![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/fe/aa534cfb47970f1ac27eb26e8351a08c.jpg)
束芋『惡人』挿絵(部分、2006~07年)
このほかにもさまざまな映像作品があったが、ここでいちいち触れるのはやめよう。束芋への賛辞を書く、などといいながらこれでは尻すぼみのようだが、ぼくにはまだ判断を保留したい作品が多かった。彼女は、団地という人間社会の縮図にとらわれることから少しずつ脱しはじめているように見えるのである。
そこで束芋がモチーフに選んだのが、植物だ。もちろんただの花の絵ではなく、奇妙な細胞が増殖するかのように、植物と人体がつながりあった不思議な生きものがあらわれたり、うごめいたり、やがて消えたりする。人間の爪先に大輪の花が開くといった、そういう具合に。もちろんその花の養分は、人間の足に張りめぐらされた血管や神経などを通って吸い上げられているのである。
だがここまでくると、何が束芋の世界にここまでの変貌をもたらしたのか戸惑ってしまう。団地体験のような共通する記憶が、なかなか見いだしがたいからだ。
「個の内側から外に向けて発散されるものを表現したい。」と、作者は書いている。いわば『団地層』のように、外側からドラマの生成を眺めているだけではなくて、彼女は内面のドラマへ眼を向けはじめたということなのかもしれない。
束芋のアニメーションは基本的に手描きであるし、映写装置も相当大掛かりになってきているので、制作に時間がかかるだろう。しかし大阪の展覧会と並行して、東京の銀座でも個展を開いていたらしいし、来年にはヴェネツィア・ビエンナーレの日本館に出展するという。今、まさに充実のときを迎えている作家である。今後の展開を楽しみにしたいところだ。
***
もうひとつ、束芋の別な面を知ることができたのが、今回の展覧会の大きな収穫だった。彼女の描いた“静止画”をふんだんに観ることができたのである。といっても、ただのタブローではない。
今、女優の深津絵里がモントリオール世界映画祭で最優秀女優賞をもらった『悪人』が公開されて話題になっている(ちょうど9月11日が公開初日で、これもまた奇妙な符合だった)。この映画は2006年から翌年にかけて朝日新聞に連載された小説が原作だそうだが、そのときの挿絵を担当していたのが束芋なのだ。ぼくは新聞を購読していないのでこの事実は知らなかったが、それにもまして束芋が絵を描いているというそのことに驚いてしまった。ぼくにとって彼女はあくまで若手の映像作家を代表する存在であり、画家ではなかったからだ。
これまでもいろんな美術館で、新聞小説の挿絵の原画というのを眼にする機会があった。たとえば滋賀の美術館では小倉遊亀が描いた谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』がいつも展示されているし、小磯良平の美術館には彼が手がけた石川達三の『人間の壁』などがある。だが、ぼく自身は挿絵の仕事を画家の余技としか考えていない部分があるというか、純粋な絵画作品を上回るほどの感銘を受けたことがなかったので、あまり熱心な眼を注いできたとはいいがたい。しかし束芋の描く『惡人』 ― 彼女はなぜか旧字体を使っている ― は、ありきたりの挿絵とはまったくちがっていた。ひとことでいって、ぼくは映像作品を観たとき以上の衝撃を受けたのである。
まず、物語の情景が客観的に描かれてはいない。文字のなかだけで動く登場人物に個別的なイメージを与えることを避けるように、人物の顔もほとんど描かれない。そこに紡ぎ出されるのは細分化された人体の部分と、おそらく小説の場面に登場するであろう小道具で、それらが髪の毛や血液などを思わせる流線型を介して不思議に絡み合っている。挿絵というのは物語の理解を助けるべく“神の視点”で俯瞰的に描かれているものだ、という常識を大きく逸脱しており、モチーフの組み合わせがシュルレアリスムの絵画のように斬新なのである。
『惡人』の挿絵は和紙に墨で描かれ、横に長い連なりとなって展示されていた。しかも和紙の裏側からほのかな光があてられ、暗い展示室に浮かび上がって見える。ぼくはそれが新聞の挿絵であることを忘れ、現代の新しい絵巻物として眺めているのに気づいた。いや、原作を読んでいないし映画を観てもいないからこそ、そういう楽しみ方が許されるのであろうか。
「文章から立ち上がる空気を、本の間にはさんで作る押し花のように、二次元の紙の上に定着させることに努めた。」と束芋は書いている。今回の映像作品もただ平面に映写されるだけではなく、三次元的な空間を鑑賞者に意識させるような手の込んだ作りになっていたが、眼に見えるものを巧みに描写するだけでは飽き足らない彼女の野心にぼくは共感を覚える。
もともと二次元の住人だったキャラクターを無理やり三次元に連れ出してきたような村上隆のアートより、うんと世代の若い束芋のほうが現実社会をよく見ているのではあるまいか。少なくともそこには鋭い問題意識が横たわっており、円満な自己完結で終わることはないだろう。彼女が徐々に年齢を重ね、世の中とどんな切り結び方をしていくのか、期待はふくらむ。これからも機会があれば、個展に足を運びたいものだと思った。
(了)
DATA:
「束芋:断面の世代」
2010年7月10日~9月12日
国立国際美術館
この随想を最初から読む