てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

「無言館」は語る(7)

2005年08月30日 | 美術随想
 1枚また1枚と、彼らの絵と向き合っていくにつれて、ぼくの頭の中にはまた別種の雑念がよみがえってきた。作品の横には作者の詳細なプロフィール(当然“どうやって戦死したか”が書かれている)、出征前の写真、それに生前の彼らを知る遺族たちの証言がしるされたプレートが掛けられている。「無言館」が「戦没画学生慰霊美術館」である以上、これは必要欠くべからざるものにはちがいない。

 窪島館主は、著書の中で「胆に銘じなければならないのは、どれほど高名な画家の作品であっても、遺族にとってはそれは芸術品である以前に『遺品』であるということだ。」(『信濃デッサン館20年』平凡社)と書いている。野見山氏も「無言館は、美術館かどうかわかりません。」(「展覧会に寄せて」)という。絵を観ていくうちに、ぼくはこれらを「作品」として受け取るべきなのか、それとも「遺品」として受け取るべきなのか、次第に混乱してくるのをどうしようもなかった。

 彼らの「遺品」は額縁には入れられず、まるで遺影のように、黒い木枠に縁取られて陳列されている。ガラスすら入れられていない。絵の具が痛々しいまでに剥落しているものも多い。通常の美術展では、まず考えられないことである。

 しかしぼくは、美術愛好家のひとりとして、あくまで彼らの絵を「作品」として観たいと思った。というのは、あの明日をも知れぬ戦時下においてさえ、いやそれだからこそ、彼らは純粋に「画家」としてこれらの絵を描いたにちがいないと思うからだ。画業なかばで死んだ彼らの多くは、当然ながらまだ未熟であるし、その絵も未完成と思われるものが少なくない。だがそれだけに、彼らが絵画に注ぎ込んだ熱情が、より純度の高い結晶となって、ぼくたちの前に遺されている。これを「作品」と呼ばずして何と呼ぼう?


 芳賀準録の『風景』は、刈り入れの時季とおぼしい田園地帯を描いた、のどかな風景画である。画家の目は純粋に、真っ直ぐに、日本の自然の表情をとらえている。この絵の前で、ある幼い女の子がお母さんに向かって話しかけているのが聞こえた。

 「ねえ、これ何て書いてあるの?」

 「頭部貫通銃創のため戦死、だって」と、お母さんが答える。

 「とうぶかんつう・・・って?」

 「頭をね、銃の弾が通り抜けちゃったんだって」

 「それは痛かっただろうねえ」

 痛かったどころではない。その銃の弾は、兵隊としての芳賀の命だけでなく、画家として身につけた感性も、技術も、未来も、一瞬にして奪い去った。彼が遺した絵画は、2枚の油彩画を数えるのみであるという。だからこそぼくは、かけがえのない「作品」として、彼の絵を見つめてあげたいと思うのである。

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「無言館」は語る(6)

2005年08月29日 | 美術随想
 会場は普段よりも照明が落とされているように感じたが、それはあるいは気のせいだったかもしれない。しかしある静謐な、厳粛なものが漂っていたのは確かで、いかにも「無言館」という名にふさわしい気がした。喧騒にまみれた日常世界の混沌から、1枚のヴェールを隔てた“守られた空間”に誘導されていくようである。おっかなびっくり、ぼくは中に入ってみたが、劈頭の1枚を観て雑念が一気に消し飛んでしまった。

 蜂谷清『祖母の像』。いつか必ずくる出征の日、生まれたときからずっとそばにいる肉親にさえ、もう二度と会えなくなるかもしれないという切実な思いが、この絵を描かせたのだろう。ポーズをとらせるでもなく、真正面から描かれた祖母の姿。しかしそれだけに、キャンバスを挟んで向かい合った孫との間に、張りつめた“無言の対話”が交わされていたであろうことをこの絵は想像させる。ここには、ふたりの思いのたけが詰め込まれているのだ。

 ぼくはふと、田舎に暮らしている自分の祖母のことを思い出さずにはいられなかった。帰省するたびに老いさらばえていく祖母を、ぼくはここまでじっと見つめたことはない。蜂谷清は、いつも身近にいる祖母の姿を、まるで初めて見るような思いで見つめたのではないだろうか。額の皺、落ちくぼんだ口、グローブのように浅黒い手、それらひとつひとつを確かめるように、脳裏に刻みつけながら描いていったにちがいない。

 そしてその愚直ともいえる行為が、実は絵画の原点なのではないかと、ふと思い至るのである。彼らと同世代の画家、野見山暁治氏がいう「絵というのは、本当はこういうものじゃないか」(「展覧会に寄せて」)とは、まさにこのことではなかろうか。

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「無言館」は語る(5)

2005年08月28日 | 美術随想
 前田美千雄の絵手紙を観てから数日後、いよいよ「無言館」の巡回展へと足を運んだ。会場に向かうときのぼくの心境は、明らかに他の展覧会のときとは異なるものだった。前もって下調べをし、準備万端整え、いざ本番を迎えようというときは、月並みな言い方をすれば期待で胸が膨らみ、足取りも軽くなるものだ。写真で見たあの絵の実物に、今から対面できるとなれば、それも無理はない。しかし今度ばかりはそうはいかなかった。

 そもそもこの展覧会の開催を知ったときから、ぼくが意を決したように「無言館」関連の書籍を読みはじめたのはどうしてだろう。なぜか、そうせずにはいられなかった。今から考えるとおそらく、戦没画学生たちと対面する前に自分を少しでも“武装”させておきたかったのかもしれない。無防備なままで彼らの只中へ飛び込んでいく勇気が、ぼくにはなかったのだ。

 例えば原爆資料館を見る場合でも、ここは原子爆弾による惨禍をありのままに記録し展示する場所だと認識してから見るのと、何も知らないでいきなり見るのとでは、衝撃の度合いがかなり違ってくるように思われる。心の準備もないままに、不意打ちのようにして原爆の被害のむごたらしさと向き合ってしまったとき、ぼくたちは60年前に実際に起こった厳然たる事実から思わず目を背けてしまうのではないか?(ただし、いうまでもなく当時の広島や長崎の人々にとってそれは“不意打ち”以外のなにものでもなかったのだ!)

 ぼくは志なかばで無念の死を遂げていった若者たちの絵に取り囲まれたとき、平常心を保てる自信がなかった。彼らの嘆き、呻吟、もっと生きて描きたかったと訴える声にならない叫びに、押しつぶされてしまいそうな気がしたのである。ほとんど死を覚悟しながら体ひとつで戦場に乗り込んでいった彼らに比べ、ぼくはあまりにも臆病だった。

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「無言館」は語る(4)

2005年08月26日 | 美術随想
 妻を東京に残して美千雄が入隊したのは、金沢市粟崎(あわがさき)の部隊だった。そこは日本海に面した今の金沢港の近くで、東京からは片道15時間ほども汽車に揺られなければたどり着けなかったそうだが、絹子は3か月間に8度も面会に通ったという。そして彼女は、用意してきた色紙に夫が絵を描くのをじっと見つめていたそうである。美千雄と絹子とは夫婦であるだけでなく、絵画を通して固く結ばれた同胞であり、師弟でもあった。

 粟崎時代の美千雄の絵手紙には、中国にいたころとは明らかな変化がある。まずその文章は、夫から妻に対するやや厳しい言い方に変わっている(だが厳しさの背後に、大らかな優しさと果てしない愛情が横たわっているのが透けて見える)。そしてもうひとつ、手紙の内容が日々の近況報告といったものから離れ、芸術論的な高みへと昇華されているのである。ぼくが本当に瞠目させられたのは、ここであった。

 みずからも日本画を学んだ絹子は、自分がしたためた絵や俳句を美千雄のもとに送った。美千雄は返信の中でそれを批評したり、ときには手放しで褒めたりしている。句の語順を入れ替えてみて、こっちの方がいいだろうなどと諭してもいる。ますます緊迫する戦局の不安をかいくぐり、東京と粟崎とを股にかけておこなわれた驚くべき“通信教育”ではなかろうか?

 終戦の前年、美千雄はフィリピンのルソン島に送られる。はるか遠く海を隔てたその地からも、妻への絵手紙は届けられた。絹子は空襲警報のたびに、絵手紙を入れたトランクと一緒に防空壕に逃げ込んだという。こうして戦後60年たった現在でも、美千雄が生きて描いた証しともいうべき絵手紙を目の当たりにすることができるのである。しかしそれを描いた画家自身が、フィリピンの山奥から還ってくることはなかった。


 これらの厖大な絵手紙を通して伝わってくるのは、戦争の悲惨さでもなければ、時代に翻弄される人間のあがきでもない。それらは驚くほど健全で、向上心に溢れている。異常だったのは大日本帝国という国家であり、実際に戦闘に駆り出されて命を落とした人々の多くは、本来きわめて真っ当な人たちではなかったか。終戦間際のフィリピンに連れて行かれても、妻とあいさつを交わすかのように絵手紙を送りつづけた前田美千雄。彼のような善良な人物が、ある日突然この世からいなくなってしまうという事実こそが、戦争というもののむごたらしさ、人間同士が殺しあうという“図式”が持つ宿命的な不条理ともいうべきものを、容赦なく浮き彫りにしているように思われる。

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「無言館」は語る(3)

2005年08月25日 | 美術随想
 東京美術学校日本画科に学んだ前田美千雄は、卒業して程なく5歳年下の絹子と婚約する。それは折しも盧溝橋事件が勃発した年のことであった。にわかに軍事色が強まる中、美千雄は絹子との挙式を先延ばしにして応召、日中戦線へと送られる。日本にいて自分の帰りを待ちわびている人のために、美千雄は絶えることなく絵手紙を書き送りつづけた。

 しかしそこに描かれていたのは、戦争とはまるで縁もゆかりもない異国の日常の光景である。美千雄はあたたかな眼差しと尽きせぬ好奇心で、見慣れぬ中国の自然や人々を観察し、素朴に描いていった。絵に添えられた文章からは、ときに中国人に対する畏敬の念すら見て取れるのである。

 兵隊として戦地で生きるということがどういうことなのか、戦後生まれのぼくには想像するしかない。小説や映画などで苛烈な軍隊生活の描写をよく見かけるが、まさかそれがすべてではあるまい。前田美千雄は戦地にあっても、“画家の平常心”を失うことはなかった。日々の訓練、行軍、歩哨任務などの繰り返しの中でなお、彼は中国の街並みや風景に心を動かされ、道ばたの花に目をとめることを忘れなかったのだ。彼こそ、根っからの画家だったというべきだろう。


 婚約者の帰りを待つあいだ、絹子は日本画の先生について学んだというが、それはみずからが絵を描くためというよりも、未来の夫の画業を手伝うためだったようである。婚約から5年後、美千雄はようやく除隊され、ふたりは結婚した。画家として再スタートを切った美千雄と、それを支える絹子。この二人三脚の蜜月がどんなに満ち足りたものであったか、想像に難くない。しかし式を挙げてから1年も経たないうちに、美千雄は再び召集されるのである。

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