てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

闘う青い騎士たち(8)

2011年07月09日 | 美術随想

カンディンスキー『《コンポジションVII》のための習作2』(1913年)

 このたびの展覧会で、カンディンスキーの到達点として展示されていたのが、『《コンポジションVII》のための習作2』であった。ここまでくると、あれは何に見える、こっちは何に似ている、という推測はほとんど意味をなさない。

 そもそもコンポジションとは何なのかというと、「構成」というような意味だそうだ。また「作曲」という意味もあって、現代音楽の作品名にも「○○のためのコンポジション」というのがよくある。シェーンベルクとの親密な交流がはじまってから描かれたこの絵には、やはり何らかの音楽的なインスピレーションが反映されているのかもしれない。まだ具象的な面影をとどめていた前項の『印象III(コンサート)』に比べても、はるかに抽象度が増している。

 だが、この絵の前に立ち止まってしばらく眺めていると、どうしようもない困惑の底に投げ込まれてしまう、というのが正直なところだ。ぼくはふと、今から9年前に京都で観たカンディンスキーの展覧会を思い出した。そのときは『コンポジションVII』の完成作(下図)が、同時期の『コンポジションVI』とともに並べて展示されていた。どちらも巨大な作品で、じっくり眺められるように絵の前にはベンチも用意されていたが、口々に感想をいい合う人はほとんどなく、絵に圧倒されたように皆が押し黙っていたのが印象的だった。


参考画像:カンディンスキー『コンポジションVII』(1913年、トレチャコフ美術館蔵)

 なぜ、人々はあのとき口ごもってしまったのだろうか? おそらくその絵が恐ろしく複雑で、さまざまな要素が渾然一体となったカオスのような作品だったからだ。日本人お得意の“見立て”の術を、誰も発揮できなかったのである。ぼくも10分ぐらい『コンポジションVII』を眺めていたが、ほとんど何も頭に入ってこないような気がした。

 いや、細部は頭に入っても、すぐさまそれと隣り合った別の細部が視界に割り込んできて、絵の焦点が眼まぐるしく移り変わっていく。しまいには頭の許容量を超えて、絵があふれ出してしまうのである。豪勢な食事が眼の前に次から次へと運ばれ、咀嚼しきれないうちに満腹になってしまう、という感じと似ているだろうか(実際にそんな経験をしたことはないが)。

                    ***

 今回観た習作は、完成作の半分ほどの大きさらしい。ふたつを比べてみると、まったく別の絵といってもいいほどちがっていることに驚く。カンディンスキーの頭のなかで、何がどのように“コンポーズ”されていったのか、容易に推測することは難しい。

 ぼくたちは、どこかで“抽象化”を“単純化”とはきちがえているところがあるのかもしれない。実際には単純な抽象画を残した画家もあり、モンドリアンやマレーヴィチがその代表的な存在だが、いずれも「コンポジション」と題された作品を残している(下図)。どれもこれ以上ないというぐらいシンプルな絵だ。けれども彼らの絵の前に立つと、なぜここまで単純な絵が描けたのか、なぜ世の中がこんなに単純に見えたのか、不思議になってくることもある。


参考画像:モンドリアン『赤・青・黄のコンポジション』(1930年、個人蔵)

 カンディンスキーはこのときすでに47歳、いろいろな人と出会い、さまざまな脇道を通りながら、具象にとらわれない境地にようやくたどり着いた。しかし彼は、それらをすべて削ぎ落としてしまうのではなく、消化されないままカンヴァスに投げ入れ、混沌とした状態のまま提示したのだろうか。

 その意味では彼の『コンポジション』は、カンディンスキーの内面的自画像かもしれないという気もする。人間なんてクールに構えていても ― カンディンスキーの肖像写真はいつもクールだ ― ひと皮めくってみると、得体のしれないものがひしめき、蠢いているはずだからである。

(所蔵先の明記のない作品はレンバッハハウス美術館蔵)

(了)


DATA:
 「カンディンスキーと青騎士」
 2011年4月26日~6月26日
 兵庫県立美術館

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闘う青い騎士たち(7)

2011年07月07日 | 美術随想

カンディンスキー『印象III(コンサート)』(1911年)

 この絵が、今回の展覧会のハイライトだろう。モダン・アートを扱った画集には必ずといっていいほど登場するのが、『印象III(コンサート)』である。シェーンベルクの作品の演奏会の“印象”を描いた、とされる。カンディンスキーのほかにミュンター、そしてフランツ・マルクも客席にいた。

 演奏されていたのは、『3つのピアノ曲』。上部に描かれている黒いかたちは、グランドピアノだといわれている。けれども、そのときカンディンスキーをとらえた“印象”がどんなものだったか、追体験することは難しい。というのも、ぼくはこれまでシェーンベルクの曲をほとんど聴かないようにしてきたからである。

 昔、FM放送の企画で、クラシックの主だった作曲家の人気投票があった。上位はモーツァルトかベートーヴェンかショパンか、多分そのあたりだったろうが、覚えていない。しかし、最下位がシェーンベルクだったことはよく覚えている。番組では、たしか「支持率1パーセント」などという投票結果が紹介されていた。

 「ではそのシェーンベルクの曲をお聞きいただきましょう」というアナウンスのあとに流れはじめた『ヴァイオリン協奏曲』は ― ものの2、3分の断片だったけれど ― ぼくの繊細な(?)耳にはとても耐えられず、「こんな曲を支持する人が1パーセントもいるのか」と驚いた記憶がある。

 あれからもう30年近くは経つと思うが、シェーンベルクを積極的に聴こうとしたことはない(彼の弟子であるウェーベルンやアルバン・ベルクは、頑張って聴いてみたこともある。好きにはなれなかったけれど)。

 シェーンベルクといえば12音技法の創始者とされ、音楽史上の重要人物のひとりと目されている。ただ、歴史的に重要であることと、人々に広く受け入れられることとは別である。12音技法はぼくの愛するストラヴィンスキーやショスタコーヴィチなども用いているが、本家本元のシェーンベルクに耳を傾けようという気にはならない。初期の傑作といわれる『浄められた夜』は精緻な弦楽合奏のアンサンブルを極めたようなロマン派風の曲で、日本でもしばしば演奏されるが、好んで聴くことはしない。よっぽど、シェーンベルクに対するアレルギーがあるようだ。

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 だが、『印象III(コンサート)』はシェーンベルクの音楽を絵画化したものではない。そしてまた、“印象”といっても、モネのように視覚的な印象を描いたわけでもない。そう考えてみると、この絵はこれまでさんざん眼にしてきたわりには、どういうふうにとらえていいものか悩んでしまうところがある。

 そのせいか、“原始の眼”をどこか遠くに置き忘れてきた人たちがこの絵の前に立って、ああでもないこうでもないと“絵解き”をしているのを見かけた。「あれがピアノで、両脇の白い縦の線が柱で、柱のうえに輝いているのが照明」「なるほど、そういえばそうね」。それで満足したように、彼らは絵の前から離れていく。

 けれども、そんなことのためにカンディンスキーはこの絵を描いたのか? ぼくにはそうは思えない。ここにはシェーンベルクの音楽に触れたカンディンスキーの魂のおののきが、冷静な観察眼を押しのけて、視覚を激しく揺り動かしたときの感動が記録されているのかもしれない。シェーンベルクの曲は、おそらく理知的に構成された冷たい音楽ではないかと思うが、それがカンディンスキーをかくも興奮させたことを、この絵は伝えてくれるのである。

 ただ、ぼくはシェーンベルクの音楽に感動したことがないので、もしその場にいあわせたとしても、ただピアニストの後ろ姿だけを ― その人が若い女性であればなおのこと! ― ぼんやり眺めていただけかもしれないが・・・。

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 この演奏会のあと、カンディンスキーはシェーンベルクに書簡を送り、彼らは親しくなる。カンディンスキーの後期の抽象画には、楽譜のようなモチーフが登場するものがあるが、シェーンベルクの影響があるにちがいない。

 後年、カンディンスキー夫妻(相手はミュンターではなく、2番目の妻)とシェーンベルク夫妻が、水着姿で並んで座っている写真がある。ふたりの大芸術家の交流を示す貴重な資料であるが、ぼくなどは単純に「へえ、カンディンスキーやシェーンベルクも水遊びをしたのか」と驚いてしまう。それほど、彼らの作品からあたたかな人間味を感じ取るのは難しい。

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闘う青い騎士たち(6)

2011年07月06日 | 美術随想

カンディンスキー『山』(1909年)

 カンディンスキーに話を戻そう。彼はマルクとはちがって、絵のなかに人間以外の生物を描き込んだものはあまり見当たらないけれど、例外として、人がまたがった馬のようなイメージがときどき出てくる。カンディンスキーとマルクが二人で決めた「青騎士」という名称は、まことに彼らにふさわしい。

 ついでにいえば、晩年の抽象画によく登場する不定形の生物のようなモチーフは、微生物かアメーバのように見える。なかには、顕微鏡で細胞を拡大して描いたように見える絵もある。カンディンスキーと微生物の関係というのは、ぼくにとって興味のあるテーマだが、前にも書いたようにこの時代の作品は日本で展示されることが少なく、今回の展覧会にも一枚も来ていなかった。またの機会を待つしかないだろう。

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 さて、カンディンスキーの『山』である。これは前々項で取り上げた『コッヘル ― まっすぐな道』と同じ年に描かれているが、この2枚の絵は明らかに関連があるように思われる。使われている色もよく似ている。

 気がつくのは、『コッヘル』では多少の遠近感をもって構成されていた風景が、『山』ではべったりとした平面に還元されているところだ。絵の左下に見える黄色のギザギザした形体は、『コッヘル』で二人の人物が耕していた畑が抽象化されたものかもしれないが、もしそうだとしたところで、これが畑だと認識する必要は、もはやないだろう。タイトルの『山』も、おそらくは便宜的なもので、風景としての山を描写したわけではない。では、カンディンスキーはいったい何を描こうとしたのだろうか。

 手前には人物らしい姿がふたつあるが、左の人物はどう考えても馬に乗っているように見える。そこには何らかのロマンティックなストーリーが秘められているような気もするが、この絵から辻褄の合う物語を導き出したいという欲求を、われわれは慎重に抑え込む必要があろう。前にも書いたように、「現実の描写という役割から解放された色彩と線との純粋なハーモニー」を楽しむためには、この山がどこの山か、描かれている人物が何者なのかを詮索することよりも重大なことがある。

 それは、ぼくの言葉でいえば“原始の眼”で絵を観ることだ。このころのカンディンスキーの絵は、古代人が残した壁画などによく似ているのである。古代人も、山や動物を描こうとしただろう。だが、山の景観を忠実に描写しようとしたわけではなく、動物の生態を説明しようとしたわけでもない。そこには何の技法もなく、ただ日々の生活の身近にあるものを描きたいという本能的な衝動があったのではなかろうか。研究者の間では、古代の壁画は何らかの呪術的な意味をもつのだろうとか、儀式の対象として描いたのだろうという説が当然のように語られているが、早い話が一種の「落書き」ではないかとぼくは思っているのだ(もちろん、1万年以上も前のものが残っているという“歴史的価値”はあるけれど)。

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 大学で法律を修めたほどの知的頭脳の持ち主であったカンディンスキーが、このような「落書き」に近い絵を描きはじめたとことは不思議でもある。だが、高尚な論理や知識などから逃れ、視覚が本来の無垢な輝きを取り戻したときに見える光景にこそ、人間を豊かにする精神性が潜んでいると、彼は考えていたのかもしれない。

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闘う青い騎士たち(5)

2011年07月05日 | 美術随想

マルク『薄明のなかの鹿』(1909年)

 フランツ・マルクの話が出たので、彼のことも少し書いておきたい。マルクはカンディンスキーに比べると知名度があまりにも低く、人気のある画家とはいえないだろう。けれどもぼくは、今から20年ぐらい前にマルクの薄い画集を買ったことがある。

 当時、同朋舎出版というところから、毎号ひとりの画家にスポットを当てる「週刊グレート・アーティスト」という本が出ていた。自分の安い給料で画集が買えることに狂喜したぼくは、時間をかけて全100冊を買い揃えたものである(1冊500円だった)。ラインナップのなかにはグウェン・ジョンとか、スタンリー・スペンサーとか、シドニー・ノーランとか、どう考えてもあまり「グレート」と呼べないような画家も含まれていたが、そのなかにフランツ・マルクもいたのだ。はじめて聞く名前だったが、大きな図版に印刷された作品を眺めるうちに、いつしか惹き込まれていってしまった。

 それ以来、展覧会でマルクの絵を見かけるたび、胸が震える。けれども、マルクについて本格的に紹介する展覧会は、日本ではまだ開かれていないだろう。それは彼が36歳の若さで戦死を遂げたため、残された絵が少ないことと無関係ではない。だが、いつまで経ってもカンディンスキーの添え物みたいに扱われているのは気の毒だし、そもそもマルクはそんな小さな器ではない。

 というのも、マルクは「青騎士」の一員とはいいながら、他の誰とも似ていない独自の絵画表現に挑んだ画家だからである。いいかえれば、ひとつのモチーフをとことん追求して、ついにはそれがバラバラに解体してしまうまで突きつめて描いた画家。そのモチーフとは、さまざまの動物だ。

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 『薄明のなかの鹿』は、前にも書いたとおり、カンディンスキーとの出会いの年に描かれた。たしかにその荒々しいマチエールには、同時期のカンディンスキーの習作群を連想させるものがありそうだ。だが、動物だけをここまでクローズアップで描くという構図は意表を突いており、マルクの個性を際立たせる。

 と、今はこんな冷静な解説を書いているようでも、この絵の前に立ったときのぼくの心は、驚きではちきれそうだった。マルクが動物の姿を“動物らしい”色彩で描いた絵を、このときはじめて観たのである。特に左側の鹿などは、耳の内側やお尻の部分の白い毛、鼻先の濃い茶色まで、かなり忠実に描かれている。マルクが鹿をよく観察した証拠である。

 かつてぼくは「20世紀美術の展開図(2)」という記事のなかで、マルクの絵について「動物は人間どもの仮の姿、鏡に映ったわれわれ自身なのである。」と書いた。今でもその考えは変わらないが、彼はもともと純粋に動物を愛していて、その姿を描くことを無上の喜びとしていたのにちがいない。そんなことを想像させるのが、この1枚だった。

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マルク『虎』(1912年)

 やがてマルクは、動物を客観的に描写することをやめ、どぎついほどの原色で描くようになる。そうすることで、動物はわれわれ人間社会の脇役から、あるメッセージ性を背負った意味ありげな存在へと変化した。

 ただ、その色彩の暗示するところが、必ずしもはっきりしているわけではない。動物を偏愛していたマルクと、そこに精神的意味合いを付与しようとしていたマルクとは、必ずしも一心同体ではないのではないか、という気がする。動物を描きたいがために、具体的なモチーフをなかなか捨てられず、しかもそこに具象画以上のものを描き込もうというのは、論理としても最初から破綻しているのである。

 けれども、『虎』はそんな野心が極めて高い次元で達成された1枚ではないか。マルクの動物画のなかでも特に厳しい構図をもつこの絵からは、のちにマルク自身の命を奪うことになる戦争の足音が鳴り響く。耳をそばだてて何かを感じ取ろうとする虎、その鋭い眼光。それは、人間の姿をもってしては絶対に表現できない“動物的直感”のあらわれだったのかもしれない。

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参考画像:マルク『戦うフォルム』(1914年、ミュンヘン州立現代美術館蔵)

 だが、そんなマルクの絵からも動物が姿を消す日がくる。

 『戦うフォルム』は、マルクが独力で到達した抽象画の頂点だ。画面いっぱいにひしめきあう赤と黒の痕跡に、動物や鳥のイメージを感じ取る人もあるらしい。だが、動物の体を借りて語らせるには、すでにこのテーマは大きすぎたのだ。動物も人間も、都市も国家も、すべてを巻き込んでしまう第一次世界大戦が勃発した年にこの絵は描かれているからである。

 この翌々年、マルクは戦場の露と消えた。彼の抽象表現がその後どのような展開をたどったか、誰も知ることはできない。

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闘う青い騎士たち(4)

2011年07月04日 | 美術随想

カンディンスキー『ムルナウ近郊の鉄道』(1909年)

 しばらく各地を転々としたカンディンスキーは、アルプスの麓に位置する南ドイツのムルナウという小さな街に居を定める。もちろん愛するミュンターも一緒。ヤウレンスキーらの仲間も呼び寄せた。ここが、抽象画が生まれる揺籃の地となる。

 『ムルナウ近郊の鉄道』は、この展覧会で出会う前から画集で知っていて、カンディンスキーの“抽象以前”の絵のなかではとても好きなものだった。改めて実物の前に立ってみて、その色彩の鮮やかさに胸をうたれる。

 黒く塗りつぶされた機関車は、素早く疾走しているからか ― といっても今の新幹線とは比較にならないけれど ― 少し車体がひしゃげているように見えた。後方の車両は背景に溶け込んでしまっていて、どこまでも限りなくつづく「銀河鉄道999」のようだ。このまま額縁を抜け出して、空へ浮かび上がってしまいそうにも感じられる。画面の左下ではオレンジ色の服を着た女性が白いハンカチをなびかせ、その白が機関車の煙突から吐き出される煙へとつながり、さらには空の雲へとつづいていく。

 もうひとつ気がつくのは、以前よりも鉄道の存在が大きくクローズアップされていることである。前々項に掲げたモネの絵と比較すれば、一見して明らかだ。風景の一要素にすぎなかったものが、人間の未来には欠かせない近代化の象徴となって、のどかな三角屋根の点在する田園都市に土足で踏み込んできたような感がある。

 カンディンスキーが写実的描写からの脱却を決意し、抽象へと思いを深めるようになった外的な原因がもしあるとすれば、それは機関車に代表される機械文明の台頭だったかもしれない。芸術における精神性を大切にするカンディンスキーにとっては、大いなる危機の到来にほかならなかった。彼がここまで鉄道を美しく、感動的に描いたのは奇跡的なことにさえ思われる。いわばそれは具象画の落日であり、有終の美であった。

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カンディンスキー『コッヘル ― まっすぐな道』(1909年)

 同年に描かれた『コッヘル ― まっすぐな道』にも強く惹かれた。コッヘルとはムルナウに近い街で、「青騎士」の同志となったフランツ・マルクゆかりの地である。カンディンスキーとマルクが出会ったのが、まさにこの年だった。

 この絵は『ムルナウ近郊の鉄道』に比べると単純化がいっそう進み、幾何学的な画面構成がみてとれる。正面の青い三角形は山だろうが、まるでピラミッドみたいに鋭角的に描かれている。かと思うとその右隣、赤い家屋の背後にのぞく稜線は、日本の小学生が描く富士山によく似ている。

 画面の左側には、畑を耕しているらしい人影がふたつある。意外なことだが、このときカンディンスキーは農作業に熱中していたという。日没も近そうな田園地帯で、西日を浴びながら無心に鍬を振るう人物は健康的である。カンディンスキーもただ絵を描いているだけではなく、仲間たちと額に汗して働いたりしたのだろう。

 そしてこの絵には、新しい芸術を自分たちの手で開墾しようというカンディンスキーの決意が、人知れず込められているような気もするのだ。

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