小林柯白の名は、今ではほとんど忘れられているといっていいだろう。「院展」の同人として活躍したということだが、日本美術院の歴史をたどる展覧会を観たおりにも、彼の絵と出会うことはできなかった。
ただ、何かの展覧会で、過去の「院展」同人の名前がすべてパネルに列記されていたことがあり、そこにちゃんと柯白の名前があるのを見たときは、なぜか不思議な気がしたものである。「院展」には毎年多くの日本画家が出品しているが、同人になることができるのは、ごく一握りにすぎない。柯白はその中のひとりなのだ。
さらに、柯白の師匠は誰かというと、「院展」の三羽烏とうたわれた安田靫彦(ゆきひこ)だそうである。しかし上記のふたつの柯白の作品からは、靫彦との関係を連想させるものはまったく感じられないのだ。ぼくが何の予備知識もなく柯白の絵と出会い、強く惹きつけられたのも、その絵が他の誰とも似ていなかったからにほかならない。
この画家は、きっと孤高の一匹狼だったにちがいない・・・。ぼくはどうやら、そんなふうに思いたかったようである。調べれば調べるほど、柯白が「院展」の系譜の中にしっかりと組み込まれてくるのがわかるにつれ、正直なところ、いささか困惑したものだ。いや、だからこそ、彼の絵の独創性がますます輝きだすともいえるのだけれど。
*
小林柯白は、森田曠平の師匠でもあるそうだ。森田曠平というと、やや切れ長の目が特徴的な人物画でよく知られているだろう。彼も「院展」で活躍した画家であり、ぼくも彼の絵を観る機会が多かった。森田が没したのは今から12年前であるが、訃報を聞いて「ああ亡くなったんだな」と思ったことも覚えている。近年ではその名前を聞く機会が若干少なくなっているような気もするが、ときどき思い出したように、彼の絵に巡り合う。しかし彼と柯白との結びつきも、ぼくにはまったく意外なものであった。
森田曠平の年譜には、ざっと次のようなことが書かれている。はじめは洋画を学ぶが、1940年に小林柯白に師事し、1943年に「院展」に初入選、安田靫彦の門下となる・・・。
想像をたくましくして、この短い記述をたどり直してみると、つまりこういうことになるだろう。洋画家を目指していた森田は日本画に転向することを決め、ちょうど『新緑』を描いていたころの柯白を知り、弟子となる。24歳の森田は(日本画を始めるにしてはかなり遅い年齢だろう)柯白から日本画のいろはを教わり、3年後には「院展」に入選を果たすまでに成長するが、それと同じ年に柯白は世を去ってしまう。そこで森田は、柯白の師であった安田靫彦の門を叩くのである。
のちに画家として大成した森田曠平が、小林柯白よりも安田靫彦の影響を強く受けていることは、その人物表現を中心とした作風から明らかだろう。結果的に、柯白の画風を受け継いだ人は誰もいなかったのである。こうして、柯白の存在は徐々に忘れられていったのかもしれない。しかしぼくは、森田曠平を一人前の日本画家に育てたのが柯白であったことを、忘れないでいたいと思う。
*
あるとき、また「京都市美術館コレクション展」に足を運んでみると、『那智滝』があった。ぼくは再会を喜び、その奇想天外な自然描写と、みずみずしい色彩のうえに目を遊ばせた。観客の少ない常設展示では、いくら絵の前に陣取っていても文句をいわれることはない。おなかいっぱいになるまで、柯白との対話を楽しむことができるのである。
ようやく絵の前を離れ、次の展示室に進むと、見慣れない絵があった。一頭の馬がせせらぎの中に立っていて、女が馬の体を洗っている絵である。ひと目で、なんて地味な絵だろう、という感想がぼくの頭をよぎった。しかし絵の横に貼られたネームプレートを見て、ぼくは立ち止まらざるを得なかった。題名は『馬を洗う』、作者は小林柯白となっているのだ。柯白の3枚目の絵との出会いは、あまりにも唐突だった。
その絵は確かに、派手ではない。『新緑』や『那智滝』のように、一見して惹きこまれてしまうような魔力はもっていない。ぼくは寡黙な人の心の中を覗き込もうとするように、じっとその絵と向かい合った。精悍な四肢をもち、やさしい目をした栗毛の馬。身をかがめるようにして、馬の体を洗う女。そこには“特別でない時間”が流れていて、ぼくの心をゆっくりと浸していくようだった。
『馬を洗う』が描かれたのは1942年、柯白が没する前年である。そしてそのとき、すでに戦争は始まっている。こういう“特別な”時期に、彼がいかなる思いを込めてこの絵を描いたのかは、知る由もない。しかし、どこかで人と人とが無残に殺し合っているときに柯白が描いた馬の瞳は、あまりにも澄んで、純粋だった。その目は、人間の醜さを鏡のように写しだすかと思われた。
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ただ、何かの展覧会で、過去の「院展」同人の名前がすべてパネルに列記されていたことがあり、そこにちゃんと柯白の名前があるのを見たときは、なぜか不思議な気がしたものである。「院展」には毎年多くの日本画家が出品しているが、同人になることができるのは、ごく一握りにすぎない。柯白はその中のひとりなのだ。
さらに、柯白の師匠は誰かというと、「院展」の三羽烏とうたわれた安田靫彦(ゆきひこ)だそうである。しかし上記のふたつの柯白の作品からは、靫彦との関係を連想させるものはまったく感じられないのだ。ぼくが何の予備知識もなく柯白の絵と出会い、強く惹きつけられたのも、その絵が他の誰とも似ていなかったからにほかならない。
この画家は、きっと孤高の一匹狼だったにちがいない・・・。ぼくはどうやら、そんなふうに思いたかったようである。調べれば調べるほど、柯白が「院展」の系譜の中にしっかりと組み込まれてくるのがわかるにつれ、正直なところ、いささか困惑したものだ。いや、だからこそ、彼の絵の独創性がますます輝きだすともいえるのだけれど。
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小林柯白は、森田曠平の師匠でもあるそうだ。森田曠平というと、やや切れ長の目が特徴的な人物画でよく知られているだろう。彼も「院展」で活躍した画家であり、ぼくも彼の絵を観る機会が多かった。森田が没したのは今から12年前であるが、訃報を聞いて「ああ亡くなったんだな」と思ったことも覚えている。近年ではその名前を聞く機会が若干少なくなっているような気もするが、ときどき思い出したように、彼の絵に巡り合う。しかし彼と柯白との結びつきも、ぼくにはまったく意外なものであった。
森田曠平の年譜には、ざっと次のようなことが書かれている。はじめは洋画を学ぶが、1940年に小林柯白に師事し、1943年に「院展」に初入選、安田靫彦の門下となる・・・。
想像をたくましくして、この短い記述をたどり直してみると、つまりこういうことになるだろう。洋画家を目指していた森田は日本画に転向することを決め、ちょうど『新緑』を描いていたころの柯白を知り、弟子となる。24歳の森田は(日本画を始めるにしてはかなり遅い年齢だろう)柯白から日本画のいろはを教わり、3年後には「院展」に入選を果たすまでに成長するが、それと同じ年に柯白は世を去ってしまう。そこで森田は、柯白の師であった安田靫彦の門を叩くのである。
のちに画家として大成した森田曠平が、小林柯白よりも安田靫彦の影響を強く受けていることは、その人物表現を中心とした作風から明らかだろう。結果的に、柯白の画風を受け継いだ人は誰もいなかったのである。こうして、柯白の存在は徐々に忘れられていったのかもしれない。しかしぼくは、森田曠平を一人前の日本画家に育てたのが柯白であったことを、忘れないでいたいと思う。
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あるとき、また「京都市美術館コレクション展」に足を運んでみると、『那智滝』があった。ぼくは再会を喜び、その奇想天外な自然描写と、みずみずしい色彩のうえに目を遊ばせた。観客の少ない常設展示では、いくら絵の前に陣取っていても文句をいわれることはない。おなかいっぱいになるまで、柯白との対話を楽しむことができるのである。
ようやく絵の前を離れ、次の展示室に進むと、見慣れない絵があった。一頭の馬がせせらぎの中に立っていて、女が馬の体を洗っている絵である。ひと目で、なんて地味な絵だろう、という感想がぼくの頭をよぎった。しかし絵の横に貼られたネームプレートを見て、ぼくは立ち止まらざるを得なかった。題名は『馬を洗う』、作者は小林柯白となっているのだ。柯白の3枚目の絵との出会いは、あまりにも唐突だった。
その絵は確かに、派手ではない。『新緑』や『那智滝』のように、一見して惹きこまれてしまうような魔力はもっていない。ぼくは寡黙な人の心の中を覗き込もうとするように、じっとその絵と向かい合った。精悍な四肢をもち、やさしい目をした栗毛の馬。身をかがめるようにして、馬の体を洗う女。そこには“特別でない時間”が流れていて、ぼくの心をゆっくりと浸していくようだった。
『馬を洗う』が描かれたのは1942年、柯白が没する前年である。そしてそのとき、すでに戦争は始まっている。こういう“特別な”時期に、彼がいかなる思いを込めてこの絵を描いたのかは、知る由もない。しかし、どこかで人と人とが無残に殺し合っているときに柯白が描いた馬の瞳は、あまりにも澄んで、純粋だった。その目は、人間の醜さを鏡のように写しだすかと思われた。
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