〔天井からは奇妙なオブジェがぶら下がる〕
芸術文化センターの内部に入ると、強風から守ってくれるのはもちろんだが、周囲の雑踏からも隔離してくれるようでうれしい。栄は名古屋の中心部とはいっても、平日に訪れたことはあまりないので、その本当の顔を知っているとはいえないだろう。だが、このセンターのなかには、おそらくいつも乱されることのない、適度に均整のとれた穏やかな空気がただよっている感じがする。たとえていえば、巨大なシェルターのような雰囲気だ。
まず、静かなのである。そして、人が少ない。京都あたりでは入場待ちの行列が美術館の入口にとぐろを巻いている様子をしばしば目撃するけれど、ここではまだ一度もお眼にかかったことがないのだ。去る2000年のこと、フェルメールの名画をひと眼でも観ようと大阪の天王寺公園に人が押し寄せ、長時間並んでいる人が倒れたりする大混乱をきたしたことがあったが、ちょうど同じときに愛知で展示されていたフェルメールの前には順番待ちどころか人ごみもなく、一対一で『恋文』という絵と対面したのを懐かしく思い出す。
そのキャパシティーの広さを象徴するかのように、壮大な吹き抜けが建物の天地を貫いている。そしてそこに、一種異様な造形物がぶら下がっているのである。北山善夫という人の手になるこの作品はガラスでできていて、巨大な人のかたちをしているということだが、ぼくには形状がどうのこうのというよりも、重厚に設計された建築の中心にこのような不定形なオブジェを据えつけた心意気というか、型破りな発想力に頭が下がる思いがする。
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〔「印象派を超えて」のチケット〕
さて、その不思議な作品を横目に観ながらエスカレーターで10階までのぼると、いよいよ美術館である。
今回、わざわざバスに乗ってここまでやって来たのは、クレラー=ミュラー美術館の所蔵品による「印象派を超えて」という展覧会を観るためだ。印象派の展覧会なら、もうお腹いっぱいだというぐらい無数に開かれているなかで、ちょっと視点の変わっためずらしい試みだという気がしたのと、画集で繰り返し眺めてきたゴッホやスーラなどの貴重な名画と対面できるまたとない機会だと思えた。しかしそんな展覧会に限って、なぜか関西には巡回しないというから、いただけない。
さて、100円硬貨ではなく専用のメダルのようなものを借りて預ける形式のコインロッカー ― このやり方は名古屋でしか見たことがない ― に荷物を入れて身軽になったぼくは、画家たちがどうやって“印象派を超えた”のか、じっくり拝見させてもらうことにした。もちろんそれは、印象派と聞けば無条件に飛びつく日本の美術ファンに対する、ある意味での試練を受けて立つことでもあった。
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