てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

芥川也寸志・没後20年

2009年01月31日 | その他の随想

芥川也寸志

 ぼくがクラシック音楽に夢中になったのは、10歳のころだ。以前の記事でも書いたことがあるが、ベートーヴェンの『第九』をたまたまテレビで聴いたのが最初だった。

 だが、基本的に昔から、テレビでクラシックが放送される機会は少ない。今では24時間ずっとクラシックばかり流しているというCS放送もあったりするが、時間のかかる多楽章の曲を最初から最後まで聴かせてくれる地上波の番組はごくわずかだ。もちろん、クラシックといえば長くて退屈だというのがおおかたの認識であろうし、そのような辛抱を乗り越えたところに感動が待っているのだと諭されたところで、じゃあ我慢して聴いてみようかという人はあまりいない。幼いころ聴き覚えた童謡にはじまり、思春期になると誰でも夢中になるロックやポップスにいたるまで、3分ぐらいから長くても5分までという音楽のサイズに慣らされきっているのである。

 そんなとっつきにくいクラシックの魅力を、やさしくチャーミングに、まさに噛んで含めるように伝えてくれたのが、NHKで放送されていた「音楽の広場」だった。司会をしていたのは黒柳徹子と、作曲家の芥川也寸志である。番組はいつも、黒柳と芥川のピアノ連弾で幕を開けた。ぼくはクラシック好きになってからというもの、その番組を毎週欠かさず見ていたものである。「音楽の広場」が終わってしまってからも、芥川は現在までつづく「N響アワー」の司会者としてテレビに出つづけていた。

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 芥川也寸志の音楽というと、一般にはテレビや映画の主題曲がよく知られているかもしれない。2作目の大河ドラマ『赤穂浪士』は、ぼくが生まれるずっと前の番組だが、そのテーマ音楽は今でもときどき演奏会で取り上げられることがあるし、CD化もされている(一貫して鳴らされる鞭の音が印象的だが、この音にたどり着くまでには濡れタオルをひっぱたいてみたり、牛肉のかたまりをたたいてみたり、いろいろな試行錯誤があったのだと誰かがテレビでいっていた)。彼が手がけた数多くの映画音楽のなかでは、『八甲田山』のテーマが最近でも携帯電話のCMに使われている。時代を経ても色褪せないメロディストとしての才能が発揮されているのであろう。

 では、純音楽作曲家としての芥川はどうなのか。こちらは必ずしも広く浸透しているとはいいがたいが、ぼくからすれば非常にわかりやすく、魅力に富んだ音楽だと思う。

 放送用の音楽と現代音楽の仕事を並行しておこなっている人はたくさんいるが、前者は耳あたりのいい明解な音楽が多いのに比べ、後者は一転して難解でマニアックな曲を書く人が少なくない。これは生活の手段として一般向けの平易な音楽を書きながら、一方では容易に理解されざる芸術の深みを追求するという、現代の作曲家たちが置かれている奇妙に分裂した処世術を物語っているような気もするが、芥川は芸術音楽を象牙の塔に閉じ込めておくことをせず、社会に向けて開かれたものにしようとした。例のテレビ出演もそうだし、アマチュアオーケストラや合唱団の指導を終生つづけたことも、その思いのあらわれだろう。芥川の音楽は総じて楽観的で、オスティナートのリズムがとどまることはなく、立ち止まって考え込むよりも人を前に押し出す推進力を秘めているように思う。

 それは多分に、旧ソ連のクラシックの音楽語法が体にしみついていたからでもあるはずだ。也寸志の父は作家の龍之介だが、遺品のなかに手回し蓄音器と数枚のレコードがあった。そのなかにストラヴィンスキーの自作自演である『火の鳥』や『ペトルーシュカ』があったという。あの芥川龍之介がそんな曲を聴いていたということが驚きでもあるが、もっと驚くべきは幼い也寸志がそれらの複雑な音楽をすっかり覚えてしまい、幼稚園へ行くときには声高く歌っていた、ということである。

 のちに作曲家として自立した芥川也寸志は、実際にソ連におもむいてショスタコーヴィチと対談したり、自作をソ連で出版してもらったりする。彼の作品にも、ショスタコーヴィチやプロコフィエフの影響が如実にあらわれていることは否定し得ない。だが、当時のソ連と日本とでは、芸術家の置かれた環境があまりにも異なっているのは明らかだ。粛清におびえながら創作活動をつづけるか、新天地を求めて亡命せざるを得なかったソ連の作曲家たちと、文豪の家に生まれたお坊ちゃまとでは、音楽を生み出そうとする精神の動きからいってもかなりの差があるにちがいない。

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 そのギャップに気がついたのか、芥川は次第に晦渋な音楽表現を模索するようになっていく。といっても日本の現代音楽にありがちな、靄のかかったような俳句的な世界ではなく、原初的なものへの回帰をこころざしていたように思われる。

 インドのエローラ石窟群を訪問した芥川は、岩を掘りすすんで作られた壮大な寺院に衝撃を受け、加算の概念に立つ西洋音楽に対してマイナスの空間というものがアジアに存在することを発見する。『エローラ交響曲』は、このときの体験がもとになって生み出された代表作で、ぼくのもっとも愛する曲のひとつである。

 作曲活動に演奏活動、テレビへの出演をつづけながら、日本音楽著作権協会の理事長としても奔走した彼は、無理がたたったのか、とうとう力尽きる。1989年1月31日、ちょうど20年前のことであった。63歳の若すぎる死は、日本中のクラシックファンに惜しまれたことだろう。「N響アワー」では追悼番組が放送され、コンサートマスターの堀正文氏が遺影の前でバッハの『シャコンヌ』を弾いた。

 数か月後、遺作となった合唱曲『いのち』が初演され、その模様はFMで放送された。作詞は「N響アワー」で共演したなかにし礼、演奏したのは芥川が手塩にかけて育てたアマチュアオーケストラと合唱団だった。重厚な男声で「南無妙法蓮華経」と繰り返されるその曲は、故人を送るのにふさわしいものだった。ぼくはラジオの前で、まるで葬儀に参列しているような思いで耳を傾けたが、はじめて音となって響きわたるその音楽は、そこから新しい“いのち”が再生する瞬間のようにも感じられた。

(了)

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デザイナーが見た近未来 ― ラムスのデザイン精神 ―

2009年01月28日 | 美術随想

SK4/SK5 ラジオ・レコードプレーヤー(白雪姫の柩)

 連れに誘われて、ドイツのディーター・ラムスというインダストリアルデザイナーの展覧会に行った。ぼくはその人の名前すらまったく知らなかったが、ブラウン社で長年にわたってデザインを手がけてきた人物らしい。

 ブラウンといえば、何といってもシェーバーが有名で、ぼくもかつてはブラウン社のものを愛用していた。だが、日本で放映されている髭剃りのCMを見ても、何枚刃だとか何とかトリマーとかいう機能性のアピールと、通勤中のサラリーマンを呼び止めていきなり髭を剃ってもらうというお決まりのシチュエーションばっかりで、デザインにはさほど注目されていないように思われる。これを書く前にブラウンのホームページを見ていたら、ある商品のコピーに「ヒゲをデザインする」とあったので笑ってしまった。大事なのは製品のデザインではなくて、ユーザーの髭のデザインのほうだといわんばかりだ。

 ぼくはグラフィックや家具の展覧会はたまに観るけれど、この手の工業デザイン展ははじめてかもしれない。会場に入ると、美術館よりもショールームに来ているような錯覚にとらわれた。シェーバーだけではなく、昔なつかしいレコードプレーヤーやラジオ、ライター、コーヒーミル、スピーカーなどがたくさん並べられている。まるで妊婦のように、巨大なブラウン管を抱き込んでパンパンにふくれ上がったテレビもあった。今の時代からするとレトロな香りのするものばかりだが、デザイナーの卵だろうか、熱心にメモをとっている若者の姿が目立った。

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 ブラウン社は、シェーバーを売り出す15年も前からラジオや蓄音機を作っていたらしい。もともとは音響メーカーだったのである。今から半世紀ほど前に、若きラムスがプレーヤーとラジオの複合機をデザインした。アクリルの透明な蓋を用い、操作部が丸見えになった白くてスマートなスタイル。あまりの斬新さに、「白雪姫の柩」とあだ名がつけられたという(白雪姫というのが、いかにもドイツらしい)。

 ぼくは機械をデザイン面から鑑賞する習慣がないので、たいしたことは何もいえないが、かつて日本にあった電化製品とはだいぶちがうということはわかる。自分が子供のころを振り返ってみると、テレビやステレオは家電というよりも家具であった。木調の上品な仕上がりで、タンスの隣に置いても違和感がないようにできていた。ぼくの家にはなかったが、観音開きの扉を開けるとテレビの画面があらわれたり、上から覆いをかけてあったりするものもあった。まるで仏壇並みに、丁重な扱いをされていたようである。最先端の科学技術を和風家屋と同居させるには、そのようなオブラートで包む必要があったのだ。

 その点、ラムスのデザインは機械を前面に打ち出している。家具や工芸品の姿を借りて、科学技術を古い革袋に入れることをやめ、機械そのものの美を世に問うたわけだ。しかし複雑な配線などは内側に隠して、あたかも人間の神経を包み込む肉体のように、理想的なプロポーションを追求したのだろう。そこには疑いもなく、きたるべき近未来社会への肯定的な展望がみてとれる。

 しかし、時代を経るにしたがって機械の性能はどんどん複雑に、かつデリケートになり、ボタンの数が飛躍的に増えた。ブラウン社のオーディオ製品も、後期にはかなり大型化し、高価なものになっていったように思われる。それにくわえて、音の記録媒体がレコードやカセットテープからCDへと移り変わる過渡期にさしかかり、それらをすべてカバーできる複合機が必要になってきた。80年代の音響機器は重量級のものとなっていき、機械オンチにはとうてい手の出せないシロモノになっていった。

 やがてアナログレコードが駆逐されようとするころ、ブラウン社は音響部門から撤退する。ラムスの展望は、いったいどこまで現実になったのだろう?

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 そのときから比べると、今の電化製品はシンプルになった。テレビはとうとう壁に掛けられるぐらいに薄くなってしまった。展覧会場にはアップル社のロゴの入ったモニターにさまざまなイメージが映し出されていたが、一見したところスイッチなどは見当たらない。美しく磨かれた金属の板のようなものだ。いったいどうやって動かしているのか、門外漢のぼくは首をひねるばかりである。

 iPodなどにみられるスタイリッシュなデザインも、10年早かったら日本の風景に馴染まなかったかもしれない。だが、今でもiPodを握る女性の手にはけばけばしいネイルアートが塗られていたり、イヤホンでかっこよく音楽を聴きながら少年漫画を立ち読みしている大人がいたりと、ラムスの見つめたデザインのビジョンが個人のなかまで深く浸透しているとはいいがたいだろう。さまざまなスタイルが一緒くたになり、絶え間なく生成と消滅を繰り返す混沌とした現代文明のなかで、ラムスの生み出した工業デザインは堅牢な皮膚で身を包み、ストイックなおのれの姿を守っているようだった。

(了)


DATA:
 「純粋なる形象 ディーター・ラムスの時代 ― 機能主義デザイン再考」
 2008年11月15日~2009年1月25日
 サントリーミュージアム[天保山]

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向田邦子の彼方へ(2)

2009年01月25日 | てつりう文学館

『あ・うん』(文春文庫)
装幀は中川一政。邦子が「神様の次に偉いかた」と呼んで尊敬した人物だった


 『あ・うん』は、大まかにいえばふた組の夫婦をめぐる物語である。門倉修造と水田仙吉という同い年の中年男を軸に、その妻や娘、父や愛人などが入れかわり立ちかわり登場する。さまざまな事件が起き、登場人物たちが奔走したり振り回されたりするが、そこはさすがに向田邦子というべきか、大上段に振りかぶってみせることはせず、細かいディテールの積み重ねで物語が進行していく。

 ただ、そこに描かれている日常生活の印象は、去年読んだ作品から受けた“昔なつかしい昭和の匂い”というのとはだいぶちがっていた。舞台が盧溝橋事件の直前から太平洋戦争へと向かうきな臭い時代に設定されていて、作中に軍歌もしばしば登場するし、千人針のような風習もさりげなく挿入される。「二号さん」の存在がまかり通る一方で、姦通罪がまだ生きていた時代でもある。仙吉の娘のさと子は共産主義かぶれの男に惹かれ、記号のように「マルクス・エンゲルス」と口にしたりする。

 51歳で死んだ邦子は、何となく若い世代のような気がしてしまうが、やはり戦中派の女性なのであった。信じられないことだが、もし存命していれば今年で80歳になるのである。

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 それにしても感心するのは、生涯独身を通したはずの邦子が、夫婦間の機微を描く筆運びの巧みさだ。特定の誰かに感情移入するのではなく、すべての登場人物に印象的な台詞を語らせ、それぞれに見せ場を作る。脚本家ならではの、見事な采配である。山口瞳は『あ・うん』の解説のなかで、向田邦子には少女と少年と中年女性と熟年男性が同居していると書いたが、そうかもしれないと思えてくる。

 邦子自身も、次のように語っている。

 《女を描くのはあまり楽しみがありません。男を描く方が好きです。女が女を見る場合、わかりすぎてたまらなくなってしまう部分があるんです。男はそれと違って子供から老人まで私にとって外国人。ですから描く楽しさもある訳です。》(「サンデー毎日」昭和56年2月8日号)

 まさに、驚異の複眼的思考の持ち主だったのだ。

 だが、ぼくはどうしても邦子の等身大の姿を物語のなかに探してしまう。彼女は単なる人気脚本家というだけではなくて、女性としての苦悩を何度もくぐり抜けてきている人だからだ。幼いころに肺門淋巴腺炎という病気をわずらったことがあり、同じ病名を『あ・うん』のさと子に与えている。それだけではなく、親の転勤にともなう転校で故郷をもたざる身となったことや、乳がんにかかり片方の乳房を失ったことなど、その人生は波瀾にみちていた。最後の不慮の死に至るまで、邦子の人生そのもののほうがドラマよりも奇なり、とさえいってみたくなる。たんたんとした筆致のなかに、日常の深い穴ぼこが突如として口を開ける独特な作風は、そうやって築かれたものだろう。

 『あ・うん』は、いろいろな小事件が次々と起こるわりに、しまいには元の木阿弥のようになって、「自分たちの行末は見当もつかない」といった終わり方をする。このラストにやや性急なものを感じる人もいるだろうが、実は続編の構想があったということだ。もしこのまま書きすすめられていたら、成長したさと子の姿に邦子の実像が色濃く投影されていたのではないかと思えてならない。

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 先にも書いたが、ぼくは向田邦子のドラマをちゃんと見たことがない。近年になってからも頻繁にリメイクされ、スペシャルドラマとして放送されているらしいが、一度も見ていない。そもそも、ぼくはドラマをまったくといっていいほど見ない人間なのだ。

 ところがこの春、松本清張原作の『駅路』というドラマが放映されることを知った。これはかつて邦子が脚本を書き、和田勉が演出をしてNHKで放送された『最後の自画像』のリメイクである。邦子はその際、原作に大幅に手を入れたということだが、いったいどんな仕上がりになっているのであろうか。ぼくは久しぶりにテレビの前に陣取って、ドラマをじっくり堪能してみたいという気になった。

(了)


参考図書:
 小林竜雄『向田邦子 最後の炎』(中公文庫)

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向田邦子の彼方へ(1)

2009年01月23日 | てつりう文学館

『父の詫び状』(文春文庫)

 京都のとある駅の近くに、初老夫婦が経営しているらしい小さな古本屋がある。雨の降らない日には、虫干しも兼ねようというのか、持ってけ泥棒とばかりに捨て売りするつもりなのか、段ボール箱に入れた安い文庫本を店の前に置いていた。だがそれらの本を丹念に調べてみると、とっくに絶版になったようなものがあったりして、意外と掘り出し物が見つかる。値段も、200円を超えるようなものはない。

 ある日、向田邦子の『あ・うん』を見つけたので手に取って店に入っていくと、店番をしていたおばさんがやおら立ち上がり、「向田邦子に興味がおありなら、最近ほかにもいい本が入りましたよ」という。見せてもらうと、邦子の実妹の向田和子さんが書いた姉の回想記の単行本だった。ぼくはその本の存在を知っていたし、今では文庫本で安く手に入ることも知っていたので、「また今度にします」とことわって店を出ようとすると、おばさんは残念そうに「そうですか?」といい、さらに次のように付け加えるのだった。

 「本当に惜しい方を亡くしましたねえ」

 向田邦子が台湾の取材旅行中に飛行機事故で急死したのは、もう四半世紀以上も前の話である。それなのに、つい先日亡くなった人を偲ぶかのように感慨深げにそういったのだ。邦子の存在が、カラーテレビが普及した日本の茶の間にどれほど深く浸透し、そしてその死がいかに衝撃的に受け止められたかの証しのようだった。

 おばさんはもっと話したそうだったが、こっちは急いでいるふりをしてそそくさと店を出なければならなかった。何せ、彼女が死んだのはぼくが10歳の誕生日を迎えた翌日のことであり、生前の記憶はまったくないどころか、脚本を書いたドラマさえも全然見たことがない。話を合わせようにも、とうてい無理だということが明らかだったからだ。

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 以前の記事でも書いたことがあるが、去年最初に読んだ小説は向田邦子の『思い出トランプ』(新潮文庫)だった(「女性文学私見 ― 紫式部と向田邦子のはざまで ―」)。その後、随筆集『父の詫び状』(文春文庫)も読んだ。ぼくは、あまりのうまさに舌を巻かざるを得なかった。他愛もないエピソードが書き並べられているのを気楽に読みすすむうちに、しまいにはそれらが緊密に関連づけられていくおもしろさがあり、てきぱきとしたペースで紡ぎ出される簡潔な文章の小気味よさもあったが、何しろ昔なつかしい昭和の匂いが立ちのぼってくるのがうれしかった。

 平成の世の都会に暮らしていると、あまりに人間が規格化されすぎ、効率的な社会を追い求める陰で個人の尊厳が踏みつけにされている恐ろしさを感じることが少なくないが、一種のほろ苦さとともに描かれる昭和の物語は、そんなぼくをなだめてくれた。もう長いこと家族のいない単身生活を送っているが、家庭というものが世の中の縮図そのものであり、肉親の情愛があるかと思えば世代間の鋭い断絶が露出したり、はたまたそれが癒合したりという絶えざるドラマに満ちた場であるということを再認識することにもなった。邦子がホームドラマを主な活躍の舞台に据えたのも、もっともだという気がした。思い起こせば、かくいうぼくも、そのような家族の亀裂から転げ出すように家を出て、福井から大阪そして京都へと移り住んできたのである。

 そして、今年はじめて手にした小説本が、『あ・うん』(文春文庫)だった。なぜか年が明けると、向田邦子が読みたくなるようだ。これはもともとNHKで放送されたドラマで、新潮文庫からシナリオ版も出ているが、ぼくが選んだのは本人によるノベライゼーションだった。ひところ小説家を目指していた身としては、やはり脚本家としてよりも珠玉の小説の名手として、向田邦子の世界に向き合っていたかった。

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工芸いろいろ古今東西(3)

2009年01月21日 | 美術随想

三谷吾一『空に舞う』

 年を取れば取るほどおのれを爆発的に開放する人もいれば、童心にかえって遊ぶ人もいる。今年で90歳を迎える三谷吾一の作品は、これが漆芸なのか、というほど色彩豊かで軽やかだ。壁に掛けるためのもので、いってみれば漆で描かれた絵画であろう。

 三谷は輪島塗の作家で、石川の人である。輪島塗では沈金という技法がよく使われるそうで、簡単にいえば鑿で彫った凹みに金箔や金粉を入れて装飾するのだという。『空に舞う』にも随所に金の輝きがみられるが、手の届きそうもない高級感よりも、ささやかな木漏れ日のようにあたたかい光を感じる。

 乱舞する蛍の軌跡のような柔らかな金色のラインも素晴らしい。肩の力を抜き、手のおもむくにまかせてさっと引いたような線が、ういういしい生命を保ったままに複雑な工程をくぐり抜け、こうやって見事な工芸美術として陳列されているのに出くわすと、インスピレーションとテクニックとの幸福な結婚を祝したい気にもなってくる。

 ぼくは三谷の作品から、何となくクレーを連想することがある。クレーの絵は一見すると単純なようだが、実際にはかなりのこだわりをもって描かれているのではないかと思う。絵の具の塗り方ひとつにも気を配り、凝った仕上がりになっている。多分に職人的なところをもった画家なのだ。遠く海を隔てた漆職人と響き合うものがあっても、ちっとも不思議ではないだろう。


参考画像:クレー『黄色い鳥のいる風景』
(個人蔵)

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高橋節郎『森の千手観音』
(「第37回 日展」出品作)

 もうひとり、ぼくにとって忘れがたいのが、一昨年に92歳で亡くなった高橋節郎(せつろう)である。日本を代表する漆芸家のひとりといっていいだろう。

 彼は沈金を独自に工夫した「鎗金(そうきん)」という技法を編み出し、長谷川潔の版画を思わせる端正な静物や、豪奢な漆屏風などを金で描いていたようだ。実用品としての漆芸ではなく、あるいは単なる飾りでもなく、平面芸術として自立するものを作ろうとしていたのだろう。いってみれば、美術館での鑑賞に堪え得るような作品である。高橋の個人美術館が長野と愛知にふたつもあるのも、その証しといえる。

 しかし、そのような代表作に対面したことは残念ながらない。ぼくが思い浮かべるのは、晩年の高橋が「日展」に出品していた摩訶不思議な乾漆レリーフの作品である。モチーフは、森。

 金箔で装飾された漆黒の板が、壁にかかっている。そしてそこに、クワガタムシのような黒いかたちがくっついている。それは森の主のようでもあり、神のようである。きらびやかで洗練された漆芸とはまたちがった、土俗的な表現だと思う。まるで古代の土偶にも似た、稚拙さと一体になった品位のようなものがただよう。考えてみれば、甲虫の堅牢な存在感を表現するのに漆はぴったりの素材だったろう。高橋は、木の恵みである漆を森に返そうとしたのかもしれない。

 最晩年の高橋は、駅や空港など公的な場所にも大規模な作品を残している。昨年、久しぶりに福井に帰省したのだが、将来の北陸新幹線の開通を見据えて建て替えられた福井駅の壁面に『越前幸幸』という巨大なレリーフがあったのでびっくりした。越前の陶土と漆を使って制作されたのだそうだ。近代的でよそよそしい感じの真新しい駅舎に、荒っぽい自然の肌合いが覗いているさまは、何とも豪快であった。


高橋節郎『越前幸幸』
(JR福井駅、筆者撮影)

つづく
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