てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

フェルメールと、その他の名品(17)

2013年01月31日 | 美術随想

ヘラルト・テル・ボルフ『手紙を書く女』(1655年頃)

 現代ではすっかり電子メールの時代となって、手紙などは過去の遺物と化しつつあるが ― そして、ぼくみたいな悪筆家には願ってもない兆候でもあるのだが ― 17世紀のオランダ絵画では、手紙は日常的なモチーフとして欠かせないものだった。フェルメールにも、手紙を読んだり書いたり、手渡したりする絵があるのが知られている。

 テル・ボルフの『手紙を書く女』も、まさにそういったひとコマを描いた作品だ。若い女が机に向かっているが、部屋のなかは非常に暗く、しかし女のところにだけはスポットライトのように光があたっていて、細かい字を書くにも不自由はなさそうである。

 この左上から射す光は、女の首もとに柔らかな影を落としながら、右下の赤いクッションをもくっきりと照らし出す。彼女は姿勢正しく、いささか几帳面すぎるようなポーズで羽根ペンを握っているが、胸のふくらみが少し覗いて見えるぐらいの大胆な衣装を身に着けているところからすると、やはり恋文を書いていると考えるのが妥当なような気がする。

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参考画像:ヨハネス・フェルメール『手紙を書く女』(1665年頃、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)

 さて、ここでどうしても思い出さざるを得ないのが、同じタイトルで呼ばれるフェルメールの作品である。この絵は日本でフェルメール旋風が巻き起こる直前の1999年に来日したので、落ち着いた環境で鑑賞することができた(2011年にふたたび来日)。ぼくが生まれてはじめて本物に接したフェルメールなので、今でも思い出深い一枚だ。

 ところで年代からすると、このフェルメールのほうが10年ほど遅く描かれていることになる。ということは、テル・ボルフの絵がフェルメールに影響を与えたといえようか。比べてみると、体の向きもそっくりなら、卵形の小さな顔に少しとがった鼻、真珠の耳飾りをしているところまでが、いちいちよく似ているのである。

 だが、ちがうところももちろんある。たとえば、フェルメールの描いた女の服装がそれだ。考えてみればまことに珍妙なかっこうで、まるで防寒着のような厚みのあるガウンを纏っているかと思ったら、肘から先はむき出しで、か細い腕が光を浴びている。なおこの衣装はフェルメールが好んで採用したもので、昨年に東京で観た『真珠の首飾りの少女』もこれを着ていた(「東京の“学べる”美術館巡り(27)」参照)。まあ、当時流行していたファッションの一種だったのだろうとしかいえない。

 それに、彼女は手紙を書いているところでありながら、こちらに視線を向けて意味ありげに微笑んですらいる。テル・ボルフと比較してみると、肘が机の外に出ていたりして、実際に文字を書くにはどうも不自然な体勢だといわざるを得ない。もしかしたら彼女は本当に手紙を書いているのではなくて、その“ふり”をしているだけなのではあるまいか? という疑問が頭をもたげる。

 さらにいえば、フェルメールの絵では、女がどこに座っているのか判然としない。背後に椅子があるが、背もたれはこちら向きに傾いていて、女がそこに腰掛けていると考えるのは難しいし、もしその椅子に座っているのだとすれば、実際に手紙を書くことなどできはしない。フェルメールは、鋲の頭に反射する光を描くために、わざわざ椅子を斜めに置いたのではないだろうか。

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 このように、何も欠点をあげつらうわけではないのだが、『手紙を書く女』というモチーフの自然さからいうと、どうもテル・ボルフのほうに軍配が上がる。フェルメールは、自分の美意識を最大限に発揮するために細工をしたというか、部分的にフィクションを持ち込んだようなのである。あえていえば、フェルメールの『手紙を書く女』は、写真館で撮影した記念写真に似ていて、美しくはあるが生活のリアリティーは乏しい。

 その点、テル・ボルフが描き込んだ例の赤いクッションは、一心に手紙に向かう女の体を優しく支え、さらに彼女が意中の人に寄せる思いを明るく照らし出す絶妙な脇役として、その存在感を遺憾なく発揮しているのである。

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フェルメールと、その他の名品(16)

2013年01月30日 | 美術随想

ヤン・ステーン『恋わずらい』(1660-1662年頃)

 風俗画は、フェルメールがもっとも得意とした絵画のジャンルだといえる。けれども前にも触れたように、マウリッツハイス美術館が所蔵しているフェルメール作品には、風俗画はひとつもない。そこで他の画家に眼を向けることになるのだが、それはこの際、いいきっかけになるだろう。

 ヤン・ステーンの『恋わずらい』には、フェルメールにもお馴染みのモチーフがちりばめられている。足温器、壁に掛けられた絵、鋲の打たれた椅子など。けれども、こちらのほうがはるかに部屋のなかが雑然としていて、生活臭がぷんぷんと立ちのぼってくるようだ。人間のなにげない日常生活を描く舞台として、いかにもふさわしい感じがする。

 そして、絵の主題となっているのは、恋わずらいである。もちろん、今の日本でも恋わずらいというものは存在するだろうが、ここでは医者が大真面目に脈を取り、尿検査の準備まで整えているのだから ― 娘のかたわらの机に置かれているフラスコはそのためのものらしい ― かなり本格的だ。それというのも、この時代はまだ西洋医学の大系が確立されていなかったからだろう。

 厚手のガウンを着て、頭巾のようなもので頭部をすっぽり覆った娘は、まるで風邪ひきのように見えるほど病人然として、気力も萎えてしまっている。しかしこめかみには付けぼくろなどして、おしゃれをするにも未練があるところをみると、この娘がどこまで深刻な病気なのか疑いたくもなるというものだ。

 医師はすこぶる厳粛な顔をして、診察にあたっている。あたかも、不治の病の患者と相対するごとくに。ただ、彼らの背後にいる家政婦だけは、どうやらすべてを見抜いているように思える。彼女の表情には、ごくかすかな薄笑いと、娘がこうなることもやむなしとする分別とが同時にあらわれているように見えるのである。

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 こういった三者三様の心理の交錯、思惑の行きちがいやすれちがいを想像するのが、風俗画を観る楽しみのひとつだろう。周辺に描かれたさまざまなモチーフには、主題を暗示する隠れた意味が与えられているようだが、そういった絵解きのようなことをしていても、当時のオランダの生活習慣を生き生きと感じることはできない。

 たとえば、右下に描かれたクッションの上の犬はどうだろう。こういったモチーフは、フェルメールの絵にはまったく登場しない(フェルメールの描いた犬としては、以前の回で取り上げた『ディアナとニンフたち』が唯一の例である)。だが、ステーンは犬好きだったらしく、多くの作品に犬を登場させている。ことに『医師の往診』という絵は、『恋わずらい』と同じテーマを扱っているせいか、ほとんど同じポーズの犬が描かれている。


参考画像:ヤン・ステーン『医師の往診』(1661-1662年頃、ウェリントン美術館蔵)

 もちろん、この犬にも何らかの意味はあるにちがいない。だが、犬の表情をよくよく観察してみると、まるであの家政婦と同じように、人間の複雑な感情の機微を把握しているような“訳知り”な顔をしているのに気づく。

 犬は家庭生活の大切なパートナーとして愛玩されるのみならず、人間どもの生活をときには批評的な眼で見る、冷静な観察者としての一面も担わされていたのであろう。恋に病んだ女性と、それを医学の力で快癒させようとする医師の滑稽な奮闘ぶりを。

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フェルメールと、その他の名品(15)

2013年01月29日 | 美術随想

カレル・ファブリティウス『ごしきひわ』(1654年)

 「ごしきひわ」という鳥の名を聞いてピンとくる人は、鳥類を愛する人か、クラシック音楽を愛する人か、どちらかだろう。ぼくは後者だ。ヴィヴァルディの有名なフルート協奏曲に、『ごしきひわ』という標題のついたものがあるからである。けれども、その鳥がどんな姿をしているのか、この絵を観るまでは知らなかった。

 そして、正直にいうと、少しがっかりした。“ごしき”というわりには、大変地味な色合いで、雀とあまり変わらないような気がしたからだ。いや、実のところ、350年余り前に描かれた絵の具が色あせてしまって、こういう状態になってしまったようである。

 しかも、このごしきひわは、人に飼われている。いや、もっと正確には、とらえられている印象である。鳥の片足には小さな鎖がつけられ、その先端には鉄の輪っかがついていて、まるで知恵の輪のように、円形のとまり木に通されている。多少の自由は利くかもしれないが、遠くへ飛び去ることはできない。人間でいえば、足枷をはめられているようなものだ。

 けれどもこの小鳥は、そんなおのれの運命も知らぬげに、つぶらな瞳をくるくるさせて、静かにとまっている。青い箱のようなものはえさの入れ物らしく、ご飯の時間がくるのをおとなしく待っているところであろうか。

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 ところで、この絵が「静物画」というくくりで展示されていたのは、どう考えても納得しがたい。これは静物ではなくて、れっきとした生き物の絵である。

 それに、前回取り上げたように雑多なモチーフ ― それが“ヴァニタス”というテーマで一貫しているとはいえ ― の詰め込まれた絵のあとで『ごしきひわ』を観ると、その異様なまでのシンプルさが際立つ。鳥とえさ箱のまわりはほとんど白い壁で、それが余白のように見え、まるで日本画を眺めているような錯覚も覚える。しかしその実、よくよく眼を凝らしてみると、漆喰を模したと思われる白壁の質感にも細心の注意が払われていることがわかる。

 これも、いわゆる写実絵画として一流のものだし、だまし絵の一種と考えてもいいだろう。それにしても、繋がれた小鳥だけをモチーフに据えた西洋画というのは、かなり珍しいのではないだろうか。小さな絵だが、よほど自信作だったのか、ファブリティウスは画面の下のほうに、ちょっと目立ちすぎるぐらいの大きさで自分の署名と年記を書き入れた。

 しかしその年記が、自分自身の没年になろうなど、彼は夢にも思わなかったにちがいない。1654年、ファブリティウスがアトリエを構えていたデルフトで火薬庫の大爆発事故が起こり、彼もその巻き添えになって命を落とす。32歳の若さだった。アトリエも焼けてしまい、現存する作品は10点ほどしかないという。今となっては、フェルメールよりもずっと希少な画家なのだ。

 さて、ここから先は戯れ言のようなもの。事故当時、この絵がどこに収蔵されていたかは知らないけれど、足枷をはめられて羽ばたくことのできないごしきひわが、よくぞ生き残ったものだと思う。この可憐な一羽の小鳥は、かつてデルフトにファブリティウスという有能な画家がいて、レンブラントに師事し、フェルメールへの橋渡しをする重要なポジションにいたのだということを後世に伝えるために、われわれの眼の前にあらわれたのではないかという気さえするのである。

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フェルメールと、その他の名品(14)

2013年01月28日 | 美術随想

ピーテル・クラースゾーン『ヴァニタスの静物』(1630年)

 近ごろの我が国では、写実絵画がちょっとしたブームを呼んでいるようだ。まるで写真みたいに ― というのは決して褒め言葉ではないと思うが、どうしてもそういいたくなってしまう ― 極端なまでのリアリティーで描かれた絵のことである。

 もちろん、写実絵画というのは以前からあった。たとえばこのブログでも、磯江毅や犬塚勉といった、すでに故人となった画家を取り上げたことがあるが、彼らの作風は明らかに写実絵画に属する。フェルメールも、作品によっては、人間の力でできるかぎりの写実を極めようとした画家だったといえなくもないだろう。

 だが、17世紀オランダの静物画を観ると、まさにめくるめくような写実の世界が展開されているのに驚く。宗教画や人物画をはるかに超越して、徹底的に微細な描写にこだわり抜き、平面上に三次元の小宇宙を現出させようとしたその執念は、ある意味ではやや狂気じみているのではないかと思ってしまう。

 そして現代日本の写実画家のなかにも、オランダ絵画に出会うことによって写実に眼覚めた、という人がかなり含まれているような気がするのである。それはどういういきさつでか、オランダに旅行したのか、日本で開かれた展覧会を観たのかは知らないが、学生のときに生まれてはじめて油絵の具を手にしたときの先入観を覆してくれるような新鮮な驚きが、そういった絵に含まれていることはたしかだろう。

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 クラースゾーンの『ヴァニタスの静物』は、生けるものはいつか消えてなくなる、といった虚しさを表現したとされている。ちなみにヴァニタスとは、“生のはかなさ”とでもいった意味で、西洋絵画を観るには必ず知っておかなければならないキーワードのひとつだ(ぼくは昔、若桑みどり氏のテレビの講座で教わった)。

 もちろん、この絵を観て、リアルな超絶技巧に驚くだけというのもわるくない。たとえば頭蓋骨 ― その向こうには腕の骨のようなものも見えている ― やボロボロになった本の破れかけた質感は、別にヴァニタスという言葉を知らなくたって、華やかなものはいずれ滅びるという無常観へとわれわれをいざなう。

 ただ、その一方で、若者のファッションの一部として、街中にドクロが蔓延していることも事実である。若い母親がベビーカーを押して歩いているのをふと見ると、赤子がドクロの柄の産着にくるまれていたりして驚くことがあるが、この人は新生児に死体の模様の服を着せておいて何とも疑問に思わないのだろうか、と首をひねりたくなる。

 そういう世代の人は、周囲から“死”というものが隔絶された世界に生きているとしかいいようがない。せいぜい、映画やドラマのなかで人が殺されたりするフィクションとしての死しか知らないのだろう。そういう人は、この絵にように写実的に描かれた頭蓋骨を見て、一度震え上がっておいたほうがいいのである。

 ちなみに現代日本の写実的な静物画は、なぜかモチーフが丁寧に並べられたものが多い。まるでアンティークショップの一角を覗いてみたような雰囲気なのだ。このクラースゾーンのように、頭蓋骨が斜めを向き、口先には今飲み干したばかりといわんばかりにワイングラスが転がり、さらに骸骨が自分で息を吹きかけたかのようにランプから細い煙が立ちのぼるという演出は、亡きひとりの人格がほのかに浮かび上がってくるようで、怖いことこのうえない。そこには観念としての“ヴァニタス”だけではなく、死の重みといったものも描かれているように思える。

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 なお磯江毅の最晩年の自画像にも『バニータス』という作品があることを付記しておく(彼はオランダではなく、スペインで学んだ人であるが)。その絵にも、頭蓋骨とボロボロになった本が描かれていたのだった(「写実を超えたリアリズム ― 磯江毅の挑戦 ― (2)」参照)。

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『別れの手続き』の周辺(2)

2013年01月27日 | てつりう文学館


 中村昌義が最後に上梓したエッセイ集には、彼自身が生前に何人もの親しい人を見送ってきた、その追悼文が多く収録されているという。そのなかに、間宮茂輔(もすけ)という、これも知られざる作家を送った文章がある。間宮はプロレタリア作家として活動したのちに転向し、1975年に没しているが、病床の中村がエッセイ集のゲラを手にしたのは、それからちょうど10年後の命日だったことがわかる。

 山田稔の文章によれば、中村がかつての間宮の暮らしぶりを回想した次のような記述があったという。いや、それを“暮らし”と呼ぶことができるならば、だが。

 《老朽した木造アパートの二階の薄汚い部屋で、万年筆でなく、珊瑚色の軸につけたペンの先をギシギシ鳴らしながら、「一字一字、原稿用紙に彫りこむように」して書いている間宮の鬼気迫る姿が印象的である。あるとき彼はつぎのように語ったという。〈わたしは何年とあげたことのない万年床の上で、独り寝たり起きたりして、そこから出かけていったり、人を愛したり、また人から棄てられたり、いろんなことがあって、それを風葬の座という題で書きたい〉と。》(前掲同書)

 なお間宮茂輔本人は、その文章を書くことが叶わなかったようだが、茂輔の甥にあたる間宮武という人がサラリーマンを経て作家となり、つい2年前に『風葬の座』という小説を発表している。もちろん茂輔や、中村昌義らの生前のことに触れた内容で、題名も伯父の遺志を受け継いでつけられたものであろう。

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 それはさておき、間宮茂輔が小説を書いているときの“鬼気迫る姿”は、ある人の文章をぼくに思い出させる。ぼくがかつて小説を教わり、7年前に亡くなった芥川賞・直木賞候補作家だったKという人がいたが、彼が珍しく新聞に寄稿したコラムのようなものだ。いつの何という新聞だったか、手もとに残っていないのが残念だが、たしか当時全盛を誇っていたワープロを、そしてそういった風潮に一も二もなく追随する書き手たちを難ずる内容だった。

 K先生によれば、「書く」は「掻く」につながり、原稿用紙の表面をペンで引っ掻くようにして文字を記すから「書く」なのだと。それに費やす労力こそ、物書きの精神を刻印するために必要であり、キーを叩いてすらすらと文字を打ち込むような創作の仕方に、いったいどれほどの心血が注がれているのか、疑問を呈するような文章だったように思う。

 当時、ぼくは先生の教えを守るためではないが、かたくなにワープロを使わず、原稿用紙に鉛筆で小説を書いていた。仕事を終えて疲れ果てて帰宅したあと、さらに右手を酷使して一文字一文字書いていくのは大変な肉体的苦痛を伴うものだったが、過去の作家たちはみなこうやってきたのだ、と自分を励ましながら書いたのを覚えている。しかし今は作家の夢を諦め、ワープロを飛び越えてパソコンで文章を打つ ― “書く”とはいうまい ― ようになってしまったのだから、実のところK先生に申し訳が立たないのだ。

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 「別れの手続き」とは、もともと中村昌義の妹の富士子さんが兄の思い出と看病の様子を綴った追悼文の副題である。妹は、中村にとって最後まで親しい身内のひとりであった。彼が寝たきりになってからも、体を拭いてあげたり、下の世話をしてあげたり、献身的に看病をした。

 《三度目の、最後の入院の二日前、兄妹と妻の操さんと三人で酒を飲んだ。彼はそのとき、自分の病気を「胆嚢癌の再発」と知っていたらしい。妹がなかば冗談に酒でも飲もうかと言ったのにたいし、うん飲もう、と応じたのだった。まだ酒はうまい、と言う。しかしその「最後の酒盛り」で、本人の言葉とはうらはらに、彼は盃に二、三杯しか飲まなかった。飲めなかったのであろう。》(前掲同書)

 だが、富士子さんは兄のために無理をして飲み、昌義が好きだった歌を歌ってやったという。これもまた、「別れの手続き」の一環だったにちがいない。

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 ところで、ぼくがこの「別れの手続き」というものににわかに思いを致すことになったのには、ふたつの要因がある。まず、アルジェリアで不慮の死を遂げた多くの日本人たちのニュースがあった。彼らは当然、仕事が終わったら日本に帰ってくるつもりでいたのであろう。「別れの手続き」をしないままに、無言の帰宅をせねばならなかった彼ら、そして遺族たちのやりきれなさを思うと、何も言葉が出なくなる。

 そして、これは私事に属する話だけれど、つい先日、母方の祖父の死の報が実家からもたらされたことだ。昨年の父方の祖母の死につづいて、これでぼくの祖父母はひとりもいなくなった。祖母が亡くなる際には、数日前に帰郷して別れを済ませたつもりでいたが、今回の祖父の死は唐突で、何も聞かされていなかった。しかも、亡くなってから4日後に、電話でその事実を知ったのである。葬式も何も、すべてが終わっていた。

 ぼくは今、大阪に住んでいて、祖母も祖父も福井に暮らしていたから、親しく行き来していたわけではない。しかし幼いころ、とても可愛がってもらったし、いろんなところに連れて行ってもらった記憶もある。思えば、まだ10歳ぐらいだったぼくをはじめて京都や大阪への旅行に連れ出してくれたのは、母方の祖父母であった。太陽の塔を見たり、清水寺に行ったりするたびに、ここに並んで写真を撮ったな、ということを思い出すのである。

 だが、その祖父も、いかなる「別れの手続き」をも経ないままに、あの世に行ってしまった。その遺体と対面すれば、ぼくも涙があふれたであろう。しかし、まるで情報のひとつのようにして訃報に接しただけで、いまだに何の感懐もわかないのだ。

 しばらくしたら故郷に帰って、線香を上げるなり、お墓に参るなりしなければならないと思う。遅れてしまった「別れの手続き」を、そのときにするより仕方がない。祖父の墓の前で、ぼくの眼を涙が潤してくれるのかどうか。感謝の言葉を口にできるのかどうか。できれば命あるうちに、もう一度会っておきたかった。

(了)

(画像は記事と関係ありません)


参考図書:
 山田稔『別れの手続き 山田稔散文選』(みすず書房)

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