てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

工芸に生くる人々(4)

2007年10月31日 | 美術随想
 秋晴れの日曜日、岡崎公園へ散策に出た。掃除しきれていない部屋や、まったく手をつけていない録画済みのビデオや、山ほど買ったものの床に積んだまま開かれたことのない本や、ぼくが家で片付けなければならないことは山積しているが、休みの日をそんなことでつぶすようなインドア派ではない。とはいってもアウトドア派というのともちがうが、こういうのを何派といったらいいのだろう。

 最近はようやくデジタルカメラを手に入れたので、うれしくていろんなものを写しにいきたくなる。とはいっても旧式のものを安く買ったので、スマートな新製品と比べると相当な厚みがあり、人前で取り出すときに少々気が引けたりもするのだが・・・。買った翌日はたまたま時代祭があり、絶好の機会だと喜んでカメラ片手に走り回ったが、御池通の北側に陣取ったため逆光になってしまったのと ― 祭が通過しているときは道を渡ることができない ― 沿道の観客が多く、華やかな行列が人の後頭部越しにしか移っていないのとで、ここでお見せできるようなものは撮れなかった。

 それでも、夜勤明けに寝る間も惜しんで、ブログを書く間も惜しんで ― というのは冗談だが ― あちこち撮影に出かけているのである。これまでは携帯で撮ったピンボケ画像しかなかったが、今後はしばしばデジカメの鮮明な写真を添付していこうと思う。きっとそのほうが、ぼくの晦渋な文章よりも見ごたえがあるにちがいない(実は一昨日の記事の最後に載せた写真も、それである)。

                    ***

 府立図書館で本を借り、美術館へと向かうあいだに、「みやこめっせ」と呼ばれる施設に立ち寄った(正式には京都市勧業館という)。ここはとても天井が高くて、ひろびろした空間が気持ちいいのだが、古本市などにときどき立ち寄った以外はベンチで一息ついただけで出てしまうことが多かった。この日は画材まつりがおこなわれていて、けっこうな賑わいだったので、はじめて地階へ降りてみることにした。地下には京都の伝統工芸に関する展示があるらしいことを、うすうすではあるが知っていて、最近工芸のことについて書きつづけてきたせいか、いつになくぼくの気を惹いたのである。


〔「みやこめっせ」1階ロビーから天井をのぞむ〕

 さて階段を降りていき、「京都伝統工芸ふれあい館」というところに足を踏み入れてみて驚いた。予想もしない広大な空間に、おびただしい種類の伝統工芸品のかずかずが、丁寧な説明パネルとともに陳列されていたのである。先日の「日本伝統工芸展」では、陶芸・染織・漆芸・金工・木竹工・人形・諸工芸という7つのカテゴリー(それとは別に「遺作」という部門もある)に分類されていて、工芸のすべてのジャンルはほぼ網羅されていると思っていたが、細分化していくと数え切れないほどの種類にわかれるようだ(同館のホームページによると、66品目あるらしい)。

 なかには花かんざし、きせる、かるた、釣竿、足袋などという珍しいものもある。興味は尽きないけれど、展示をひとつひとつ丹念に観ていくと丸一日かかってしまいそうなので、この日はざっと一巡するにとどめたが、京都の伝統工芸を知るためにこれほど有益な場所はなさそうだった。ぼくはこんな素晴らしい施設を知らずに、何年間も京都に暮らしていたのかと思うと、顔が赤らむ思いがした。

                    ***

 この前の日には、京都文化博物館で開かれていた「京の名工展」にも足を運んだ。「京の名工」というのは一般的な名称ではなく、府が毎年表彰している「京都府伝統産業優秀技術者」の通称なのだそうだ(「重要無形文化財保持者」を「人間国宝」と呼びならわすようなものだろう)。その日は、ひょっとしたら截金の素晴らしい作品が観られるのではないかと思って出かけたのだったが、残念ながらそれはなかった(この日はちょうど、急逝した截金師・江里佐代子さんの葬儀の日でもあった)。

 でも、はじめて眼にするような工芸品がいろいろあって、ますます興味をかきたてられた。なかでもお菓子(飴細工?)で作られた華麗な花には驚かされた(菓子師という職人がいるのだそうだ)。見事な装飾をほどこした笙や篳篥(ひちりき)を観ることもできた。

 規模の大きなものでは、造園師の仕事がある。普段は殺風景な貸しフロアの一隅に、巨大な枯山水の庭園が出現していた(同様のものは「みやこめっせ」にもあった)。それを観るまで、造園が“伝統産業”だなどとは考えたこともなかったが、なるほど多くの名園を擁する京都においては、先人たちの作庭の極意が着実に受け継がれているということだろう。

 会場の一画には、京焼の作られ方を細かく紹介したコーナーが設けられていた。学生とおぼしき数名の若いグループに向かって、ひとりのご老人が大きな声で説明をされていた。その方をぼくは存じ上げなかったが、おそらく陶芸の職人のどなたか、いわゆる「京の名工」のおひとりなのだろう。見たところすでにかなりの年齢に達しているらしく思われたが、声にはぴんと張りがあり、いいよどむことも全然なく、まるで街頭演説をしているみたいに、焼物の魅力について滔々と語っておられた。聞き役の学生たちのほうがむしろ圧倒されていて、棒立ちになったまま相槌をうつのが精一杯のようだった。

 職人というと、世間に流布している大まかなイメージがある。気難しく頑固で、口が重い。工房に座り込んだまま黙々と手を動かし、仕事をきっちり仕上げる。そんな判で押したような生活を、来る日も来る日も同じように繰り返す・・・。まあ、こんな感じだろうか。

 だが、その老陶芸家がほとばしらせた熱意は、ぼくを揺すぶった。自分に与えられた仕事を黙ってこなすだけではなく、その仕事を多くの人に知ってもらい、特に若い人たちに受け継いでもらいたい、という思いが、痛いほど伝わってきたのである。これほどの情熱をもって仕事をしている人は、少なくともぼくがこれまで勤めた会社の中には、ひとりとしていなかった。

                    ***

 その人の意を継ごうというわけではないが、今後は絵画や彫刻などとともに、工芸にもどんどん眼を向けていきたいと思う。この随想録でも、機会があれば取り上げていくことにしよう。現代という不可解な世の中に揉まれて生きるわれわれが、腰の据わった職人たちから学ぶべきことは決して少なくないにちがいないと、ぼくは信じる。


DATA:
 「平成19年度 京の名工展 ― 京都府伝統産業優秀技術者作品展 ―」
 2007年10月24日~10月28日
 京都文化博物館

この随想を最初から読む
目次を見る

「新制作展」で思うこと

2007年10月29日 | 美術随想


 この季節ともなると、怒涛の公募展ラッシュがはじまる。東京で幕を開けた展覧会が(今年から国立新美術館に会場を移したというところも多いようだ)、続々と関西に巡回してくる。芸術の秋たけなわである。

 京都展の会場となる京都市美術館でのスケジュールを見ると、主なものだけでも9月の「院展」にはじまり「主体展」、「新制作展」、「自由美術展」、「創画展」、「二紀展」、「行動展」、「独立展」、「二科展」、そして年をまたいで開催される「日展」と、枚挙にいとまがない。世の中には本当にたくさんの美術団体が活動しているものだと感心する。展示される作品数だけでも相当な数にのぼるはずだが、それよりさらに多い落選作というのがあるわけで、それも含めると日本の美術人口はかなりのものだろう。

 もちろんすべての公募展を観ようとは思わないし、美術評論家でもないかぎり不可能なことだと思うが、日程が合えば足を運ぶようにしている。といっても、なかには会期の短いものがあるので、気がついたときには終わっていたということも少なくない。

 今年はまず、「院展」を観た。これは、ここ数年間というもの一度も欠かしたことがなく、ぼくにとっては定番のイベントだ。いつもながら力作が多く、観ごたえがあった(ちなみに大阪へ巡回したときも観にいったが、心斎橋のデパートにある会場は京都に比べてはるかに狭く、春日三球ではないが「こんな大きい絵をどこから入れたんだろう」と首をかしげざるを得ない)。

                    ***

 次に「新制作展」に出かけてきた。昨年につづいて2度目の鑑賞である。「院展」が日本画に限定した展覧会なのに比べ、こちらは絵画(洋画)、彫刻、そしてスペースデザインという3つの部門をもつ。この3番目の部門が、他の公募展では類例のない独特のものだが、「スペースデザイン」という言葉がいまひとつなじまず、意味するところがはっきりわからない。立体造形といえばかなり近いかと思うが、なかにはやや工芸的な作品もあったりする(伝統工芸とはだいぶちがうけれど)。もともとは建築部といって、前川國男や丹下健三といったそうそうたるメンバーが顔をそろえていたということだ(そういえば京都市美術館のすぐ近くには、前川の代表作のひとつである京都会館があるが、ぼくは中に入ったことがない)。

 彫刻部は、何といってもぼくが敬愛するふたりの彫刻家、舟越保武と佐藤忠良(ちゅうりょう)がその設立にかかわっていたことを特記しておきたい。この随想録でも、かつて「舟越保武へのオマージュ」や「物言わぬ群像 ― 人体彫刻をめぐって(6)(7)」の記事で彼らについて触れてきた。舟越はもう死んでしまったが、佐藤は今なお出品をつづけている。しかし堅実なブロンズ彫刻の作家であった彼らとはちがい、現在は大胆な木彫の作品が多い。

 絵画部は、もともと新制作協会の母体となった部門で、この団体の核をなす(他の2部門はほとんど付け足しといいたくなるくらい、出品点数に差がある)。創立メンバーには穏健な画風をつらぬいた小磯良平と、作風をつぎつぎと変転させた猪熊弦一郎とが名を連ねていて、ちょっと奇妙な感じがする。そういえば神戸に保存されている小磯のアトリエには、「新制作展」のマーク(上図)の入ったポスターが貼られていたような記憶がある。ほかには荻須高徳や三岸節子も会員であった。

                    ***

 このように華やかな歴史に彩られてきた同展だが、今年の展示内容を観ていると、大変な混沌の渦中に投げ込まれてしまったという感が強い。特に絵画部門に、それがいちじるしい。他の美術団体でも同様なのか、ぼくはつぶさに観てきたわけではないから何ともいえないが、「院展」のような日本画の団体と比較すると、まるで半世紀ほどの時差があるような気さえする。

 ほとんどすべてが、抽象とも具象ともつかない、いわば“半抽象”とでも呼びたい作品で占められていた。一見抽象画を描いているようでも、よく観るとどこかに具象の影がさしている。これはかつてのキュビスムのように、具象から出発して抽象へ至ったという、明らかな道筋を示すものではない。いわば抽象になりきれず、具象への未練を残しているように思われる。

 しかし、なかには驚くほどの写実をきわめた作品も散見された。でも、並みの写実画というのとはやはりちがう。日常の一部分をことさらに誇張し、徹底した写実で描くことによって、かつて出会ったことのないような鮮烈なイメージを喚起する。というよりは“あばき出す”。われわれは驚きをもってその絵と対面するが、精神の内奥まで深くしみいってはこないように感じられる。つまり、心の底から感動することは少ないのだ。

 よく考えてみると、これは何も絵画の世界だけではなく、ぼくたちを取り巻く世界全体の傾向のようにも思われる。世の中、あまりにも視覚的なものにとらわれすぎてはいないか。外見さえ美しく整ってさえいれば、それでよし、といった風潮があるように思われてならない。実体から遠く離れて、色や形はひとりでに歩き出し、自己主張する。そしてそれが“実体の自己主張”だと勘違いされているのである。

 “半抽象”的な絵画は、いわば浮遊して自己主張する色なり形を、キャンバスですくい取ったようなものだ。その絵をとおして、作家像を透かして見ることは絶望的に難しい。彼らが一枚の絵を描くためにどれだけ深く考え、周到な準備をし、全身全霊で取り組んだのか ― あるいは、いないのか ― ということが、さっぱり伝わってこないのである。

 それにしても、ごく当たり前に風景を描いたような絵は、190点近い作品のなかで、ほんの数点しかない。絵を描くということがきわめて困難な時代に、今われわれはさしかかっているのかもしれない。

                    ***

 スペースデザイン部にも、似たようなことがいえる。建築部がスペースデザイン部に変化したいきさつは知らないが、すくなくとも現在では“建築的”な作品は皆無である。建築というものがそもそも、作品であると同時にパブリックなものでもなければならないという大原則を背負っていることを考えると、スペースデザインといういいかたはプライベートな、やや閉鎖的な響きがともなう。公的なものをささえる頑丈な土台が薄れ、個人的な趣味趣向の世界がはびこっている。彫刻においても、それはいえるだろう。

 佐藤忠良は一貫して人体を作りつづけているが、95歳を迎えて全身像を作るのは難しくなったのか、『島本氏』という頭部の彫刻を出品していた。老齢の男性と思われるこの島本氏が誰なのかは知らないが、小品にすぎないこの頭像が、周囲を取り巻く奔放な現代彫刻群を睥睨し、まるで頑固親父みたいに物いわず控えているさまは、「新制作展」のなかで流れた時間の長さを凝縮したかのようだった。


〔野外に展示されたスペースデザイン部の作品。前日の雨がたまっていた〕


DATA:「第71回 新制作展」
 2007年10月23日~11月1日
 京都市美術館

目次を見る

若冲さんの墓参り(5)

2007年10月25日 | 美術随想


 少々間があいてしまったが、墓参りのつづきを書いてみたいと思う。というのも、伊藤若冲の墓は京都にもう一か所あるからである。

                    ***

 今年の初夏、相国寺の境内にある承天閣(じょうてんかく)美術館というところで、若冲の『動植綵絵』全30幅が一堂に会したことは先にふれた。全国の美術ファンが待ち望んだ千載一遇の機会に、なぜこの小さな美術館が選ばれたかというと、この江戸絵画史上まれにみる豊潤な傑作群は、そもそもこの寺に寄進されたものだからだ。

 いやそれだけではなく、若冲は3幅からなる『釈迦三尊像』を同時に寄進してもいた。これらは33幅揃って、ひとまとまりの作品だったのだ。だが明治の世を迎え、寺に斜陽が射しはじめていたころ、『動植綵絵』を皇室に献上するのとひきかえに、いくばくかのお金をいただいたというわけである。よくいえば若冲は相国寺存続の恩人であるが、わるくいえば売り払われたようなものだ。現代でも大きな企業が傾くと、不動産と絵画を手放してその場をしのごうとするように・・・。

 だが皇室の所蔵になったのは『動植綵絵』の30幅だけで、『釈迦三尊像』は相国寺にとどまった。つまりこの未曾有の大連作は、古い都と現代の首都との間で、長らく生き別れになっていたわけだ。それが実に120年ぶりに『動植綵絵』が京都に里帰りすることで再会を果たし、33幅すべて揃った本来の姿で公開されたというわけである。それを見越してというか、願ってというか、美術館の展示室は33の掛軸が部屋のまわりにぐるりと展示できるように設計されていたというから驚きだ。

 だが、この展覧会に関してはこれ以上いうまい。前にも少し書いたが、その混雑たるや大変なもので、とても美術を鑑賞するなどという雰囲気ではなかった。

 最近はフェルメールなどの世界的名画が日本で公開されることが増え、美術館側も「いかに混雑を減らせるか」ということに意を砕いているらしいことが、展覧会場のレイアウトからも見てとれる(入場待ちのスペースを屋内に設け、退屈させないようビデオテープを流す等々)。

 しかし承天閣美術館は、33幅の連作をひと部屋に展示することを前もって想定してはいたが、あれだけ大量の人が押しかけるということは予想だにしなかったのだろう。まるでおしくらまんじゅうみたいに、ぎゅう詰めになりながら必死で絵の前に群がっている現代人のすさまじいエネルギーを見て、天国の若冲も苦笑したにちがいない。

                    ***

 ところで9月10日の石峰寺での若冲忌のあと、15日には相国寺でも「若冲居士忌」なるものが開かれるということを知った。もうひとつの若冲の墓は、この相国寺にあるのである。そのことは前から知っていて、例の展覧会を観たあとにも、ついでに ― といっては失礼だが ― 若冲の墓に詣でてみようと思っていた。しかし力尽きてしまい、果たせないままになっていたのだ。

 9月15日当日、ぼくが寺に着いたのは午後もかなり遅くなってからだった。若冲居士忌はもう終わってしまったらしく、寺はどこもかしこもひっそりとしていて、境内に何百人という人々が列を作って待っていたあの日と同じ場所だとはとても信じられない。見渡してみると、美術館自体はちっぽけだが、相国寺の敷地全体は実に広大である。おまけに土地が平らだからか、ますます広く感じられる。祇園からほど近い建仁寺もこんな感じだが、こちらのほうが広いかもしれない。

 それにしても、若冲の墓はどこにあるのだろう。ぼくはそれを調べてきていなかった。いや、だいたい寺に来れば墓の場所などすぐわかるものだ。・・・そう思ってうろうろ歩いてみたが、一向に見つからない。墓地はどちら、という看板すら出ていない。

 ふと、水上勉が直木賞を受けた小説『雁の寺』の舞台になったという塔頭の前に出たりした(このことは知らなかったので、びっくりした)。法堂(はっとう)の中からは“鳴き竜”に向かって手をたたく音が、ときどき思い出したように響いてきた。

                    ***

 南を向いた正門まで来ると、ようやく絵地図が掲げられているのを発見した(ぼくははじめ西門から入ってきたのだ)。それによると、細い目立たない道を曲がって突き当たったところに、集合墓地があるらしい。

 急いで行ってみると、誰もいない。さっきまで法要がおこなわれていたという形跡もない。広い敷地の中に、新しいものからかなり古そうなものまで、無数の墓石が黙々と立ち並んでいる。

 さて、若冲の墓石はどれか。見回してみても、それらしい表示も何も出ていない(石峰寺には、親切なことに案内板があったのだが)。仕方なく石に刻まれた名前を見ながら墓所内を一周したが、やはりない。場所を間違ったのだろうか? ほかにも墓地があるのだろうか? そのとき急いで墓地に入ってきた親子連れがいたので、ああこの人たちも若冲の墓に来たのかと思ってついていったら、自分たちの先祖の墓を水で洗ってさっさと帰っていった。

 この人たちが急いでいたのには、理由があるだろう。おそらく、墓地が閉まる時間が近づいているのである。ぼくは焦ったが、砂利の上を歩き回った足は疲れ、進退きわまって墓所の入口に立ちすくんでしまった。ふと気がつくと、こちらに背を向けて立っている古い墓がある。あっと思ってその墓の正面に回ると、若冲の名前がそこにあった。

 何の変哲もない四角い石に、やはり「斗米菴若沖居士墓」と刻まれている(ここでも、さんずいである)。そして意外なことに、隣には足利義政、さらにその隣には藤原定家の墓もあり、時代の異なる3人の名士がなぜか仲むつまじく並んでいた。石塔のかたちをした他のふたりに比べ、四角いだけの若冲の墓は平凡で地味だった。彼は異端の画家だとか何だとか、まるで変人みたいにいわれているが、実際にはごく慎ましいひとりの信徒だったのではないか、と思われた。

                    ***

 ぼんやりしていると、墓地が閉まってしまいそうである(本当はどうなるのかわからないが、万一閉じ込められでもしたら大変だ)。墓参りの帰りとは思えないくらいに、ぼくはせかせかと急ぎ足で外へ出た。広い境内の中を、バイクに乗ったおじさんが夕刊を配りながら走っていた。これにもまた、しこたま驚いた。

つづきを読む
この随想を最初から読む

工芸に生くる人々(3)

2007年10月21日 | 美術随想


 男性の作品がつづいたので、今度は女性作家にも眼を向けてみよう。

 ガラス工芸の小島有香子は、『積層硝子皿「月暈(つきがさ)」』(上図)で高松宮記念賞を受けた。今回が初出品で、まだ28歳の若さであるという。「日本工芸会」ホームページでの彼女のインタビューを見ていると、何も飾ったところのない今風のお嬢さんだという感じだが、多摩美大で学んだあと富山に移り、自然の豊かな環境の中で制作にいそしんでいるそうだ(その様子は「新日曜美術館」でも紹介された)。月をモチーフにした今回の作品は、満月よりもネオンサインのほうが明るい都会の暮らしからは決して生まれてこなかったにちがいない。

                    ***

 ガラス工芸というと、日本にも文化勲章を受けた藤田喬平のような巨匠がいるが(ちなみに藤田の展覧会は今ちょうど大阪で開かれている)、まだまだヴェネチアとかボヘミア、あるいはデンマークといった、ヨーロッパのものという印象が強いのではなかろうか。藤田喬平も、かつてはヴェネチアで制作をしていたということだ。

 もうひとつ忘れてはならないのが、エミール・ガレやドーム兄弟といったアール・ヌーヴォー期のフランスのガラス工芸である。彼らの作品は日本趣味との関連がしばしば指摘されることもあって、わが国での人気の高さは尋常ではない。ガレの展覧会は日本のどこかでしょっちゅう開催されているといってもいいほどだし、常設の美術館も日本にある(北澤美術館やエミール ガレ美術館など)。ガレの器に象牙の蓋をかぶせて茶会に用いていたという粋人もいる(小林一三など)。彼らの存在を差し置いて、日本でガラス工芸の仕事にひと花咲かせるというのは、思ったより困難なことであるかもしれない。

 だが小島有香子の作品は、上記の誰とも異なった特徴を備えている。和風の装飾があるわけでもなく、藤田のように金箔を使っているわけでもないのだ。いわば前後の脈絡なしに、彼女は“日本の月”をそのまま造形化して提示したのである。伝統工芸展の会場においても ― テレビの影響もあるかもしれないが ― 彼女の硝子皿は大きな注目を集めていた。決して大きな作品ではなく、遠くから人目を惹くような派手さも持ち合わせていないけれども、作品の前にたたずむ人が途切れることはほとんどなかった。

                    ***



 新進気鋭の小島にとって、今年は大きな飛躍の年となったようだ。伝統工芸展の受賞に先立ち、金沢で開かれた「国際ガラス展」において、彼女の『Layers of Light -MOON-』(上図)が同展の第10回目を記念する特別賞に輝いた。やはり月をテーマにした作品だ。現物を観たわけではないが、『月暈』よりもはるかに複雑なテクスチャーをもっているように思われる。

 「日本伝統工芸展」と、この展覧会が大きくちがうところは、審査員に海外の作家や評論家が名を連ねていることだ(ちなみに一次審査には、藤田喬平の息子の藤田潤が加わっていた)。チェコのガラス造形家、イジィ・ハルツバは、審査後の座談会で小島の作品について、個人的な意見だと前置きしながらも、こう評している。

 《私はこのガラスの作品の中にまるで俳句が秘められているように感じています。見ていると、月や、山からわいてくる霧、水、雲、そういった日本の風景、日本の空気、日本の雰囲気が感じられました。》(「国際ガラス展・金沢2007」ウェブサイトより)

 チェコ人であるハルツバが、どこまで日本のことを知っているのかはわからない。ただ、今回の審査のために金沢に滞在し、過去には富山で公開制作をおこなったこともあるという彼が、日本の ― しかもよどんだ都会ではなく、まだ清澄な空気を残している北陸の ― 夜空に浮かぶ月の輝きを見て、強く印象に刻んでいたということはありそうである。そして小島有香子のガラス作品は、彼がいだく日本のイメージに深く共鳴したのであろう。真の国際化とは、こういうことをきっかけに生まれてくるのではないかと思う。

                    ***

 『積層硝子皿「月暈」』は、建材用の板ガラスを重ね合わせて機械で削り出すという、他の工芸に比べると「粗い作業(作者談)」で作られているらしい(もちろん最後には手作業で磨きをかけているのだろうけれど)。だが、眺める角度をちょっと変えると、少しずつちがった輝きを放ち、見飽きるということがない。

 まるで、変幻自在に輝きを変える本物の月の姿のようであった。

つづきを読む
この随想を最初から読む

工芸に生くる人々(2)

2007年10月19日 | 美術随想


 陶芸には、本当にさまざまな技法があるようだ。楽焼や備前焼みたいに、いかにも土から作られたといったふうの粗い質感を残しているものもあれば、透き通るような光沢を放つ磁器があったり、鮮やかな色彩で飾り立てたものがあったりする。ぼくのような素人には、いったいどうやったらこんなものができるのか、まったく想像もつかないものが多い。

 人間国宝の伊藤赤水(せきすい)は、当代で五代目だ。彼の『無名異(むみょうい)練上花紋皿』(上図)は、伝統工芸展に並んだかずかずの焼物のなかでもひときわ異彩を放って見える。土の上に花弁を敷きつめたような唐突な艶やかさは、日本古来のわびさびの世界観とはまさに対極にあるといっていい。

 無名異焼というのは、主に佐渡に産する焼物で、土が酸化鉄を含んでいるために赤いのだそうだ。それにしても皿や器というものは、たとえばそこに花を生けたり、食べ物をのせたりすることによって完成するのではないかと思っていたが、すでにこれだけ満開の花が咲いてしまっていては、そのままうっとりと眺めているしかなさそうである。

 練上というのは土の層を重ね合わせて紋様を作り出すという技法らしい。つまりこの花々は、表面から描かれたものではないのだ。ぼくも当日、展覧会場で、皿の四隅のめくれ上がったところから裏側をちょっと覗いてみた。ふだん人目に触れない皿の裏にも、やはり満開の花畑が燦然と咲き誇っていたのである。

                    ***



 同じく人間国宝の三代目・徳田八十吉(やそきち)は、ぼくがもっとも好きな陶芸家のひとりだ。「彩釉磁器」と呼ばれる、妖しく光り輝くその焼物をはじめて観たとき、ぼくはこれまで蓄えてきた陶芸への認識が音を立てて揺らぐのを感じたのだった。

 今回出品された『耀彩鉢「無限」』(上図)は、彼のものには珍しく白磁の部分が多く残っているように見えるが、それでも鮮烈な色彩のグラデーションと、内部からおのずと光を放つかのような神秘的な輝きは、他の追随を許さない。

 このような発色を得るためにはもちろん天然の土の力だけでは無理で、色のついた釉薬を塗ってから焼き付けることによって、このような姿になるらしい。だが理屈ではわかっても、実際に土からこのような絢爛たる器を作り出すことを考えると、ぼくには“魔法”としか思えない。

 だが単純に“魔法”呼ばわりしてしまっては、作者に失礼というものだろう。石川県に生まれた彼は、郷土の伝統工芸「九谷焼」の色彩をもとに研究を重ね、現在の作風に行き着いたのだという。三代目とはいっても、先代譲りの技法をただ守っているだけではないのである。

 「耀彩」に用いられる色の数は、50から70にも及ぶそうだ。その多さは絵画と肩を並べるほどだろう。造型感覚に優れているだけでなく、色彩感覚にも人一倍ひいでた徳田の存在は、まさに現代陶芸界の至宝ではないかとぼくは思う。

つづきを読む
この随想を最初から読む