てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

新年度は名古屋から(2)

2014年04月14日 | 美術随想

〔天井からは奇妙なオブジェがぶら下がる〕

 芸術文化センターの内部に入ると、強風から守ってくれるのはもちろんだが、周囲の雑踏からも隔離してくれるようでうれしい。栄は名古屋の中心部とはいっても、平日に訪れたことはあまりないので、その本当の顔を知っているとはいえないだろう。だが、このセンターのなかには、おそらくいつも乱されることのない、適度に均整のとれた穏やかな空気がただよっている感じがする。たとえていえば、巨大なシェルターのような雰囲気だ。

 まず、静かなのである。そして、人が少ない。京都あたりでは入場待ちの行列が美術館の入口にとぐろを巻いている様子をしばしば目撃するけれど、ここではまだ一度もお眼にかかったことがないのだ。去る2000年のこと、フェルメールの名画をひと眼でも観ようと大阪の天王寺公園に人が押し寄せ、長時間並んでいる人が倒れたりする大混乱をきたしたことがあったが、ちょうど同じときに愛知で展示されていたフェルメールの前には順番待ちどころか人ごみもなく、一対一で『恋文』という絵と対面したのを懐かしく思い出す。

 そのキャパシティーの広さを象徴するかのように、壮大な吹き抜けが建物の天地を貫いている。そしてそこに、一種異様な造形物がぶら下がっているのである。北山善夫という人の手になるこの作品はガラスでできていて、巨大な人のかたちをしているということだが、ぼくには形状がどうのこうのというよりも、重厚に設計された建築の中心にこのような不定形なオブジェを据えつけた心意気というか、型破りな発想力に頭が下がる思いがする。

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〔「印象派を超えて」のチケット〕

 さて、その不思議な作品を横目に観ながらエスカレーターで10階までのぼると、いよいよ美術館である。

 今回、わざわざバスに乗ってここまでやって来たのは、クレラー=ミュラー美術館の所蔵品による「印象派を超えて」という展覧会を観るためだ。印象派の展覧会なら、もうお腹いっぱいだというぐらい無数に開かれているなかで、ちょっと視点の変わっためずらしい試みだという気がしたのと、画集で繰り返し眺めてきたゴッホやスーラなどの貴重な名画と対面できるまたとない機会だと思えた。しかしそんな展覧会に限って、なぜか関西には巡回しないというから、いただけない。

 さて、100円硬貨ではなく専用のメダルのようなものを借りて預ける形式のコインロッカー ― このやり方は名古屋でしか見たことがない ― に荷物を入れて身軽になったぼくは、画家たちがどうやって“印象派を超えた”のか、じっくり拝見させてもらうことにした。もちろんそれは、印象派と聞けば無条件に飛びつく日本の美術ファンに対する、ある意味での試練を受けて立つことでもあった。

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新年度は名古屋から(1)

2014年04月01日 | 美術随想

〔名古屋のシンボルでもあるテレビ塔〕

 4月になった。何も書きつづけられないままでは、もう駄目である。ここは気持ちも新たに、多忙な合間を縫って名古屋に出かけたことを書いてみることにしよう。もっとも、今日というタイミングでこんなことを仰々しく宣言しても、エイプリルフールのネタだと思われてしまうかもしれないが・・・。

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 新年度とは銘打ってみたものの、名古屋に行ったのは去る3月21日のことである。世間の大多数は三連休だったろうけれど、ぼくは飛び石の休みしか取れず、前日の仕事の疲れも癒えないまま、朝7時過ぎには梅田に出て高速バスに飛び乗る始末だった。平日よりも朝が早いうえに、冬のように寒い風が音を立てて吹き荒れている。

 バスは満員。珍しい女性の運転手さんがハンドルを握っていて、乗り心地も穏やかといいたいところだが、やはり連休の初日のせいか、高速道路がひどく渋滞してきて、容易に前へ進まない。休憩のために甲南パーキングエリアで下車すると、みぞれ混じりの雨が降っていて、誰かが「雪降ってるやん!」と大声を上げる。名古屋に着いたころには、予定時間を大幅に過ぎて、すでに昼近くなっていた。

 ただ、今回は東京行きとはちがって、複数の美術館をハシゴするということはしない。目的地は、かつてフェルメールを観たり、アンドリュー・ワイエスの展覧会を観たりしたことのある ― この開催期間中にワイエスは亡くなったのだった ― 愛知県美術館である。巨大な建物のなかにはコンサートホールや図書室なども併設されており、都会の中心の一等地にこうした文化の複合施設が君臨していることは、何かにつけて集客の見込める商業ビルばかりおっ立てている大阪人に見習ってほしいところでもある。

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〔愛知芸術文化センターのなかに美術館はある〕

 JRの在来線と新幹線、近鉄、名鉄、複数の地下鉄が入り乱れている名古屋駅は、ぼくには巨大な迷路のようなものだ。名古屋名物を商う店もたくさんあるが、いちいち眼を配っている余裕などない。とりあえず案内板に導かれて、東山線で栄に向かう。

 広大な繁華街である栄は、百貨店や企業のビルなどが乱立しているが、久屋大通公園という緑豊かなエリアが南北を縦断しているためか、あまりこせこせした印象がない。道路も広々としていて、信号が比較的少なく、歩きやすい街だと思う。

 この日は休日とあって、何やらロックのイベントの準備らしい電子音が周辺の空気を揺るがしていた。ぼくは強風と騒音から身を守るためのように、芸術文化センターの頑丈な建物のなかに急いで逃げ込んだ。

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