〔「具体の画家 ― 正延正俊」のチケット〕
このたび足を運んだのは、正延正俊(まさのぶ・まさとし)の展覧会を観るためだった。といっても、この一風変わった、まるで記号のような名前の人物は、あまり知られていないにちがいない。生まれは高知県だが、いわゆる「具体」の前衛美術運動に参加し、西宮で20年前に亡くなった。
ただ、この「具体」というのがクセモノなのである。吉原治良(じろう)の指導のもとに、他の誰の真似でもない、オリジナルな芸術活動をおこなうことをモットーにはじまったこの団体は、元永定正(生前にはこの西宮市大谷記念美術館で大規模な個展があり、ぼくも出かけた)や白髪一雄という、一般にも多少は名を知られたメンバーを輩出したが、ほとんど無名に近い若手の“芸術家の卵”たちを大勢抱え込んでもいたはずだ。
前にも取り上げた堀尾貞治のように、今でも旺盛に創作をつづけているのはごく一部で、大半はかなりの高齢か、あるいはすでに亡くなったかしているはずだが、その動静がほとんど伝わっていない人も少なくない。ひとくくりにすれば、「具体」というムーブメントは、日本が戦後の高度成長期に夢見たはかない青春の一時期のようなものだったのか?
当時制作された作品群を今になって鑑賞することは、若き日の無鉄砲さに乗じて遊び心で撮影したヤンチャな写真を見せられるような羞恥心を伴うような気がしなくもない。また、それらの作品のいくつかが21世紀の現在にまで伝わり、こうやって展示される機会があるのも、まさに奇特な収集家のおかげであるともいえよう。
「具体」は、吉原の死によって1972年に終焉を迎えた。ぼくが生まれた翌年の話なので、当然ながらリアルタイムで彼らの活動ぶりを観ることはできなかったが、残された“青春の残滓”といった作品とどう向き合うのか、いまだに戸惑わされる。一見すると冗談のようにも思える奔放な前衛絵画が、かつて時代を引っ張ったことがあったのである。
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もうひとつ、忘れてはならないのが、「具体」という美術運動の“ローカルさ”とでもいうべき側面だろう。「具体」が産声を上げたのは芦屋であるし、彼らの作品を常設展示する「グタイピナコテカ」があったのは大阪の中之島だった(今はもう、跡形もないが)。つまり彼らは東京の画壇に進出することをせず、関西の地からダイレクトに世界を目指したのだ。
しかし吉原の死後、メンバーの多くは関西にくすぶっていたようである。足で描く画家として知られた白髪一雄も、死ぬまで尼崎で暮らしていたらしいし、球体を線で繋ぐ絵画をえんえんと描きつづけた田中敦子も、たしか奈良の明日香村に住んでいたのではなかったろうか。
関西の美術シーンは、かつて“前衛という名の地域振興策”がおこなわれた場所だったのだ。最近、瀬戸内海の直島であるとか、新潟などの地方が現代アートのメッカになりつつあるのは、「具体」の活動がその先鞭をつけたといえるのかもしれない。
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