てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

京を歩けば(15)

2009年03月28日 | 写真記


 年度末が近づいてきた。

 もはや学生という身分でもなく、ましてや企業の経理担当者という身分でもないが、この時季になると一年で最初の大きな区切りを迎える前の焦りというか、奇妙な落ち着きのなさを覚える。考えてみれば ― 改めて考えるほどのことでもないのだが ― 2009年の4分の1が早くも過ぎ去ろうとしているわけで、この3か月もまた大きな進歩もなく過ごしてしまったという悔いが切々と我が身を責めさいなむ。

 この焦燥感を人知れず加速させているのが、冬から春への季節の移り変わりであることはいうまでもない。いくら自然が少なくなったとはいっても、寒暖を繰り返しつつ上昇をつづける気温や、眼に見えて長くなる日脚を感じていると、大いなる時の流れが確実に経過していくことを思い知らされる。いわんや、桜さえもちらほら咲きはじめてしまった。春本番を迎える前に、急いで早春の京都を歩き回ったときのことを書き記しておくべきだろう(やや古い記憶と写真もまじえて)。

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 3月なかばのことである。その日は東山界隈に出かけたのだが、道端におしゃれな行灯のようなものが無数に並べられているのに気がついた。昨今はやりのライトアップの一種で、「東山花灯路(はなとうろ)」というイベントに使われるものだということはすぐにわかった。だが日が暮れてからのことは、また後で語ることにしよう。

 円山公園の枝垂桜が、まだむき出しの枝振りを晒していた。この桜は公園のほぼ中央にあるからか、それとも一段高く盛られた土の上にあるからか、花がなくてもよく目立つし、得もいわれぬ威厳が備わっているような気がする。少し離れたところにはなぜかいつも大道芸人がいて、巧みな話術で観衆をあおりながらジャグリングなどを見せているが、よわいを重ねた人格者のように悠然と立っている桜の巨木と、ひとりの若者が必死で小道具を操りながら対峙しているさまは、思いがけず世の中の縮図を見せられるような思いがする。


(2008年9月27日撮影。秋には豊かな葉を茂らせる)

 若者といえば、この公園のなかには若者の姿を刻んだ彫刻が何体かある。まず、あまり知られていないと思うが「働く少年の像」。半ズボンをはいて、肩から新聞の束をさげている。今ではもっぱらバイクか自転車で配られることが多いのだろう、ついぞ見かけたことのないいでたちである。像の前には思いがけず新しいプレートがあって、「社団法人 働く少年をたたえる会」がこの像を設置したことを告げている。会長は、千玄室(せん・げんしつ)とあった。茶道裏千家の先代の家元である。

 裏に回ってみると、こちらは古びた銘板に「雨にも風にも負けないで元気に新聞を配る少年たち それは働く少年の象徴です」云々と刻まれていた。像の作者は朝倉響子で、この人の名前は野外彫刻で本当によく眼にする。建てられたのは昭和37年11月3日だというが、山田太郎が歌った『新聞少年』がヒットするのはその3年後のことであるから、当時は普通に見られた光景だったのだろう。日本新聞販売協会のホームページによると、そのころ全国に作られた同種の彫刻は10体ほどもあるという。


(2009年1月18日撮影)

 あとから調べてみてわかったのだが、今でも毎年11月3日には「働く少年の銅像まつり」なるものが円山公園で開かれているそうだ。「たたえる会」が勤労学生に奨学金を渡す儀式であるらしい。なかには実際に ― この銅像のようなかっこうではあるまいが ― 新聞配達をしながら学んでいる学生もいるかもしれない。心身ともに軟弱なぼくにはとても真似できそうにない。

 だが周知のように、今では労働の健全さといったものがないがしろにされている時代である。マスコミに取り上げられるのは、過重な仕事に押しつぶされて命を失った人たちや、それとは反対に仕事を奪い去られて路頭に迷う人たちの姿ばかりだ。人は何のために働くのか? その意味をいちばんわかっていたのは、実はこのような勤労少年たちであったのかもしれないと思う。

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