てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

五十点美術館 No.21

2008年09月11日 | 五十点美術館
川端龍子『金閣炎上』


 京都の代表的な観光名所というと、金閣寺は必ず5本の指に入るだろう。だが、ぼくは京都に長いこと住んでいながら、金閣寺にはあまり行ったことがない。大阪に住んでいたときから数えても、18年間に3、4回ぐらいではないかと思う。

 衣笠とか、きぬかけの道とかいわれるあの近辺にはしばしば出かけるが、ついでに金閣に立ち寄ろうという気にはなかなかなれない。ぼくが寺院を訪れる際にかすかに期待する、煩悩まみれの日常をつかの間でも忘れて心の平安を得たいという願いを、あの金ピカに輝く豪奢なお堂は叶えてくれそうにもないからである(むしろ、煩悩をかきたてそうですらある)。

 もちろん金閣寺の輝きが今もって色あせないのは、昭和25年に焼失したあと再建されたからだし、焼ける前の年ふりた金閣がどんな風情をただよわせていたのかは想像するしかないけれど・・・。

 ひとりの学僧が金閣寺に放火した事件は人々に衝撃を与え、いくつかの文学作品を生み出した。なかでも三島由紀夫の『金閣寺』と、水上勉の『金閣炎上』は代表的なものだろう。三島版は金閣が再建された翌年の昭和31年、水上版はずっとのちの昭和54年に発表されている(水上は『五番町夕霧楼』でもこの事件をモチーフにしている)。

 とりわけ三島の作品は日本近代文学の金字塔とされ、きわめて世評が高く、ぼくも福井にいた10代のなかばぐらいに読んでみたが、なかなかどうして簡単に理解できるものではなかった。小学生のころに一度金閣寺を訪れたことがあったのだが、子供だったぼくの眼にはただの金細工のようにしか見えず、ひとりの人間の身を滅ぼしかねない“美の象徴”とはとても思えなかったのである。その抜きがたい落差が、今でもぼくの足を遠ざけている一因なのかもしれない。

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 ところで三島の『金閣寺』のなかに、こんな一節がある。

 《金閣は雨夜(あまよ)の闇におぼめいており、その輪郭は定かでなかった。それは黒々と、まるで夜がそこに結晶しているかのように立っていた。瞳を凝らして見ると、三階の究竟頂(くきょうちょう)にいたって俄かに細まるその構造や、法水院と潮音洞の細身の柱の林も辛うじて見えた。しかし嘗(かつ)てあのように私を感動させた細部は、ひと色の闇の中に融け去っていた。》

 放火する直前、学僧の溝口が眺めた最後の金閣の姿だ。見事な文章だが、意外なことに三島は炎上する金閣の描写を書いていない。火をつけたあと、溝口は左大文字山へ逃げ出すが、そこからの眺めは次のように語られている。

 《ここからは金閣の形は見えない。渦巻いている煙と、天に冲している火が見えるだけである。木の間をおびただしい火の粉が飛び、金閣の空は金砂子を撒いたようである。》

 闇夜に燃えさかる金色の御堂という、美しさと荘厳さと背信性をあわせもったような多義的なイメージは、さしもの美文家の手にも負えなかったのかもしれない。小説家なら、まあそれもいい。しかし画家がこの出来事を描くとなったら、絶対に避けて通れないのが、燃える金閣そのものの描写であることはいうまでもない。

 川端龍子(りゅうし)の『金閣炎上』は、その難題に正面から立ち向かった作品だといえるだろう。濃墨で塗りこめられた息づまるほどの闇のなかに、細く真っ直ぐな雨の軌跡が落ちる。そして紅蓮の炎が、今まさに“夜の結晶”のごとき建築物をのみこもうとしているのである。静かな鏡湖池にほむらが映り、三島がいみじくも書いたとおり、金の砂子が空に舞い散っている。

 まるで、先に引いた『金閣寺』のふたつの文章を一体化させたような、見事な絵ではないか。ぼくはてっきり、三島の小説を読んだ川端龍子が想像力をふくらませて描いたのかもしれない、などと思っていた。だが、それは正しくなかった。

 三島の『金閣寺』が、放火から6年後に発表されたことは前にふれたが、川端龍子の『金閣炎上』は、事件のあったその年に描かれたものだったのだ。“金閣燃える”という驚くべきニュースが、いかにすばやく日本中を駆け巡ったかの傍証となるような作品である。ひょっとしたら、三島由紀夫のほうがこの絵を参考にした可能性だって、全然ないとはいいきれないのではないか?

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 ところが、川端龍子はひとつだけ、事実と異なるものを描き込んでいる。屋根のいただきで羽を広げる、鳳凰のシルエットがそれだ。といっても周知のとおり、復元された金閣の屋根にも鳳凰がいるし、焼け落ちる前にもそこにいたであろう。いったい何がちがうというのか。

 数年前、たまたま福井に帰省したときに、デパートで「五木寛之の百寺巡礼」という番組にまつわる展覧会を観た。そこに思いがけず、焼けた金閣の屋根にあったという鳳凰が展示されていたのである。黒焦げの残骸かと思ったらそうではなく、意外と美しい姿を保っていた(ただし金色ではなかったように記憶する)。あとで調べてみると、金閣が燃えたときには鳳凰を屋根から取り外していたため、運よく火災を免れたのだという。

 川端龍子が、はたしてこの事実を知っていたかどうか。いや、たとえ知っていたとしても、炎上する金閣の屋根の上には、やはり鳳凰が描かれなければならないだろう。彼もまた、炎に包まれた金閣の姿に、ある完璧な美を探り当てようとしていたにちがいないのだ。これは報道写真ではなく、絵画なのだから。

(東京国立近代美術館蔵)


参考図書:
 三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫)

つづく

五十点美術館 No.20

2008年07月04日 | 五十点美術館
北大路魯山人『いろは金屏風』


 このところ、北大路魯山人にまつわる書物をよく読む。街の自動販売機で、松嶋菜々子と一緒に写っている写真を見たからではない。彼の作品とたびたび出くわすうちに、その豪胆とも繊細ともいえる奇妙な人間性に興味をそそられたからである。

 魯山人はこれほど有名な存在なのに、美術の専門家の間ではまともに論じられていないらしいし、その狷介孤高な性格から、気難しい頑固オヤジのような印象を広くもたれている。実際、彼の歯に衣着せぬ奔放なものいいは多くの人を激怒させたようだし、知り合いが徐々に離れていったというのも本当のようだ。しかしその一方で、魯山人と親しく接する機会のあった作家の阿井景子は、ラジオドラマを聴いて人知れず涙を流す意外な魯山人の姿を書きとめている。

 軽佻浮薄もここに極まれりといった感じの昨今、心の底から怒り、泣き、お仕着せの名誉を嫌い、自分の焼物に究極の料理を盛りつけることを生き甲斐とした魯山人の生き方は、賛否両論あるにしろ何だかなつかしい。

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 魯山人は料理や陶芸だけではなく、絵画や書道もたしなんだ。いやむしろ、そちらのほうが彼の原点だったらしい。12歳のときに京都で開かれた内国勧業博覧会で竹内栖鳳の絵に感激したのが、彼が芸術の道へと進むきっかけであったという。

 書道は誰からも習わず、まったくの独学だったそうだ。今でも「お習字」などといって、書道は代表的な習いごとのひとつになっているが、思うに習字と書道とは似ているようでいて、まったくの別ものではなかろうか。かくいうぼくも子供のころ習わされたことがあったが、これっぽっちも上達しなかった。お手本とは似ても似つかない奇妙な字を半紙の上にのたくらせているぼくを、隣の席の生徒は唖然として見ていたものだ。ぼくは思わず「自分の個性のほうが勝ってしまう」と負け惜しみをいった。相手は、皮肉か本音か「えらい」と投げ捨てるようにこたえた。

 今に至っても金釘流は直らず、人前で字を書くのに必要以上の緊張を強いられることは他の記事のなかで書いたとおりである。だが、そんなぼくを勇気づけるような一文を、あの魯山人が残していた。

 《形に引っ掛かり、こうでなければならぬということになると、その心持ちは、すでに他所(よそ)行きの作意ある心持ちとなって、人に見せるための字になっている。自分で嗜みに字を書くにあらずして人に見せるという見栄を切る不純な了簡があるために引っ掛かってくる。》

 看板書きのように注文どおりの字を書いて飯の種にするのでないかぎり、形や体裁に引っ掛かる必要はない、というのだ。ぼくのように文字の下手な人間は、この説をいいように使って自分を励ましたいところである。

 それにしてもこの文章を読むと、やっぱり魯山人は“偉大なるシロウト”だったのだな、と思う。職業として字を書く以上、他人の存在を完全に忘却し去ることは難しい。人の眼にどう映ろうが気にとめず、自分が感じたように自由に、思うがままに筆をふるうということは、書道でも絵画でもきわめて困難なことではなかろうか。他人に迎合することを、魯山人は徹底的に忌み嫌ったのであった。

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 型にはまることがイヤな魯山人は、料理や陶芸へと手を広げたが、いずれも独学であった。誰にも習わずして、これほど多くの領域に優れた仕事を残した人は、彼のほかに誰がいるであろう。

 昨年の秋、東京を旅行して赤坂のホテルに泊まったが、周辺を散歩しているとき、階段の脇にエスカレーターのついた日枝(ひえ)神社の前を通った。さすがは東京だ、神社にもエスカレーターがあるのかと感心したが、魯山人が経営していた星岡(ほしがおか)茶寮という会員制の料亭はここにあったらしい。

 星岡茶寮は大阪にもあって、現在の阪急曽根駅近くだということだが、ぼくはかつてそこから歩いて10分ぐらいのところに、何も知らずに住んでいた。どちらの料亭も戦災で焼けてしまい、魯山人の傍若無人なふるまいが従業員の反感を買ったこともあって、料理家としての野望は夢なかばで潰えたといってもいいかもしれない。しかし今でもお茶の宣伝に借り出されるぐらいだから、彼の味覚はやはり一目おかれているのだろう。本人はおそらく、現代のグルメ志向を苦々しく思っているにちがいないが・・・。

 晩年、体力の衰えた魯山人は、ふたたび書に戻った。京都で開かれた書道展が、彼の最後の個展になった。不調を押して会場に姿をみせた魯山人は、今度は必ず焼物を持ってくるからと約束したが、それから2か月後に帰らぬ人となった。来年が没後50年にあたる。

(後楽園蔵)


参考図書:
 長浜功『北大路魯山人という生き方』(洋泉社)

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五十点美術館 No.19

2008年06月10日 | 五十点美術館
カバネル『ヴィーナスの誕生』


 『ヴィーナスの誕生』といえばボッティチェリの描いた恥じらう立ち姿が有名だが、こちらは海上でなまめかしく横たわるヴィーナスである。

 大阪で思いがけずこの絵と対面したのは、もう今から4年ほども前のことだ。それ以前からさまざまな書物の図版で何度となく見かけていた有名な作品だし、アレクサンドル・カバネルの代表作だとも思うのだが、絵の前に人だかりはなくじっくりと鑑賞できた。主要な作品は展示室の正面に掛けられることが普通だが、この絵は通路から部屋に入った取っ付きに展示されていて、あまり丁重な扱いを受けているとはいいがたかった。

 いろんな書物のなかでこの絵が取り上げられていると書いたが、その多くは少々批判的な内容である。そういっていいすぎなら、分が悪い書かれ方をされている。印象派などの新しい潮流が次々と産声を上げた19世紀フランスの美術界のなかで、それら新興勢力と対立する古くさいアカデミスムを代表する存在として、カバネルとこの作品に言及されていることがほとんどなのだ。端的にいえば、マネの絵画が巻き起こしたスキャンダルの傍証のようにして、この絵はたくさんの学者や評論家から“利用”されてきたのである。

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 1863年、ナポレオン3世の命によってパリで「落選展」が開かれた。当時の画壇の権威であった官展、いわゆるサロンに落選した絵ばかりを並べたもので、物見高い市民たちが大勢押しかけたというが、とりわけ物議をかもしたのが現在では世界的名画とされているマネの『草上の昼食』である。今観ると特に何でもないようなこの絵だが、当時はあまりにも不道徳でふしだら極まりないということで、ごうごうたる非難を浴びたそうだ。着衣の男性と裸の女性が一緒にいるということが、パリの紳士たちにはとんでもない振る舞いに見えたのだろう。

 その一方で、カバネルの『ヴィーナスの誕生』は同年のサロンに堂々の入選を果たしていた。というよりも、サロンの審査員を再三務めたこともあるカバネルはむしろ体制側の人間であって、マネのような前衛絵画を意図的に排除したような形跡が見えなくもない。『モナ・リザ』の複製にひげを描いたデュシャンのように、芸術の権威に抵抗する者たちによって新しい美術潮流が生み出されるのが近代以降のパターンだが、カバネルはそれを警戒していたのでもあろう。

 しかしカバネルのこの絵は、マネよりもはるかに扇情的な裸婦を描いている。それは、一見すれば誰の眼にも明らかなことである。少なくともぼくの眼には、愛の行為の後で眠りこけている女性としか見えない。大きく反り返った左足の指先に、快楽の余韻があらわに残っているようですらある。

 ところが、それが市井の女ではなくヴィーナスであるということが免罪符となって、この絵はパリ市民から歓迎を持って迎えられた。彼らがシルクハットの下で何を考えているか、そんなことは黙っていれば誰にもわからないからである。ナポレオン3世はこの絵を買い上げたということで、どんな下心があってのことかは知りようがないが、だいたいの想像はつくというものだろう。

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 時は経ち、やがてマネの後輩たちが印象派グループを結成し、宗教や歴史に頼らない市民の視座での絵画が広まるに及んで、サロンの画家たちの評価はみるみる下降した。印象派の絵画が絶大な人気を誇るわが国では、ほとんど顧みられることもないといっていい。

 でも、こんにちカバネルの知名度がいちじるしく低いのは、歴史のいたずらにすぎないともいえる。印象派につらくあたったといっても、彼自身が権威のうえにあぐらをかいていたわけではなかった。たまさか展覧会でカバネルの絵に出会ったり、同じくアカデミスムを代表するブーグローの作品を観かけたりすると、やっぱりうまい絵だなと思う。

 現代の日本に生きるわれわれは、150年近くも前のフランスの絵画事情に関係なく、自分の好きなように絵を楽しめるはずである。ルノワールの裸婦とカバネルの裸婦とではどっちが素晴らしいのか、などと考える必要はない。ひとことでいえば、どっちも素晴らしいのだ。そのほうが楽しいではないか。

(オルセー美術館蔵)

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五十点美術館 No.18

2008年06月02日 | 五十点美術館
リキテンスタイン『日本風の橋のある睡蓮』


 日ごろから時間の許すかぎり、さまざまな分野の美術を貪欲に鑑賞したいと願っている。できるだけ先入観をもたずに、作品ひとつひとつと向き合いたいと思っている。なかにはどうしても肌に合わないものがないとはいいきれないが、それでも辛抱強く見つめていると、ちょっとぐらいは美点を見出すことができるような気がするのである。

 だが、ここではっきりいっておこう。ぼくは、ポップアートは大嫌いである。その延長線上にある村上隆も、大嫌いである。村上が一部の熱狂的な愛好家に支持されるだけでなく、現代日本を代表するアーティストという認知のされ方をしていることがぼくには理解できないし、日本のためにも好ましいこととは思えない。先日も彼のフィギュア作品が16億円で落札されたというニュースが流れたが、画像を見てみると実にオゲレツきわまりない、悪い冗談のようなしろものである。拒否反応を示す人も決して少なくないはずだ。

 かと思うと、たたみかけるようにして、今度はアンディ・ウォーホルの描いた毛沢東の肖像画が130億円で売却されるというニュースが飛び込んできた。今、「描いた」と書いたがそれは正確ではなく、ありていにいえば毛沢東の写真を転写して彩色しただけである。日本の美術館にもウォーホルによるマリリン・モンローの肖像画が数多く所蔵されているが、あれと同工異曲で、その気になればそっくり同じ作品を他人が作ることも可能だろう。何に対して130億ものカネを払おうというのか、購入者の意見を聞いてみたいものだ。

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 だが、そんなぼくにも心をうたれたポップアート作品がなくはない。ロイ・リキテンスタインはコミックのワンシーン、なかでもとりわけ俗っぽいひとコマを印刷のドットが見えるまで拡大して描いた絵画で知られている。その着想はオタクアニメを立体化したような村上隆の仕事のはるかな祖先ともいえるものだが、それだけではなかった。『日本風の橋のある睡蓮』をはじめて観たとき、ぼくはその意外性に驚かされるとともに、やはりそこにはリキテンスタインならではの個性が横溢していると感じられたのである。

 描かれた場所ははっきりしないが、やはりジヴェルニーにあるモネの庭ではなかろうか。いや、ポップアートの画家たちがマスメディアを通して限りなく増幅されるイメージにインスピレーションの源泉を求めたことを考えれば、リキテンスタインが実際にジヴェルニーを訪れたかどうかは心もとないし、またどうでもよい。モネの絵画によって、あるいは書物や写真などによって、ジヴェルニーに行ったこともないのに皆が共有しているジヴェルニーの印象というのがある。それでじゅうぶんだろう。

 そしてそのありふれたイメージを表現するのに、彼はみずから考案した独自のアイディアで勝負する。お馴染みのドットや斜線を均等に並べた印刷技法の応用によって、睡蓮の池を自分のものとして表現したのだ。おもしろいのは、絵のなかに鏡を取り込んでいる点である。水面が周囲のものを写すのと同様に、美術館にいる人々が鏡に写り、作品に無限の動きを与える。モネの時代には思いも及ばなかったこの発想は、従来の絵画の枠にとらわれないポップアートの作家ならではのものだろう。

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 リキテンスタインは1997年に世を去ったが、マンガと絵画との融合、あるいはボーダーレス化は、21世紀の現在に至ってますます盛んにおこなわれている。先頭を突っ走っているのは、先ほども書いたように日本のアーティストだ。

 彼らは過去の美術作品からではなく、サブカルチャー的な文化の動向にいち早く反応し、作品を作り上げる。時代の波に乗ることができれば、しめたものである。追い風はたしかに吹いている。だが、彼らの仕事が数十年後にも残っているかどうか、それは誰にもわからない。

 リキテンスタインは、同時代のアメリカ文化との横のつながりだけではなく、過去の偉大なる画家たちとの縦のつながりも忘れなかった。モネの連作『ルーアン大聖堂』を翻案した作品も残している。時代に踊らされるのがアーティストの仕事ではないことを、彼は知っていたかのようである。

(国立国際美術館蔵)

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五十点美術館 No.17

2008年05月26日 | 五十点美術館
岸田劉生『道路と土手と塀(切通之写生)』


 東山魁夷の『道』のことを考えているうち、もう一枚の別の絵が頭に浮かんできて仕方なかった。そこにもやはり、一本の道が画面の奥に向かってのびていくところが描かれている。重要文化財にも指定されているその絵のタイトルは、『道路と土手と塀(切通之写生)』という。何とまあ味も素っ気もない、説明的な題名だろうか。

 作者は岸田劉生。麗子という自分の娘を繰り返し描いたことで有名だが、画風を転々とさせたこの画家のことを、ぼくはじゅうぶんに理解できているとはいいがたい。子供のころから展覧会で実物にふれる機会があって、『麗子像』の連作もかなり早い段階で眼にしているが、「麗子を親としての目線ではなく、あくまでひとつのモチーフとして、冷たく突き放して描いているようだ」といった感想を日記に書きつけたのを覚えている。今となっても、その気持ちは基本的に変わらない。

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 劉生はなぜ、家の近所の道をこれほど写実的に描く必要があったのだろうか。話によるとここは、彼がそのころ住んでいた代々木の一角らしい。

 現在の様子を写真で見たことがあるが、本当に何気ない、どこにでもあるような街角だ。道路はもちろん舗装されていて、左側にはマンションらしきビルが建ち、右側の土手はすっかりコンクリートで固められ、その上にも建物が建っているらしく見える。絵が描かれてから90年余り、東京の景観が無残なまでに変貌してしまっているのは当然の話だろう。

 しかし気になったのは、描かれた道の角度だ。写真で見るかぎりでは、せいぜい緩やかなのぼり坂といった程度である。付近に住む人の話によると斜度はおよそ10度で、昔からさほど変わっていないらしい。だが岸田劉生の絵のなかでは、通行人をたじろがせるほど急峻な斜面として描かれているではないか。大雨の日にはむき出しの赤土がぬかるみ、泥流のように流れ落ちてくるのではないかと思われるほどだ。

 こんなふうに想像力を働かせることができるのも、劉生の真に迫った描写力あってのことである。東山魁夷の『道』は、実際に現場での写生によりつつも、最後にはリアリティを超越した心象風景として描かれ、普遍的なひとすじの道となった。だからこそ、われわれはその道をみずからの人生に重ね合わせたり、勇気づけられたりもするのだろう。

 しかし岸田劉生の描いた道は、単なる道路以上のものではない。こののぼりにくそうな坂道を、われわれがのぼってみることなどできやしないのだ。手でさわれそうなぐらいリアルに描かれているにもかからわず、その風景と鑑賞者の間には絶対的な距離があり、絵のなかに入り込むことを困難にしている。これは、考えてみれば奇妙な逆説である。

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 娘・麗子は、のちに父親の評伝を執筆している。そのなかで、この絵が描かれるのに要した時間は10日間だと書いているが、それが事実なら驚異的なスピードだと思う。さらに彼女は、上に述べたようなぼくの感想とは正反対のことを記してもいる。

 《私はこの絵を見ていると、いつも暖かく自分を迎えてくれる永遠の心の「ふるさと」を見るような気がするのだ。この“暖かさ”が何ともいえず懐かしいのだ。》(岸田麗子『父 岸田劉生』中公文庫)

 麗子が生まれたのは、この代々木であった。彼女にとっては、父親が描いたこの絵が正真正銘の“ふるさと”の姿だったのである。

 それにしても岸田劉生は、あの道をなぜ、これほどまでに急な坂として描かねばならなかったのだろう。彼はこのとき、乗り越えなければならない壁にぶち当たっていたのでもあろうか。苦しい坂をのぼり終えたところに次なる展望が開けることを、心に期していたのでもあろうか。

(東京国立近代美術館蔵)

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