体は、そう簡単には元通りになってくれないようだ。

 実をいうと、この日は愛宕(おたぎ)念仏寺まで行けたらいいなと思っていた。嵯峨野のどん詰まりというか、かなり奥まったところにあるのだが、歩いていくにはちょっと遠すぎるかもしれない。西村公朝(こうちょう)さんという仏師の方が住職をしておられた寺で、ちょうど1か月前に吹田市立博物館というところで西村さんの展覧会を観ていた(同館の初代館長が西村さんだった)。愛宕念仏寺の仏像もいくつか出品されていて、いつかはその寺を訪ねてみたかったのである。

 ぼくは仏教徒ではないが、それでもなぜか瀬戸内寂聴さんの次ぐらいに、西村さんのことが好きだった。清凉寺の生き身のお釈迦様を知ったのも、西村さんが案内役を務めていたNHKのテレビ番組がきっかけだった。残念ながら彼は5年前に亡くなったが、彫刻家を経て仏師になったというその生きざまには惹かれるものを感じる。西村さんのことは、また改めて書くこともあるだろう。

                    ***

 嵯峨野にはもうひとつ、化野(あだしの)念仏寺というのもある。寂庵から少し西へ戻りかけると、化野まで3分という看板が眼についた。炎天下の外歩きにはかなり参っていたが、カップラーメンができあがるのと同じ時間だけ我慢して歩けばそこに着けるのかと思うと、俄然行ってみようかという気になった。

 道行く人は、ほとんどいない。暇をもてあましたタクシーの運転手が、道端で缶ジュースを立ち飲みしている。何軒か並んだ土産物屋をのぞいてみても、退屈そうな店員がぽつんと座っているばかりだ。そろそろ3分経ったかと思うころ、ぼくがたどり着いたのは念仏寺の境内ではなく、長い石段ののぼり口だった。あとひと息、と自分を励ましながら、重い足を運んだ。

 ここはよく知られた寺だが、受付を通って中に入っても、突然大きな伽藍が出迎えてくれるというわけではない。それもそのはず、化野の地は古来、鳥辺野と並ぶ風葬の地であった。風葬というのは遺体を野ざらしにして、肉体が風化するのを待つという弔いの方法である。鳥辺野あたりは今でも六道の辻といって、冥界の入口があるのだといわれ、歌人の小野篁(おののたかむら)は井戸を通って現世と地獄を自在に往還していたという伝説もあるが、けだし化野も冥土の一丁目というか、あの世への控えの間といったおもむきなのであろう。

 矢印に従って歩いていくと、すでに道端に何体もの石仏が置かれているのが眼に入る。よく思い出してみると、金閣寺や清水寺のように騒々しい観光スポットと化している寺院には、むき出しのまま安置されている仏像はほとんどない。いわば仏たちは奥まったところに隠されていて、死人を葬るという本来の生々しい目的は、文化財とか歴史とかいうあたりさわりのないキーワードに置き換えられている。修学旅行生や外国からのお客を受け入れるには、それは必要なことなのである。

 しかしここ化野念仏寺を訪れると、いやでも“死”というものに向き合わざるを得ない。あるいは、死後の世界に思いを致さざるを得ない。それは仏教を信じると信じないとにかかわらず、すべての人間にとって切実な問題であり、身近なことがらでもあるのだ。ただ、普段の生活にまぎれて忘却しているだけである。


〔石段をのぼって境内へと向かう〕


〔石を積み上げた仏舎利塔。インドのスタイルだという〕


〔エキゾチックな鳥居〕


〔派手な衣をまとった無縁仏〕

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 かつて遺骸が野ざらしになっていた化野に、寺院を建立してねんごろに死者を葬ったのは空海だという。しかし今でも、地面に死者たちのエキスが染み込んでいるかのようである。往時を髣髴とさせるのが、8000体もの石仏が整然と居並ぶ西院(さい)の河原の存在だ。

 低い石塔に囲まれた四角い地所のなかに、かたちも大きさもまちまちな石仏がずらりと整列している。石仏というと、何だか無造作に置かれているような印象があっただけに、奇妙な眺めではある。不定形のものが幾何学的な美しさで並んでいるのを見ると、見事な列をなして植えられた田んぼの風景が思い出される。同じものはふたつとないが、それらがある秩序を保って構成されているのを俯瞰するとき、ふと世の中の縮図を眺めているような気にもさせられる。

 現代風にいうと、ここはある種のテーマパークといってもいいだろう。あの世が立体的に表現された、バーチャルな空間だといってもいいだろう。ただ、遊園地のお化け屋敷なんかよりも、より切実な怖さがある。石仏に囲まれてひとりたたずんでいると、累々たる死者たちの声なき声が蝉時雨を圧して地の底から湧き上がってくるような感じさえする。眼に見え、手に触れることができるような死後の世界のイメージが、たちまちのうちに人を孤立させる。西院の河原に足を踏み入れた人は、いってみれば数え切れないほどのあの世の“先輩”たちに取り巻かれたまま、なすすべもなく立ち尽くすしかないのである。


〔ずらりと並べられた石仏たち〕


〔中央にはひときわ高い石塔がそびえる〕


〔墓地へと向かう道は竹林に囲まれていた〕

                    ***

 ところが、ぼくはまだ生きている。これからも生きねばならない。この日は昏倒してもおかしくないほどの厳しい暑さにさいなまれながらあちこちさまよったが、それでも焦熱地獄の熱さよりはましであろう。

 嵯峨野散策の終わりに死者の園にまぎれ込んだぼくは、そこでささやかな生きる意志のようなものをさずかった気がした。それを手放すまいと後生大事に抱きかかえながら、ふたたび嵯峨野をてくてく歩いて帰途についた。

(了)

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涼と寂を求めて ― 無帽で無謀な嵯峨野めぐり ― (2)

2008年07月23日 | 写真記


 実をいうとこの日、猛暑を押しての嵯峨野散策を思い立ったのは、清凉寺に行きたかったからではなかった。本当の目的地は、別にあった。エアコンの効いた室内でだらだらしているよりも、天然の涼しさを求めて外へ出るほうが健康的なことにちがいない。もっとも、最近のテレビは外出をなるべく控えろといい、家のなかでは冷房をつけるのを控えろという。何だか矛盾しているような気がする。

 前の晩、京都のガイドブックをなにげなくめくっていると(京都市民のくせにこの種の本が手放せないのが情けないところだが)、祇王寺というのが眼についた。おそらく紅葉の名所であり、これまでも名前を聞いたことはあったのだが、ものぐさなことに場所を確かめたことがなく、もちろん行ったこともなかった。何となしに、うんと山奥のほうだろうという気がしていたのだが、それはテレビや雑誌などで断片的に植えつけられた生半可な知識によるものだったろう。地図で調べてみると、清凉寺から歩いて数分の距離にその寺はあった。

 平家物語ゆかりの場所である。祇王という名の白拍子は平清盛の寵愛を受けるが、のちに見捨てられ、尼となって母や妹とともにこの草庵に隠棲したという。だがそんな由来はさておいても、ふかふかのじゅうたんのごとく豊かな苔をたたえた庭に、木々の茂りが折り重なって影を落としている写真を見て、ぼくは一も二もなくこの寺に出かけたくなってしまったのだ。

                    ***

 酷暑のせいか、駅からもうだいぶ離れているせいか、このへんまで来ると観光客はまばらである。けれど、ときたますれちがう人たちとの間には、厳しい暑さにもかかわらず嵯峨野めぐりを心底楽しんでいるのだという奇妙な連帯感のようなものが芽生えている感じがする。

 ほどなく祇王寺の看板が見え、あまり整備されていない階段をのぼって庭内に足を踏み入れた。木の梢にさえぎられた日の光がソフトフォーカスをかけたように柔らかく、静かではあるが豊潤な気のようなものがあたりいちめんを満たしていて、息がつまるようだった。


〔木立をくぐると祇王寺の入口があった〕


〔木漏れ日が苔を染め上げる〕


〔周囲は竹林に取り囲まれていた〕


〔さびれた茅葺の門がたたずむ〕


〔女たちの供養塔(左)と清盛の供養塔が並んで建つ〕

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 ここまで来たついでといっては何だが、ちょっと立ち寄ってみたいところがあった。ただ、普通の開かれた寺院とはちがうので、行っても中には入れてもらえないだろう。それでも、一度はその門の前に立ってみたかった。瀬戸内寂聴さんが結んだ寂庵がこのへんにあることを知っていたのだ。

 祇王寺を出ると、まるで洗濯機に放り込まれたかのように、たちまち暑熱の渦に巻きつかれるのを感じた。それでも汗をぬぐいながら、家にあった地図を頼りに寂庵を目指す。地図の表紙を見ると、97年版と書いてあった。ぼくがまだ京都に住み着く前に買い求めたものである。しかし都会の真ん中ではないので大きな変化はなく、さしたる不便は感じない。

 北への一本道をしばらく歩くと、のどかな田園風景のただなかに出た。風がほとんどないので爽やかとはいかないが、見晴らしがいい。ついに、道端に「嵯峨野 寂庵」と書かれた板切れを見つけた。うっかりしていると見落としてしまいそうな、小さな看板である。

 その指し示すほうに向かって進んでいくと、見覚えのある門に出くわした。ぼくは昨年、寂聴さんの展覧会で寂庵の入口を再現したものを見ているのですぐにそれとわかったが、有名人の自宅にありがちな豪壮な構えではなく、いかにも質素なつくりだった。

 戸は固く閉ざされていたが、格子の隙間から向こう側を垣間見ることができた。小さな石仏が置かれている以外は、京都の街外れにありがちな住居のたたずまいだった。ここで待っていれば寂聴さんが出てくると思ったわけではないが、ぼくは何となく立ち去りがたく、しばらくその場にたたずんでいた。


〔青々とした田んぼのなかを通る〕


〔寂庵の玄関。竹筒の投句箱がかかっていた〕


〔作家の井上光晴が揮毫した表札〕

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 実はここに向かって歩いている途中、1台のタクシーがぼくを追い抜いていったと思うと、寂庵の前に停車するのが見えた。ここには人生相談に来る人が後を絶たないという話を聞いたことがあるし(その一部はNHKで放送され、書籍化もされている)、写経の会も開かれているそうなので、そのための来客かと思っていると、おばさんがふたりタクシーから降りてきて、玄関を背にして並んで立った。運転手も心得たもので、駆け出さんばかりに運転席から降りるとカメラを構え、記念写真を撮っただけで飛ぶように帰っていってしまった。

 なるほど、こういう観光のしかたもあるものか、とぼくは考えた。このおばさんたちは、どう考えても寂聴さんの熱心な読者だとは思えなかった。おそらく名前と顔ぐらいしか知らないのではなかろうか。

 タクシーで乗りつけ、つまみ食いをするみたいに写真だけ撮って去っていく。ここを訪れたという“記録”は残るが、“記憶”はまったく残らないだろう。それで満足できる人は、世の中を調子よく渡っていける人かもしれない。本来ならば、寂庵などに縁もゆかりもないはずの人かもしれない。

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涼と寂を求めて ― 無帽で無謀な嵯峨野めぐり ― (1)

2008年07月22日 | 写真記


 転職してから初の祝日であり、3連休である。年齢のせいか、新しい職場に順応するのがなかなか難しい。先週の月火水と、熱心に祇園祭の宵山にかよったが、今思えば一種の現実逃避だったかもしれない。

 この連休も、精力的にあちこち出かけた。少しは家の片付けをして、体も休め、明日への英気を養わなければとも思ったのだが、気がつくと炎天下を帽子もかぶらずほっつき歩いているのである。こんなことをつづけていると、そのうち熱中症でぶっ倒れてしまうのではないかという気もするが、家でじっとしていることができない性分なのだからやむを得ない。

 その代わりといっては何だが、最近は眠りが異常に深く、熱帯夜であっても寝苦しいと思うことはない。というより、寝ようと思わなくてもいつの間にか寝てしまっている。音楽を聴きながらゆっくり眠りにつこうと思っても、1曲目が終わらないうちに意識がなくなっている。

 こんなわけでブログの更新も途切れがちになっており、書きかけの記事が山積しているが、義務感にさいなまれて自分を追い込むのもどうかと思うので、マイペースで進めることにした。このところ美術に関する記事が減っていることにも気づいているが、夏休みということで大目に見ていただきたい(美術館行脚は、相変わらずつづけている)。

                    ***

 連休の最終日、酷暑にもかかわらず嵯峨野を散策した。京都を代表する観光地といってもいい嵐山には、ぼくの家から電車で10分足らずで行ける。しかしトロッコ列車に乗ったこともなければ、保津川下りをしたこともなく、奥嵯峨野あたりまで足をのばしたこともあまりない。要するに、知らないところが多すぎるのだ。

 嵯峨野は歩いてめぐるか、あるいはレンタサイクルで周遊するか、ふところに余裕のある人は人力車を利用するのもいいかもしれないが、今度ばかりはあまりの暑さのため阪急嵐山駅前からバスに乗った。京都の路線バスは混んでいるので辟易することが多いが、京都駅方面から嵯峨野を目指してくる便はすいていた。生まれてはじめてバスで渡月橋を渡り、多くの観光客たちをあっという間に追い抜いて、嵯峨釈迦堂前というバス停で降りた。とりあえずここを拠点にして、これから先は意を決して歩いてやろうと覚悟を決めていたのである。

 釈迦堂というのは、清凉寺のことだ(間違われることが多いが「凉」はサンズイではなくニスイである)。ここにはだいぶ前に一度来たことがあったが、もう8年か9年ぐらいは経っているだろう。たしかそのときは真冬の寒い時季で、名物の「あぶり餅」というのを食べて暖を取ったことを覚えているが、この日は餅をあぶらなくても体がしじゅう太陽にあぶられているせいか、売店には誰もいなかった。渡月橋とか天龍寺あたりの混雑ぶりと比べれば、祝日にもかかわらず清凉寺は閑散として静かだった。

 この寺を有名にしているのは、やはり生き身の釈迦を写したという本尊の存在だろう。つまり生前のお釈迦様の姿かたちを忠実に伝える仏像だというのである。何でも37歳のときのお姿で、釈迦みずからが「似ている」とお墨付きを与えたそうだが、その像が中国に伝えられた挙げ句に模刻され、海を渡って清凉寺にもたらされたらしい(本物と模刻が入れ替わって伝来したという話もある)。

 生き写しといわれる釈迦の像は広く信仰を集め、数多くの模造品が作られたばかりか、集まった人々が賽銭をばらばらと投げるので、その傷跡が全身に残っているということだ。現在では国宝に指定されているのでそんなことをしたら叱られるけれど、往時の庶民の信心深さをよく伝える話ではある。今では寺院というと生活から隔絶した特別なところだという感じがするが、昔は人々の暮らしと信仰は不可分のものだったのだろう。


〔清凉寺本堂、いわゆる釈迦堂。釈迦如来はここに安置されている〕


〔「栴檀瑞像」の扁額。オリジナルの生き身の釈迦像は栴檀の木に刻まれていたという〕

 しかしぼくの眼から見ると、本尊の姿はとても生きているようには思えないというのが本当のところだ。釈迦というのはさまざまな伝説に彩られているにしろ実在の人物であるはずだが、生ける人間の息づかいをその像から感じ取ることは不可能といっていい。要するに、リアルではないのである。それに比べると、仁王門の脇に立っている法然上人の石像のほうがはるかに写実的な感じがする。これはいったいどういうことか。

 生き身の釈迦を写して作られたという話が、嘘だといっているわけではない。ただ、最初にお像を彫ったインドの仏師たちが、釈迦の姿をありのままの人間のかたちにとどめておくわけがないだろう、という気がするばかりである。現代においても、カリスマと呼ばれる人の素顔が正確に伝えられることは少ないにちがいない。いやそれでこそカリスマなのであり、教祖なのだ。清凉寺の釈迦如来は、仏教徒の熱狂的な信仰心こそをリアルにあらわした姿なのであろう。

                    ***

 あまり時間がなかったので境内を隈なく拝観することはしなかったが、本堂に上がらせてもらい、裏手にある渡り廊下を通って枯山水の庭園を観た。紅葉の時季ならずいぶん美しいだろうと思ったが、今は褐色の苔が地面を覆っているばかりである。

 庫裏には机が並べられた部屋があって、写経の体験ができるようになっていた。ぼくは字がとても下手なので、たとえ手本をなぞるだけでもごめんこうむりたいほうだが、若い男の外国人がきっちりと正座して写経しているのには驚いてしまった。ぼくはすごすごと尻尾を巻いて、本堂へ引き返した。


〔渡り廊下はかなり古びていて、歩くだけでも大げさに揺れた〕


〔枯山水庭園。小堀遠州の作庭という〕


〔板戸に描かれていた猿図〕


〔渡り廊下から見える弁天堂〕


〔池に囲まれた忠霊塔〕

                    ***

 そろそろ仁王門を出ようとすると、扉のところに無粋な鉄骨が組まれており、トタンみたいなもので囲われているのに気がついた。そのとき、ひとつの忌々しいニュースがぼくの脳裏によみがえってきた。昨年の12月、飲酒運転の車が暴走し、あろうことか門の扉に激突したのであった。

 あれからもう7か月あまりが経過するが、まだ応急処置がほどこされただけのように見える。歴史的な文化財ゆえ、修理するにもいろいろな問題が付随するのだろう。寺院の顔ともいえる門構えがこれでは、お釈迦様もさぞお怒りにちがいない。そういえば一昨年の暮れには、車が渡月橋の欄干を突き破るという事件もあった。

 嵯峨野は開かれた観光地であり、あちこちに点在する仏閣をめぐるのに車は便利かもしれないが、ちょっと数が多すぎるようにも思う(ついでにいえば、タクシーも多すぎる)。パークアンドライドという試みも各地にあるが、そろそろ嵐山への車の乗り入れを規制することも考えたほうがいいのではなかろうか。文化遺産と観光名所が末永く共存するにはどうするべきか、真剣に議論するべきときだろう。


〔痛々しい姿の仁王門〕


〔門の脇には法然上人像が立つ〕

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浮かれあるき、撮りあるき ― 祇園祭2008 ― (3)

2008年07月18日 | 写真記


 ニュースでも報じられていたとおり、すでに祭のハイライトである山鉾巡行は終わってしまい、本番に先立つ顔見せともいえる宵山の話を書くにはもう遅い。巡行が終わるとほどなく山や鉾は解体されてしまうので、この時間にはすでにバラバラにされ、倉のなかにしまわれているか、会所の内部に安置されているのかもしれない。やれ古いお面を取り出したの、何百年ぶりに懸物を新調したのという話は聞こえてくるが、それをいつどうやって片付けるのかに関しては、詳しく伝えてくれる情報も少ない。

 さてぼくはといえば、地元のテレビ局が生中継した巡行の模様を録画するのが習慣になっている。だが、いざ祭がすんでしまってからビデオを見ても、あのうきうきした感じは色あせてしまっている。今年は実際に巡行を見ることができなかったので、ビデオだけ見ているのも余計にさびしい。妙な表現だが、祭は“なまもの”なのである。

 とはいいつつ、またしても宵々々々山の話のつづきを書いてみたい。

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【南観音山】
 長刀鉾が先頭なら、しんがりを務めるのはいつもこの南観音山だ。巡行当日は、この山が通過した後の大通りにぽっかりと空隙ができる。すっかり都会化した京都ではめったに見られない、都市のエアポケットが出現するのである。しばらくすると電力会社かどこかの車両がやってきて信号機を定位置に戻し、やがて通行止めが解除され、いつもの京都に戻る。

 3年前のことだが、この山の懸装品を間近で接する機会を得た。京都芸術センターというところで、特別に公開されたのである。そのときまで、ぼくは山や鉾を飾り立てる懸物やご神体などに何の関心もなかったが、加山又造の原画をもとに織り上げたという素晴らしい見送り(山の後方に下げるもの)を観て、途端に興味がわいた。宵山の期間中には、会所の近くで原画とともに飾られている。巡行をしめくくるのは、雄渾な龍の図である。


〔南観音山からも祇園囃子が聞こえていた〕


〔飛天が描かれた水引も加山又造の原画による〕

【北観音山】
 南観音山のすぐ北側には、北観音山が控える。毎年24番目を巡行することが決まっている。かつて巡行が2日にわたっておこなわれていた際には、「後の祭」の先頭はこの山だった。南北の観音山のためには2本の松が用意されるが、そのどちらを選ぶかは、くじ引きで決められるそうだ。


〔北観音山も準備万端である〕


〔保存会の役員さん(?)が満足そうに山を見下ろしていた〕


〔近くの町家では現代美術の「屏風祭」。エッフェル塔の台座から拓本をとった作品だそうだ〕

【八幡山】
 朱色の鳥居とお社をのせて巡行する。鳥居の上には左甚五郎が彫った鳩のつがいがのせられる。


〔この日、八幡山では提灯はまだ準備されず、裸電球の試験点灯のようだった。これはこれでクリスマスツリーのような美しさだ〕

【放下鉾】
 この鉾は、いち早く祇園囃子の練習をはじめることで知られる。鉾頭は日・月・星の光が下界を照らすかたちという。提灯の模様もこれを図案化したのではないかと思うが、ある有名なネズミのシルエットに見えなくもない。


〔放下鉾の提灯のマークは逆さになったミッキーマウスのようである〕

【郭巨(かっきょ)山】
 別名を釜掘山といい、上村松篁の原画による懸物を飾っている。ご神体を屋根で覆っているのもおもしろい。


〔主を待つ屋根を下からのぞむ。提灯のマークは「釜」の図案化か〕


〔近くの自動販売機にも「郭巨山」の文字〕

【月鉾】
 美術的な価値が云々されるのは、やはりこの鉾である。一度ぐらいは上にのぼって間近で拝見したいものだが、まだ実現できていない。かつて鉾の上で茶会が催されていたそうだが、何とまあ豪華な茶室であろうか。


〔昼間撮影。月といえば兎だが、こちらの兎は左甚五郎作。屋根裏の草木図は円山応挙筆〕


〔提灯には筆勢も勇ましい「月」の文字〕

                    ***

 宵山もまだはじまっていないのに、こんなに字数を費やしてどうするつもりかという気もするが、人が少なく、のんびりとまわることができた。今では何十万人もが集まる宵山だが、昔はもうちょっと人が少なかったのではないだろうか。過ぎ去りし祭の風情を髣髴とさせる、楽しいそぞろ歩きだった。

つづく
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浮かれあるき、撮りあるき ― 祇園祭2008 ― (2)

2008年07月16日 | 写真記


 13日、日曜日の話のつづきである。用事をすませて、長かった昼もとっぷり暮れた夜9時前にふたたび烏丸駅に降り立った。宵山がはじまるのは明日からのはずだが、準備の整った山や鉾にはもう駒形提灯に灯りがともされているかもしれないし、あわよくば祇園囃子の予行演習が聞こえてくるかもしれない。そんな不確かな期待を抱きながら、足をのばしてみたわけだ。

 駅のなかには、昼間からちらほらと浴衣を着たカップルや親子連れの姿があったのだが、地下道の階段をのぼって地上へ顔を出してみると、案の定、宵山の前夜祭よろしく、いくつかの山や鉾が華やかに光を放っているのが見えた。正確にいうと、宵々々々山でもあろうか。提灯の光が雨除けのビニールに反射して、人工の光に不思議な艶めきを添えている。

 しかしもちろん、まだ歩行者天国ではない。すべての山鉾が完成しているわけでもないし、会所に人だかりがしているわけでもない。だが、いくつかの鉾の上では本番さながらに囃子方たちが祇園囃子を奏でていた。昼間とはまたちがった祭の顔が、そこにあった。

                    ***

【ふたたび長刀鉾】
 歩道の狭さもあってか、昼間の長刀鉾周辺は多くの人でごった返す。ぼくも去年だったか、化粧を落とした舞妓さん3人とこの辺でおしくら饅頭をした覚えがある。今宵はまだ人も少なかったが、それでもカメラを向ける人たちが後を絶たなかった。


〔提灯の灯りが懸物を照らす〕


〔おなじみの長刀鉾マーク(?)。各山鉾ごとに工夫の凝らされた提灯の柄も見どころだ〕


〔頭上から祇園囃子が降ってくる。お祭気分は否が応でも高まる〕

【函谷(かんこ)鉾】
 烏丸通の東に位置するのは2つだけで、ここからはすべて西側に点在している。函谷鉾はこの日すでに、観光客が橋を渡って鉾の上にのぼっていた。ただし、1500円ほどかかる。お祭ならではの相場である。


〔厄除ちまきの幟がひるがえる函谷鉾〕


〔「函」の字をデザインしたマークが見える(左下)〕

【占出山】
 烏丸あたりに出かけたとき、よく休憩する喫茶店があるのだが、その真ん前が占出山だった。このときはもちろん店は閉まっていたが、昼間などテラスから紅茶片手に見上げるのも乙なものだろう。


〔占出山の駒形提灯〕


〔木材には「占」の字が彫られている〕


〔こちらには「東北角」の文字。山や鉾は職人たちの手によって建てられる〕

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