てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

西宮の一隅にて(2)

2015年09月02日 | 美術随想

〔「具体の画家 ― 正延正俊」のチケット〕

 このたび足を運んだのは、正延正俊(まさのぶ・まさとし)の展覧会を観るためだった。といっても、この一風変わった、まるで記号のような名前の人物は、あまり知られていないにちがいない。生まれは高知県だが、いわゆる「具体」の前衛美術運動に参加し、西宮で20年前に亡くなった。

 ただ、この「具体」というのがクセモノなのである。吉原治良(じろう)の指導のもとに、他の誰の真似でもない、オリジナルな芸術活動をおこなうことをモットーにはじまったこの団体は、元永定正(生前にはこの西宮市大谷記念美術館で大規模な個展があり、ぼくも出かけた)や白髪一雄という、一般にも多少は名を知られたメンバーを輩出したが、ほとんど無名に近い若手の“芸術家の卵”たちを大勢抱え込んでもいたはずだ。

 前にも取り上げた堀尾貞治のように、今でも旺盛に創作をつづけているのはごく一部で、大半はかなりの高齢か、あるいはすでに亡くなったかしているはずだが、その動静がほとんど伝わっていない人も少なくない。ひとくくりにすれば、「具体」というムーブメントは、日本が戦後の高度成長期に夢見たはかない青春の一時期のようなものだったのか?

 当時制作された作品群を今になって鑑賞することは、若き日の無鉄砲さに乗じて遊び心で撮影したヤンチャな写真を見せられるような羞恥心を伴うような気がしなくもない。また、それらの作品のいくつかが21世紀の現在にまで伝わり、こうやって展示される機会があるのも、まさに奇特な収集家のおかげであるともいえよう。

 「具体」は、吉原の死によって1972年に終焉を迎えた。ぼくが生まれた翌年の話なので、当然ながらリアルタイムで彼らの活動ぶりを観ることはできなかったが、残された“青春の残滓”といった作品とどう向き合うのか、いまだに戸惑わされる。一見すると冗談のようにも思える奔放な前衛絵画が、かつて時代を引っ張ったことがあったのである。

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 もうひとつ、忘れてはならないのが、「具体」という美術運動の“ローカルさ”とでもいうべき側面だろう。「具体」が産声を上げたのは芦屋であるし、彼らの作品を常設展示する「グタイピナコテカ」があったのは大阪の中之島だった(今はもう、跡形もないが)。つまり彼らは東京の画壇に進出することをせず、関西の地からダイレクトに世界を目指したのだ。

 しかし吉原の死後、メンバーの多くは関西にくすぶっていたようである。足で描く画家として知られた白髪一雄も、死ぬまで尼崎で暮らしていたらしいし、球体を線で繋ぐ絵画をえんえんと描きつづけた田中敦子も、たしか奈良の明日香村に住んでいたのではなかったろうか。

 関西の美術シーンは、かつて“前衛という名の地域振興策”がおこなわれた場所だったのだ。最近、瀬戸内海の直島であるとか、新潟などの地方が現代アートのメッカになりつつあるのは、「具体」の活動がその先鞭をつけたといえるのかもしれない。

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西宮の一隅にて(1)

2015年09月01日 | 美術随想
 長いこと、執筆活動から遠ざかってしまった。リハビリのつもりで、この稿をはじめることとしよう。ただ、展覧会めぐりは毎週のようにつづけているし、かなり遠出をしたこともあるので、それらの記憶はすでに混沌としてしまっている。こまごまと整理してこなかったツケである。

 ともあれ、一歩一歩、できることから・・・。

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〔香櫨園駅の外壁に残る古い駅名表示〕

 西宮の一隅、というと、先日熱戦が繰り広げられた甲子園球場を連想する人もいるかもしれないし、新年になると神社の境内を大勢の人々が疾走する「福男選び」で有名な西宮神社を思い出す人もあるかもしれない。ぼくにとっては、しばしば足を運ぶ兵庫県立芸術文化センターのある場所だし、阪神大震災の直後、全壊した津高和一の家を目撃したのも、やはり西宮であった。彼は今、西宮市内の法心寺に眠っている。

 ただ、今回取り上げたいのは、阪神の香櫨園駅の周辺である。とはいえ、いきなり「香櫨園」と書いても、とりわけ関西以外の人にはなかなか読めないのではなかろうか。

 正しい読みは「こうろえん」。実は明治時代の終わりごろ、ここに「香櫨園遊園地」という名の広大な遊園地があったということだ。動物園なども併設された大規模なものだったようだが、わずか数年でその役目を終え、今は跡形もない。残っているのは、香櫨園という七難しい駅名のみである。

 先日、井上靖の小説を読んでいたら、不意に香櫨園の名前が出てきて驚いたことがあった。井上といえば北海道の生まれで、あまり関西のイメージがなかったのだが、どうやら香櫨園駅の近辺に住んでいたことがあったらしい。文学ということでいえば、村上春樹は香櫨園小学校の出身だということだし、彼の作中には香櫨園の風景がちりばめられているともいうが、村上作品を全く読まないぼくには何もいう資格がないだろう。

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 一方で美術ファンにとっては、ここは忘れることのできないスポットである。西宮市大谷記念美術館という、瀟洒な美術館がそこにあるからだ。

 ぼくは気が向くと、梅田から阪神電車に乗り、香櫨園駅を降りてそこへと向かう。駅からは少し歩かなければならず、決して便利とはいえないのだが、大阪のように路上に煙草の吸い殻が落ちていたり、郵便受けの上に空き缶がのせられていたり、といった見苦しい状況を眼にしたことは一度もない。まるでついさっき誰かが掃除でもしたばかりのように、いつも綺麗な道を気持ちよくたどることができる。例の香櫨園小学校の前を通り過ぎると、美術館へと到着する。

 余談ながら、単に「大谷記念美術館」というと、鎌倉にある同名の施設と混同してしまうかもしれない(そちらは長らく休館しているようだが)。なお鎌倉のほうは、ホテルニューオータニの創業者である大谷氏の名前を冠したもので、ここ西宮のほうは、松竹を創設した大谷氏ゆかりの場所らしい。緑豊かな庭園には、兎と戯れる大谷氏たち家族の銅像があるが、庭のことについてはあとで触れよう。

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