芥川也寸志
ぼくがクラシック音楽に夢中になったのは、10歳のころだ。以前の記事でも書いたことがあるが、ベートーヴェンの『第九』をたまたまテレビで聴いたのが最初だった。
だが、基本的に昔から、テレビでクラシックが放送される機会は少ない。今では24時間ずっとクラシックばかり流しているというCS放送もあったりするが、時間のかかる多楽章の曲を最初から最後まで聴かせてくれる地上波の番組はごくわずかだ。もちろん、クラシックといえば長くて退屈だというのがおおかたの認識であろうし、そのような辛抱を乗り越えたところに感動が待っているのだと諭されたところで、じゃあ我慢して聴いてみようかという人はあまりいない。幼いころ聴き覚えた童謡にはじまり、思春期になると誰でも夢中になるロックやポップスにいたるまで、3分ぐらいから長くても5分までという音楽のサイズに慣らされきっているのである。
そんなとっつきにくいクラシックの魅力を、やさしくチャーミングに、まさに噛んで含めるように伝えてくれたのが、NHKで放送されていた「音楽の広場」だった。司会をしていたのは黒柳徹子と、作曲家の芥川也寸志である。番組はいつも、黒柳と芥川のピアノ連弾で幕を開けた。ぼくはクラシック好きになってからというもの、その番組を毎週欠かさず見ていたものである。「音楽の広場」が終わってしまってからも、芥川は現在までつづく「N響アワー」の司会者としてテレビに出つづけていた。
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芥川也寸志の音楽というと、一般にはテレビや映画の主題曲がよく知られているかもしれない。2作目の大河ドラマ『赤穂浪士』は、ぼくが生まれるずっと前の番組だが、そのテーマ音楽は今でもときどき演奏会で取り上げられることがあるし、CD化もされている(一貫して鳴らされる鞭の音が印象的だが、この音にたどり着くまでには濡れタオルをひっぱたいてみたり、牛肉のかたまりをたたいてみたり、いろいろな試行錯誤があったのだと誰かがテレビでいっていた)。彼が手がけた数多くの映画音楽のなかでは、『八甲田山』のテーマが最近でも携帯電話のCMに使われている。時代を経ても色褪せないメロディストとしての才能が発揮されているのであろう。
では、純音楽作曲家としての芥川はどうなのか。こちらは必ずしも広く浸透しているとはいいがたいが、ぼくからすれば非常にわかりやすく、魅力に富んだ音楽だと思う。
放送用の音楽と現代音楽の仕事を並行しておこなっている人はたくさんいるが、前者は耳あたりのいい明解な音楽が多いのに比べ、後者は一転して難解でマニアックな曲を書く人が少なくない。これは生活の手段として一般向けの平易な音楽を書きながら、一方では容易に理解されざる芸術の深みを追求するという、現代の作曲家たちが置かれている奇妙に分裂した処世術を物語っているような気もするが、芥川は芸術音楽を象牙の塔に閉じ込めておくことをせず、社会に向けて開かれたものにしようとした。例のテレビ出演もそうだし、アマチュアオーケストラや合唱団の指導を終生つづけたことも、その思いのあらわれだろう。芥川の音楽は総じて楽観的で、オスティナートのリズムがとどまることはなく、立ち止まって考え込むよりも人を前に押し出す推進力を秘めているように思う。
それは多分に、旧ソ連のクラシックの音楽語法が体にしみついていたからでもあるはずだ。也寸志の父は作家の龍之介だが、遺品のなかに手回し蓄音器と数枚のレコードがあった。そのなかにストラヴィンスキーの自作自演である『火の鳥』や『ペトルーシュカ』があったという。あの芥川龍之介がそんな曲を聴いていたということが驚きでもあるが、もっと驚くべきは幼い也寸志がそれらの複雑な音楽をすっかり覚えてしまい、幼稚園へ行くときには声高く歌っていた、ということである。
のちに作曲家として自立した芥川也寸志は、実際にソ連におもむいてショスタコーヴィチと対談したり、自作をソ連で出版してもらったりする。彼の作品にも、ショスタコーヴィチやプロコフィエフの影響が如実にあらわれていることは否定し得ない。だが、当時のソ連と日本とでは、芸術家の置かれた環境があまりにも異なっているのは明らかだ。粛清におびえながら創作活動をつづけるか、新天地を求めて亡命せざるを得なかったソ連の作曲家たちと、文豪の家に生まれたお坊ちゃまとでは、音楽を生み出そうとする精神の動きからいってもかなりの差があるにちがいない。
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そのギャップに気がついたのか、芥川は次第に晦渋な音楽表現を模索するようになっていく。といっても日本の現代音楽にありがちな、靄のかかったような俳句的な世界ではなく、原初的なものへの回帰をこころざしていたように思われる。
インドのエローラ石窟群を訪問した芥川は、岩を掘りすすんで作られた壮大な寺院に衝撃を受け、加算の概念に立つ西洋音楽に対してマイナスの空間というものがアジアに存在することを発見する。『エローラ交響曲』は、このときの体験がもとになって生み出された代表作で、ぼくのもっとも愛する曲のひとつである。
作曲活動に演奏活動、テレビへの出演をつづけながら、日本音楽著作権協会の理事長としても奔走した彼は、無理がたたったのか、とうとう力尽きる。1989年1月31日、ちょうど20年前のことであった。63歳の若すぎる死は、日本中のクラシックファンに惜しまれたことだろう。「N響アワー」では追悼番組が放送され、コンサートマスターの堀正文氏が遺影の前でバッハの『シャコンヌ』を弾いた。
数か月後、遺作となった合唱曲『いのち』が初演され、その模様はFMで放送された。作詞は「N響アワー」で共演したなかにし礼、演奏したのは芥川が手塩にかけて育てたアマチュアオーケストラと合唱団だった。重厚な男声で「南無妙法蓮華経」と繰り返されるその曲は、故人を送るのにふさわしいものだった。ぼくはラジオの前で、まるで葬儀に参列しているような思いで耳を傾けたが、はじめて音となって響きわたるその音楽は、そこから新しい“いのち”が再生する瞬間のようにも感じられた。
(了)
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