てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

私的に京都御所歩き(1)

2007年11月04日 | 写真記
 ようやく色づきかけた木々を見ながら、デジカメ片手に砂利道を踏んで歩く。春と秋にだけおこなわれる、京都御所の一般公開に出かけていくのである。金曜日の朝のことであった。

 ・・・こんなふうに書くと、いかにも京都の年中行事が普段の生活に自然に組み込まれているように思えるが、御所を訪れるのは今年の春につづいて2度目である。それまで長らく京都に住んでいながら、一般公開はおろか、御所を取り巻く広大な公園(御苑)にさえ足を踏み入れたことがなかった。だが、最近は少しずつでも京都の街に深く浸透していきたいという願望が強くなり、機会をとらえてなるべくいろんなところに出かけるようにしているのだ。

 前回は週末に出かけたので、大勢でぞろぞろと列を作って歩くはめになり、なるほど御所見物というのはこれほどの観光客を集めるものかと感心した。しかし今は夜勤で働いているので、平日でも昼間だったら空いている。そういうわけで、比較的人が少ないと思われる金曜日の午前中に、残業明けの重い体を引きずって駆けつけたのであった。

                    ***

 築地塀(ついじべい)に囲まれた御所の内部に足を踏み入れる前に、簡単な手荷物検査を受ける。順路を示した地図を見ると、春に来たときとほぼ同じコースのようだ。

 修復工事中の宜秋(ぎしゅう)門をくぐり、御車寄(おくるまよせ)に出る。いわば客用の玄関である。早速カメラを構えたが、人の後頭部がどうしても写り込んでしまうのと、奥行きがあるうえに逆光になるのとで、思うようにいい写真が撮れない。パンフレットに載っている写真を見てもかなり暗く写っているので、カメラマン泣かせのスポットなのかもしれない。


〔御車寄〕

 御車寄から入った客人は、諸大夫(しょだいぶ)の間に控えてお呼びを待った。部屋は3つあり、「虎の間」「鶴の間」「桜の間」にわかれている。身分の上下によって、通される部屋が異なったそうだ。最近では格差社会という言葉をよく聞くが、格差が制度化されていた昔の社会のほうがより厳しかったのではなかろうか。一般庶民でも、無理して大枚をはたけばファーストクラスに乗れるというようなレベルではない。

 「虎の間」の襖絵は、岸岱(がんたい)が描いているという。岸岱といっても、まだまだ聞き慣れない名前かもしれないが、ちょうど全国を巡回している「金刀比羅宮 書院の美」という展覧会の副題には、応挙や若冲と並んで名前が挙がっている。この展覧会は来年の春に三重県に巡回するそうで、その折にでも出かけるつもりでいるので、機会があれば今からでも観ておきたい絵師のひとりだ。


〔日の光をまぶしがるかのような岸岱の虎〕


〔「鶴の間」で楽器を演奏する陪従(べいじゅう)の人形〕


〔和舞(やまとまい)を舞う人形の凛々しい表情〕

 さらに歩を進めると、新御車寄(しんみくるまよせ)に出た。こちらは客人用ではなく、天皇・皇后の出入りする、いわば正面玄関だそうだ。ここはさすがにというか、南向きで明るく、広々としている。「おくるま」でなく「みくるま」と読むのは、これも格差のあらわれだろうか?

 普段めったに使われることのない玄関には、五節舞(ごせちのまい)を舞う美しい人形が置かれていた(日曜日には舞の実演もされたようだ)。華麗にしておごそかな装束の美に、しばし我を忘れる。


〔今にも動き出しそうな舞姿〕


〔ふくよかさをたたえた表情が美しい〕

                    ***

 さらに砂利道を踏んで、先へ進む。南に面して堂々とそびえる建礼門は、いわば正門にあたる。いつもは固く門戸を閉ざしているが、天皇や国賓が来場するときにだけ開かれるという。きらびやかな金の装飾も見事だが、重厚な桧皮葺(ひわだぶき)が何ともいえない落ち着いた気品を添えているように思われた。


〔建礼門〕

 建礼門からかなり離れて、南東の方角に面した建春門は、皇后や皇太子などが出入りする門だそうだ。建礼門より格式は下だが、御車寄と同様な唐破風(からはふ)を用いている点では御所の門のなかでも唯一のもので、造形のおもしろさではこちらのほうが上かもしれない。


〔葺き替えられて間もない建春門の屋根〕

 それにしても、建春門の前の空き地はだだっ広くて、何もない。時おりここで蹴鞠が披露されることがあるそうだが、現代のサッカーでもできそうな広さである。植栽もなく、航空写真で見るとこの部分だけがぽっかりと空いて見える。

 その広場に面して、一種異様な建物があった。春興殿(しゅんこうでん)というらしいが、その名に反して佇まいは侘しく、寒々しい。屋根は銅葺きで、無駄な装飾がなく、無愛想といってもいいぐらいだ。


〔春興殿〕

 この春興殿だけが、他の建物から離れて、ぽつんと建っているという感じである。外観の質素さとあいまって、これはひょっとすると物置なのではないかと思っていたが、あとから調べてみると半分は当たっていた。たしかに物置にはちがいないのだが、大正天皇が即位するときに、三種の神器のひとつ「八咫鏡(やたのかがみ)」を安置したというのだから恐れ入る。明治に入って天皇家は東京に移ったが、即位の礼は京都でおこなうことになっていたため、ここが臨時の鏡の置き場所になったのだ。

 だが京都で即位したのは昭和天皇までだから、すでに80年近くものあいだ、この建物が本来の目的で使われたことはないということになる。そのためかどうか知らないが、春興殿にかつてあった正門は八幡の石清水(いわしみず)八幡宮に移築され、ここにはない。

 慎重な表現を使えば、御所内にある多くの建造物の中で、春興殿はもっとも廃墟に近い存在なのかもしれない。銅は錆びつき、格子の塗装はなかば剥げ落ちているが、なぜか奇妙な存在感を放っている。屋根を葺き替え、色を塗り直し、さまざまな修復を重ねてきた建物のなかにあって、ここには経過してきた時間の長さが、無残なほどありのままに、隠すべくもなくあらわれているのだった。


〔色が剥落した春興殿の格子〕

つづきを読む

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。