てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

傷跡を癒やす歌 ― 新垣勉のこと ― (1)

2007年01月31日 | 雑想


 昨年の紅白歌合戦以来、「千の風になって」という歌がよく聴かれているらしい。歌ったのは秋川雅史というテノール歌手で、CDもかなり売れているようだ。そのブームの煽りを受けて、新垣勉という別の歌手が吹き込んだCDも、よく売れているという。

 新垣勉の名前は、何年か前からCD店でよく見かけていたし、その特徴ある風貌も知っていた。彼が全盲であるということも、うすうす知っていた。だからこそ、ぼくは彼のCDには手を出そうとしなかった。いつの間にいかなる思い込みが介入していたのか、今となっては不思議ですらあるのだが、この手の企画は“きわもの”だと決めてかかっていたのだ。

 もともとクラシックを聴くのが好きだった人間からすれば、盲目の歌手だからといってわざわざ聴いてみる理由もなかった。ほかにも素晴らしい歌手は、ごまんといるからだ。彼らの歌声を評価するのに、目が見えるか否かということは、基準にはなり得なかった。ぼくは無意識のうちに、新垣勉の歌声を聴くことを避けてきたのだった。

 だが最近になって、新垣が歌った「千の風になって」が売れているというニュースを聞くと、さすがにちょっと食指が動いた。近所のレンタルショップに立ち寄ってみると、「千の風になって」は置いていなかったが ― あるいは貸し出し中だったのかもしれないが ― 6年くらい前に出た彼の最初のCDがあったので、借りて帰った。それを聴くや否や、なぜもっと早く彼の歌を聴こうとしなかったのだろうと、ぼくは激しく悔やんだ。

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 『さとうきび畑』というそのアルバムには、全部で16曲が収められている。西洋の宗教曲もあれば、日本の唱歌もある。ぼくは順番に聴くことはしないで、まず「アメイジング・グレイス」だけを抜き出して聴いてみた。というのも、この曲はここ一年ほど、ぼくの心の中にいつも鳴り響いている曲だからだ。

 讃美歌であり、黒人霊歌としても知られる「アメイジング・グレイス」は、もちろん昔から知っている。そのメロディーは、一度聴いたら決して忘れることができない。だが意識して聴くようになったのはつい最近のことで、本田美奈子の早すぎる死がきっかけだった。

 正直にいうと、ぼくは生前の本田美奈子にはあまり関心がなかった。アイドル歌手としてデビューし、ミュージカルへと活躍の舞台を広げていった彼女は、ぼくのアンテナには引っかからない場所にいたのだ。

 本田美奈子の訃報と同時に、彼女が歌った「アメイジング・グレイス」がテレビで繰り返し流れるようになった。透き通った、それでいて力強い歌声は、クラシック以外には見向きもしなかったぼくの心をたちまちつかんだ。

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 本田美奈子への関心と同時に ― ぼくは彼女の追悼番組を欠かさず見たものだった ― 「アメイジング・グレイス」という歌そのものの魅力が、ぼくをどうしようもなく惹きつけた。

 レンタルショップで、手に入るかぎりの「アメイジング・グレイス」を借りて聴いた。なかにはドラマ『白い巨塔』の主題曲として歌われたものもあったし、楽器だけで演奏されたものもあった。一枚のCDがまるごと「アメイジング・グレイス」というものまであった。

 ひいては、この曲が生まれるに至った物語もぼくの興味をそそった。簡単にいうと、「アメイジング・グレイス」の詩を書いた神父はもともと奴隷船の船長で、その詩には深い悔恨の思いがこめられているらしいのである。

 図書館に出かけて探してみると、そのへんのいきさつを書いた300ページを超える本があったので驚いた(ちなみに著者は村田美奈子という人で、奇しくも本田美奈子と一字ちがいである)。思い切って借りてはみたものの、その本はあまりにも長く、結局読み切ることができずに返してしまったが、いまだにぼくの頭の片すみに引っかかっている。

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 さて、新垣勉の歌う「アメイジング・グレイス」は、ややゴスペル調に味付けされていた。それは本田美奈子の歌い方とまるでちがっていた。ぼくは最初めんくらったが、これこそ新垣でなければできない歌い方ではないかと気がついた。なぜなら彼にはアメリカ人の血が混じっているからだ。

 メキシコ系アメリカ人の父と、日本人の母の子供として、彼は沖縄に生を受ける。しかし生まれて間もなく、彼は助産婦の過ちによって劇薬を点眼され、視力を失う。1歳のとき、両親は離婚し、父親は海の向こうに帰ってしまった。

 彼は両親を憎み、不幸に生まれついた我が身を憎んだが、やがて歌と出会い、キリスト教と出会うことで、憎しみは感謝の思いへと変わっていったという。まだ見ぬ父親へ向かって、彼は歌いつづける。父が授けてくれた、やさしくて力強い、テノールの歌声で。

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20世紀版画おぼえがき(2)

2007年01月26日 | 美術随想
浜田知明『初年兵哀歌(歩哨)』


 浜田知明(ちめい)の存在を初めて知ったはいつのことだったか、思い出すことができない。最初は多分、テレビか何かで紹介されていたのを見たように思う。

 彼の名を冠した展覧会には一度も出かけた覚えがないが、ずいぶん前から繰り返し、その作品に接する機会があった。場所も伊丹であったり、あるいは京都であったり、いろいろだ。

 そのほとんどすべてに、彼の代表作である『初年兵哀歌』のシリーズが出品されていた。ぼくが浜田の名前を記憶に刻み、ときにしみじみと思い起こしたりするのも、この連作から受けた異様な衝撃がいまだに胸の奥に沈殿しつづけているからだろう。

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 浜田知明は、20代の多くの歳月を一兵卒として送らねばならなかった。『初年兵哀歌』には、彼自身の従軍体験が色濃く影を落としているにちがいない。浜田は当時を振り返って、こう語っている。

 《厳重に張り廻された眼に見えぬ鉄格子の中で、来る日も来る日も太陽の登らない毎日であった。僕は自殺のことのみ考えて生きてきた。一日は実に一年の長さに感じられた。》(「姫路市立美術館 館蔵名品展」図録より)

 『初年兵哀歌(歩哨)』には、まさにそのときの心象が刻印されているようだ。夜、ひとりで歩哨に立った初年兵は、みずからの首に銃口を突きつけ、足で引き金を引こうとしている。痩せさらばえた体の襟もとに、星章がひとつ、むなしく光っている。彼の節穴のような目からは、涙がひとしずく、そっと流れ落ちる。

 戦争は、多くの流れなくてもよい血を流させた。どこの街が襲撃されただの、何人が犠牲になっただのという情報は、それを裏付けるものだったかもしれない。しかしその裏側では、こういった人知れぬ涙も、数限りなく流されていたはずだ・・・。そんなことを、この絵は思い出させてくれる。

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 浜田の参加した戦争は、原爆の投下によって終わりを告げた。しかし、核の脅威が消えてなくなったわけではない。むしろ地球上のあちこちに、目に見えない不安と恐怖が、空気のように蔓延していた。そんな時代に、彼は『ボタン(B)』という版画を作った(下図)。



 頭からきのこ雲を立ちのぼらせた男が、二番目の男の後頭部についたボタンを押そうとする。その男もさらに、三番目の男についているボタンに指をのばし、いつでも押せるようにスタンバイしている。そして三番目の男は、頭に奇妙なものをかぶせられたまま、彼自身の意志とは関係なく、最後の“核のボタン”を押そうとしているのである。

 決して戦争の惨禍を描いているわけではない。だが、ある意味ではどんな戦争よりも、怖い。

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20世紀版画おぼえがき(1)

2007年01月24日 | 美術随想
吉原英雄『彼女は空に』


 去る1月13日、ひとりの版画家が逝った。吉原英雄、享年76歳。もうそんなに高齢だったのか、と、ぼくは色彩鮮やかな彼の作品のいくつかを思い浮かべながら思った。

 とはいっても、この人物についてそんなによく知っているわけではないし、個展を観たこともない。せいぜい美術館の所蔵品などで、何枚かの作品に接したことがあるだけである。そもそも、ぼく自身、油彩画や日本画に比較して、版画の鑑賞に熱心なほうではなかった。広い意味で“印刷物”の一種だといえなくもない版画の前では、肉筆で描かれた絵画のときよりも、ぼくが立ち止まっている時間は短かった。

 でもよく思い出してみると、ぼくの記憶の中に深い記憶をとどめている版画というものが、いくつかあるようである。そのへんの曖昧な記憶を、少しずつ掘り出していってみようかという気になった。吉原英雄の死は、そのきっかけになったできごとだった。

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 訃報が伝えられてから数日後、京都市美術館で所蔵品展を観ていたら、思いがけず、吉原の絵が2枚あるのに出くわした。作品につけられたネームプレートを見ると、作者はまだ生きていることになっていたし、もちろん黒いリボンなどもついていなかったが、ぼくは心の中で冥福を祈りながら、彼の版画の前にしばらく立っていた。

 その作品は『三本のフォーク』と『大地から』という題名だったが、吉原に師事したという山本容子の画風を強く連想させるものだった。師匠の絵を観て、弟子を連想するというのは、本当なら順番が逆で、山本は吉原の影響のもとから巣立ち、徐々に彼女独自の作風を深めていったのだろう(徐々に、といっても、山本は吉原と出会って5年も経たないうちに、たくさんの版画賞を総なめにしていくのだが)。

 しかし、吉原英雄の名前とともにぼくの脳裏に強く焼きついているのは、洒脱な線描が躍る“山本容子風の”作品よりも、大胆な色面が紙を覆い尽くす、カラフルな作品のいくつかだった。『彼女は空に』など、画面の半分以上が鮮やかなブルーで占められていて、版画ではこういった ― たとえは悪いが、ペンキのベタ塗りのような ― 表現もできるのかと、驚かされたものである。

 それに加えて、エッチング独特の鋭い線で描かれた右側の女性はどうだろう? 最近のいわゆる“ヘソ出し”を連想させるようなファッションだが、この版画は1968年の作品だというから、もう40年近くも昔のことなのだ。

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 吉原英雄というと、もっとも広く知られているのは『シーソー1』かもしれない(下図)。この版画は東京国際版画ビエンナーレ展で賞を受け、彼の名を一気に高めたという。それにしても、この垢抜けた構図は ― デザインセンス、といってもいいが ― 現代のCGをちょっと連想させるところがある。だが、これもやはり1968年の作品である。



 からっとした爽快感、いきいきと躍動する人物、そして小気味よいエロチシズム・・・。吉原の版画は、不思議な若々しさをたたえている。そんな彼が、もう76歳になっていたなんて、ぼくにはとうてい信じることができなかったのである。


DATA:
 「京都市美術館コレクション展 第四期 《春を待つ》」
 2006年12月20日~2007年2月25日
 京都市美術館

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オルセー寸描(3)

2007年01月21日 | 美術随想


 さて、結婚したウジェーヌ・マネとベルト・モリゾとの間にはジュリーという娘が生まれるが、それは野心あふれる若き画家たちが印象派展を舞台に活躍していた時代と重なる。もちろん、モリゾ自身もその一員だった。モリゾは画家として成長すると同時に、妻として、また母として、人間的にも世間的にも成熟していったのである。

 彼女の温かな家庭には、当然のように他の画家たちも足しげく出入りしたことだろう。特にルノワールやドガは、しばしばモリゾの家に招かれたという。人間嫌いで偏屈者といわれるドガが、モリゾの招きに応じたというのはちょっと意外な気もするが、ドガが生涯にわたって女性の姿を描きつづけたことを考えると、内心は喜び勇んで出かけたのかもしれない。そうでなくても、モリゾとドガとルノワールとは、印象派の中でもとりわけ人物表現にしのぎを削った仲間として、お互いに気になる存在だったにちがいない(ただしルノワールは、このときすでに印象派展への参加をやめていた)。

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 『ジュリー・マネ(あるいは猫を抱く子供)』(上図)は、そのルノワールが描いた、ジュリーが9歳のころの姿である。この絵はモリゾの依頼で描かれたものらしい。ルノワールは気のおけない仲間であると同時に、印象派随一の“肖像画家”でもあったから、普段の無邪気なジュリーとは別の、ちょっと改まった ― 写真館で写した肖像写真のような ― 娘の肖像画を描いてほしかったのだろう。

 よそいきの服を着て斜め向きに腰掛け、やや視線をそらしたポーズは、9歳の少女とは思えないほど大人びた雰囲気をたたえている。しかし決して堅苦しくならないのは、明るく健康的な色づかいと、思わず微笑を誘われる猫のポーズのせいにちがいない。

 一方でモリゾ自身も、成長しつつある我が子の姿をさかんに描いている。それはある意味で当然のことかもしれないが、その絵は母親としての愛情にみちあふれた目線と、画家としての鋭い観察眼との狭間に、あやういバランスで立っている(モリゾ『ブージヴァルの庭のウジェーヌ・マネと娘、あるいは田舎にて』下図、マルモッタン美術館蔵)。しかし考えてみれば、幼い少女が母親を前にしておとなしくポーズをとっていられるはずもない。このころのモリゾの絵の多くが、やや筆触が粗く、急いで仕上げた感じがするのは、そのへんの事情によるのかもしれない(こんなことをいったらモリゾに怒られるだろうか)。



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 それにしてもルノワールのこの絵は、彼の“うまさ”をつくづくと感じさせる一枚だと思う。いちばん後ろに壁があり、その手前に長椅子があり、さらにそこにジュリーが座っていて、その手には猫が抱かれている・・・この4段重ねの厚みのある描写は ― 猫を抱く手を含めると5段重ね(!)であるが ― 画家の腕の確かさをじゅうぶんに証明するものだろう。

 質感の表現も、やはりずば抜けている。例えば背もたれの柔らかな部分と、硬質な木枠の部分とが、これほど明瞭に描き分けられていることに驚かざるを得ないが、それだけではない。試みに木枠の部分をカットしてみると(下図)、ジュリーはたちまち椅子からずり落ちてしまいそうである。長椅子の木枠は、平面上に描かれたモデルを現実につなぎとめる役目をしていたのだ。



 こういった知的な構成力は、ルノワールを単なる“印象派の画家”呼ばわりすることをためらわせる。彼はただ印象を描いたわけではなかったし、光と色の戯れを描いたわけでもなかった。そこにはやはり“人間”の実体が、確実に存在しているのである。まるで、手を伸ばせば触れることができるかのように。

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 この絵から数年後、今度は母親のモリゾが、長椅子に座る娘を描いた。ジュリーはすでに10代のなかばに近く、もはや少女とは呼べない複雑で多感な年ごろを迎えていたはずである。しかしそこに描かれたジュリーは、顔面から血の気が失せ、放心したようにこちらを眺め、ずり落ちそうになる体を左手でやっと支えているといった様子なのだ(モリゾ『ジュリー・マネとラエルト』下図左、マルモッタン美術館蔵)。ぼくはこの絵を本の図版で観たのだったが、思わずムンクの『思春期』を連想してしまったほどである(下図右、オスロ国立美術館蔵)。いったい、ジュリーに何があったのだろうか?

 

 実はこの前年、ウジェーヌ・マネが世を去っていた。モリゾは寡婦となり、ジュリーは父なし子となった。幸福だった家庭に、少しずつ暗い影がさしはじめていたのだ。ここに描かれたジュリーの顔は、明らかに何かにおびえているようである。

 だが残酷なことに、この絵が描かれた2年後、モリゾは54歳の若さで亡くなった。没後、300点からなるという大規模な回顧展が開催されたのは、ルノワールやドガやモネなど、かつての盟友たちが力を合わせてのことだった。


参考図書:
 坂上桂子『ベルト・モリゾ ある女性画家の生きた近代』
 小学館

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西村元三朗の“未来予想図”

2007年01月14日 | 美術随想


 いささか体調がすぐれないにもかかわらず、重い腰に鞭打って神戸まで出かけてきたのは、この絵がどうしても観たかったからだ。数年前に、どこかの美術館で ― それがどこだったか忘れてしまったが、おそらく今度と同じ小磯記念美術館で ― たまたまこの絵に出くわしたときのことを覚えていたのである。

 そのときには、一種いいようのない衝撃を受けたものだった。何といったらいいのか、西洋でも東洋でもない、具象でも抽象でもない、これまでついぞ見かけたことのない異様な光景が、そこにあった。ぼくはただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

 振り返ってみるに、おそらく小磯良平や川西英といった神戸を代表する画家たちの作品に混じって、ぼくはその絵を観たのだったかもしれない。それはたとえば、瀟洒な神戸の街並みをゆったりと散策しているときに、いきなり宇宙基地のような得体の知れない建造物が目の前に立ちはだかったようなものだった。すべての文脈から孤立した謎の物体として、この絵はぼくの前に唐突に出現したのである。

 だが、ぼくはこの絵の作者名も題名も記憶していなかった。これが西村元三朗(もとさぶろう)という画家の『空間』(上図、神戸市立小磯記念美術館蔵)という絵であるということがわかったのは、昨年の秋から開催された彼の回顧展のチラシに、絵の写真が小さく載っているのを見つけてからである。そしてもう一度、どうしてもその絵と再会したくなったのだ。それだけでなく、西村の画業を概観することで、この摩訶不思議な絵がどうやって生まれてきたのか、その手がかりの一端でも知ることができれば、という期待を密かに抱いてもいたのだった。

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 神戸に生まれた西村は、25歳のときに小磯良平の門を叩く。人物表現に重きを置いた小磯らしく、習作時代には裸婦像や人体デッサンなども描いているが、結局彼は人物というテーマを捨て、風景画に向かっていった。といっても、彼の描く風景画は一風変わっている。西村絵画の幕開きを告げる『丘』(下図、個人蔵)を観ても、画家がすでに独自の境地に足を踏み入れていることは明らかであろう。



 これは戦後間もない、神戸の長田の景色であるらしい。しかしそこに並んだ三角屋根の家々は、現実味をいちじるしく欠いている。実際の風景を参考にしながらも、かなりの部分は画家の想像の産物なのではあるまいか。

 それだけではない。題名ともなっている背景の丘は実在したものだそうだが、「ガリバー旅行記の浮島を連想させる」と画家自身が語っているのである。それはつまりラピュータのことで、のちに宮崎駿が『天空の城ラピュタ』というアニメ映画で展開したイメージの原形であろう。いわれてみれば、なるほど似ていないこともない。

 ついでにいうと、この丘はマグリットの『ピレネーの城』(下図、イスラエル美術館蔵)にも似ているように思う。こちらは文字どおり浮島として描かれているが、これらの類似は後半生の西村元三朗の画風を展望する上で、まことに興味深い。彼の描くモチーフは、徐々に引力の支配を逃れ、天空に浮遊しはじめるのである。



 しかし、ぼくが『丘』から感じた魅力は、それだけではなかった。師の小磯良平にも、マグリットにも、あるいは西村みずからが影響を受けたと語っているデ・キリコにもないざらついたマチエールは、ぼくの渇いた心に引っかかる。一種の摩擦力のようなものが、どうしてもぼくの足を止め、絵と向き合わせるのである。

 絵の前景には、無残な瓦礫の山が積まれている。西村は空襲を受けて廃墟となった神戸の街を駆けずりまわり、瓦礫をスケッチしつづけたという。彼の絵のごつごつした感触は、そのへんに由来しているのだろう。厳しく重い現実と、少年らしい軽やかな空想とが、この一枚の絵の中に凝縮されていることに、ぼくは驚きを禁じ得ない。

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 さて、数年ぶりで『空間』と対面してみると、ぼくが覚えていたよりもずっと大きな絵だった。それにしても、これはいったい何を描いたのだろうか。ただ造形のおもしろさを追究しただけのようにも見えるが、画家自身は次のように説明を加えている。

 《人類が宇宙空間へ新しい世界を建設した世紀を記念して砂漠に記念碑を構築した。これはその完成予想図である。》(展覧会図録より)

 やや意表を突かれる内容だが、近所の丘にラピュータを思い描くほどの空想家ならありそうなことだ。しかしこの絵が1953年に描かれたということを知ってみると、その時点で人類はいかなる“新しい世界”を宇宙に建設していたのだろうか、ということが気になってくる。

 家に帰って調べてみると、驚くべきことに、世界初の人工衛星スプートニク1号が打ち上げられたのは、この絵が描かれた4年後のことなのだった。画家はいったい何の“記念碑”を描こうとしたのだろうか?

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 美術館からの帰り、六甲ライナーの窓から神戸の港町を眺めていると、東神戸大橋の姿が遠くに見えた(写真)。白くそびえるH型の塔が、ぼくの頭の中で『空間』の建造物と重なる。この橋が完成したのは平成になってからのことだが、西村はまるで未来の景観を予知していたかのようですらある。そしてそのふたつのイメージが結び合わさるのは、まさにこの「神戸」という街においてであろう。



 シュルレアリスムともいわれる西村元三朗の作品世界だが、そこには「神戸」という文脈が隠されているような気がした。彼は、きたるべき輝かしい未来都市としての神戸のために記念碑を構想したのかもしれない、とぼくは考えた。


DATA:
 「西村元三朗回顧展」
 2006年10月14日~2007年1月14日
 神戸市立小磯記念美術館

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