てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

束芋という断面(3)

2010年09月23日 | 美術随想

束芋『惡人』挿絵(部分、2006~07年)

 このほかにもさまざまな映像作品があったが、ここでいちいち触れるのはやめよう。束芋への賛辞を書く、などといいながらこれでは尻すぼみのようだが、ぼくにはまだ判断を保留したい作品が多かった。彼女は、団地という人間社会の縮図にとらわれることから少しずつ脱しはじめているように見えるのである。

 そこで束芋がモチーフに選んだのが、植物だ。もちろんただの花の絵ではなく、奇妙な細胞が増殖するかのように、植物と人体がつながりあった不思議な生きものがあらわれたり、うごめいたり、やがて消えたりする。人間の爪先に大輪の花が開くといった、そういう具合に。もちろんその花の養分は、人間の足に張りめぐらされた血管や神経などを通って吸い上げられているのである。

 だがここまでくると、何が束芋の世界にここまでの変貌をもたらしたのか戸惑ってしまう。団地体験のような共通する記憶が、なかなか見いだしがたいからだ。

 「個の内側から外に向けて発散されるものを表現したい。」と、作者は書いている。いわば『団地層』のように、外側からドラマの生成を眺めているだけではなくて、彼女は内面のドラマへ眼を向けはじめたということなのかもしれない。

 束芋のアニメーションは基本的に手描きであるし、映写装置も相当大掛かりになってきているので、制作に時間がかかるだろう。しかし大阪の展覧会と並行して、東京の銀座でも個展を開いていたらしいし、来年にはヴェネツィア・ビエンナーレの日本館に出展するという。今、まさに充実のときを迎えている作家である。今後の展開を楽しみにしたいところだ。

                    ***

 もうひとつ、束芋の別な面を知ることができたのが、今回の展覧会の大きな収穫だった。彼女の描いた“静止画”をふんだんに観ることができたのである。といっても、ただのタブローではない。

 今、女優の深津絵里がモントリオール世界映画祭で最優秀女優賞をもらった『悪人』が公開されて話題になっている(ちょうど9月11日が公開初日で、これもまた奇妙な符合だった)。この映画は2006年から翌年にかけて朝日新聞に連載された小説が原作だそうだが、そのときの挿絵を担当していたのが束芋なのだ。ぼくは新聞を購読していないのでこの事実は知らなかったが、それにもまして束芋が絵を描いているというそのことに驚いてしまった。ぼくにとって彼女はあくまで若手の映像作家を代表する存在であり、画家ではなかったからだ。

 これまでもいろんな美術館で、新聞小説の挿絵の原画というのを眼にする機会があった。たとえば滋賀の美術館では小倉遊亀が描いた谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』がいつも展示されているし、小磯良平の美術館には彼が手がけた石川達三の『人間の壁』などがある。だが、ぼく自身は挿絵の仕事を画家の余技としか考えていない部分があるというか、純粋な絵画作品を上回るほどの感銘を受けたことがなかったので、あまり熱心な眼を注いできたとはいいがたい。しかし束芋の描く『惡人』 ― 彼女はなぜか旧字体を使っている ― は、ありきたりの挿絵とはまったくちがっていた。ひとことでいって、ぼくは映像作品を観たとき以上の衝撃を受けたのである。

 まず、物語の情景が客観的に描かれてはいない。文字のなかだけで動く登場人物に個別的なイメージを与えることを避けるように、人物の顔もほとんど描かれない。そこに紡ぎ出されるのは細分化された人体の部分と、おそらく小説の場面に登場するであろう小道具で、それらが髪の毛や血液などを思わせる流線型を介して不思議に絡み合っている。挿絵というのは物語の理解を助けるべく“神の視点”で俯瞰的に描かれているものだ、という常識を大きく逸脱しており、モチーフの組み合わせがシュルレアリスムの絵画のように斬新なのである。

 『惡人』の挿絵は和紙に墨で描かれ、横に長い連なりとなって展示されていた。しかも和紙の裏側からほのかな光があてられ、暗い展示室に浮かび上がって見える。ぼくはそれが新聞の挿絵であることを忘れ、現代の新しい絵巻物として眺めているのに気づいた。いや、原作を読んでいないし映画を観てもいないからこそ、そういう楽しみ方が許されるのであろうか。

 「文章から立ち上がる空気を、本の間にはさんで作る押し花のように、二次元の紙の上に定着させることに努めた。」と束芋は書いている。今回の映像作品もただ平面に映写されるだけではなく、三次元的な空間を鑑賞者に意識させるような手の込んだ作りになっていたが、眼に見えるものを巧みに描写するだけでは飽き足らない彼女の野心にぼくは共感を覚える。

 もともと二次元の住人だったキャラクターを無理やり三次元に連れ出してきたような村上隆のアートより、うんと世代の若い束芋のほうが現実社会をよく見ているのではあるまいか。少なくともそこには鋭い問題意識が横たわっており、円満な自己完結で終わることはないだろう。彼女が徐々に年齢を重ね、世の中とどんな切り結び方をしていくのか、期待はふくらむ。これからも機会があれば、個展に足を運びたいものだと思った。

(了)


DATA:
 「束芋:断面の世代」
 2010年7月10日~9月12日
 国立国際美術館

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束芋という断面(2)

2010年09月19日 | 美術随想

束芋『団地層』(イメージ、2009年)

 ぼくは団地に住んだことはない。けれども子供のころ、団地住まいの友達はいたし、その家に遊びに行ったこともある。隣家と壁が接しているくせに、外部との交流を遮断しようとしているような分厚い鉄の扉が気にかかったけれど・・・。それは、小学生の力で開け閉めするには重すぎたのだ。

 小学校の校庭に出ると、すぐ近くの敷地に平らな箱を立てたような同じかたちの団地がいくつも並んでいた。福井の田園風景のなかに突如出現した直方体のバケモノは、何とも不調和な、奇妙な感じがしたものだ。端っこの一棟を指でつついたらドミノ倒しのように次々と倒れていってしまいかねない、危なっかしい建物に見えた。

 やがて、ぼくの家の北側にも団地が建ちはじめ、ベランダから花火大会をのぞむことができた空をすっかり塞いでしまった。途轍もなく巨大な壁をおっ立てたかのように見えたが、あそこに穿たれている小さな窓のひとつひとつにそれぞれ別の家族が暮らしているのかと思うと、人間の住環境が同じ大きさの箱に整然と振り分けられてしまうことの不自然さをひしひしと感じないではいられなかった。しかもそこに住んでいるのは高倍率の抽選を勝ち抜いた選ばれし人たちなのだと思うと、ますますおかしなことに思われた。

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 束芋の作品にとって、団地は重要な舞台であるようだ。彼女自身も、大阪の団地で暮らした経験があるらしい。だが、彼女が表現するのはかつての高度成長期、国の繁栄と人口増加の象徴のようであった華やかなりしころの団地の姿ではなく ― 昭和30年代には東京の団地を皇太子(今の天皇)夫妻が視察に訪れたほど脚光を浴びたものだったが ― もはや時代から取り残された過去の遺物のような、いってみれば「近代化遺産」にも似た古くさいたたずまいである。

 『団地層』は、そんな団地から住人がひとりもいなくなり、ぎっしり押し込められた家財道具ばかりが残った情景だ。もちろんアニメーションであるから動くわけだが、生命体は何も残されていない。動くのは、団地自身なのだ。四角く区切られた部屋べやの壁が内側からどんどんせり出してきて、冷蔵庫とかテーブルとか戸棚とか流し台とかが、虚空に散らばっては消えていく。

 展覧会の最初のフロアで、ほとんど一寸先も見えないほどの真の闇のなかを、そんな映像が流れるのに出くわすのだ。床にはいくつかのクッションのようなものが置いてあって、そこに寝そべって作品を見上げることができるようになっていた(ただしクッションの存在に気がつくのは、眼が暗さに慣れてきてからだ)。まるでプラネタリウムのようであるが、降ってくるのは無数の星ではなく、人の生活のにおいが染み付いた身のまわりの品々なのである。

 ふと気づくと映像が逆回転しはじめ、散らばった家具たちがふたたび集まってきて、団地の部屋べやへと納まっていくではないか。ぼくは大いなる徒労を眺めている思いがした。そしてその徒労感は、束芋のアニメ作品を観ているときに切り離すことができない感情なのである。ストーリーがあるようでないような、結末がないようであるような世界。考えてみれば、それは何ということはない、現実世界そのままではないか。

 われわれは退屈してしまわないために、現実のなかにさまざまな虚構を持ち込もうとする。“オタク”たちが熱中しているのがそういうことだとしたら、束芋の映像は、それらをすべて見抜いたクールな目線で構成されているといえるかもしれない。アニメ特有のファンタジー性は、ここにはかけらもないのだ。

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 けれども、奇妙な符合がぼくを別の考えに引きずり込んだ。その日はたまたま9月11日だった。つまり9年前の同じ日、ニューヨークであの大規模な同時多発テロが起き、21世紀が平和な世紀であるようにという人類の夢は、ふたつの高層ビルとともに一瞬にして滅び去ったのだ。

 その瞬間、地上には数え切れないほどのオフィスからばらまかれた道具類やら書類やらが、そして人間たちもが飛び散っていったという。そんな“非現実”としか思えない光景を、ぼくは『団地層』に重ねてぼんやり思い描いていたのである。ただそれは絶対に逆回転し得ない事実だというところが、束芋の作品とは決定的にちがっていたけれど。

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束芋という断面(1)

2010年09月18日 | 美術随想

〔国立国際美術館エントランスのガラス天井からは空が見える〕

 束芋(たばいも)。まず記事を書こうとする前に、この奇妙な名前を単語登録することからはじめねばならなかった。当然ながら、わがパソコンでは「多売も」としか変換されないからである。

 横浜で開かれた展覧会が大きな話題を呼び、それが大阪に巡回してきて、間もなく会期も終了というときに、ようやくすべり込みで出かけることができた。妻に「束芋の展覧会を観てくるよ」といったら、「それ、どこの国の人?」と返されてしまったが、要は「田端さんちの妹」というほどの意味である。ふざけたネーミングともいえるが、その作品にただよう独特のぬらぬらした感触や、性別の垣根を超えたシニカルな視点に慣れてくると、国籍不明な「束芋」という響きが不思議にマッチして感じられてくるからおもしろい(大江健三郎は「アベコーボー(安部公房)」と「アベコベ」という言葉が関係しているというようなことをいったが、それはもちろん安部への賛辞であった。ぼくも束芋への賛辞として、この文章を紡いでみたいと思うのである)。

 だが「束芋」といわれても紐で結わえた芋の束を連想してしまう人がまだまだ多いだろうし、ましてや展覧会の題名が「断面の世代」と聞くと輪切りにされた芋を思い浮かべる人も少なくないと思うので、少し人物の紹介をしておいたほうがいいかもしれない。といってもそれほど詳しく知っているわけではなく、個展を観るのは今回がはじめてなのだが、その名前だけはもうずいぶん前から脳みその片隅にすり込まれていた。それは人名というよりも、意味ありげなひとつの記号のようにして、常に違和感を発散しつづけてきたといってもいいほどだ。

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 最初に彼女の - とあえて呼びたいのだが - 存在を知ったのは、2002年にNHKで放送された「美と出会う」という番組である。当時、束芋はまだ26歳だった。『にっぽんの台所』というアニメ作品でデビューしてからわずか3年目、その特異な作風はまたたく間に人々の注目を集めたといえる。束芋は、まさに若手のホープだったのだ。

 アニメといっても、いわゆるテレビアニメとか、秋葉原に群がる連中を熱狂させるようなたぐいのものではない。ちょうど今、フランスで物議を醸している村上隆の芸術(?)が、世界に向けて喧伝された国産アニメやフィギュアのようないわゆる“オタク”文化と同じ地平に立ち、その勢いを借りてヨーロッパへ打って出ようとしたあげくに一部の人から痛烈な「ノン」を突きつけられているのとはちがい、束芋のアニメは他の何ものにも依存していない。もちろんコンピューターや特殊な映写装置を使用しているのだろうが、そこには手作りのぎこちなさがあり、何ともいえないノスタルジックな感覚が呼び起こされるのである。

 では端的にいって、束芋ワールドとはいったい何なのか。展覧会の冒頭に配された『団地層』という作品は、その世界観を単刀直入にあらわしているといえるだろう。ぼくは映画館よりも暗い闇のなかへと案内され、天井に映し出される巨大な映像を眺めて立ち尽くした。それは、束芋の作品と全身で向き合った最初の体験とでもいうべきものだった。

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「ガチョーン」は永遠に

2010年09月12日 | その他の随想


 谷啓が急逝した。残念でならない。

 とはいっても、ぼくとはまったく世代が異なる。クレージーキャッツの一員としての活動をリアルタイムで見たことはない。ただ、彼らがとっくに過去の存在になってからも、あの「ガチョーン」だけはなぜか生きのびていた。意味のよくわからないナンセンスなギャグは今でもたくさん生み出されるし、世の中をひととおり席巻するとたちまち消えていってしまうのが常だが、「ガチョーン」は何十年も安泰である。これからもしばらくは、そうだろう。こんな例はほかにあるまい。

 もう10年以上も前に、ミュージカルの舞台で本人を拝見したことが一度だけある。前のほうの席ではなかったので表情までははっきり見えなかったが、やはり「ガチョーン」を絡めたセリフをときどき織り込んでは会場を沸かせていた。当時60代後半のはずで、まだまだ元気そうに思えたが、出演者のなかではダントツの最高齢だったはずだ。しかし遠くから眺めていても、主役ではないものの“そこに谷啓がいる”という存在感は圧倒的で、クレージーキャッツにおける彼のスタンスもこのような感じのものだったのかもしれない、と想像したりした。

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 谷啓はほかにも、映画やドラマで役者としての仕事をたくさんしていたらしい。けれどもぼくは映画もテレビドラマもほとんど見ずに生きてきたので、『釣りバカ日誌』に彼が出ていたことすら知らなかった。よく知っているのは何といっても、NHK教育テレビの「美の壺」の案内役としての姿である。

 アメリカ人にあやかった芸名を名乗り、トロンボーンを巧みに吹き鳴らし、小太りではあるけれどある種の洗練されたカッコよさを備えていた谷啓が、年を取って和服に身を包み、日本の好々爺然として ― しかしどことなく“美の初心者”たるういういしさを残しもして ― 演じてみせる素振りは見事にはまっていて、いったいどっちが本当の谷啓なのだろう、と考えたくもなった。和風のものを紹介しつつも、BGMにジャズが流れるという一種のミスマッチさが、谷啓その人を象徴しているような気もした。

 草刈正雄にバトンタッチするまで、アート・ブレイキーの『モーニン』にのせたオープニングで語られていた谷の朴訥な口調が、ぼくは好きであった。

 《おや? あんなところにも美がかくれてた。そうそう、美を見つけるにはちょっとしたツボがあるんです。あなたも探してみませんか。》

 あの声を聞くことは二度とないのだと思うと、何ともいえず寂しくなってくるのをどうしようもない。

                    ***

 ご冥福をお祈り申し上げます。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

名文家を送る

2010年09月10日 | その他の随想


 三浦哲郎はすでに過去の作家であった、といっても過言ではないかもしれない。

 すでにかなりの高齢であり、また病気がちであることも本人が随筆のなかに書いたりしていたので、近年は文芸誌にその名前を見かけることもまれであったからだ。

 79歳での逝去が伝えられた翌日、仕事帰りに大阪市内にある中規模の書店を2軒ほど回り、6月に刊行されたという生前最後の著書を探してみたが見当たらなかった。「男性作家」と分類された書棚を丹念に調べてみても、三浦哲郎の本は1冊もないのだ。追悼コーナーのようなところにまとめて置いてあるのかと思って探してみたが、それもない。わずかに新潮文庫に収録された小説が数冊、いつもの「み」の場所に並んでいるばかりである。

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 こういったありさまは、17年前の安部公房の死を不意に思い出させた。

 当時ある零細出版社に勤めていたぼくは、ある日の午後に先輩社員から「安部公房って知ってるか」といきなり声をかけられた。文学学校に出入りしていることをかたくなに秘匿していたので、職場で文学の話がもちあがったことに大きな戸惑いを覚えながらも「ええもちろん知ってます」と答えると、相手は「死んだな」と短くいって彼の死亡記事が一面に載った夕刊をぼくの机に投げ出していった。

 その日の帰りだったか、それともあくる日だったか、大阪の大型書店を訪ねてみると、ありったけの安部の著作を集めたコーナーがこしらえられてはいたものの、本の種類はごくわずかしかなかった。何冊も出ていたはずの新潮文庫すらも歯抜けの状態で、新聞記事にあった“ノーベル文学賞候補”とか“前衛文学の旗手”といった華々しい言葉とは裏腹に、本屋での安部公房の扱いはさびしいものだった。

 その後、絶版となっていた全集も新たに刊行され、没後にフロッピーディスクから発見された未完の『飛ぶ男』も出版されるなど、皮肉なことに書店での安部公房コーナーは生前よりもにわかに充実してきた感があった。三浦哲郎においても、同じような経過をたどるであろうことが予想されなくもない。人の死というものは往々にして、その人の存在を不意に思い出させ、忘れられかけた業績に改めて光を当てるきっかけを作ることもあるのである。

                    ***

 ぼくはといえば、近ごろは古本屋に立ち寄るたびに三浦哲郎の本を探すのが習慣になっていた。気がついてみると自分の部屋には10冊ほどの三浦の本が溜まっているけれど、すべてが古本の、それも文庫本である。しかも奇妙なことに、本当に気になる小説家や随筆家の本は、いつまでも読まずに取っておいて、いざ心が定まったとき、おもむろに手に取るのがぼくの流儀なのだ。そのようにして、多くの著者たちを読まずに見送ってきてしまった。先ごろ亡くなった梅棹忠夫氏も、そのひとりだった。

 ただ、こんな自堕落な読書家にとっても、三浦哲郎の本はこれから長きにわたって手もとに置いておけるだろうし、何度も繰り返し読んでは束の間の喜悦を味わえることだろう。流行作家ではないので、今読まないとすぐに古くなってしまうということがない。むしろ真の作家というものは、そういう一過性のものがすべて消えてなくなったあとに、まるで崩れ去った廃墟の下から一輪の花が咲きはじめるようにして、おもむろに輝き出すものではあるまいか。

 今をときめくベストセラーばかりが派手に陳列された書店の棚の前で、ふとそんなことを考えたものであった。

(了)

(画像は記事と関係ありません)