てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

鳥よ、鳥よ、鳥たちよ ― 上村淳之の庭で ― (1)

2013年04月26日 | 美術随想

〔「上村淳之展」のチケット〕

 このところ、上村松園を起点とする三世代の日本画を観る機会が少なくなっていた。女性として初の文化勲章受章者となった松園と、その息子で98歳の天寿をまっとうした松篁(しょうこう)、そのまた息子で今年80歳を迎えた淳之(あつし)のことである。

 奈良県には上村家の作品を収蔵している松伯美術館というのがあって、以前はしょっちゅう出かけていたものだが、最近はめっきり足が遠のいてしまった(東京へ行く機会が増えたからかもしれない)。ぼくにとって上村松園は、日本画の魅力に開眼させてくれた恩人みたいな存在であって、もうちょっと熱心にお礼参りをすべきところなのかもしれないが・・・。

 さて、多くの人が気付いていることだろうけれど、松園の絵画と松篁・淳之の絵画のあいだには、大きな断絶がある。前者は近代美人画の極北ともいえる境地に達し、いまだに他の追随を許さない、孤高の芸術を打ち立てたといえるだろう。他にも美人画家はたくさんいるが、女性ならでの感性が対象に反映して、独特の艶やかさを醸し出す画風は、松園にしか描けないものだ。

 ところが一転して、松篁は自分の絵画を人間の世界ではなく、花鳥画の領域に見いだした。松篁が描いた人物画は皆無ではないが、おそらく数えるほどしかないだろう。そして、淳之も基本的に父の路線を継承しているのである。

 上村家に伝わったDNAが、美人画と花鳥画という、非常に限定されたジャンルでのみ開花したことを、ぼくはおもしろいと思う。たとえば風景画とか静物画は、彼らの手で描かれることはほとんどなかったのである。ごく狭いエリアにだけ根付き、芽を出した才能が、ここまで成長するに至るには、稀少な植物を育てるのにも似たさまざまな苦労があったのではないだろうか。

                    ***

 上村淳之はしばしばテレビにも登場し、お馴染みの存在となっている。何年か前に、NHKで本格的な日本画の指導をしたこともある。先の平城遷都1300年祭のおりには、大極殿に壁画を描くという公的な仕事も任された。

 彼はまた、創画会の重鎮でもある。ぼくはここ数年、できるだけ創画展に足を運ぶようにしているのだが、いつのことだったか、たまたま上村のギャラリートークのようなものが開かれるという日にぶつかった。会場のなかを歩きながら一点一点解説をしてくれるのかと楽しみにしていたら、会場に姿をあらわした彼は入口のあたりに立ったまま、ひとくさり挨拶のようなものを述べたあと、さっさと引っ込んでしまった。おまけにマイクも何も使わなかったので、その場に集まった人たちにはほとんど聞き取れなかったのではないだろうか。

 すべての絵を観終わっていたのでもう帰ろうとすると、京都市美術館の玄関脇に置かれた灰皿のところに立って、ひとりでタバコを吸っておられた。何ともまあ、庶民的というか、大ざっぱというか、飾らない人柄だ。父である松篁の、どことなく神経質そうな面差しと比べてみると、やんちゃな子供のような一面があるように思われた。

 といっても、彼もすでに傘寿である。ずいぶん前に放映されたドキュメンタリーで、90代半ばを超えた松篁を、淳之がおぶって歩いている映像があった。ほのぼのとしたワンシーンというよりも、花鳥画のエッセンスを親から子に伝える秘密の儀式を見ているような気がしたものだが、淳之の画業はどのへんまで熟してきているのであろう。

 先ごろまで、京都の高島屋で上村淳之の展覧会が開かれていた。上村芸術の到達点を見定める思いで、ぼくは足を運んだ。

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