てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

小林柯白の3枚の絵(3)

2006年02月27日 | 美術随想
 小林柯白の名は、今ではほとんど忘れられているといっていいだろう。「院展」の同人として活躍したということだが、日本美術院の歴史をたどる展覧会を観たおりにも、彼の絵と出会うことはできなかった。

 ただ、何かの展覧会で、過去の「院展」同人の名前がすべてパネルに列記されていたことがあり、そこにちゃんと柯白の名前があるのを見たときは、なぜか不思議な気がしたものである。「院展」には毎年多くの日本画家が出品しているが、同人になることができるのは、ごく一握りにすぎない。柯白はその中のひとりなのだ。


 さらに、柯白の師匠は誰かというと、「院展」の三羽烏とうたわれた安田靫彦(ゆきひこ)だそうである。しかし上記のふたつの柯白の作品からは、靫彦との関係を連想させるものはまったく感じられないのだ。ぼくが何の予備知識もなく柯白の絵と出会い、強く惹きつけられたのも、その絵が他の誰とも似ていなかったからにほかならない。

 この画家は、きっと孤高の一匹狼だったにちがいない・・・。ぼくはどうやら、そんなふうに思いたかったようである。調べれば調べるほど、柯白が「院展」の系譜の中にしっかりと組み込まれてくるのがわかるにつれ、正直なところ、いささか困惑したものだ。いや、だからこそ、彼の絵の独創性がますます輝きだすともいえるのだけれど。

   *

 小林柯白は、森田曠平の師匠でもあるそうだ。森田曠平というと、やや切れ長の目が特徴的な人物画でよく知られているだろう。彼も「院展」で活躍した画家であり、ぼくも彼の絵を観る機会が多かった。森田が没したのは今から12年前であるが、訃報を聞いて「ああ亡くなったんだな」と思ったことも覚えている。近年ではその名前を聞く機会が若干少なくなっているような気もするが、ときどき思い出したように、彼の絵に巡り合う。しかし彼と柯白との結びつきも、ぼくにはまったく意外なものであった。


 森田曠平の年譜には、ざっと次のようなことが書かれている。はじめは洋画を学ぶが、1940年に小林柯白に師事し、1943年に「院展」に初入選、安田靫彦の門下となる・・・。

 想像をたくましくして、この短い記述をたどり直してみると、つまりこういうことになるだろう。洋画家を目指していた森田は日本画に転向することを決め、ちょうど『新緑』を描いていたころの柯白を知り、弟子となる。24歳の森田は(日本画を始めるにしてはかなり遅い年齢だろう)柯白から日本画のいろはを教わり、3年後には「院展」に入選を果たすまでに成長するが、それと同じ年に柯白は世を去ってしまう。そこで森田は、柯白の師であった安田靫彦の門を叩くのである。


 のちに画家として大成した森田曠平が、小林柯白よりも安田靫彦の影響を強く受けていることは、その人物表現を中心とした作風から明らかだろう。結果的に、柯白の画風を受け継いだ人は誰もいなかったのである。こうして、柯白の存在は徐々に忘れられていったのかもしれない。しかしぼくは、森田曠平を一人前の日本画家に育てたのが柯白であったことを、忘れないでいたいと思う。

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 あるとき、また「京都市美術館コレクション展」に足を運んでみると、『那智滝』があった。ぼくは再会を喜び、その奇想天外な自然描写と、みずみずしい色彩のうえに目を遊ばせた。観客の少ない常設展示では、いくら絵の前に陣取っていても文句をいわれることはない。おなかいっぱいになるまで、柯白との対話を楽しむことができるのである。

 ようやく絵の前を離れ、次の展示室に進むと、見慣れない絵があった。一頭の馬がせせらぎの中に立っていて、女が馬の体を洗っている絵である。ひと目で、なんて地味な絵だろう、という感想がぼくの頭をよぎった。しかし絵の横に貼られたネームプレートを見て、ぼくは立ち止まらざるを得なかった。題名は『馬を洗う』、作者は小林柯白となっているのだ。柯白の3枚目の絵との出会いは、あまりにも唐突だった。

 その絵は確かに、派手ではない。『新緑』や『那智滝』のように、一見して惹きこまれてしまうような魔力はもっていない。ぼくは寡黙な人の心の中を覗き込もうとするように、じっとその絵と向かい合った。精悍な四肢をもち、やさしい目をした栗毛の馬。身をかがめるようにして、馬の体を洗う女。そこには“特別でない時間”が流れていて、ぼくの心をゆっくりと浸していくようだった。


 『馬を洗う』が描かれたのは1942年、柯白が没する前年である。そしてそのとき、すでに戦争は始まっている。こういう“特別な”時期に、彼がいかなる思いを込めてこの絵を描いたのかは、知る由もない。しかし、どこかで人と人とが無残に殺し合っているときに柯白が描いた馬の瞳は、あまりにも澄んで、純粋だった。その目は、人間の醜さを鏡のように写しだすかと思われた。

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小林柯白の3枚の絵(2)

2006年02月23日 | 美術随想
 近代美術館の向かい側には、巨大な赤い鳥居を隔てて京都市美術館がある。今から70年以上前に建てられたこの建物は、京都の美術館の中では有数の敷地面積を誇っているが、常設の展示スペースがなかった。そこで、何年か前から「京都市美術館コレクション展」と題した展覧会を継続的に開いている。毎回ひとつのテーマを設定し、数多くの所蔵品の中からテーマに沿った作品を選りすぐって展示するものだ。

 常設展というと、所蔵品をジャンル別に、あるいは国籍や制作年代で区切って並べているところが多いだろう(大原美術館はその典型だといえる)。だが、ここでは洋画・日本画・工芸といった垣根を取り払い、ひとつのテーマのもとにそれらを集めてみせるのが大きな特色である。 ぼくはこの「コレクション展」で、京都ゆかりのたくさんの美術家たちを知ることができた。また、ここには海外の作家の作品はほとんど所蔵されておらず、地域に根づいた美術館の姿勢を端的にあらわしていておもしろい。いや、今うっかり地域といったが、実は京都こそ美術の中心地のひとつであるという誇りが、そこはかとなく感じられるのである。


 小林柯白の2枚目の絵と出会ったのは、その「コレクション展」でのことだ。『那智滝』と題されたそれは、明確な濃淡に塗り分けられた木々のこちら側を淡い水煙が横切る、例の“硬軟取り混ぜた”描法で描かれていて、『新緑』の大胆な表現をたちどころに思い出させるものだった。いや、それだけではない。この絵にはもうひとつ、新しい要素が付け加えられていた。それは主役ともいうべき、滝の表現である。

 古くから聖なる滝としてあがめられ、さまざまな絵図に描かれてきた那智の滝。特に有名な国宝『那智瀧図』は、アンドレ・マルローがひと目でその神性を見抜いたといわれ(「アマテラス」とつぶやいたそうだ)、滝の姿は剣のかたちに擬して描かれているという話も聞いたことがある。いずれにしても、後世の画家が滝を描こうとするとき、決して念頭からぬぐい去ることのできない、圧倒的な呪縛力をもつ名作であるだろう(ただ、ぼくは実物を観たことがない)。

 しかし柯白の手になる那智の滝は、まるで白い布きれを結わえつけて垂らしたように見えるのだった。屈強な腕力の持ち主であれば、上までよじ登っていけそうなほどである。これほど物質的な滝が、かつて描かれたことがあっただろうか? ぼくは柯白のあっけらかんとした描写にとまどいつつも、強く惹きつけられずにはいなかった。その滝は、信仰にまつわるさまざまな意味性を脱ぎ捨て、純粋な造形として、ぼくの前に流れ落ちていたのである。那智の滝をこんなふうに描ける画家は、ただものではないという気がしたのだった。マルローがもしこの絵を観たら、何とつぶやいたことだろう? ぼくはますます、小林柯白という画家の存在に興味をかきたてられた。

   *

 さて、この画家について詳しく知ろうとしても、ほとんど断片的な資料しか見当たらない。生まれた年についても、1895年と書かれたものと、1896年と書かれたものがある。ただ、生まれた場所は京都ではなく、大阪であることは確かだ。しかも、とあるウェブサイトによると、大阪市北区芝田となっている。

 もしこれが事実なら、ぼくは親近感を抑えることができない。何を隠そう、ぼくは数年前まで芝田で働いていたことがあるからだ。だが、JR大阪駅や阪急梅田駅に隣接するこの区域には、シティホテルや近代的な商業ビルが建ち並び、柯白が生まれた明治中期をしのばせるものは何もない。どこかに「小林柯白生誕の地」といった石碑でもあればと思うのだが、これほど移り変わりの激しい大阪の中心部であってみれば、どだい無理な話だろう(ちなみに洋画家の佐伯祐三は隣町の出身だが、こちらは今でも石碑が残されている)。


 柯白が没したのは1943年というから、第二次大戦のさなかである。死因がいったい何だったのか、ぼくには知るすべがないが、50歳にも満たない短命だ。同世代の小倉遊亀をはじめ、90年を超える天寿をまっとうした日本画家が多い中で、例外的なことだといっていいだろう。『那智滝』が描かれたのは1939年、『新緑』はその翌年であるから、大胆で若々しい創意にもかかわらず、これらはすでに晩年の作なのであった。

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小林柯白の3枚の絵(1)

2006年02月16日 | 美術随想
 常設展を観る楽しみ、というのがある。人気の高い企画展になるとあまりにも大勢の人が押しかけ、絵を観にきたのか人の後頭部を見にきたのかわからないようなことが少なくないが、常設展ではそんなことはまずあり得ない。ほとんどの場合、がらんとしていて、作品の数より観客の数のほうが少ないものだ。

 美術館のふところ事情を察すると、常設展にも人がどんどん詰めかけたほうがいいのかもしれない。また見方を変えれば、美術館を単なる“入れもの”で終わらせないためには、常設展の充実こそ必須の条件であるかもしれない。それはそれで大いに努力していただきたいものだが、鑑賞する側の心理としては、できるだけ人の少ない、ゆったりとした空間の中で、優れた作品と向き合いたいのだ。それらの条件を満たした質の高い常設展は、ぼくたちにささやかな至福のときを与えてくれる、燻し銀のような魅力がある。


 行きつけの美術館で、自分だけの“この一枚”に再会するのもまた楽しい。すみずみまで知っているつもりの絵でも、何度か観ているうちに新しい魅力に気づいたりすることがある。人と長く付き合っていると、それまで知らなかった側面が少しずつ見えてくるものだが、美術を相手にしても同じことが起こるのである。

 常設展では、よそではあまりお目にかかれない、知られざる作家たちとの出会いが待っていることも少なくない。美術館によっては、地元の作家の作品が系統的に収集されている場合もある。ぼくが京都の画家たちを初めて知ったのも、その多くが地元の常設展においてであった。

   *

 そんな中で特に気になっているひとりが、小林柯白(かはく)という日本画家である。何年前のことだったか、京都国立近代美術館の常設展(現在ではコレクション・ギャラリーと呼ばれている)で『新緑』という絵を観たのが、彼の存在を知った最初だったと思う。同じ会場に居並ぶそうそうたる有名画家の力作にも増して、その未知の画家の絵は、ぼくの心を激しくとらえた。

 豊かな木々を頂いた山が、画面いっぱいに描かれている。木の一本一本がはっきりと区切られ、それぞれが諧調の異なる緑色で塗り分けられている。それは巧みな表現というよりも、むしろ大胆で素朴だ。そして山にかかる霞(雲かもしれない)の描写は、今しも木々の梢から湧いて出てきたように、あるいは吸い込まれつつある瞬間のように、とらえどころがないのである。木々の明快な造形と、それと相反する霞の繊細な表現とが、正面から堂々と切り結んでいるのに驚かされたのだった。強引を承知であえて名づければ、“硬軟取り混ぜた”描法である。

 その絵を観て以来、『新緑』はぼくにとって柯白の代表作になった(ほかに彼の絵を一枚も知らなかったのだから当然である)。年に数回の展示替えがおこなわれる常設展で、その絵が美術館の至宝であるかのように誇らしげに、たびたび展示されているのに出くわすと、ぼくは密かにほくそえんだものだ。それにしても、作品保護の関係から展示期間が限られることの多い日本画で、しかもあまり知られていない画家のものを繰り返し展示するというのは、どう考えても破格の扱いではなかろうか? この絵に人知れず深い愛着を寄せているのは、どうやらぼくひとりではなさそうである。

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「人生は狂言だ」(3)

2006年02月12日 | 美術随想
 それにしても平日の夜だというのに、凍てつく寒さをものともせず、これほど大勢の人が集まっているのには驚くほかない。節分という年中行事が、それだけ京都の人々に深く浸透しているのだといえば、そのとおりだろう。だが、どうもそれだけではないような気がするのである。これらの(ぼく自身を含めた)人々は、何を求めてここにやってきているのか?

 ぼくたちは決して、円覚上人のいた当時よりも恵まれない時代に生きているわけではない。文明はいちじるしく進歩し、教育はすべての人に施されている。大多数の日本人は、その日の食べ物にも事欠くということはないし、住む家に困るということもない。ひとりひとりが抱いている悩みは、ほんのささやかなものであるかもしれない。だが、群れをなして寺の境内に渦巻いている人々を見ると、世の中には心から満ち足りている人などいないのではないか、とさえ思いたくなる。


 円覚上人は、興行として狂言を始めたわけではない。上人の姿を見、その声を聞くために、寺には十万もの人々が集まった。すべての群集に仏の教えが伝わるようにと、身振り手振りをまじえ、目に見えるかたちで演じてみせたのが壬生狂言の始まりだという。台詞はなく、さしずめ“動く縁起絵巻”といったところだ。

 そして現在でも、節分になると壬生寺は十数万人の人出で賑わう。彼らはそれぞれ人にはいえない思いを胸に抱き、それを密かに打ち明けて救いを求めるべく、仏に手を合わせるのである。人間の煩悩というものは、700年もの間、ちっとも変わっていないのではなかろうか?


 小さなテントの前に人だかりができているので寄っていくと、そこは古いお札(ふだ)を納める場所だった。投げ入れられたお札は、ベルトコンベアーに乗せられ、テントの裏側へあっけなく運ばれていく。一見すると非常に合理的だが、人々の願いを吸い尽くして飽和状態になったお札の束を、我関せずとばかりに淡々と運ぶ機械を見ているうち、ぼくにはなぜか皮肉な笑いがこみ上げてきた。これぞ、日本人の縮図そのままのように思えたからである。悩みを山のように抱えつつも、近代文明の最先端を突き進むことを要求され、後戻りすることを許されないぼくたち・・・。

   *

 やがて小雪が散りはじめ、冷え込みも増してきたので、ぼくは心残りなまま、人の流れについて出口のほうへ歩いていった。屋台の賑わいから少し離れると、どこからか笛と太鼓、そして鉦の響きが聞こえてくるのに気づいた。音のするほうに近づいていくと、フェンスの向こうに赤いものがひらめくのが見える。ぼくは狂言堂の建物の横手に立ち、舞台を横から覗き見るかっこうになっていた。そこでは「節分」が演じられていて、赤鬼がときどき足を踏み鳴らしながら舞っているのだった。


 「節分」は、次のような物語だ。ある後家のもとに旅姿の鬼がやってくるが、後家は驚いて逃げ出してしまう。そこで鬼は着物をまとって変装し、後家と酒盛りを始める。やがて鬼は酔いつぶれ、後家は鬼の持っていた打ち出の小槌を奪い、着ているものをはぎ取り、ついには豆をまいて追い出す。すると小槌も着物も消え失せ、後家は我に返るのである。これには、目の前の誘惑に負けることなく“マメ”に働くべし、という教訓がこめられているという。

 ぼくは舞台を正面から観たわけではないので、壬生狂言そのものについて感想を述べることはできない。まるで隣の家でおこなわれていることのように、遠くから覗いたにすぎないからだ。しかしぼくはしばらくの間、その場に釘付けになってしまった。闇の中に照らし出された舞台の上で、ふたりの人物が無言のまま繰り広げる一挙一動が、滑稽にも見え、なぜか哀れにも見えた。


 シェイクスピアの『お気に召すまま』の中に「人生は芝居だ」というような意味の台詞があったように思うが、ぼくの脳裏を「人生は狂言だ」というような感慨がしきりに駆け巡った。ちょっと間抜けな赤鬼にしても、誘惑の一歩手前で踏みとどまる後家にしても、当人たちにしてみれば一生懸命に生きているのだが、はた目にどう見えるかはまた別の話である。仕事の合間を縫っては美術を訪ね、おまけに随想のような書かでものことを書いているこのぼくも、自分なりに全力で生きているつもりであるが、人から見たらさぞやおかしく、そして哀れに思えるのではあるまいか? だが、ぼくは金稼ぎだけの単調な日常にはとうてい安住することのできない、因果な生まれつきのようである。

 気がつくとぼくは、冬空の下に30分ほども立っていた。舞台の上の狂言はようやく終わり、境内の人々も帰路に着こうとしていた。しかしぼく自身が演じている狂言は、好むと好まざるとにかかわらず、いつまでもつづくのであろうか。後家が豆をまいて鬼を追い払ったように、誰かがこの憑きものを追い払ってくれればいいのだが、そうもいかないようだ。寒さをこらえて突っ立っているぼくの体めがけて、豆つぶてのかわりに、天から大きな雪の粒が降りそそいだ。

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「人生は狂言だ」(2)

2006年02月08日 | 美術随想
 上村松篁の描いた『壬生狂言』には、舞台の柱に木札が掛けられていて、「桶取(おけとり)」と書かれているのが読める。演じているところを実際に観た人なら、ここに描かれているのが「桶取」のどういう場面であるか一目瞭然かもしれないが、ぼくにはあいにくその知識がない。調べてみると、それは「ワッハッハ!」と笑うどころではない、凄惨な愛憎劇だった。

 つまり、ざっとこういう話だ。生まれつき手指が3本しかない照子が、来世こそは満足な体に生まれますようにと祈願するうち、和気俊清(わけのとしきよ)という金持ちが来て照子を見初め、ふたりは仲睦まじくなる。これを知った俊清の妻が臨月の腹を抱えてあらわれ、ふたりを責めるが、俊清は照子のあとを追って去ってしまう。残された妻は自分の容姿を嘆き、狂死する・・・。


 筋書きだけ読むと、昼下がりのテレビドラマのようなドロドロした話にも思えるし、ある種の不条理劇のような感じもする。ところがこの話にはつづきがあって、最後には悔い改めた照子と俊清が出家することになっているという。だがこの円満な結末は、物語として残されているだけで、上演はされないそうだ。「附子」のような、落ちというのか大団円というのか、観客の腑に落ちるような確固たる結末を迎えることなく、「桶取」の舞台は閉じられるのである。

 とはいっても、これが実際に演じられているのを観たことがない以上、どういうものか想像がつかない。いずれにせよ、ぼくが小学校の体育館のステージで演じた素人狂言とは、まったく次元が異なるようである。鎌倉時代に円覚上人によって始められ、700年もの歴史をもつ壬生狂言とは、いったいどういうものなのだろう?

   *

 さて、どうにか8時前に四条大宮にたどり着いたぼくは、あまりの寒さに震え上がった。普段は仕事帰りに寄り道をすることなどないので、せいぜいコートを一枚はおっているだけだが、屋外で狂言を鑑賞するにはじゅうぶんでないようだ。ぼくは時間と相談してから、駅の近くの定食屋に駆け込み、少し体を温め、ついでに腹をくちくしてから出直すことにした。

 急いで食事を流し込むと、壬生寺へ向かって足を速める。ところが、路地を折れるとそこには屋台が軒を連ね、香ばしい煙がもうもうと立ち込めているのだった。細い道幅いっぱいに人があふれ、容易に前へ進んでくれない。その賑わいは、まるで初詣さながらである。ようやく寺の門をくぐったときには、8時を少し回ってしまっていた。


 人波の渦巻く境内を歩き回って、ぼくは狂言の演じられている舞台を探した。この日は「節分」という演目が繰り返し演じられ、無料で観ることができるという。ところが上演は始まっているはずなのに、一向にその気配がない。人々は本堂に列を作ってお参りしたり、りんご飴や焼きそばを手に談笑したりしているのである。

 ふと、簡素なゲートのようなものがあるのに気づいた。どうやらそこが観覧席の入口で、並んで順番待ちをするのらしい。しかし誰ひとり待っている人はいなかった。そのときまでまったく予想していなかったことだが、壬生狂言の観覧席はまるで映画館のように、入れ替え制だったのである。最後の上演がもう始まってしまっている以上、なすすべがない。ぼくは完全に遅れてしまったのだ。

   *

 あきらめて帰ろうにも、せっかく大阪からこのためにやってきたのだから、もったいない話だ。だからといって、屋台をひやかす気にもなれない。本尊のお地蔵さまを拝もうという、殊勝な気もおこらない。ぼくはこんなときにいつもそうするように、何の目的もなく、境内をあちこちさまようことにした。そうやって意味なく体を動かし、気を紛らせていないと、自己嫌悪におちいってしまいそうだったからだ。あのとき定食屋に入ってなどいなかったら、間に合ったかもしれないものを・・・。

 頭の中にはどこからか、あの笑い声が聞こえていた。確かにぼくは腹の底から笑い出したくもあり、同時に人から笑われても文句のいえない状況なのだった。

 ワッハッハ!
 ワッハッハ!


 踏みしめる砂利の音を、その笑い声にからみつかせながら、ぼくは人ごみをかきわけて歩いていった。

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