カンディンスキー『《コンポジションVII》のための習作2』(1913年)
このたびの展覧会で、カンディンスキーの到達点として展示されていたのが、『《コンポジションVII》のための習作2』であった。ここまでくると、あれは何に見える、こっちは何に似ている、という推測はほとんど意味をなさない。
そもそもコンポジションとは何なのかというと、「構成」というような意味だそうだ。また「作曲」という意味もあって、現代音楽の作品名にも「○○のためのコンポジション」というのがよくある。シェーンベルクとの親密な交流がはじまってから描かれたこの絵には、やはり何らかの音楽的なインスピレーションが反映されているのかもしれない。まだ具象的な面影をとどめていた前項の『印象III(コンサート)』に比べても、はるかに抽象度が増している。
だが、この絵の前に立ち止まってしばらく眺めていると、どうしようもない困惑の底に投げ込まれてしまう、というのが正直なところだ。ぼくはふと、今から9年前に京都で観たカンディンスキーの展覧会を思い出した。そのときは『コンポジションVII』の完成作(下図)が、同時期の『コンポジションVI』とともに並べて展示されていた。どちらも巨大な作品で、じっくり眺められるように絵の前にはベンチも用意されていたが、口々に感想をいい合う人はほとんどなく、絵に圧倒されたように皆が押し黙っていたのが印象的だった。
参考画像:カンディンスキー『コンポジションVII』(1913年、トレチャコフ美術館蔵)
なぜ、人々はあのとき口ごもってしまったのだろうか? おそらくその絵が恐ろしく複雑で、さまざまな要素が渾然一体となったカオスのような作品だったからだ。日本人お得意の“見立て”の術を、誰も発揮できなかったのである。ぼくも10分ぐらい『コンポジションVII』を眺めていたが、ほとんど何も頭に入ってこないような気がした。
いや、細部は頭に入っても、すぐさまそれと隣り合った別の細部が視界に割り込んできて、絵の焦点が眼まぐるしく移り変わっていく。しまいには頭の許容量を超えて、絵があふれ出してしまうのである。豪勢な食事が眼の前に次から次へと運ばれ、咀嚼しきれないうちに満腹になってしまう、という感じと似ているだろうか(実際にそんな経験をしたことはないが)。
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今回観た習作は、完成作の半分ほどの大きさらしい。ふたつを比べてみると、まったく別の絵といってもいいほどちがっていることに驚く。カンディンスキーの頭のなかで、何がどのように“コンポーズ”されていったのか、容易に推測することは難しい。
ぼくたちは、どこかで“抽象化”を“単純化”とはきちがえているところがあるのかもしれない。実際には単純な抽象画を残した画家もあり、モンドリアンやマレーヴィチがその代表的な存在だが、いずれも「コンポジション」と題された作品を残している(下図)。どれもこれ以上ないというぐらいシンプルな絵だ。けれども彼らの絵の前に立つと、なぜここまで単純な絵が描けたのか、なぜ世の中がこんなに単純に見えたのか、不思議になってくることもある。
参考画像:モンドリアン『赤・青・黄のコンポジション』(1930年、個人蔵)
カンディンスキーはこのときすでに47歳、いろいろな人と出会い、さまざまな脇道を通りながら、具象にとらわれない境地にようやくたどり着いた。しかし彼は、それらをすべて削ぎ落としてしまうのではなく、消化されないままカンヴァスに投げ入れ、混沌とした状態のまま提示したのだろうか。
その意味では彼の『コンポジション』は、カンディンスキーの内面的自画像かもしれないという気もする。人間なんてクールに構えていても ― カンディンスキーの肖像写真はいつもクールだ ― ひと皮めくってみると、得体のしれないものがひしめき、蠢いているはずだからである。
(所蔵先の明記のない作品はレンバッハハウス美術館蔵)
(了)
DATA:
「カンディンスキーと青騎士」
2011年4月26日~6月26日
兵庫県立美術館
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